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第16話・大口

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「今日は皆、様子見みたいです」

 知り合いとの雑談にも飽きたのか、従業員がブースに戻ってきて、そんな事を言う。
 東証の立会場、10時50分。
 昨日と同様に参加者達の声で騒々しい。

「そうか……」

 インカムを付けっ放しの売り方、ブースの椅子の上で電光掲示板を見つめたまま生返事を返す。
 日経平均は、昨日のWTIの誤表示騒ぎの後の、高値のままで安定していた。
 ただ積極的な売買は少なく、薄商いの横這いで推移している。

「でもまだ、注目はされていますよ」

 隣に置いてある椅子に座りながら、従業員。
 昨日の大暴れは、売り方に興味の無かった者にまで強烈な印象を残していた。

「そうか……」

 しかし、注目され過ぎるのもやり難いものだ。
 売り方は、昨日の売買を思い出してウンザリした。

「……今日は昼までヒマですね」

 生返事の連続に、少し首を傾げて。
 この日は、小口からも大口からも注文は入っておらず、後場の寄りに予定されている、昨日の生保からの売りが全てだった。

「そうだな……」

 生保の売りに関して売り方は、余り急ぎ過ぎない方が良いと意見を述べていた。
 昨日の、初老の買い煽りが今日も続くと考えていたのだ。
 だが証券会社も客商売。
 山師の、客の注文は絶対だの言葉で、この日の注文は昼までに生保側で決める事になっていた。

「ひょっとして、お疲れですか?」

 売り方の顔を覗き込むようにして。
 昨夜の交渉には従業員も参加していた。
 だが、証券業を営む者にとっては、夜の10時など宵の口。しかもそれで帰宅できるなど残業が無いも同然。
 事実、昨夜の従業員は交渉後に同僚達と連れ立って飲みに行ったのだ。

「まあな」

 誤魔化しても仕方ない。売り方は正直に答えた。
 しかし、流石に病院での出来事は話さなかったが。

「昨夜と今朝の雨で、風邪でも?」

 雨は降り続いていた。
 山師の地場証券にタクシーで出社した売り方は、従業員と共に、雨の中を走って東証に来ていた。
 荷物を持っていたので、傘を使えなかったのだ。

「いや、それは平気だ」

 片手を振って。
 だが本音では、かなり辛かった。
 昨夜は、一人っきりのマンションの部屋の中で、少女や青年の事が頭の中を回り続けてロクに眠れなかった。
 その為この日は朝早く病院へ行き、院長から気付けの薬を貰って来ていたのだ。

「ホントですか? 顔色が悪そうに見えますが」

 心配そうに、従業員。
 熱を測ろうと思ったのか、売り方の額の辺りに片手を伸ばしてくる。
 が、そこで11時になった。前引けだ。

「いや、大丈夫だって」

 従業員の手を押し戻して、売り方。
 少女は病室に戻っていた。多くの機械と共に。
 薄暗い中に浮かぶ、顔の、紙の様な白さは変わっていなかった。
 それに対し、付きっきりだったのだろう、ベッドサイドで椅子に座る青年の横顔は、僅か一晩しか経ってない事が信じられないほどに衰弱したものだった。

「しかし、ありがとうな」

 青年に休む様に言おうとしたが、昨夜の会話を思い出し、それは止めた。
 今の自分は、他人から見れば青年と同じ様に見えるのだろう。
 事情を知らない従業員の気遣い。
 事情を知らないからこそ、純粋な善意から来ている行為。
 売り方は、素直に感謝の言葉を述べた。

「では、今日も上の食堂へ?」

 椅子から立ち上がって、従業員。
 30絡みの年齢とはいえ、場立ちとして山師にスカウトされただけあって、ごつい体格をしている。仕事の調子も良いので、さぞかし腹も減るだろう。

「いや、俺はこれが有るからな」

 売り方は、テーブルの下に置いてある荷物を指し示した。
 食欲など有る筈もなかった。

「ああ、お昼は買って来られたんでしたね」
「そうだ。だから上行って好きなものを食ってきな」

 荷物は、地味なショルダーバッグと、もう一つ。
 売り方は、ショルダーバッグの中からコンビニのおにぎりを出して見せた。

「オジさんは、脂っこいものは苦手なのさ」

「昼食後、昨日と同じく一旦社に戻ってからまた来ます」

 納得した風で、ブースから離れる従業員。
 そしてすぐに、立会場から出て行く他社の場立ち達の中に紛れた。

「さてと……」

 人気の少なくなった立会場。
 売り方は、おにぎりを買っていた紙パックのジュースで、腹の中に押し込む。
 ゴミをショルダーバッグに入れ、代わりに病院の名前が印刷されている、小さな紙袋を取り出した。

「目を覚まさせてくれよ」

 それはカプセルと錠剤だった。
 カプセルが気付け薬、そして錠剤は胃薬だ。
 かなりキツい薬なので必ず胃薬と一緒に服用する様に、と院長から言われていた。
 売り方は、その脅しめいた注意に寧ろ期待を膨らませていた。

 カプセルと錠剤を各々一錠ずつ口に放り込み、残っていたジュースで流し込む。
 そしてそのジュースの空き箱もショルダーバッグに入れ、一緒に持って来ていたバイオリンケースの横に置き直した。

 時刻は11時15分。立会場内は、前場の残務が終わったのか、カウンターの前も中も無人になっている。
 ブースにも売り方含めて数人しか残っておらず、照明も半分ほど落とされ、静かで薄暗くなった。

 テーブルの下のバイオリンケースを見ながら、今朝の事を思い出す。
 基本的に、立会場への私物の持込は禁止されている。売り方もそれは知っていた。
 増してや、楽器などと株の売買には凡そ必要のない物の持込など。
 
 だが、初老と売買をするには無手では話にならない。
 昨日の、初老とのやり取りでそれを痛感していた売り方は、守衛との押し問答を覚悟の上でそれを持ち込んだのだ。

 だが、会員出入り口の守衛は、あっさりと売り方を所内に通した。
 そういえば、と売り方は思い出す。横に並んで歩いていた従業員もバイオリンケースを気にしていない様子だったと。それよりも遥かに小ぶりなショルダーバッグには興味を示していたのに。

 考えてみれば、不思議なバイオリンだった。
 見る人が見れば、莫大なカネを積んでみせるほど価値が有る様に。
 しかし見せたくない時は、まるで其処に何も無いかの様に存在感を失う。
 自分の魂、多分その一部。
 悪魔に売っていた時には、心が空虚になった実感があった。

 もし、初老に売ったとしたら、恐らく二度と戻って来ないだろう。
 あの神界めいた雰囲気と、それから繰り出される相場操縦の技。
 そんな存在が、一旦買ったものを易々と手放すとは思えない。まして僅かな儲けでは。
 そして自分は、他人の心の機微すら読めない男になって、余生を送る事になるだろう。

 だがそれでも、と売り方は思った。
 少女を治すのに必要なものは、生半可な手段では手に入れられない。なんせそれは、この世には無い物なのだから。
 それがクスリであれ、他の何かであれ、その為の対価にはそれ相応のモノが必要になるだろう。それに対してこのバイオリンには、充分な価値が有ると思える。

 売れるものが有るのなら、迷わずに売るべきだ。
 その結果、自分が不具者になったとしても。

 電光掲示板内の時計が、11時30分を指した。
 服用した内、胃薬の方が先に効き始めたのか、売り方は胃の辺りが軽くなってきたのを感じていた。
 そして、椅子に座ったまま腕組みをし、初老の登場を待った。

 11時40分。
 静かな立会場に、初老は未だ姿を現さない。

 待つ間、売り方は昨日の事を思い出していた。
 客の注文とその執行。
 唐突な初老の登場と、皮肉な言動。
 後場での、WTI原油価格の誤表示と、それに伴なう相場展開。

 11時50分。
 昼食を終えた場立ち達が帰って来始める。
 立会場に、騒がしさが戻ってきた。

 売り方は、目を閉じて思い出している。
 客のカネで手張りしてしまっていた事。
 それに気付き解消する際に現れた初老の謎の行動。
 昼休みの際には楽器演奏などした事は無いと言い張っていた。
 しかし昨日の後場のあれは誰がどう見てもチェロの独奏。
 それも超人的なテクニックとアドリブのセンス。
 それを思い出し気持ちと体が落ち着いていく。
 そして徐々に思考が低下していく感覚……

 そこで売り方は気付いた。
 あれは気付け薬などではなかったのだと。

(最近の気付け薬とは、単なるビタミン剤の事なのですか?)

 キツいクスリだと言った院長の姿を映していた売り方の瞼の裏に、いきなり初老が現れた。

(とまれ、御自愛下さい)

 驚いて目を開けようとするのよりも早く、初老は背を向けて何処かへ消えて行った。

「おい、ちょっと待て」

 目を覚ます売り方。
 そこへ、場電が着信を報せる。

『おい、大丈夫か?』

 山師だった。
 従業員から売り方の不調を伝えられ、心配しているとの事だった。

「ん……あぁまあ」

 売り方は、インカムのコードに気を付けつつ、椅子から立ち上がって背伸びをした。

「少し寝て、ちょっとマシになった」

 背中に甘い痺れを感じつつ、腕時計で時刻を確認する売り方。12時10分。
 従業員は、まだ立会場に着いていない様だった。

『そうか、あまり無理すんなよ』

 山師は、朝にも売り方の体調が優れない事を見抜いていた風だったが、何も言わなかった。
 事情を説明出来ない売り方には、それが有り難かったが。

『と言った直後になんだが、大きな注文が入った。一気に売りさばいてくれ』

 有り難くない事を告げられた。

「大きな? 生保か? 当面売りは危険だと昨日言った筈だが」

 売り方の予想通り、今日は薄商いに終始していた。初老の存在を置いておくとしても、今日の様な状態で大きな売りを出すのは拙い。担がれる典型的なケースだからだ。

『昨日も言った通り、客の注文は絶対だ』

 売り方は、急に耳が痛くなった。

『それにな、昨日のオマエの活躍。アレですっかり舞い上がってるんだよ、連中は』

 そこへ、従業員がブースに戻って来た。
 売り方は、注文票を見せるようにゼスチャーをした。

「おい、なんだこりゃ」

 従業員は、注文票を30枚出した。
 しかもそれらは、全て違う銘柄で且つ大きな枚数だった。総金額は、ざっとの概算でも11桁の中盤といったところか。
 流石に大手生保の運用株。昨日の大口の10倍は早い。

『ああ注文票見たのか。それでも彼らの持ち株の、1割にも満たないんだがな』

 何故か得意げな山師の口調。

『一気に捌くには後場寄りで成り売りしかないだろ』
「ああ、分かった。但し全ての銘柄を先ず半数成り売る」

 従業員に注文表を15枚戻す。

『おいおい、30銘柄で仕手戦やろうってのか? それも一人で』
「そんな無茶はしないさ。適当に指し値で出しとく」
『しかしな』

 オマエは体調が優れないだろ、という言葉を堪えた感じが売り方に伝わる。
 此処は鉄火場なのだ。個人の事情は後回しにすべき。

「時間が無い。とりあえず半分の成り売り注文を出さなければならない」
『分かった。……無理するなよ』
「了解。……ありがとう」

 インカムをテーブルに置く売り方。
 従業員は、手際良く注文票の枚数を書き換えていた。
 その15枚を貰い、自分の持っていた注文票を従業員に渡す。

「こっちも同じ様にしてくれ」

 そして、二人がかりでカウンターに注文を出していく。
 売り方が忙しそうにしてるのを他社の場立ちが気付き、内容を確かめようとカウンターの前に集まってくる。
 そして連絡員との手サインの応酬。
 この日の後場は、寄り前から場中さながらの熱気に包まれた。

 そして売り方と従業員は、全ての成り売り注文を出し終えた。
 とりあえずブースに戻る従業員。
 しかし、其処に売り方の姿は無かった。

 売り方は、最後の注文を出したカウンターの前で後場の地合いを予想していた。
 そして同時に昨日の事も思い出した。
 初老の登場。
 自分の呼びかけに応えたものだと、彼は言っていた。
 それは、相場の流れや値の先読みに絡んで起きる、一種のテレパシーの様なものなのかと。

 カウンターの中で、変わらずブラウンのジャケットを着た、薄い存在感の銀髪の男性が売り方を見て言った。

(御注文をどうぞ)


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