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Episode4 京子

128 はっきり言って地獄だった

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 事務所からの電話は、キーダーの出動要請だった。
 東京湾で身元不明の水死体が発見されたらしい。

 明らかな殺人事件や自殺では捜査がアルガスに回って来る事はまずない。懐疑的かいぎてきに見て、何かしらの理由があるという事だろう。
 能力死かどうかの判断をする為、検死の前にキーダーが呼ばれることは珍しくなかった。

「分かった。準備したら向かうから、地図をお願いします」

 京子がそう言って通話を切ると、一分も経たぬうちにスマホがピコンと通知音を鳴らした。

「どざえもん程度で回って来るとは、穏やかじゃねぇな」
「念の為って事かもしれないけど、とりあえず行ってきます」

 京子は広げていた古いファイルを閉じて「ありがとうございます」と颯太そうたへ戻した。

 今日は修司しゅうじも午後から休みを取っていて、今アルガスに居るキーダーは京子だけだ。
 昔ならこういう仕事は大舎卿だいしゃきょうが率先して受けていたが、最近は彼の不在で綾斗や京子も行く機会があった。ただ滅多にある事ではなく、殆どは綾斗が受けている。

 水死体と聞いてあまり気は進まなかったが、仕事だからと割り切って京子は立ち上がった。

「そういや京子ちゃん、俺に何か用があってココ来たんじゃねぇの?」
「そうだった。まだたまに頭痛い時があるんですけど、薬局で買った薬って飲んでも良いのかなと思って」
「市販薬飲むくらい、全然構わねぇよ。無理して我慢してる方が良くない」

 今まで頭痛なんて滅多にない事だったのに、浩一郎の件以来たまに痛みが走る事がある。少しずつ間隔は広がっているが、応急処置として薬を飲んでいいものか躊躇ためらってしまい颯太を訪ねた。

「そっか。じゃあ酷い時は薬飲もうかな」
「それでいいよ。あとはゆっくり風呂にでも入ってリラックスするのが大切だ」
「わかりました、やってみます」

 京子がペコリと頭を下げると、颯太は何か閃いたような顔をして横の銀次を一瞥いちべつした。

「京子ちゃん、邪魔じゃなかったら銀次のこと連れて行ってやってくれる?」
「俺がですか? 仕事に同行だなんて……良いんですか?」

 急な提案に、銀次がハッと食い付く。

「だってお前、俺みたいになりたいんだろ? 色々経験しといて損はねぇよ」
「見に行くだけだし、銀次くんなら構わないけど。受験生なのにいいの?」
「勉強ならちゃんとやってるんで、是非! よろしくお願いします!」

 銀次が声を弾ませて、嬉しそうにはにかんだ。
 正直、水死体を一人で見に行くのは少々不安な所もあって、京子は颯太の提案に内心ホッと胸を撫で下ろした。キーダーは警察や消防と違って、死体を目にすることはまれだ。

 だから銀次と二人で現場に着いて、彼の同行が心強かった。
 岸壁のコンクリートに寝かせられた亡骸のシートをまくられて、京子は思わず悲鳴を上げそうになった。

 何となく覚悟はしていたが、それはもはや男か女かも分からない程に顔が腫れて、皮膚の腐敗が進んでいる状態の遺体だった。絡まった髪がコンクリートの地面に貼り付き、伏せられたまぶたの奥にある瞳が、今にも零れ落ちてしまいそうな程に盛り上がっている。

 立ち込める腐敗臭は息を止めてもすぐに鼻へ入り込んでくる。
 視覚も嗅覚も一瞬で奪う光景を全身が拒絶して、京子は込み上げた吐き気をぐっとこらえ両手を合わせた。
 毅然きぜんと振る舞う努力をするが、少しでも気を緩めるとその顔に目が引き付けられてしまう。

 はっきり言って地獄だった。
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