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Episode3 龍之介
85 彼女を連れてあの場所へ
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数日降り注いだ雨は夜のうちに上がり、久しぶりの太陽が明け方の空を金色に照らしていた。
やたら早く目が覚めて、どうしようか悩んだ末に予定より三十分早く家を出る。
ガイアが朱羽を連れ去った日から二週間、初めて振り込まれたバイト代は龍之介の予想より大分多い額だった。
まだ後遺症の残る銀次は数日おきにアルガスの医務室に通っていて、その度に楽しそうなメールをくれる。火事のこと以外はニュースに取り上げられることもなく、龍之介の周りはもうすっかり通常モードだ。
龍之介は事務所の前に着くと、鞄を開いて母親から預けられた袋を確認した。クルクルと花を模った水引の付いたピンク色のそれに、龍之介のフルネームが達筆な筆文字で書かれている。
出掛けに無理矢理スプレーで整えられた前髪が妙に気になって、視界に入り込んでくる尖った塊を指で弾きながらチャイムを鳴らすと、待ち構えたように扉が開いた。
「早かったのね。どうぞ上がって」
エアコンの風と共に現れた朱羽の姿に、龍之介は「わぁ」と思わず声が出た。普段着や制服姿でさえ毎回恋に落ちる感覚を覚えるのに、今日はその比ではない。
いつものボブヘアがくしゅくしゅっと後ろに纏められて、小さな花を散らしている。膝丈の薄い青のドレスが控えめに彼女を引き立てていて、「素敵です」と率直な感想を伝えた。
「ありがとう。龍之介もその頭カッコイイわよ」
「ホントですか?」
褒められた途端急に顔が熱くなって、龍之介は頬を掻く。「とっても」と微笑む彼女はいつもと変わらない様子だが、少し元気がなく見えるのは今日が特別な日だからだ。
「もしかして、まだ行くの悩んでるんですか? 俺はどっちでもいいですよ」
テーブルに置かれた白い封筒を挟むように座って、朱羽は「そうね」と漏らす。
もし今日が雨ならば全てを諦めて鬱々とした気分に浸れたかもしれないのに、生憎外は青空が広がっていて、気分を表へと促してくる。
「まだ時間あるんで、お茶淹れますね」
出発までの時間を埋めるように席を立つと、朱羽は「ねぇ」と龍之介に声を掛けた。
キッチンでやかんを火にかけ、龍之介は彼女を振り向く。朱羽は封筒に顔を落としたまま静かに口を開いた。
「私、これでもマサさんのこと祝福してるのよ? 彼の奥さんになる人は私も知っている人だし、彼女の事も嫌いじゃないの」
二週間前の事件の後、龍之介も朱羽に便乗という形でマサから直接結婚式への招待状を貰った。その時少し話をして、新婦がつい最近までアルガスの施設員だったという事を知った。
「彼女には私もお世話になったの。料理が得意な人でね、私が学生の頃よくここにご飯を作りに来てくれたのよ。だから、もういいの」
もういいと言いながら、声のトーンは落ちるばかりだ。
「そんな沈んだ顔しないで下さい。折角ドレス着てるんだし。お、俺が……」
「そうね」
柄にもないセリフを口にしようとしたところで、遮るように言葉を挟まれてしまう。
沈黙する間にお湯が沸いて、カモミールの葉を沈めたポットにお湯を注いだ。爽やかな香りを大きく吸い込んだところで、事務所のチャイムが鳴る。
「俺、出ますよ」
窓の外に知らない車が見えて、龍之介は足早に戸口へ向かった。
来客はこれまた華やかな装いに身を包んだ京子だ。額に当てがったガーゼが痛々しいが、本人は気にしていない様子だ。
そして手には何故かさすまたが握られている。
あの日地面に突き刺したそれは、朱羽の力と噴き出した水の勢いで壊れてしまった。
「おはようございます。京子さんとっても奇麗ですね!」
朱羽とは対照的なえんじ色のロングドレスを着た京子は、アップにした緩巻きのポニーテールが大人の雰囲気を醸し出している。
「ありがとう」と微笑んで、京子は龍之介にさすまたを差し出した。
「久志さんが会場でっていうもんだから、先に渡さなきゃと思って奪ってきたの。龍之介くんの新しい武器だよ」
久志はさすまたを作ったキーダーだ。
「向こうでなんてやめてよ」と嫌がる朱羽を横目に、龍之介はそれを両手で受け取る。
「ありがとうございます。けど、前のと少し違いますよね」
「改良型らしいよ。さすまたくん三号? だったかな」
「三号……」
「久志さんはマサさんの同期でね、龍之介くんに会いたがってたよ。ちょっと変わってるけど悪い人じゃないから、式の時話してみるといいよ」
「はい、是非!」
前のさすまたより色が若干濃くなって、グリップは少し太い。
あの日、手の中でボロリと砕けたさすまたと共に自分の役目が終わってしまったような気さえしたのに、再び戻ってきた感触に嬉しさが込み上げた。
「俺、お茶淹れますね」
「私はいいよ。外に車待たせてあるから、すぐに行かなきゃならないの」
「彼が来てるの?」
「そう」と頷いた京子に、龍之介は指輪の相手を思い出して窓の外を覗くが、横付けされた白い車の運転席は遠くて良く見えなかった。
朱羽もまた窓の外を一瞥して、京子の顔を伺う。
「こんな日に言う事じゃないけど、彼と仲良くできてる?」
「仲良くしてるよ。今朝会って、夕方にはバイバイだけど。喧嘩してる暇なんてないもん」
「……そっか。何か最近の京子って、いつもそんな顔してる」
「そんなって?」
「自覚ないならいいのよ。遠距離恋愛できるって才能よね。我慢できるならしてもいいけど、そうじゃないなら無理しないで」
「才能なんて、ゼロだと思うよ」
京子は寂しそうに笑った。
朱羽が指摘するように、久しぶりに恋人に会えたにしてはどこか浮かない表情をしている。
京子の指に指輪はなかった。
そんな龍之介の心配をよそに、京子が「それより」とトーンを上げて話を切り替える。
「オジサンたちに聞いたよ。ここに残るんだって?」
「えぇ。向こうが良いって言ってくれたから、もう少しだけ甘えることにしたわ」
一度はアルガスへ戻る意思を見せた彼女だが、上が朱羽をここに留める提案をしてきたという。
「私は本部でアンタと一緒に仕事したいんだけど。無理してやっぱりトールになるとか言われる位なら、ここに居て貰った方が何倍もいいよ。龍之介くんもまだバイト続けてくれるんでしょ?」
「勿論です!」
意気込んだ龍之介に悪戯な笑顔を向けて、京子は立ち上がる。
「朱羽、ちゃんと結婚式来るんだよ? 平次さん渾身のウェディングケーキ、すっごく美味しそうだったんだから」
京子は「向こうでね」と手を振って事務所を後にした。
彼女を見送った扉の前で棒立ちのまま沈黙が起きて、龍之介は申し合わせたようにそっと朱羽と顔を見合わせる。
「平次さんのケーキ、俺も食べたいです」
「私だって食べたいわよ」
朱羽は拗ねるような顔でテーブルの方へ行き、封筒を手に取った。
「龍之介が居てくれたら、笑顔でいられるかしら。私、あの桜の夜に貴方と会えて本当に良かったと思ってる」
「俺なんて朱羽さんに助けられてばっかりで……」
「自分の事謙遜しなくていいから。私に遠慮なんかしないで」
「じゃあ。無事に結婚式が終わったら、俺に付き合ってもらってもいいですか?」
咄嗟に浮かんだ提案だが、調子に乗りすぎた気がして龍之介は少しだけ後悔した。けれど朱羽は「いいわよ」と笑顔をくれる。
「結婚式の後? どこに連れて行ってくれるの?」
「前のバイト先に。俺のここでの初めてのバイト代で、あの時のお礼をさせて下さい」
「私にコーヒーを飲ませようとするのね」
朱羽は目の端に滲んだ涙を拭って、可笑しそうに笑った。
エピソード3-END
エピソード4へ続く
やたら早く目が覚めて、どうしようか悩んだ末に予定より三十分早く家を出る。
ガイアが朱羽を連れ去った日から二週間、初めて振り込まれたバイト代は龍之介の予想より大分多い額だった。
まだ後遺症の残る銀次は数日おきにアルガスの医務室に通っていて、その度に楽しそうなメールをくれる。火事のこと以外はニュースに取り上げられることもなく、龍之介の周りはもうすっかり通常モードだ。
龍之介は事務所の前に着くと、鞄を開いて母親から預けられた袋を確認した。クルクルと花を模った水引の付いたピンク色のそれに、龍之介のフルネームが達筆な筆文字で書かれている。
出掛けに無理矢理スプレーで整えられた前髪が妙に気になって、視界に入り込んでくる尖った塊を指で弾きながらチャイムを鳴らすと、待ち構えたように扉が開いた。
「早かったのね。どうぞ上がって」
エアコンの風と共に現れた朱羽の姿に、龍之介は「わぁ」と思わず声が出た。普段着や制服姿でさえ毎回恋に落ちる感覚を覚えるのに、今日はその比ではない。
いつものボブヘアがくしゅくしゅっと後ろに纏められて、小さな花を散らしている。膝丈の薄い青のドレスが控えめに彼女を引き立てていて、「素敵です」と率直な感想を伝えた。
「ありがとう。龍之介もその頭カッコイイわよ」
「ホントですか?」
褒められた途端急に顔が熱くなって、龍之介は頬を掻く。「とっても」と微笑む彼女はいつもと変わらない様子だが、少し元気がなく見えるのは今日が特別な日だからだ。
「もしかして、まだ行くの悩んでるんですか? 俺はどっちでもいいですよ」
テーブルに置かれた白い封筒を挟むように座って、朱羽は「そうね」と漏らす。
もし今日が雨ならば全てを諦めて鬱々とした気分に浸れたかもしれないのに、生憎外は青空が広がっていて、気分を表へと促してくる。
「まだ時間あるんで、お茶淹れますね」
出発までの時間を埋めるように席を立つと、朱羽は「ねぇ」と龍之介に声を掛けた。
キッチンでやかんを火にかけ、龍之介は彼女を振り向く。朱羽は封筒に顔を落としたまま静かに口を開いた。
「私、これでもマサさんのこと祝福してるのよ? 彼の奥さんになる人は私も知っている人だし、彼女の事も嫌いじゃないの」
二週間前の事件の後、龍之介も朱羽に便乗という形でマサから直接結婚式への招待状を貰った。その時少し話をして、新婦がつい最近までアルガスの施設員だったという事を知った。
「彼女には私もお世話になったの。料理が得意な人でね、私が学生の頃よくここにご飯を作りに来てくれたのよ。だから、もういいの」
もういいと言いながら、声のトーンは落ちるばかりだ。
「そんな沈んだ顔しないで下さい。折角ドレス着てるんだし。お、俺が……」
「そうね」
柄にもないセリフを口にしようとしたところで、遮るように言葉を挟まれてしまう。
沈黙する間にお湯が沸いて、カモミールの葉を沈めたポットにお湯を注いだ。爽やかな香りを大きく吸い込んだところで、事務所のチャイムが鳴る。
「俺、出ますよ」
窓の外に知らない車が見えて、龍之介は足早に戸口へ向かった。
来客はこれまた華やかな装いに身を包んだ京子だ。額に当てがったガーゼが痛々しいが、本人は気にしていない様子だ。
そして手には何故かさすまたが握られている。
あの日地面に突き刺したそれは、朱羽の力と噴き出した水の勢いで壊れてしまった。
「おはようございます。京子さんとっても奇麗ですね!」
朱羽とは対照的なえんじ色のロングドレスを着た京子は、アップにした緩巻きのポニーテールが大人の雰囲気を醸し出している。
「ありがとう」と微笑んで、京子は龍之介にさすまたを差し出した。
「久志さんが会場でっていうもんだから、先に渡さなきゃと思って奪ってきたの。龍之介くんの新しい武器だよ」
久志はさすまたを作ったキーダーだ。
「向こうでなんてやめてよ」と嫌がる朱羽を横目に、龍之介はそれを両手で受け取る。
「ありがとうございます。けど、前のと少し違いますよね」
「改良型らしいよ。さすまたくん三号? だったかな」
「三号……」
「久志さんはマサさんの同期でね、龍之介くんに会いたがってたよ。ちょっと変わってるけど悪い人じゃないから、式の時話してみるといいよ」
「はい、是非!」
前のさすまたより色が若干濃くなって、グリップは少し太い。
あの日、手の中でボロリと砕けたさすまたと共に自分の役目が終わってしまったような気さえしたのに、再び戻ってきた感触に嬉しさが込み上げた。
「俺、お茶淹れますね」
「私はいいよ。外に車待たせてあるから、すぐに行かなきゃならないの」
「彼が来てるの?」
「そう」と頷いた京子に、龍之介は指輪の相手を思い出して窓の外を覗くが、横付けされた白い車の運転席は遠くて良く見えなかった。
朱羽もまた窓の外を一瞥して、京子の顔を伺う。
「こんな日に言う事じゃないけど、彼と仲良くできてる?」
「仲良くしてるよ。今朝会って、夕方にはバイバイだけど。喧嘩してる暇なんてないもん」
「……そっか。何か最近の京子って、いつもそんな顔してる」
「そんなって?」
「自覚ないならいいのよ。遠距離恋愛できるって才能よね。我慢できるならしてもいいけど、そうじゃないなら無理しないで」
「才能なんて、ゼロだと思うよ」
京子は寂しそうに笑った。
朱羽が指摘するように、久しぶりに恋人に会えたにしてはどこか浮かない表情をしている。
京子の指に指輪はなかった。
そんな龍之介の心配をよそに、京子が「それより」とトーンを上げて話を切り替える。
「オジサンたちに聞いたよ。ここに残るんだって?」
「えぇ。向こうが良いって言ってくれたから、もう少しだけ甘えることにしたわ」
一度はアルガスへ戻る意思を見せた彼女だが、上が朱羽をここに留める提案をしてきたという。
「私は本部でアンタと一緒に仕事したいんだけど。無理してやっぱりトールになるとか言われる位なら、ここに居て貰った方が何倍もいいよ。龍之介くんもまだバイト続けてくれるんでしょ?」
「勿論です!」
意気込んだ龍之介に悪戯な笑顔を向けて、京子は立ち上がる。
「朱羽、ちゃんと結婚式来るんだよ? 平次さん渾身のウェディングケーキ、すっごく美味しそうだったんだから」
京子は「向こうでね」と手を振って事務所を後にした。
彼女を見送った扉の前で棒立ちのまま沈黙が起きて、龍之介は申し合わせたようにそっと朱羽と顔を見合わせる。
「平次さんのケーキ、俺も食べたいです」
「私だって食べたいわよ」
朱羽は拗ねるような顔でテーブルの方へ行き、封筒を手に取った。
「龍之介が居てくれたら、笑顔でいられるかしら。私、あの桜の夜に貴方と会えて本当に良かったと思ってる」
「俺なんて朱羽さんに助けられてばっかりで……」
「自分の事謙遜しなくていいから。私に遠慮なんかしないで」
「じゃあ。無事に結婚式が終わったら、俺に付き合ってもらってもいいですか?」
咄嗟に浮かんだ提案だが、調子に乗りすぎた気がして龍之介は少しだけ後悔した。けれど朱羽は「いいわよ」と笑顔をくれる。
「結婚式の後? どこに連れて行ってくれるの?」
「前のバイト先に。俺のここでの初めてのバイト代で、あの時のお礼をさせて下さい」
「私にコーヒーを飲ませようとするのね」
朱羽は目の端に滲んだ涙を拭って、可笑しそうに笑った。
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