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しおりを挟む「不思議なことに、始まったのは、後からなんです」
少年は、そう言って僕を見ていた。
僕が彼を『受け入れる』かは、面白そうかどうか。ただそれだけにかかっている。
「後から、とは」
「彼女よりも、後なんだよ。これは確実なこと」
タブレットとやらで知らない誰かのひとつの本を示しつつ、彼は目の前に差し出した本をこちらに渡した。発売日が後、とのことらしくて発行年数が比べられていた。
2012年より前には既に始まっていて、続いていたものに関連して出された作品と――
2013年から初版が出たもの。2012年より以前からの方は読んでいた。
『あの人との出会いは私の秘密だ』としめくくってある。なんだか感想に悩む不思議な話だったような気がする。
そしてその後に、違う会社を通して発売されたのが『月の無い暮窓』という本。今目の前にあるそれ。内容はあの人、をもろにネタバレすれすれで描くかのようになぞられた話だった。
二つの共通点から、作者は同じではないかと世間で言われたようだが。
「わざわざこんな、自らを分かりやすく晒す真似をするのか。『秘密だ』と、掠めるようなことを言っておきながら内容をまるでそのままもってきて暗示させるかのような、本末転倒なことを、作者自身が選ぶのだろうか――つまりはそういうことだね。君が違和感を持つ理由はわかるよ」
目の前に示された、一冊の薄い文庫本。
「それで?」
僕がゆっくりとその背表紙をなぞって微笑むと、彼は、タブレットの中を指しながら言った。
「もともとこっちの作者はうちの学校の、先輩なんです。図書館にあの本はオリジナルで置いてあって、生徒だけが読めるようになってた。あれだけは、在校生への贈り物なんだってことで」
粋なことをするひとも居たものだ。あくびをかみころしながら、僕は彼を眺める。
「違うよ、目的はなあに」
「だから、違う方の、目的が知りたいんだ」
なかなか面白いことを言う。責めるだの、こらしめるだの言うやつは見てきたが。
「それで? 作者が望んでないかもしれないし、案外同じかもしれないんだよ」
諦めても構わない。
早く。
早く。
僕を退屈させるな。
少年の答えを待ちながら、ゆったりとお茶を飲む。
作りたくて作れるものなら大抵作る、知りたくて知れるものなら大抵知りたい。
そんな、人柄を放棄した作業中毒な性格のせいだろう。
ろくな人間というものに会ったためしがなく、よって推察推察で場を繋いだあげくに残るのは大抵が孤独だけ。
人生のうちに何度も繰り返したそれのせいなのか、詐欺からの賠償で一応戻ってきた我が家くらいが僕の財産となり、知り合いという知り合いにはもはや縁がない。
しかし、僕は孤独が好きなわけではないのだ。
だから事務所というわけでも無いが、相談事があれば誰かしら訪ねる我が家には、あまり我が家たる落ち着きを感じられない。
暇すぎる、そう思っていた初春のことだった。
同じマンションに越してきた少年から、相談があると持ちかけられたのは。
「ずいぶん、想像より、可愛らしいかたですね……」
しかもドアを開け入るなりこれだった。
「あれですか、ちまたで言う男の娘」
つかつかと、堅い靴音をさせながら部屋のピータイルの床を踏み鳴らす。タップダンスでも始めるかのような足取りには、少し関心したが、そんなに音が響いちゃたまらない。土足でいい部屋ではあるけれど、部屋でまで靴が苦しい僕としては畳というやつに張り替えてしまいたいと思う。
僕は、じとっと彼をにらんだ。そんなものではないからだ。
「人が、二つ結びにしていただけだろう、そんなものに性別を判断されちゃあ困るがね」
うふ、と彼は口許を押さえる。そんな彼はというとだ、少し長めのショートカットで一見して今風の男の子である。クリーム色のカーディガンを着ており、少し破れた長いズボンをはいている。
「ああ、おれもそう感じます」
このマンションの住民はなにかと挨拶したがる。正直苦痛でならないがそろそろ慣れてきていた。
玄関を開けて数秒もなく、簡易なキッチンがあるのだが、そこで湯をわかしながら僕は聞いた。
「誰の紹介だ」
「聞いてませんでしたか」
「耳にしてない」
「あなた、作りたいものはなんでも作りたい癖があるらしいじゃないですか」
「誰から聞いた」
「コンシェルジュに」
「……まあいい、それで」
引っ越して来たての彼はやけに、馴れ馴れしい。 だが、少し興味があるのだ。だから、玄関で突き返さずに招き入れたわけだが。
「貴方にも、著書がありましたね」
誰だ、話したのは。
僕はコンシェルジュを問い詰めようか迷いながら。
「昔の話だ」
とだけ返す。
「あれの続きは?」
「あれには飽きた」
「嘘です」
ちっ、と舌打ちして僕は彼を見る。その双目は、ぞっとするくらいに美しい色をしていた。
「……嘘にしてくれ」
「読書が趣味でね」
「僕は趣味ではない。気晴らしなのさ」
「そんな、だって、大抵の作家というのは」
視線をうろうろさせる彼を眺めながら、僕は肩をすくめる。つまらない。大抵だの、何県だの、人間を括りたがる話というのには大抵興味がわかない。
「僕は大抵ではないのでね。そして作家でもない。きみの目的は何かな、お茶でも飲みに来たか」
彼は、じっとこちらを見つめた。淡いヘーゼルの瞳にはふわりと花が広がるようで吸い込まれそうだ。
近くのテーブルにおいた二つのカップに、そっと湯を注ぎ、ココアを練る。それからまた湯を注いで片方を渡す。
「飲みなさい」
「ああ、どうも」
おずおずと手を触れてカップを持つ彼を見ながら、僕は思わず吹き出した。
「な、……っ!」
思わずつられて火傷したらしい。彼が目を見開いて固まる。慌てて水を蛇口から流して、注いだグラスを渡す。
「ああ、いけないね。僕はつい、こういう静かな空気のときに、どうでもいい考え事をしてしまう」
「何を考えたのですが」
用件がずれていくようだった。まあ、世間話で終わるのも悪くはない。
仕事というのはときに、ひどくだるいものだからだ。
「いや、これが大昔に流行ったという食器なら、君はどんな表情をするのだろうと思ったまでなんだよ」
知っているかい、昔からあるものでね、歴史的価値があるのだが。すべてを飲み干した底の方に、ネタとして絵が描いてあるんだ。
「はぁ……」
微妙な表情を浮かべられたのでデスクから図鑑を引っ張ってきて見せてやろうとするが、結構と言われてしまった。
「あの、おれ。話を戻しますが、本が好きで、相談もあるんですが、もうひとつ、貴方の書いていた冒険譚が」
ずいぶん昔にそんな真似事をしたものだが、まさかこんなところにファンが居るとは、ツキが回っただろうか。
考えながら、僕は言う。
「無理だ」
「なぜ」
「実はね」
ははは、と苦笑いしながら僕は言う。恥ずかしいが、事実なのだから、仕方あるまい。彼には打ち明けていい気がした。
「現実からの解離感で、酷く、そう、とても、何かを作ると、反動から辛くなってしまう。
昔は友人に側にいてもらって書いたものだが、彼は今海外赴任して居て」「でしたらおれが」
彼は言う。
その献身はありがたいものだが、僕はおおざっぱでありながら妙な部分だけ神経質なもので、さすがに彼を困らせるわけにもいくまい。
「相談は何かな」
話を塗り替えながら、マシュマロを彼の口になるべく優雅に投げ込む。恥ずかしそうに顔を真っ赤にしたのを眺めるのは楽しいが、そろそろ一眠りしたくもなってきた。デスクからメモ帳をとりだしつつ、彼を見上げる。
「助けて欲しい、人が居るんです」
がたっ、と席を立つ彼は、その角度から見えただろう、僕の首筋を注視した。
普段は大きめのチョーカーで隠しているのだが、実は生まれつき肌の色素が一部だけ固まっており、この部分だけ痣のようになっているのだ。今日は洗濯していたものだから、隠すのをすっかり忘れていた。
「それ、痛くありませんか」
しまったなと、慌てて服を首もとまで寄せる。
「いいや、まったく問題がないんだ。皮膚上の変異だと医者は言っていた」
それから、傷の治りは早いので、いつまでも付き合うこれは、怪我とは違う。
格好いいだろう、きみの綺麗な目と一緒でね。
僕が言うと彼はばっと目を隠す。昔は、周囲との違いに孤独に思ったものだったが、今では多少色素が薄まっている。
「助けて欲しいというのは、誰のことかな」
あの後冒頭の話を再びしなくていいと思うが、まぁ、つまりはそういうことを話した。
話を聞いてから、ひとまず帰すことにしていた彼だが、ぐっすりとソファーで眠ってしまっている。
自分のことは、頼むから綺麗な色であると言って欲しい。僕まで昔の傷がえぐれてしまうじゃないか。
不機嫌になりながら、手をつけてさえいなかったココアを飲む。先程は流れで作ったが、ブルーベリーのお茶を飲んでしまったのだ。にしても、少し意地悪なことを言ってしまった。
痛くないかと聞かれる度に、痛くはないと答える、僕はそのやりとりに心が痛かった。
虐待による傷と混同されては困るから、いつも仕方なくこれは違うと答えていたのだ。
「懐かしい、少年の時代か」
僕にはあっただろうか。首をかしげてみたもののいまいちピンと来ない。つきりと胸が痛んでしまう。
窓辺に干した布切れを見ながら顔を歪めた。
言うのを忘れたが、その日の時刻はというと、もう21時のことである。
「おはようございます」
を聞きながら、僕はというと朝食の準備にとりかかっていた。ソファーで眠っている彼にかけていたコートは気に入ってもらえただろうか。
「服、はっ、服!」
きょろきょろし出した少年に、その辺にあったブラウスとズボンを投げる。
「って、いや、おれのは」
「土だらけで汚い、部屋が汚れるから勝手に洗わせてもらったよ」
長い髪を、どうにか二つにしながら、僕は言う。それから続いてチョーカーを巻く。
「……ふう」
肩がつかれた。
「変なことはしなかったでしょうね」
「心外だな。僕は服を脱ぐのが嫌いなんだ」
ソファーに座ったままの彼は、かけていたダッフルコートをきれいに整えるとハンガーはと聞いた。
「壁にかけてある」
指をさすと、とってきてくださいよと言われる。
「床に置いておけばいい」
「嫌ですよ」
目を逸らすうちに、彼は壁にあるフックに向かっていく。ふいっと背を向けて、息を吐き出す。フライパンで炒めているアスパラと玉子よりもなによりもまず、眠くてたまらない。
「きみに渡された本を、一晩で読んでいた」
彼は学生のようで、持っていた、薄めのトートからはレポートやクリアファイルが透けているが、学校はいいのかと思いながらぽつりとこぼす。
「どうでした?」
「うん。面白くはあったよ」
白い空が、味気なく窓枠をいろどっていて、そこに点のように鳥がばさばさ飛んでいくのを何度か眺めて、呟く。朝というのはどうしてこうも、だるくも愛しい気持ちにさせられるのだろう。
「ただ、確かに妙ではあった気もするね。件の人物が関わる途端に作風が妙に変わっているところがね」
「でしょう?」
彼は誇らしげに笑う。そういえば、彼の名前を聞いていなかった。
「名前は」
じゅわじゅわと炒める音をさせながら聞くと、彼は笑顔のままで答える。瀬部キリエ。
「そうか、よろしくキリエ。僕は」
「知ってます、聞いてきましたから」
皮の表紙のメモ帳をぐいっと両手で持って見せつけながら、彼は言う。
「ラル、そういわれてますね、来流……えっと、下の名前は」
「ラルで良い」
「で。ラルは、なぜ、この部屋で探偵の真似事を」
「探偵?」
ハッ、と鼻で笑う。
「僕は一般人さ」
いちいち話を逸らしてくるやつだ。なんなのだ、そんなに僕が変なのか。
「なぁ、僕に興味があるか」
突然言われたことが理解出来なかっただろう、彼は顔を真っ赤にして、口をパクパクと動かした。
「おれは、ただ……ちょっと、興奮してしまって」
ただでさえ人形みたいにお綺麗ですしと、彼は言った。今の若者は世辞を言うのだろうか。
「まあいい。僕は君より、事件に興味があるがね」
料理を皿に移しながら言うと、手伝います、と二枚目の皿を持ってきてくれる。意外と気のきくやつだ。
次は何を作ろうかと考えながら、僕は冷蔵庫を開け卵を取り出そうとした、その手を戻す。卵は先程使った。うちはそんな裕福ではない、こういうものは高級品なのだから、ほいほいと使うわけにはいかない。
「そういえば、ここ、料金や、許可の札がありませんが」
時間を持て余したのだろう彼がきょろりと、辺りを見渡しながら言う。
「首の痣は、内緒にしてくれ」
「へ?」
あっけにとられた顔。なかなか面白い。クククク、と笑い、それから僕はチョーカーを指差した。リボンにも見える。
「探偵はしていないのだ。料金はそれにしよう。
きみがもってきた事件も、なかなか面白そうに見える」
まぁ、ほいほいと連れ込まれるのも嫌だから、君限定だと言うと、彼は目を丸くする。
「わかりました……」
その声は、そんなに気にする必要はないのではないかという意思にも取れる響きを含んでいたので、僕はキャベツを千切りとトマトを四角く刻みながら彼をじっと見つめる。
「服で隠れはするがね。厄介なものだよ。見えたら見えたで変な同情をされるのだから。
美しくもないし、宝石とも言い張れまい」
レーザーを当てるというものもあるのだが、僕はしない。それは、すべてが僕の一部だからだ。
否定してまで生きようという考えもなぜだか持てなかった。実質的な話をすれば、人に見せない限りにおいては、僕はなかなかに気に入っている。見た相手が、果たしてどれほどな人間かを測るに丁度いい小道具でもある。
ページを見比べたことを思いだしながら、僕はミネストローネを煮込む。
彼はテーブルに自然に着いてそれぞれの気になる箇所を読み上げていた。
「そのピアニストを、私は先生と読んでいた。先生は最近はとても悲しそうに「こんな日が訪れることもあるのね」と、そう言っていた。スコアが無くなった次の日、近くのホールで見た見知らぬ他校の誰かのそれが全く同じだと知ってしまった。先生は、違うプログラムへと切り替えたの……大事にしてくれるなら、まだ救われるわ。最初、そう思ったから」
「保育園のピアノの先生は、最近機嫌が悪く「こんな日が訪れるなんて!」と、怒鳴り散らしていた。
理由はこういったもの。スコアが無くなってあせる次の日、近くのホールで見た友達の演奏を知った先生は、嫉妬してしまった。だから友達を閉じ込めて自分の出番を無理矢理切り替えようとしたの。でも他校の子はなぜだか驚きつつも庇ってしまった。けれど、愛のためにそれさえもを利用してしまったの」
「この前者からすると、相手のために一歩引くことを『愛情』とやらだと思っているような印象があるね」
厚目のハムを、数枚、オーブンで焼きながら僕は言う。こちらの方の「先生」は、相手を責めることもできず、意識を失うほうを選んでいた。
「後者は、それさえ利用したと描いてあるが、二つを同一視するには価値観が矛盾している」
自ら死を選び一歩引いてまで大事にする相手を、他人を利用してまで突き落とそうとするだろうか。
まぁ、僕は愛とやら、よくわからないのだがそれらしいものは漠然と把握しているはずなのだ。
高い音がして、開けたオーブンからハムを取り出しつつ、ナイフでパンを4切れずつ切る。
二つ皿分用意して、ハムの上にチーズとともに乗せた。ミネストローネで朝食は完成だ。
「僕に愛の形がピンと来ないからかもしれないが、正直そんな相手をむやみに庇うというのもなんだか釈然としない話だった」
「そうですね、普段であるなら、もう少し釈然とするテーマや人間模様を描かれている方です。
それだけになんだか違和感がありました。
なんだか急に激しい猟奇性を帯びていて、心配の声も上がっているとかで」
「で。きみは、これが好きなのか」
タブレットに示した画面に写る作品を指して僕は言う。彼は頷いた。
「いえ。彼女が心配なんです……そして、もう片方も、目的が知りたい」
と。
ちょうど鍋がだんだんいい具合に煮込めてきたことを悟ったから、皿によそった。
「ともかく、お食べよ」
僕は、いただきます、と手を合わせて皿を片方わたす。それに合わせて彼も手を合わせ、食事を開始した。
「うわ、うま、いいんですか」
スプーンを渡すと、ミネストローネをぐびぐび飲む用に食べている。
「僕は馬ではないがね。君は、そういえば、学生なのかい」
愉快になって、ブルーベリーティを二人ぶん注ぎながらくすくすと笑う。
「ああ、まあ、そうです」
「作者について、何か知っている?」
まあ図書館に寄贈して、生徒だけは自由に読めるようにするような人だ。人柄も大方そういったものだろう。
「噂によれば先輩であり、旅好きで、常に居場所が変わる人です……」
「変わり者だな」
あなたに言われたくないでしょうよと、声がする。そんなことはなかろうに。
「でも、彼女の本に憧れていつも図書館に通っていた。だからこそ、」
なるほど。動機が見えてきた。見たいわけでもないが。
「……さぞや、素敵な方だろうな」
こういうときの気遣いは自信がない。
ぽた、とテーブルにいくらか滴がこぼれているのを目にしたが、僕は見ないふりをすることにした。
「羨ましいさ、そんなに想う相手が居て」
場を繋ぐために呟く言葉に、すすり泣きが返事をする。
(やれやれ……)
気取ってとられていやしないかと顔が熱い。
それを隠しているために泣き顔どころか内心不器用な自分が歯痒く、むしょうに落ち着けずおろおろ視線を彷徨かせていただけなのだが。
「余裕そうなあなたが羨ましい」
そう彼は恨み言のようにこぼした。
問題のひとつ。
そしてわざわざ彼が警察やら友人ではなく『僕に』助けを求めねばならない理由というのがなんなのか、いまいち測りかねていたが。
それはどうやら僕が愛情とやらへの興味が片寄っていることに因ったものらしい。
「片方は販売されているので、どうしても利権が絡み……その周囲にも影響を及ぼしてしまうそうです」
「それは厄介だな」
「今彼女は、その圧力に潰されそうになってて……おれが、どうにかしなきゃ消えちゃう気がして。周りは、販売されたものの方を手に取りますから、当然後ろ楯が付く」
ファンというやつもついて来られるのだから、何人もを巻き込むというわけだ。思ったよりも深刻だった。
しかし「主張があまりに違うことなど、一目でわかりそうではないか」と言うと、そこまで深読みする人など僅かだ、と来た。
「恋は盲目といいます」
「泥酔ではないのかね」
それになにより、と彼は呟く。
「ファンを裏切ってしまうことを隠しても続けたいという気持ちが、おれはよくわからない、から悲しくて」
「きみが、商業というやつをあまりに知らないからではないか。まあ僕もきみよりも知らないのだが」
「そうかもしれない、でも……!」
ふるふると震える少年の必死さはなんだか愛しい。まるで、なくしたものの欠片のようだ。
「そんな人じゃない。あの人は、誰かを裏切ってまで、幸せを得ようとかそんなことをする人じゃない、盲信かもしれない、けれど、少なくとも他人を酷くあつかったり出来ないはずなんだ」
スープをすすりながらため息を吐く。確かに、彼が嘘を吐くようにも見えない。確信めいたなにかがあるような気さえする。やれやれ、純真とは羨ましい。
「何か隠しているね?」
「見たんです、先月、図書館で自分の本を悲しそうに見ていた『その人』を」
在校生アルバムにあったものとそっくりだと彼は溢した。
「きみは学校は」
急かす趣味はないが、念のための良識で問う。
「今日はまだ春休みです」
「そうか」
学校はずいぶん前に卒業してしまったからか、どうもそういった感覚が僕は薄い。
「見たのなら、追いかけたのか」
「まさか」
彼は首を横に振る。
そんなの、ストーカーのようで引かれてしまうと言った。そして途中までですが、と付け足した。
「でも、出ようとして廊下をすれ違ったとき、館の屋上の方に上って行くのを見た。だから少し覗いたんです。そこに立った彼女は飛び降りようとするみたいに、縁の一番高い場所のコンクリートに足をのせていた。
地面を見ておれに気づいた途端、振り向いて戻っていきましたが」
そんなに思い詰めていたのだろうかと思ったのだという。
「強く責めたりが、よほどのことでないと苦手な人と聞いていました。だけど間違いだ。自分を責めているだけなんだ」
あらゆる被害に対して自己管理のならないとして責める動きは確かにある。しかし。
「きみが負う必要もなかろう。彼女の運命は彼女のものだ、違うか」
彼は、ぐっ、と言葉を詰まらせる。
別にいじめたいわけではないのだが、他人を決起させる、情とやらに僕は興味がある。なぜなら、いや。
この話はしないでおこう。
「例えばだが、もし『今』このような話を僕が書いたとしてそれを後から曲解してなぞられた際には、その筆者とやらは、確実な気持ちで蹴落とすべくやっていると見なすだろうね」
しかし、一件だろう?と言うと彼は首を横に振った。
「クラスの文集や、少し頼まれたと先輩が友人に渡したものにまで、急に手を加えられています」
これは聞き回りました。と彼は言った。
「ふむ」
突然ある日を境に始まったというそれだが。何が人を変えてしまうのだろうか。
「5年前までは、なにもなかったのに……」
パンをがつがつと食べながら寂しげにする、無理矢理な矛盾に特有な愛しさを感じつつも、僕も自分の食事をする。実は腹が減っていた。
「本当に、蹴落とすかのようなんです……なんでだろう」
「さぁ、僕にはわかりかねるが、そこまで来るとやたらと拘っているのは確かだ」
「実力があるのに、わざわざ、他人の何かに執着を持たなくてもいいはずですよね」
「一方的な推測に過ぎないが、それほど多作を残すのに、名は欲っしていなかった彼女をいざというときの『ストック』だと思っていたのならどうだろう」
「ネタが無いときに引き出しに使うということですか?」
「名が出ていないぶん、自分がそうであると言ってもそうはバレまい。そう考えた」
「しかし……」
「五年前にはなかったが、状況が変わった。そのために、ストックを奪われたくはなく、焦ってしまう、とかね」
考え込む少年の手に、バターナイフを握らせる。溶けてきたチーズをパンに塗るためだ。
彼は黙って受け取った。
「実は他にもあれこれと調べていたが。雑誌の取材に対して「下書きや構成の部分が一番時間がかかる」と答えていた。あり得なくはないだろ」
おかげで、僕は随分寝不足なのだ。あくびを噛み殺しながら言うと、3杯目のお茶をカップに注ぐ。
こういう、ひとつのヒントだけあげた上で強引に視点を変える持っていきかたは本当は邪道な気もするのだが、深く考えない相手を煙に巻くにはいいと、僕は二つに結んだ髪をふわっと揺らして首をかしげた。
「そういう、見方もありますね。本編を書く部分だけは自分がやれば体面も保てる」
「少し。観察が足りなかった」
「なんの話ですか」
「いや、君は想像以上に素晴らしい。退屈しなさそうだよ」
少し機嫌が良くなったと同時に眠気が増してしまう。まだ朝はこれからだというのに。なにか刺激的なことは無いだろうかと目の前の『事件』を見つめてにっこり笑う。
「なんです、退屈って」
「僕は退屈が嫌いなんだ。常になにかしらしてないと落ち着かない」
不思議そうにしている彼のその瞳は、僕をどう捉えているだろうか。
「神経を何かにすべて傾けることで生き延びている、ということだよ。
それ以外の時間を『退屈』と言うんだ。今はきみのためにそれを使っているのだから、その分、僕を退屈させないでくれ。じゃないとおかしくなってしまうからね」
クスクス、笑っていると、あっけにとられた顔が視界に映る。
「まあ、きみならその心配は無さそうだから、いいけれど」 冷蔵庫を開けたら卵と牛乳と米少しのパンや野菜ほどしかなく、昼飯の買い出しに行かねばならないことが発覚した午後13時。
僕は気だるくて極力移動したくなかったもので、少年に使いを頼もうと思った。
「瀬部キリエ」
「なんですか、ラル」
僕のぶんまで皿を洗っている彼を横目に、僕はいつも通りに窓際の場所で伸びをしたり花に水をやったりとする。
「雑用係にした覚えはない。皿くらい洗っておく」
「そんな、このくらいいいですよ」
「ミートスパが食べたい。サンドイッチでもいい」
財布から、ひらりと二千円札を取り出して渡す。
「雑用係にした覚え、無かったのでは」
「だって僕出掛けたくない」
はぁー、とため息を吐かれる。
だって、事が案外面白く深夜まであれこれと読んでしまったんだ。普段の平均就寝時間をとうに過ぎたって仕方あるまい。理想は22、23時辺りには眠っていることなのだが、夢中になることがあれば何時間もオーバーしている。
「朝は、弱いんだ……」
ふあ、と酸素を吸い込むと、猫みたいだと言われる。本格的に『寝なければ危ない』と本能が告げてきた。
幸い今日はいい天気。少し日当たりのいいソファーの上で、丸まっておくには絶好な日和じゃないか。
うとうとしてそのまま寝ていると、後ろで扉が閉まる音がした。出掛けたらしい。
後を追おうと思いはするが『五年前』というワードを頭に巡らたままに、重たい瞼が開いてくれない。身体も。頭がひんやりして固い何かに触れているが、床だ。
ソファーで寝たつもりなのだがこういうこともよくある。眠いときには、予想外な寝かたになっていたりするものだが、これほどに急激な疲弊は僕にも久しぶりだった。けれど身体はふわっと何かに包まれてたいた。
恐らくはベッドに投げていた毛布だ。あいつだろう。
数時間して目が覚めたとき、なにやら甘い香りがしていた。ふとキッチンの方を見ると、瀬部キリエが、熱心に何か料理をしていた。
「ああ、おはようございます」
「おはよう。帰っていたか。今は何時で」
「15時を回ったところですね」
「そうか」
頭がずきずきと痛い。のびをして、ゆったりと身体を起こすと、申し訳なさそうにされた。
「ベッドまで運ぶか迷いましたが、さすがに、抵抗あるかと思いまして」
「ああ、それは、いい。毛布をありがとう」
ふっと笑うと、彼ははにかんだ。キッチンを覗くと、どうやらミートソースが出来上がっているようだった。
「旨そうだ」
「ありがとうございます」
褒めると、なんてことなさそうにぱちくりと視線を動かす。
「しかし、変な話だな」
「変?」
「きみが助けを求めたということは発行年ではわかりきっているのに、未だに攻防になっているのだろう」
鍋をかきまぜながら、彼は頷く。
「そうみたいです……」
僕はもう片方の鍋が気になった。二つ火にかけてあるのだ。大きめな方の鍋ではぐつぐつと麺が茹でられている。
「僕はやわらかめが好きだ」
「わかりましたよ」
なんだか機嫌がいい。
人が料理する背中など久しぶりに見たからだろう。懐かしいような気がして、気持ちが和らぐ。
白い湯気が上る様子を眺めながら床に置いている毛布を畳む。
彼がリモコンを取って欲しいと言ったので、代わりにつけると言うと、チャンネルを言われた。
そこに合わせると、ちょうどその本の内容を思わせる特集をしていた。
「おれが相談に来たという理由も、殊更に宣伝されるようになったからです」
「成る程」
確かに、あの強烈な印象を被せてくる方を先に目に通すと、当人のイメージもまずそちらに変わるだろう。それに、片側はあまり知られていないし望んでもいない筈なのでそれほど広まるわけではない。
やり口としては、よく出来ている。
「攻防を続ける理由がわからんよ。そんなお優しい作者なら素直に和解を申し入れればいいじゃないか」
「ですよね……」
きっとプライドや、イメージの問題もあるのだろう。
「意地を張っているから、長引いているのでしょうか。その辺りは僕にもわかりません」
テレビのチャンネルを変えると、またしても似たように特集されている。
「こいつは……いっそ愉快なくらいに、圧力だな」
彼は眉間にしわを寄せて難しい顔をした。ただの詐欺ではなく、沢山の人の生活まで絡んでしまう。きっと、作者はそれにも心を痛めていたのだ、と言って。
「だからこそ、あの日も、消えたくなったのでしょうね」
罪だとしても、その罪には沢山の命や生活がかかっている。それと自分を天秤にかけなければならない。確かに、残酷過ぎる被害だった。彼が調べたところによれば、一部のファンの間では、何度か死亡説が流れていたとのことで、実際にそれを選ぶかには関わらず、彼女がどうして消えたがるかという理由には充分な気さえする。
自分を引き換えにしてでも、悪くはないはずの大勢を留めるべきなのだと思ったからなのだ。
「それでも、未だに強攻姿勢が続いているみたいで」
それはつまり、その作者とやらは、死を許されなかったのだろう……
哀れだ。なんという板挟みなのだ。僕なら逃げ出している。
自分が勝てば大勢に被害が出て、負ければ死ぬまで追い込まれる。
これは人生最大の苦痛とさえいえる状態じゃないか。
壁にかけていた雑誌をちらりと見る。あれにもそのような広告が載っていた。
「大勢を人質にしてまで、勝ちたいのでしょうか。おれには、わからない……」
彼があのとき涙した理由は、単に彼女が憐れだからでは無いのか、と僕は驚く。そして関心させられた。
どちらについても考える上で葛藤しているのだと。
「泣くな」
はぁ、とため息が出かかったが堪える。
「よくわかった。確かに数人の有志だけでは、とてもじゃないが和解に持ち込めないだろう。
そしてそのような作者が、別に大勢の破滅を望むわけではないことも……」
双方の問題は、片方の『意地』とやらが握っていそうだった。
ぐすっ、と鼻をすすりつつ料理を盛り付ける少年を見ながら、僕はベッドに毛布を戻す。
そして、どうしたものかと考えた。
「食べませんか?」
「ああ、そうだな、ありがとう」
テーブルには、いつのまにか出来立てのミートスパゲティが置いてある。まるで店に出てきそうなもので、美味しそうだった。棚からフォークを出して、いただきます、と二人席に着く。思えば今日の僕は本を読み熟睡して食事、くらいしかしてない。
「きっと、解決するまで、しばらく勝手なことを言われ続けているんですよ。解決した後も心配だ」
ぶつぶつと彼は呪文のように不安を垂れ流す。
食事がしづらい。
慌てて会話を振る。
「きみは、なにがそんなに好きなんだ?」
「内緒です」
「ふふふ、そうか」
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近未来の日本!
汚染物質が突然変異でモンスター化し、人類に襲いかかる事件が多発していた。
そんな敵に立ち向かう為に開発されたピュアスーツ(スリングショット水着とほぼ同じ)を身にまとい、聖水(オシッコ)で戦う美女達がいた!
その名を聖女戦士 ピュアレディー‼︎
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