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第14話・雨とポケベル

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「お客さん、証券会社の人?」

 周囲に染み付いた、タバコのえた臭い。
 間欠ワイパーの軋む音、エンジンやデフロスターの単調な低音。

「……お客さん?」

 後部座席で、腕組みをし俯いている売り方。
 ゆっくりと顔を上げる。
 前方の車のテールランプと信号機の赤が、フロントウインドウの雨粒に滲んでいた。

「着いたのか?」

 左側のウインドウを見る。
 しかし内側が曇った窓からは、夜闇と、最も左側の車線を走る車しか見えなかった。

「いえ、まだなんすけどね」

 そう言った運転手は、信号が青に変わったのを見て、タクシーを発進させる。
 高まるエンジン音と、タイヤが水をかき上げる音が車内を満たす。

 売り方は、後ろの車のヘッドライトの光に腕時計を翳した。
 22時18分。15分ほど寝ていた様だった。

「本降りになってきたんだな」

 売り方が山師の会社を出た頃は、まだ降り始めの小雨だった。
 生保の人間達は、21時頃に帰った。
 それから1時間ほど、山師と今日の反省や明日の為の打合せを行っていた。

「ええ、嫌な雨すね」

 パタパタと、リズミカルにコラムシフトを操作する運転手。
 シフトアップされ、速度を増していくタクシー。

 生保から来たのは4人で、みな重役だった。
 そして、全員が売り方の説明するインバースタイプの投信に、興味を示さなかった。
 彼らは、不良債権化する手持ちの株式の運用に苦慮していた。
 そこへ山師からの話。
 彼らは、噂に聞いた“悪夢の売り方”の、その手腕に頼ろうと考えていたのだ。

「それで、お客さんは株屋さんなんすか?」

 生保の意向は単純明快だった。
 山師は即座に頭を切替え、手持ちの株式を自社へ移動する事を提案した。
 それらの総数や期間に関しては、交渉に時間が掛かった。
 だが、その殆どは山師とその部下達の仕事だった。

「え、いや……ああ、そうだ」

 戸惑ってしまう売り方。
 山師の会社に入社してまだ日も浅く、また、交渉の最中彼は脇役状態だったので、証券会社の一員に復帰したという認識が薄かったからだ。
 しかし結局のところ、インバースタイプの投信にしても、単なる繋ぎ売りにしても、売り方が相場で売りを仕掛けるという構図に変わりは無い。

「証券会社の社員だ」

 自分に言い聞かせる様に。山師の会社の社員だと。
 その山師に、後場の初老の話はしなかった。
 信じていない人間に話しても時間の無駄だからだ。

「この不況は、いつ頃終わるんすかねえ?」

 左にウインカーを出し、車を側道に入れる運転手。
 運転に集中しているせいか、返答を期待していない、独り言の様な言い方だった。

「暫く続くと思う」

 売り方は、寧ろ正常な状態に戻る途中だと思っていた。
 不況などではなく、今までが異常だったのだと。
 だが、必ずしも下げ一辺倒というワケでもない。
 今日の後場の様な、初老のあの買い煽り(?)が明日も続くとすると、当面は売りは控えた方が無難。

「なんとか、なりませんかねえ……」

 溜息と共に、運転手。
 生保分の売りを、明日からやらなければならないとなると、売り方にはかなり苦しい展開になる事が予想出来た。

「難しいな」

 明日からの相場もまた、タフな展開になりそうだった。

 病院の裏口に到着するタクシー。
 救急入り口の庇の下に入った売り方は、タクシーの運転手に呼び戻された。
 車内に忘れ物をしていたのだ。
 それを取って、再度庇の下に駆け込む売り方。
 振り返って会釈をする。
 タクシーは、クラクションを一つ鳴らして、夜の街角に消えていった。

 冷たい雨が、黒々としたアスファルトの上で音をたてる。
 頭や肩に付いた水滴を払いながら、売り方は、今朝のリムジンでの出勤を遠い昔の事の様に思い出した。

 救急受付に病室番号と名前を告げ、病棟に入る売り方。
 この頃には、既に顔で通れる様になっていたが。

 入ってすぐ、右側の方に有るエレベーターホールを見る。
 二つ有るエレベーターの内の一つ、患者・職員用が閉鎖されている。
 それに何か不穏なものを感じた売り方は、左側の方に有る階段に向かって歩いて行く。

 こちらの方が病室に近い、という事もあった。
 が、3階を過ぎて4階に向かう辺りで、早くも後悔の念が売り方を襲った。
 疲れが溜まっているせいか、足に来る。エレベーターを使うべきだったか。
 右手に持った大きな紙の箱が、カサコソと乾いた音を立てる。

 エレベーター。山師の会社があるテナントビルの。
 小さなそれで、よくも持って来れたものだと思うほどの、大量の食べ物。
 オードブルやサンドイッチ、ソフトドリンクやケーキなどの仕出し。
 それは、交渉が長引く事を見越した山師が、レストランに注文したもの。
 もっとも、それらが山師の会社に着いた20時頃には、交渉はほぼ終わっていたが。

 “大きな商談が決まると、腹が減る”以前、山師が吐いた言葉だが、今日に限っては売り方も同意だった。
 ロクな食事をしてこなかった上に、金額の張る商談。
 その緊張から解き放たれた時、胃袋は自然に食べ物を要求してきた。

 それは生保の重役達も同様だったようで、皆がよく食べた。
 刺身やサラダ、冷めても美味しいカツレツ系統などは、羽が生えた様に男達の腹の中に消えていった。
 しかしそれでも、余った。ケーキ類は殆ど全部。
 残業を余儀なくされていた事務の女性は、喜んで持てるだけのケーキ類を持って帰宅した。
 その際、売り方に最も派手なホールケーキを押し付けて。

 やっとの体で、少女の部屋のある階に着いた売り方。
 目の前に廊下、左側にエレベーターホールとナースステーション、右側に少女の病室。

 薄暗い廊下を、右側に向いて進む。
 階段よりも更に濃くなった消毒液の匂い。
 昼間の喧騒と対照的に、耳鳴りがするほどの静けさ。
 廊下の突き当たり、少女の病室の前に着く。
 いつもの儀式の後、片手の為に、いつもより重い引き戸を開ける。
 明かりの落とされた室内。
 もう寝てるか、それなら寝顔だけ見て、という売り方の考えは無用なものだった。

 その部屋は無人だったのだから。

 廊下からの僅かな明かりに浮かび上がる、部屋の中心にあるベッド。
 その上の布団の感じは、つい今しがたまで人が寝ていた様な雰囲気を持っていた。
 慌てて部屋の明かりを点ける売り方。
 だが、明るくしたところで、状況を変化させる事が出来るわけでもない。
 ただ、少女が使っていたメモ用紙が数枚、ベッドの下に落ちているのが見えただけだ。

 売り方は棒立ちになり、持っていたケーキの箱を落としてしまった。
 取っ手の部分が開き、ケーキの上部が見える。
 その豪奢なホールケーキの上には、砂糖で作られたと思しき、小さな男女の人形が乗っていた。

 エレベーターホールへ向かう売り方。
 着いた其処で彼は、ナースではなく公衆電話を探した。
 それは、観葉植物の影に有った。
 この位置関係だと、ナースステーションからは観葉植物が遮って死角。

 売り方は、ポケベルを取り出す。
 ラストメモリを呼び出そうとしたが、電源は切られていた。
 腹の底に冷たいものが出来たのを感じながら、電源を入れ、ラストメモリを呼び出し、
目の前の公衆電話の電話番号と照合する。
 それらは、同じものだった。
 つまり、売り方や山師が間違い電話だと断じた通信は、此処から発信されたものだったのだ。

 跪く売り方。
 その音で気付いたか、ナースステーションからナースが一人出て来る。

 売り方は、ホールケーキを押し付けてきた、事務の女性の言葉を思い出す。
 曰く、ポケベルであんな事を伝えられるなんて、モテモテですね。
 曰く、お土産に、これくらいは持って行ってあげないと。
 曰く、500731は、ゴメンナサイ、と読みます。
 そして、114106は――

 売り方の背を軽く叩き、伝言を伝えるナース。

「お待ちしておりました。至急、院長室へいらして下さい」

 ゆっくりと立ち上がる売り方。
 彼には、少女に伝えなければならない事があるのだ。
 そう、昼間のポケベルに入ったものと同じ事を。

「114106は、アイシテル……」

 そう呟いて売り方は、重い足取りで院長室へ向かった。


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