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Episode3 龍之介
25 無防備な彼女
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事務所に戻った途端、朱羽が大きなくしゃみをした。
つけっぱなしのエアコンの冷気が、濡れた体に凍み込んでくる。
「ちょっとエアコン消すわね。私先にシャワー浴びてきてもいい?」
突然そんなことを言われて、龍之介は「ふえっ?」と思わずおかしな声を出してしまう。
この事務所が彼女の自宅を兼ねている事をすっかり忘れていた。
暗がりでは気にならなかったのに、びっしょりと濡れた袖のないニットが彼女の身体の線を露わにしているのが分かって、龍之介は慌てて目を逸らす。
「ど、どうぞ。風邪ひいちゃいますから」
「ありがとう」と爪先歩きで一度寝室に戻った朱羽は、ふかふかしたピンク色のバスタオルを二枚持って戻って来ると、一枚を龍之介に渡した。
「龍之介も入っていったら?」
「一緒にですか?!」
「ちょっと」と赤面して胸元を抑える朱羽。
突発的におかしなことを口走った自分を呪って、龍之介は「じょ、冗談です!」と頭を下げた。
「すみません、俺は傘さしてたから平気です!」
龍之介は広げた両手を大ぶりに振って断った。
「一緒には入らないけど、お風呂くらい遠慮しなくてもいいのよ?」
「いえ。俺お茶淹れて待ってるんで、温まって来て下さい」
シャワーへと急かす龍之介に朱羽は「わかったわ」と頷いて、薄い衝立で仕切られたエリアへと入って行った。
扉が閉まる音とともに事務所は静まり返ったが、少しすると壁越しにシャワーの音が聞こえてくる。
龍之介は息を呑んで、借りたタオルを頭から被った。
「……だ、駄目だ!」
ふかふかのタオルは耳栓の役目をしてはくれない。それどころか彼女と同じ匂いをいっぱいに放って、抱きしめるように頭を包み込んだ。
「落ち着け、龍之介」
湧き上がる欲望を振り切るように「駄目だぁ」と繰り返す。
龍之介はタオルを剥いでテーブルの上に乗せ、気を紛らわせようと適当な音楽を口ずさんだ。なのに耳がシャワー音を拾おうとする。
龍之介は崩れるように溜息を吐いて、キッチンへ向かった。出掛けに準備したやかんに水を入れ直し、今度こそ火にかける。
ティーポットの横に置かれたカモミールの缶には、丸熊茶舗の名前が入っていた。さっき会ったばかりの店主とカモミールの組み合わせをちぐはぐに感じながら、龍之介はカップ置き場の隅に銀色の袋を見つける。
普通なら見過ごしてしまいそうな小さな袋の中身がコーヒー豆だと気付いたのは、前にバイトしていたカフェで同じものを毎日見ていたからだ。バルブの付いたその袋を手に取って、龍之介はラベルを確認する。
「やっぱり、あそこだ」
思った通り、それは龍之介が春までバイトしていたカフェで売られているコーヒー豆だった。店のオリジナルブレンドで、味も分かる。けれど賞味期限は一年も前に切れていた。
ここからカフェまではちょっと遠いけれど、徒歩で行ける距離だ。コーヒーを飲まない彼女が客用にと考えれば、何ら不思議なことではない。
――『次の誕生日は、コーヒー好きの奴だからね』
コーヒーというワードに絡めて、アルガスの食堂長である平次の話を思い出す。そしてそれは同時に、もう一つの記憶を引き出した。
――『誕生日は八月十日で……』
『マサさん』という人は、もうキーダーとしての能力を失ってしまったらしい。この部屋で自分がコーヒーを飲むことは、彼女の心をえぐることになってしまわないだろうか。
「だから、気にしすぎだって」
自分の胸にそう言い聞かせて、龍之介はまたメロディを口ずさんだ。
つけっぱなしのエアコンの冷気が、濡れた体に凍み込んでくる。
「ちょっとエアコン消すわね。私先にシャワー浴びてきてもいい?」
突然そんなことを言われて、龍之介は「ふえっ?」と思わずおかしな声を出してしまう。
この事務所が彼女の自宅を兼ねている事をすっかり忘れていた。
暗がりでは気にならなかったのに、びっしょりと濡れた袖のないニットが彼女の身体の線を露わにしているのが分かって、龍之介は慌てて目を逸らす。
「ど、どうぞ。風邪ひいちゃいますから」
「ありがとう」と爪先歩きで一度寝室に戻った朱羽は、ふかふかしたピンク色のバスタオルを二枚持って戻って来ると、一枚を龍之介に渡した。
「龍之介も入っていったら?」
「一緒にですか?!」
「ちょっと」と赤面して胸元を抑える朱羽。
突発的におかしなことを口走った自分を呪って、龍之介は「じょ、冗談です!」と頭を下げた。
「すみません、俺は傘さしてたから平気です!」
龍之介は広げた両手を大ぶりに振って断った。
「一緒には入らないけど、お風呂くらい遠慮しなくてもいいのよ?」
「いえ。俺お茶淹れて待ってるんで、温まって来て下さい」
シャワーへと急かす龍之介に朱羽は「わかったわ」と頷いて、薄い衝立で仕切られたエリアへと入って行った。
扉が閉まる音とともに事務所は静まり返ったが、少しすると壁越しにシャワーの音が聞こえてくる。
龍之介は息を呑んで、借りたタオルを頭から被った。
「……だ、駄目だ!」
ふかふかのタオルは耳栓の役目をしてはくれない。それどころか彼女と同じ匂いをいっぱいに放って、抱きしめるように頭を包み込んだ。
「落ち着け、龍之介」
湧き上がる欲望を振り切るように「駄目だぁ」と繰り返す。
龍之介はタオルを剥いでテーブルの上に乗せ、気を紛らわせようと適当な音楽を口ずさんだ。なのに耳がシャワー音を拾おうとする。
龍之介は崩れるように溜息を吐いて、キッチンへ向かった。出掛けに準備したやかんに水を入れ直し、今度こそ火にかける。
ティーポットの横に置かれたカモミールの缶には、丸熊茶舗の名前が入っていた。さっき会ったばかりの店主とカモミールの組み合わせをちぐはぐに感じながら、龍之介はカップ置き場の隅に銀色の袋を見つける。
普通なら見過ごしてしまいそうな小さな袋の中身がコーヒー豆だと気付いたのは、前にバイトしていたカフェで同じものを毎日見ていたからだ。バルブの付いたその袋を手に取って、龍之介はラベルを確認する。
「やっぱり、あそこだ」
思った通り、それは龍之介が春までバイトしていたカフェで売られているコーヒー豆だった。店のオリジナルブレンドで、味も分かる。けれど賞味期限は一年も前に切れていた。
ここからカフェまではちょっと遠いけれど、徒歩で行ける距離だ。コーヒーを飲まない彼女が客用にと考えれば、何ら不思議なことではない。
――『次の誕生日は、コーヒー好きの奴だからね』
コーヒーというワードに絡めて、アルガスの食堂長である平次の話を思い出す。そしてそれは同時に、もう一つの記憶を引き出した。
――『誕生日は八月十日で……』
『マサさん』という人は、もうキーダーとしての能力を失ってしまったらしい。この部屋で自分がコーヒーを飲むことは、彼女の心をえぐることになってしまわないだろうか。
「だから、気にしすぎだって」
自分の胸にそう言い聞かせて、龍之介はまたメロディを口ずさんだ。
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