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第15話・蹉跌
しおりを挟むモーターか何かの、低周波の音が微かに聞こえる室内。
横に広く、薄暗い。簡素な丸椅子が数脚と、白衣の青年医師が一人。
部屋の中ほどに大きなガラスの仕切り。
その向こう側も薄暗いが、広く、ベッドが4台と、各々に何かの大きな機器が有る。
ベッドは3台が空きだった。
仕切りの向こう側の方が暗いせいか、ガラスが鏡の様に、椅子に座ってベッドを見つめる青年を映している。
彼の背後には壁と引き戸。それがゆっくりと開かれる。
「随分遅かったですね」
青年が背中で話しかける。
部屋に入って来たのは売り方。青年を無視してガラスの仕切りの前に立つ。
「…………」
1台だけ使われているベッドの上を凝視する。
足先から首の辺りまで掛けられたリネンの包布。その上に出された左腕。それにチューブが刺さっている。単なる点滴と違うのは、そのチューブがベッドの横の大きな機械に繋がっている事だ。
「ああ……」
青年に返答したのか、ベッドの上の様子に対する感想なのか、或いはその両方か。
首から上、口元には酸素吸入用と思しき半透明のマスク。それも横の機械に繋がっている。
ごく自然に閉じられた瞼。長い睫毛。枕の上に広がるボブテイルの黒髪。
売り方は、シーツの胸の辺りが微かに上下しているのを認めた。
「何故、ポケベルの電源を?」
青年も、ベッドの上を見つめながら話す。
焦燥しきった横顔。
細いメタルフレームの眼鏡にかかった解れ髪が、それに拍車を掛ける。
「……院長室に寄ってから来た」
ベッドの上、リネンの象牙色と雪の様に白い肌、黒い髪。
売り方は、それらの対比を日本人形の様だと思った。
出番が済んで、箱に入れられて、何処かに仕舞われる寸前の。
リネンはさしずめ、緩衝材代わりの無垢の和紙といったところか。
「そ、そうですか」
院長の件は重要な事柄だったのか、少し動揺を見せる青年。
「もっとも、連絡がついて来て下さっても、その時点では既に……」
いま言っても仕方ない事に気付いたか、言いながら俯く青年。
「一時危篤状態だったそうだな、よく救ってくれた」
売り方は、心中で自分を罵っていた。
何が仕舞われる寸前の人形だ。
少女は、まだ生きている。少なくともその体は、この世に留まろうと必死の抵抗を見せているではないか。
経緯は兎も角、いま周囲に居る健常な自分たちが助けてやらないでどうする。
「あ、いえ……」
またも予想外の言葉に、不意を突かれる形の青年。
だがすぐに、売り方が自分の迷走を引き戻してくれた事に気付いた。
「まだ予断は赦さない状況です」
視線を再び少女に戻した。
「結局、どのくらいの間、倒れていたんだ?」
「あ……、屋上に上がったのが何時の頃なのか、分かっていませんので」
ここで、青年は初めて売り方を見た。
「これは、病室の有る階の、エレベータホールの電話から掛けてきたものだ」
売り方は、スーツのポケットからポケベルを取り出して、青年に見せた。
最後の受信記録。時刻は12時58分。
「おそらく、これを送った後に、屋上に上がったのだろう」
「これは……誰か別の人が掛けた、間違い電話なのでは?」
「ポケベルで間違いや混信なんて聞いた事が無い。この番号を知っているのは数人で、今朝キミに伝えた時は、この娘も背後に居たからな」
青年の横顔を見ながら、売り方。
「そ、そんな……」
もう充分だろうと、ポケットに戻そうとしたポケベルを青年の手が掴む。
「私には、何も伝えてくれなかったのに」
おそらくは、この6桁の暗号の意味も知っているのだろう。
尚もポケベルの表示を凝視し続ける青年。
「問題は、その前の通信が、500731だったって事だ」
「え……?」
ポケベルから視線を外し、売り方を見ながら数字の意味を探ろうとする青年。
そして、すぐに思い当たった。
「それじゃ、彼女は」
「忙しいところにゴメンナサイ、という意味かと思っていた。しかし、この状況ではな」
そう言って、今度こそポケベルをポケットに戻す売り方。
「屋上に行ったのは、やはり……」
視線を足元に落とす青年。
まるで10階建ての屋上から地面を見る様な、恐怖のこもった目で。
「恐らくはな」
確かに、昇りきった後は下に行くしかない。そして、落ちる時の方が早い。
売り方は、それを決めた際の、少女の心を想像した。
それは、売り方の心を暗澹に染めた。
「日光を長時間見続けて、それで視神経から脳へ多大な負担が掛かり、その場に卒倒したのだと思います」
足元から少女の方へ視線を戻して、青年。
「外傷は?」
「幸いにも無傷でした。いえ、全然幸いなんかじゃありませんが」
「不幸中の幸い、って言葉が有るだろ」
「…………」
「それで、見つかったのが一時半頃だったと? なら倒れていたのは長くても30分というところか」
「そういう事になりますね……」
二人は少女の方を見ながら話した。それ故に視線が交わることも無く。
「いまは、どういう事をしてるんだ?」
売り方が、本題に入るべく話題を振る。
視線は少女に向けたままだ。
「今は血液の透析を行なっています。が……」
言いながら俯く青年。片手で額を押さえる。
「……やはり、私の所為だ」
俯き、乱雑に髪を掻きむしる。
「院長は、キミの判断と手際を褒めていたぞ」
売り方は、少女の方を見ながら淡々と続ける。
「この知識とセンスが有れば、希望通り循環器系の名医になれるだろうと」
「そんな事はありません、買い被りです」
自嘲する様に。
「私は医師失格ですから」
床に向かって言った。
「院長は、キミの事を赦してやってくれとも言っていた」
売り方は、青年の自虐の理由を知っていた。
そしてそれは、言い出し難い事なのも。
「私のした事は、決して許されるものではありません。ですから――」
その続きを言わさない様に、売り方は青年を見て、一枚のメモ用紙を突きつけた。
「ベッドの下に落ちていた」
まるで自分に見せる為に、わざとそこに残してあったかの様に。
しかし、売り方はそれを言わなかった。言うと、ナースかその他の関係者か、兎に角そこにメモ用紙を放置した者の気遣いが無駄になると思ったからだ。
「こ、これは……」
その紙には、死ぬ前に女になりたいという意味の事が書かれていた。
小さく拙い少女の字で。
「一つ、いや、場合によっては二つ教えてくれ……キミはこの娘を抱いたのか?」
メモ用紙をスーツのポケットに戻しながら。
「え……」
逡巡する青年。
「どうなんだ?」
詰め寄る売り方。
「……抱きました」
観念した様に青年。
瞬間、頭に血が上る売り方。反射的に青年を殴ろうとする。
しかしその時、目の前に少女が立ちはだかった様に見えた。
青年を守る様に両手を広げ、悲しげな表情で売り方を見て。
それは勿論、売り方の一瞬の錯覚。少女はチラと見たベッドの上に今も寝ている。
「ふむ、では二つ目だ。それは医療行為の一環だったのか、それとも純粋にこの娘を抱きたかったから抱いたのか?」
あんな幻を見る様では、まだ青年を殴るには理由が弱いと、深層では思っているのかもしれない。そう考えた売り方は、更に青年を問い詰めた。
俺を本気で怒らせて、オマエを殴らせろと。
「えっ…………」
絶句する青年。その質問の意味するところが、すぐには理解できなかったのか。
「どっち、だ?」
荒々しく青年の白衣の胸元を掴み、椅子から立ち上がらせる売り方。
返答次第では……という体勢だ。
「ど、どうしても答えなければなりませんか?」
動揺が収まらない青年。答えに迷っているのが明らかだった。
そしてそれは売り方の苛立ちを呼んだ。
嘘を吐くのは罪だからだ。
「当然だ」
待った無しを告げる売り方。
さあ答えろと言わんばかりに、青年を手前に引き寄せる。
空いている右手は拳の形。もし医療行為だと言おうものなら。
「わ、私は……」
殴られる事を覚悟したのか、青年は売り方から目を逸らして。
「この娘が好きなのです! 医師である前に一人の男として!」
そう言って、眼鏡を外し、目を閉じ口を閉じて顎を引いた。
「……そう、か」
気の抜けた様な声。
売り方は、言った直後に青年を突き放した。
青年の意外な答えに、売り方は次の行動を決めかねたのだ。
殴られる事を意識していた体勢から重心を崩され、簡単に尻餅をつく青年。
近くに有った椅子が、青年の腕に巻き込まれ、派手な音を立てて倒れた。
「それで、米国へ転院しろと言ったんだな」
無表情で問い掛けながら、歩み寄る売り方。
蹴りを入れるには最適の間合いだ。
「い、いえ、それは違います! その時は未だ」
近くの椅子に掴まり、立ち上がろうとするとする青年。
しかし、倒れた椅子では、青年の体重を支えるにはバランスが悪過ぎた。
青年は、椅子を突き飛ばす形で、再び倒れてしまう。
「まだ? まだその時は少女が疎ましかったのか?」
「あの日、貴方がカセットテープを持って来られたあの夜。あの次の日からなのです」
「何がだ?」
「彼女の容態が安定し始めたのが、です。彼女から誘われたのは、それよりも前からでしたが」
ようやく立ち上がる青年。が、まだ足元は怪しい。
「容態が安定したから、抱ける様になったから抱いたんだな」
売り方は、ゆっくりと青年に近づいた。
「私は、貴方に嫉妬していたのかもしれません。大金持ちで、更に、難病の進行を聴くだけでくい止められる音楽を、演奏出来る貴方を」
「何を言っている?」
そして、再び青年の胸元を左手で掴む。
「私も聴かせて頂きました、あのバイオリンの演奏を。私は、自分のやってる事が如何に矮小なのかを思い知らされました」
「それは違う」
売り方には、未だにあれが自分の演奏だとは思えなかった。
少なくとも、初老のチェロの音が混ぜられているのだろう。その具体的な方法についてはまるきり不明だが。
「いいえ、違いません。病は気から、と言うでしょう。私は、私にも出来る、もっと違う何かが有るのではないかと」
「分かった、もういい」
掴んだ胸元を再び離す。
「彼女を、彼女の体を女性にする事で、ホルモンの分泌の劇的な改善を」
「もういいと言っている」
売り方は気付いた。青年は自分に殴られたがっていると。
そして、自分のミスにケリをつけたがっているのだと。
「そうです、私はそういう理屈をでっち上げて、彼女を抱いたのです。これで貴方を越えられるかもしれないと思って。自分の見栄だけの為に――」
「もう止めろ」
そんな安直な方法では、逆に自分を苦しめるだけだ。
これからも生きていく中で、自分に嘘をついた事実は、決して風化しないのだから。
いつまでも責め続けるのだから。自分で自分を。
売り方は、それこそが赦されない事だと認識した。
「だから言っているでしょう、私は医師失格だと」
さあもうこれで良いだろう、と言わんばかりに目を閉じ歯を食いしばる青年。
「分かった、それじゃ行くぞ」
拳を振り上げる売り方。
更に顎を引いた青年の横顔を目掛けて。
そして、売り方の拳は、青年の頬に軽く当てられて、すぐに離された。
「……な、何故?」
予想した衝撃が無い事に戸惑う青年。
目を開き、売り方に問い掛ける。
「死ぬ前に女になりたい、そんな事を言う女の子を抱くものではない。もし抱いてしまったなら、それは一生の約束になる。キミはその責任を取るべきだ」
売り方は、青年の目を真っ直ぐに見つめながら言った。
「殴られたからと言って、免罪符にはならないぞ」
「わ、分かりました……」
ガックリと跪く青年。
「それにな、キミが言ったんだぞ、好きだから抱いたのだと。赦す赦さないではなく、理由としてはそれで充分だから」
そして、堪えていたものが崩れた様に男泣きする。
売り方は、それを背中で聞いた。
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