上 下
256 / 571
Episode3 龍之介

62 元ピアニスト

しおりを挟む
 一人で朱羽あげはを待つつもりだったが、部屋の前には先客が居た。
 広い廊下を挟んだ長いソファの端で、重い空気をまとった綾斗あやとが「あれ」と龍之介に気付く。

美弦みつるたちと居たんじゃなかったの?」
「だったんですけど、朱羽さんが気になって。綾斗さんも京子さんの所じゃなかったんですね」
「俺も呼ばれたから。京子さんは落ち着いて寝てるよ」

 綾斗は『拷問部屋』とは言い難い小奇麗な木の扉を指差して、銀環ぎんかんと並んだ腕時計を確認した。

「さっき二度目だってボヤきながら入って行ったから、もう少し掛かると思う」
「二度目?」
「たまにしか来ないから、オジサンたちも色々聞きたいんだろうね」
「そっか……俺もここで待ってていいですか?」

 「どうぞ」という返事を待って、龍之介は同じソファの反対側へ腰を下ろした。

 綾斗がソファに背を預けて目を伏せると、再び沈黙が広がる。
 龍之介は少し前にポケットで振動を感じたことを思い出し、さすまたを横に置いた。
 銀次だろうと思っていたが、メールの送り主は母親だ。夕飯をどうするかという内容だったが、帰りたくない気持ちを抑えきれず『友達の家に泊るから』と嘘をつく。

 すぐに返ってきた返事は『おうちの方によろしくね(はあと)』という絵文字付きのメッセージだ。
 罪悪感を覚えつつ「よし」と小さく意気込んで、龍之介は銀次にもメールを書く。
 『さっきはごめん』と送信してすぐに既読の表示は出たが、返事は返ってこなかった。

「八時になるけど帰らなくていいの? 車で送らせるよ?」

 銀次の返事を待ってスマホ画面にかじりつく龍之介に、綾斗が横から声を掛ける。

「今日は泊るってメールしたんで、平気です」
「泊るって、朱羽さんの所に? 見掛けによらず大胆だね」

 不審がる表情に別の意味を汲み取って、龍之介は慌てて「違うんです」と首を振った。

「あ、朱羽さんと夜を過ごしたいとか、そういうのじゃないんです。ただ……帰りたくなくて」

 「ふうん」と綾斗は意味深な笑みを浮かべる。
 下心がないとは言い切れず、無理矢理話を逸らそうと龍之介は「そうだ」と両手を叩いた。

「えっと俺、心美ここみちゃんに会いましたよ! 綾斗さんのこと聞きました」
「心美ちゃん? それって佐倉心美ちゃんのこと?」
「そうです!」

 綾斗は彼女の小さな背を掌の高さで表す。

「うちの母親が家でピアノ教えてて、教室で銀環してる彼女を偶然見掛けたんです。もしやと思ってその子のお母さんに聞いたら話してくれて」
「偶然だね。俺、あのお母さんに最初嫌われててさ、暫く人さらいみたいな目で見られてたんだよ。けど、通ってるうちに少しずつ、ね」
「お母さんもそんなこと言ってました」

 ピアノの前にちょこんと座っていたあの少女もキーダーなのだ。
 生まれたばかりの我が子に『国の為に戦う運命が』なんて言われたら、そんな気持ちにもなるだろう。

「家がピアノ教室か。ちょっと羨ましいかも」
「そうなんですか? 毎日ピアノの音しますよ?」
「いいと思うけど。嫌なの?」
「嫌って言うか……」

 その理由を考えて、少しだけ恥ずかしいと思いながら龍之介はほおを搔いた。

「小さい時から母親は家に居たんですけど、ずっと生徒さんに掛かりきりで淋しかったから。まぁ流石に今はそんなことないんですけど。あと、知らない人とウチのトイレで鉢合わせするのが嫌で」
「そりゃなってみないと分からない苦労だね」
「ですね。うちの母親は元ピアニストなんです。教室開くのが夢で、父親と駆け落ちしたらしくて。目標を貫けるところは尊敬してるんですけど──って、綾斗さん?」

 ふと綾斗の視線が気になって顔を上げる。
 何か考えるように泳がせた彼の目がパッと見開いて、食いつくように龍之介を捕らえた。

「元ピアニストって……龍之介くんのお母さんって、名前は……?」
「名前? 紗耶香さやかですよ」
「川嶋紗耶香? 川嶋紗耶香が龍之介くんのお母さんなの?」 
「は、はい、旧姓は川嶋です。現役時代はちょっと有名だったみたいですけど、綾斗さん知ってるんですか?」

 現役時代なんて、独身だった20年近く前の話だ。綾斗もまだ生まれた頃だろう。
 けれど疑問が確信に変わって、綾斗は尋常じゃない程に興奮を見せた。

「知ってるも何も、俺ファンだから!」
「えぇ?!」

 はっきりと宣言する綾斗は、龍之介がここ数回で受けた印象と大分違う。
 彼の魂を揺さぶる相手が自分の母親だという事実に、龍之介は逆に困惑してしまった。



しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい

白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。 私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。 「あの人、私が

挙式後すぐに離婚届を手渡された私は、この結婚は予め捨てられることが確定していた事実を知らされました

結城芙由奈 
恋愛
【結婚した日に、「君にこれを預けておく」と離婚届を手渡されました】 今日、私は子供の頃からずっと大好きだった人と結婚した。しかし、式の後に絶望的な事を彼に言われた。 「ごめん、本当は君とは結婚したくなかったんだ。これを預けておくから、その気になったら提出してくれ」 そう言って手渡されたのは何と離婚届けだった。 そしてどこまでも冷たい態度の夫の行動に傷つけられていく私。 けれどその裏には私の知らない、ある深い事情が隠されていた。 その真意を知った時、私は―。 ※暫く鬱展開が続きます ※他サイトでも投稿中

親戚のおじさんに犯された!嫌がる私の姿を見ながら胸を揉み・・・

マッキーの世界
大衆娯楽
親戚のおじさんの家に住み、大学に通うことになった。 「おじさん、卒業するまで、どうぞよろしくお願いします」 「ああ、たっぷりとかわいがってあげるよ・・・」 「・・・?は、はい」 いやらしく私の目を見ながらニヤつく・・・ その夜。

妻がエロくて死にそうです

菅野鵜野
大衆娯楽
うだつの上がらないサラリーマンの士郎。だが、一つだけ自慢がある。 美しい妻、美佐子だ。同じ会社の上司にして、できる女で、日本人離れしたプロポーションを持つ。 こんな素敵な人が自分のようなフツーの男を選んだのには訳がある。 それは…… 限度を知らない性欲モンスターを妻に持つ男の日常

公爵様、契約通り、跡継ぎを身籠りました!-もう契約は満了ですわよ・・・ね?ちょっと待って、どうして契約が終わらないんでしょうかぁぁ?!-

猫まんじゅう
恋愛
 そう、没落寸前の実家を助けて頂く代わりに、跡継ぎを産む事を条件にした契約結婚だったのです。  無事跡継ぎを妊娠したフィリス。夫であるバルモント公爵との契約達成は出産までの約9か月となった。  筈だったのです······が? ◆◇◆  「この結婚は契約結婚だ。貴女の実家の財の工面はする。代わりに、貴女には私の跡継ぎを産んでもらおう」  拝啓、公爵様。財政に悩んでいた私の家を助ける代わりに、跡継ぎを産むという一時的な契約結婚でございましたよね・・・?ええ、跡継ぎは産みました。なぜ、まだ契約が完了しないんでしょうか?  「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくださいませええ!この契約!あと・・・、一体あと、何人子供を産めば契約が満了になるのですッ!!?」  溺愛と、悪阻(ツワリ)ルートは二人がお互いに想いを通じ合わせても終わらない? ◆◇◆ 安心保障のR15設定。 描写の直接的な表現はありませんが、”匂わせ”も気になる吐き悪阻体質の方はご注意ください。 ゆるゆる設定のコメディ要素あり。 つわりに付随する嘔吐表現などが多く含まれます。 ※妊娠に関する内容を含みます。 【2023/07/15/9:00〜07/17/15:00, HOTランキング1位ありがとうございます!】 こちらは小説家になろうでも完結掲載しております(詳細はあとがきにて、)

お嬢様、お仕置の時間です。

moa
恋愛
私は御門 凛(みかど りん)、御門財閥の長女として産まれた。 両親は跡継ぎの息子が欲しかったようで女として産まれた私のことをよく思っていなかった。 私の世話は執事とメイド達がしてくれていた。 私が2歳になったとき、弟の御門 新(みかど あらた)が産まれた。 両親は念願の息子が産まれたことで私を執事とメイド達に渡し、新を連れて家を出ていってしまった。 新しい屋敷を建ててそこで暮らしているそうだが、必要な費用を送ってくれている以外は何も教えてくれてくれなかった。 私が小さい頃から執事としてずっと一緒にいる氷川 海(ひかわ かい)が身の回りの世話や勉強など色々してくれていた。 海は普段は優しくなんでもこなしてしまう完璧な執事。 しかし厳しいときは厳しくて怒らせるとすごく怖い。 海は執事としてずっと一緒にいると思っていたのにある日、私の中で何か特別な感情がある事に気付く。 しかし、愛を知らずに育ってきた私が愛と知るのは、まだ先の話。

♡蜜壺に指を滑り込ませて蜜をクチュクチュ♡

x頭金x
大衆娯楽
♡ちょっとHなショートショート♡年末まで毎日5本投稿中!!

ロリっ子がおじさんに種付けされる話

オニオン太郎
大衆娯楽
なろうにも投稿した奴です

処理中です...