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8章 刻一刻と迫る危機

76 その白いヤツを例えるならば

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「分かったわ。ゼストもカナの為に死んじゃ駄目よ?」

 ゼストに人差し指を突き付けたメルは、俺たちに「行くわよ」と合図して、バルコニーから部屋へ戻った。
 「敵わねぇな」と額に手を当てるゼストと「じゃあ」と目で言い合って、俺はメルを追い掛ける。

 自画像を一瞥いちべつするヒルドの手前で、俺は「ちょっと待って」と慌てて足を止めた。
 棚に置いておいた、クラウに貰ったコーラのペットボトルをジャケットのポケットにねじ込んだ。これのお陰で俺は今こうして生きている――だから、これがもう一度俺を助けてくれるような気がした。

 視界の隅で、ゼストがバルコニーの柵を軽々と飛び越えて、颯爽さっそうと庭に下りていく姿が見えた。ここは二階なのにと思わず叫びたくなるが、魔王親衛隊の彼ならきっと日常茶飯事なのだろう。

 俺は「ユースケ」と急かすヒルドに「悪い」と謝って、走り出そうとする二人に駆け寄った。

 派手な戦闘音が遠くに響くが、暗がりの廊下は夜の学校を彷彿ほうふつとさせる程に静まり返っていた。
 緊張と恐怖がつのるが、メルとヒルドが一緒に居るお陰でどうにか落ち着いていられる。
 ゼストやヒルドが言うように、なるべく戦わずしてこの戦場を突破したい。俺自身が戦いたくないというのもあるが、誰かの敵になってしまうかもしれないメルのリスクも避けたかった。

 一階に下りたところで、メルは俺の知らない方向へと折れる。
 急に細くなった廊下を奥へ奥へと進み、誰も居ない厨房に入り込んで、勝手口らしき小さな扉を指差す。

「ここは施錠せじょうされていない事が多いから、さっきはここから入り込む予定だったの」
「まさかその前にユースケと会えるなんて、僕も思っていなかったけどね」

 ヒルドの声が暗がりにやたら響いて、俺とメルが申し合わせたように「シッ」と人差し指を立てた。
 「ごめんごめん」とヒルドは囁きながらジェスチャーを返す。

 窓にはシャッターが下りていて、唯一勝手口の扉にはめられたりガラスも、黒い夜の色が見えるだけだ。
 メルは俺たちを手招きすると、顔を寄せて声をひそめた。

「いい? ここを出たら、向かって左の塀に沿って中央廟ちゅうおうびょうの方向へ走って。庭の半分くらいまで行ったところに古い木が鬱蒼うっそうと生えている場所があるから、そこに飛び込むのよ」
「そこが?」
「狭くて枝が刺さって来るから、ユースケも気を付けてね」

 来る時に一度通っているヒルドは、しかめっ面でおかっぱ髪を整えながら、その時の状況を再現して見せた。

「地面に、地下へ潜る扉があるのよ。そこから中央廟の外側まで通じているわ」
「中央廟まで行けるなら、女の子たちも一緒の方が良かったんじゃねぇのか?」

 彼女たちが目指す場所こそ、中央廟だと言っていた。けれど、厳しい表情を見せたメルの横でヒルドが「それは難しいのかもしれないよ」とうなる。

「何で?」
「僕たちは特別なんだよ。あくまでその道は『前王メルーシュ』の知る特別な道だからね」

 自分も『特別だ』と言わんばかりに鼻高々に言うヒルドだが、メルも否定はしなかった。

「クラウさえ知らなかった道なんでしょ? 大っぴらにしたくないんじゃないかな」
「こんな時なのに? 俺とヒルドは良いっていうのか?」
「特別って言うより例外かしら。私はもうここで意見できるような力はないのよ。こういう時だからこそ、従いましょう」
「親衛隊は、女の子たちを見捨てたりしないよ。あの人たちの強さはそこらの戦師の比じゃないからね。信じてあげて」
「そうよ、まずは私たちも生き残らなきゃ話にならないもの」

 メルはくるりと俺たちに背を向けて、そっと扉を開いた。
 今まで遠くにあった戦いの空気が、いきなりすぐ側まで移動してきたような感覚。
 音の大きさに驚いて、俺は全身をビクリと震わせる。
 庭に下りて、後ろに付いたヒルドが扉をそっと閉めた音が響いた。

 セルティオはどんなモンスターなのだろうか。
 予備知識として二人に尋ねようとしたとき、目の前を歩いていたメルが足を止めて、俺は剣をしょった小さな背にぶつかりそうになってしまう。

 百聞は一見に如かずとは言うけれど。
 突然現れた一匹のモンスターが、壁のように俺たちの行く手を阻んだのだ。

 モンスターを目にしたのはこれで何度目だろうか。
 山で見たカーボや、ジーマの時とはまた違う形状だ。
 初めて見る二足歩行の巨体は、メルどころか俺たちの背をも裕に超えた高さから俺たちを見下ろしていた。

 うつろに光る赤い瞳は、メルが変化した時と似ている。
 ここにモンスターは一体しかいないのに、圧迫感に息が詰まった。
 白熊と表現するべきか、イエティ……いや、雪ダルマと表現すべきか。闇に浮かぶ白い身体には長い2本の脚が付いているのに、手や翼らしきものが全くないのだ。
 表面は毛ではなく、硬そうな皮膚で覆われている。
 手がなくて何ができるというのか。

「セルティオだぁ」

 怯えるヒルドの声と同時に、メルが剣を抜く音が耳をかすめていく。
 セルティオの巨体を前に、俺はメルを庇って男らしく戦いたいと思った。それなのに、気持ちよりも身体の方が俺の深層心理を理解しているらしい。
 つかを握りしめた手は剣を引き抜こうとはせず、俺は腰に手を添えたまま恐怖に突っ立っていることしかできなかった。
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