203 / 661
Episode3 龍之介
10 呼び方、呼ばれ方
しおりを挟む「まだ自己紹介してなかったわね」
朱羽は向かいのソファに座ると、まず自分の話をしてくれた。
彼女と二人きりになった途端、『変なことしたら許さない』という美弦からの忠告が心に響いて、龍之介は鳴りやまない心臓の音を隠すのに必死だ。
勿論、そんなことをする気はないけれど。
部屋も空気も匂いも、いつも感じているものとは全く違う。
狭い部屋で二人きりというシチュエーションに心が乱れそうになるのを、怒り顔の美弦を思い出して必死に抑えつけた。
彼女の名前は矢代朱羽。
キーダーはアルガスに居るものだと思っていたが、彼女はここで一人で資料整理を中心とした事務仕事をしているらしい。
棚にはファイルがびっしりと入っていて、パソコンもノート以外にやたら古そうなデスクトップが部屋の隅に鎮座している。
「そういえば、仕事は辞めちゃったの? あのお金はバイト代だったんでしょ?」
「はい。あの日が最後のバイトだったんです」
「そうなの」と言った朱羽は、それが喫茶店のバイトだと聞いて驚いた顔をした。
「仕事、全然違うけど大丈夫?」
「はい、何でもします! けど俺、仕事内容とかちゃんと読んでなくて。ここでは何をすればいいんですか? キーダーやアルガスのことも詳しくは知らないんです」
龍之介は頭を下げて、朱羽の淹れた不思議な味の紅茶を何度も口に運んだ。
「そうなの? じゃあもしかして、履歴書もないのかしら」
朱羽は細い眉を上げて、可笑しそうに笑いだす。
「履歴書……あぁそうか。すみません、持ってなくて」
そんな基本的なことも抜けていた自分が急に恥ずかしくなって、龍之介は立ち上がる。
「やっぱり俺、出直してきます!」
けれどソファを離れようとした龍之介を、「待って」と朱羽が引き止めた。
「そんなの後ででいいわ。とりあえず名前と携帯の番号を書いて貰ってもいい?」
「それでいいんですか?」
「えぇ」
花柄のティカップを置いて朱羽は立ち上がる。コピー機の横から引き抜いた紙と、ペン立てにあったボールペンを龍之介の前に並べた。
申し訳ない気持ちで龍之介はソファへ腰を落とし、言われるままにペンを滑らせる。
「へぇ、龍之介って言うんだ。カッコいい名前。あ、けど一応仕事だから、苗字で呼ばなきゃね。相葉くんでいいかしら?」
「下の名前でお願いします! それで、俺にも名前で呼ばせて下さい!」
耳まで火照らせて、龍之介は衝動的に願望を叫ぶ。朱羽はその勢いにびっくりした顔をした。
「じゃあ、龍之介……じゃなくて、龍之介くん?」
「龍之介で!」
「分かったわ。じゃあ、龍之介ね。私の事も朱羽でいいわよ。みんなそう呼んでくれるし」
「やった! 朱羽さん、ありがとうございます!」
彼女にとって、そこに大した差はないようだ。
龍之介は破顔して、彼女が口にした音の響きを堪能した。そして興奮を抑えようと、残り少ない紅茶を飲み干す。
「この部屋はアルガスの一部ってことになるんですか?」
「一応そういうことになるのかしら。けど私の自宅も兼ねてるし、下請けくらいに考えてくれて構わないわよ」
「へぇ……」
龍之介は大きく頷いて、その部屋を見渡した。
今座っている応接セット以外に机や本棚があって、トイレか何かの扉が出入り口とは別に三つあった。
朱羽が「そこは私の部屋だから、入っちゃ駄目よ」と木の扉を指差すと、今度は仕事について説明を始める。
大まかに言えば、ここで朱羽の補佐をして欲しいとのことだった。書類整理からお茶出し、掃除、言い方を変えれば雑用係。夏休みは平日午後で、学校が始まったら放課後。バイト代はカフェの時より少し高く、龍之介には申し分のない内容だった。
それに対して面接で龍之介が話したことと言えば、家がピアノ教室だということや、好きな食べ物は甘いものだとか、仕事とはあまり関係のないようなことばかりだった。ここから本題かと思ったところで、朱羽は「じゃあ、明日から来てくれる?」とあっさり採用を決めてしまう。
「俺の事雇ってくれるんですか?」
「えぇ。今日は日曜日だし、明日からって思ったんだけど。都合悪いなら、別の日からでもいいのよ?」
「いえ、俺暇なんで! 明日から来ます!」
嬉しさに立ち上がろうと腰を浮かせたところで、龍之介は視界の端にチラつくさすまたに再び目を止めて、そのままのおかしな姿勢で固まってしまう。
「あの、朱羽さんはキーダーなのに、どうしてここに居るんですか?」
漠然と気になった疑問を口にすると、朱羽は苦笑して立ち上がった。
「確かに、何でって思うわよね」
朱羽は向かいのソファに座ると、まず自分の話をしてくれた。
彼女と二人きりになった途端、『変なことしたら許さない』という美弦からの忠告が心に響いて、龍之介は鳴りやまない心臓の音を隠すのに必死だ。
勿論、そんなことをする気はないけれど。
部屋も空気も匂いも、いつも感じているものとは全く違う。
狭い部屋で二人きりというシチュエーションに心が乱れそうになるのを、怒り顔の美弦を思い出して必死に抑えつけた。
彼女の名前は矢代朱羽。
キーダーはアルガスに居るものだと思っていたが、彼女はここで一人で資料整理を中心とした事務仕事をしているらしい。
棚にはファイルがびっしりと入っていて、パソコンもノート以外にやたら古そうなデスクトップが部屋の隅に鎮座している。
「そういえば、仕事は辞めちゃったの? あのお金はバイト代だったんでしょ?」
「はい。あの日が最後のバイトだったんです」
「そうなの」と言った朱羽は、それが喫茶店のバイトだと聞いて驚いた顔をした。
「仕事、全然違うけど大丈夫?」
「はい、何でもします! けど俺、仕事内容とかちゃんと読んでなくて。ここでは何をすればいいんですか? キーダーやアルガスのことも詳しくは知らないんです」
龍之介は頭を下げて、朱羽の淹れた不思議な味の紅茶を何度も口に運んだ。
「そうなの? じゃあもしかして、履歴書もないのかしら」
朱羽は細い眉を上げて、可笑しそうに笑いだす。
「履歴書……あぁそうか。すみません、持ってなくて」
そんな基本的なことも抜けていた自分が急に恥ずかしくなって、龍之介は立ち上がる。
「やっぱり俺、出直してきます!」
けれどソファを離れようとした龍之介を、「待って」と朱羽が引き止めた。
「そんなの後ででいいわ。とりあえず名前と携帯の番号を書いて貰ってもいい?」
「それでいいんですか?」
「えぇ」
花柄のティカップを置いて朱羽は立ち上がる。コピー機の横から引き抜いた紙と、ペン立てにあったボールペンを龍之介の前に並べた。
申し訳ない気持ちで龍之介はソファへ腰を落とし、言われるままにペンを滑らせる。
「へぇ、龍之介って言うんだ。カッコいい名前。あ、けど一応仕事だから、苗字で呼ばなきゃね。相葉くんでいいかしら?」
「下の名前でお願いします! それで、俺にも名前で呼ばせて下さい!」
耳まで火照らせて、龍之介は衝動的に願望を叫ぶ。朱羽はその勢いにびっくりした顔をした。
「じゃあ、龍之介……じゃなくて、龍之介くん?」
「龍之介で!」
「分かったわ。じゃあ、龍之介ね。私の事も朱羽でいいわよ。みんなそう呼んでくれるし」
「やった! 朱羽さん、ありがとうございます!」
彼女にとって、そこに大した差はないようだ。
龍之介は破顔して、彼女が口にした音の響きを堪能した。そして興奮を抑えようと、残り少ない紅茶を飲み干す。
「この部屋はアルガスの一部ってことになるんですか?」
「一応そういうことになるのかしら。けど私の自宅も兼ねてるし、下請けくらいに考えてくれて構わないわよ」
「へぇ……」
龍之介は大きく頷いて、その部屋を見渡した。
今座っている応接セット以外に机や本棚があって、トイレか何かの扉が出入り口とは別に三つあった。
朱羽が「そこは私の部屋だから、入っちゃ駄目よ」と木の扉を指差すと、今度は仕事について説明を始める。
大まかに言えば、ここで朱羽の補佐をして欲しいとのことだった。書類整理からお茶出し、掃除、言い方を変えれば雑用係。夏休みは平日午後で、学校が始まったら放課後。バイト代はカフェの時より少し高く、龍之介には申し分のない内容だった。
それに対して面接で龍之介が話したことと言えば、家がピアノ教室だということや、好きな食べ物は甘いものだとか、仕事とはあまり関係のないようなことばかりだった。ここから本題かと思ったところで、朱羽は「じゃあ、明日から来てくれる?」とあっさり採用を決めてしまう。
「俺の事雇ってくれるんですか?」
「えぇ。今日は日曜日だし、明日からって思ったんだけど。都合悪いなら、別の日からでもいいのよ?」
「いえ、俺暇なんで! 明日から来ます!」
嬉しさに立ち上がろうと腰を浮かせたところで、龍之介は視界の端にチラつくさすまたに再び目を止めて、そのままのおかしな姿勢で固まってしまう。
「あの、朱羽さんはキーダーなのに、どうしてここに居るんですか?」
漠然と気になった疑問を口にすると、朱羽は苦笑して立ち上がった。
「確かに、何でって思うわよね」
0
お気に入りに追加
4
あなたにおすすめの小説

九尾の狐に嫁入りします~妖狐様は取り換えられた花嫁を溺愛する~
束原ミヤコ
キャラ文芸
八十神薫子(やそがみかおるこ)は、帝都守護職についている鎮守の神と呼ばれる、神の血を引く家に巫女を捧げる八十神家にうまれた。
八十神家にうまれる女は、神癒(しんゆ)――鎮守の神の法力を回復させたり、増大させたりする力を持つ。
けれど薫子はうまれつきそれを持たず、八十神家では役立たずとして、使用人として家に置いて貰っていた。
ある日、鎮守の神の一人である玉藻家の当主、玉藻由良(たまもゆら)から、神癒の巫女を嫁に欲しいという手紙が八十神家に届く。
神癒の力を持つ薫子の妹、咲子は、玉藻由良はいつも仮面を被っており、その顔は仕事中に焼け爛れて無残な化け物のようになっていると、泣いて嫌がる。
薫子は父上に言いつけられて、玉藻の元へと嫁ぐことになる。
何の力も持たないのに、嘘をつくように言われて。
鎮守の神を騙すなど、神を謀るのと同じ。
とてもそんなことはできないと怯えながら玉藻の元へ嫁いだ薫子を、玉藻は「よくきた、俺の花嫁」といって、とても優しく扱ってくれて――。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
終焉の魔女の暇乞い
雲井咲穂(くもいさほ)
キャラ文芸
「――私の仕事は、生きている人のためにこそあります。」
シェイリーンは葬送を担う黒衣の魔女である。
魔術協会に属すが、とある事情から護衛騎士が見つからず、閑職をほしいままにしていた。契約の縛りはあと半年。それが終われば自由の身だと、残された日々を緩やかに過ごすだけだと思っていたのだが、穏やかな日常は呆気なく崩れ去ることになる。
遺跡の調査に行っていたはずの調査隊が魔物によって壊滅し、先輩の黒衣の魔女が攫われた。事態を憂いた協会は塔の魔術師と協力して事態の収拾にあたるようにとシェイリーンに任務を下す。護衛騎士を欠いたまま、敵意を剥き出しにする同僚や厄介な塔の魔術師と協力し、調査を続けていくのだが――。
命の中に自己を問い直す、シリアスダークファンタジー。
金沢ひがし茶屋街 雨天様のお茶屋敷
河野美姫
キャラ文芸
古都・金沢、加賀百万石の城下町のお茶屋街で巡り会う、不思議なご縁。
雨の神様がもてなす甘味処。
祖母を亡くしたばかりの大学生のひかりは、ひとりで金沢にある祖母の家を訪れ、祖母と何度も足を運んだひがし茶屋街で銀髪の青年と出会う。
彼は、このひがし茶屋街に棲む神様で、自身が守る屋敷にやって来た者たちの傷ついた心を癒やしているのだと言う。
心の拠り所を失くしたばかりのひかりは、意図せずにその屋敷で過ごすことになってしまいーー?
神様と双子の狐の神使、そしてひとりの女子大生が紡ぐ、ひと夏の優しい物語。
アルファポリス 2021/12/22~2022/1/21
※こちらの作品はノベマ!様・エブリスタ様でも公開中(完結済)です。
(2019年に書いた作品をブラッシュアップしています)
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
オレは視えてるだけですが⁉~訳ありバーテンダーは霊感パティシエを飼い慣らしたい
凍星
キャラ文芸
幽霊が視えてしまうパティシエ、葉室尊。できるだけ周りに迷惑をかけずに静かに生きていきたい……そんな風に思っていたのに⁉ バーテンダーの霊能者、久我蒼真に出逢ったことで、どういう訳か、霊能力のある人達に色々絡まれる日常に突入⁉「オレは視えてるだけだって言ってるのに、なんでこうなるの??」霊感のある主人公と、彼の秘密を暴きたい男の駆け引きと絆を描きます。BL要素あり。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる