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第13話・相場の欠損
しおりを挟むカウンターの中に居る、人物の手首を掴む売り方。
追いかけるのを止めたから、向こうの方から寄って来たのか?
まるで男女の追いかけっこの様に。
初老が女学生の様な思考を?
まさかと思いつつも売り方は、手首の主の顔を確認した。
「エセ……何だと?」
それは、前場で売り方に絡んできた、東証の職員だった。
驚愕する売り方。
ブラウンのジャケットだと思ったそれは、いつの間にか真っ黒なブレザーの袖に変わっていた。
「う、いや……スマン」
混乱しつつ、職員の腕を放す。
職員の近くに居る実栄達も、初老ではなかった。
自分の勘違いなのか、初老に騙されているのか、売り方には判断が付かなかった。
「何なんだ、いったい……」
職員は、売り方の真意が読めず、その場から離れようとする。
だが売り方は、このまま仕舞いでは何か物足りない、と感じた。
「ああ、ちょっと待ってくれ」
職員を呼び止める売り方。
「原油の表示、値動きがある様だが、今WTIは開場してるのか?」
とりあえずの質問。
しかし、これは的を得たものだった。
「原油? アッチは確かまだ日曜の……!」
価格が動いている原油の電光掲示を見て、職員が絶句する。
「知らなかったのか? ならすぐに調べて教えてくれ」
「わ、分かった」
カウンターの中から飛び出す職員、立会場の出入り口の方に向かう。
恐らく、3階の機計室に行くのだろう。
どうやら東証側は、コレに気付いていなかった様だ。
とすると、WTIは開場してるとは限らず、何かの手違いの可能性も。
改めて周囲を見回す売り方。
今は、初老の影は見えない。
彼は、この事を教える為に、自分の視界に入る様に振舞っていたのか?
そうだとして、しかし何故教えてくれる?
考えて棒立ちになっている売り方を押し退けて、他社の場立ちが3861に売りを入れた。
3861は、ついに770円の買いを全て食い尽くし、769円を付けた。
腕時計を見る売り方。13時55分だ。
売り方は迷った。
今ならまだ、3861を770円で買う事は可能だ。
しかし、間もなく欧州筋が相場に入ってくる。この円高・株下げ・原油上げの相場に。
これから更に下げるのは明白だった。
だが、初老の真意が見えない今、迂闊に買いを入れるのは危険だ。
それに加え、山師の指摘も気になった。“もし件の新規客が3861を売ってくれと言って来たら?”
その場合、1900枚は売れない。
故に、その1900枚は、大引け(15時ちょうど)で買うしかなかった。
だが、その時点で株価が770円以下である保証は無い。
WTIの件がもし何かの手違いであるのなら、それが発覚した瞬間に3861は爆発的な上げを見せるだろう。この円高方向なら、そう考えるのが自然だ。
だが、それらの仮定も、新規の客と初老が別の存在である場合の話だ。
同一の存在であるならば最早考える事は無く、さっさと買って帰ってしまっても良い。
しかし、初老の存在自体があやふやなのに、新規客と同じ者と想定して良いのか?
迷っている売り方が、更にカウンターの前から押し出される。
欧州筋からの注文が入ったのだ。他社の場立ち達が、原油高絡みの注文を捌こうとカウンター前に殺到した。
それで、出来高の増えていた3861も槍玉に挙げられ、一気に売りが入る。
株価は一気に760円になった!
そこまで見たところで、売り方は、完全に板が見えないところまで押し出された。
だが、それでも尚、売り方は迷っていた。
初老と新規客が同一人物だろうと、別だろうと、3861は750円を付けるだろう。
しかし、その後はどうなる?
初老は、750円で買える様にするとは言った。
だがそれは、その買いで儲けが出せるという保証ではない。
それに、買った後に上げる方法が見えない。
WTIの件が何かの手違いだったとして、それが都合良く買いの直後に発覚する可能性はゼロに等しい。そんなものに売買を委ねるワケにはいかない。
それでも、1900枚の買いは場中にしなければならない。
売り方の思考は、袋小路に入ってしまっていた。
「お疲れ様です」
従業員の労う声。
考えながら歩いた売り方は、いつの間にか自分のブースの前に戻っていた。
「思ったよりも大変だな、場立ちは」
勧められた予備の椅子に座りながら、売り方。
「肉の壁に、まるで歯が立たなかったよ」
苦笑いを交えて、年寄りの冷や水を自嘲する様に言う。
蜃気楼の様にチラチラ見え隠れしている初老を捕まえる為だった、とは言えなかった。
「注文を出されないのであれば、他社の場立ちも遠慮はしないでしょうからね」
言いながら、インカムを外そうとする従業員。
そこへ、場電が着信を報せる。
「はい、ああ私です……はい、はい……」
応対をする従業員。
売り方は腕時計を見る。14時15分だった。
「ええ……はい」
従業員は、手元に有った注文表の裏に、何事かをメモし始めた。
それは、新規客は現実に存在する人間であるという事だった。
従業員は、まだ何事かを書き続けていたが、売り方の注意は、新規客の件に釘付けになった。
初老と新規客は別の存在。苗字や年齢は、単なる偶然の一致だったのだろう。
普通に考えれば、それが当たり前だ。
そう思った売り方は、残っている3861の1900枚買い注文に、微かながら売りの注文が出る可能性がある、即ち大引けで注文を出さざるを得ない事を認識した。
「はい……え? そ、それはホントですか!?」
従業員の目が、驚きに見開かれる。
そして、乱暴にメモ書きを追加した。
その内容を見る売り方。
そこには、原油の件は単なる電信上の不具合、WTIは開場していない、と書かれていた。
「ちょっと待って、いま電話を替わって」
再びインカムを外そうとする従業員。しかし、売り方は片手を振ってそれを制した。
そして、メモ書きを摘み上げ、これより他には無いか? と問うた。
それに首肯で返す従業員。
メモ書きには、新規客の口座の金額も書かれていた。
それによると、今日の総注文額とほぼ同じ。つまり1900枚は、もう一度買うと、今日中には売れない事を意味していた。
これで、1900枚の買いは大引けにて執行する事が確定。
売り方は“出来ずば引け”の買い注文を、カウンターへ出しに行こうと考えた。
立ち上がった売り方を、今度は従業員が制した。
「私が行きます。注文内容をどうぞ」
場電が終わったか、従業員は今度こそインカムを外し、売り方に渡した。
「ああ、そうか。それじゃあ3861を650円の出来ずばで……」
インカムを受け取った売り方がそこまで言ったところで、立会場を大きなどよめきが包んだ。
「な、なんだ!?」
驚いて周囲を見回す従業員。だが、どよめきの原因は見つけられない。
しかし売り方は、すぐにそれに思い当たった。
山師の会社は弱小地場証券。彼らの調査能力など、たかが知れたものだ。
その彼らに調べが付くものなら、大手ではとっくに知られている事なのだろうと。
電光掲示板。原油の表示が消えている。そこだけ真っ暗だ。
大手達は、電信の不具合である事は知っていたのだろう。しかしそれを公表せず相場の具にしていたのだ。
そしてこの表示消えもまた例外にはならない。材料不足に悩む相場師達には、ネタになるのなら何でも良いのだ。
3861の値を見る売り方。原油価格に問題無しで上げて来るか、と考えたが、予想に反し売りが入り始め、一気に750円まで下げてしまった。
短期の値動きは純粋な需給に支配される。
760円から5円ほど跳ねた後に、WTIの件を知らない欧州筋が、厚くなった買い板目掛けて売りを出した所為だ。
3861の板に張り付いてろ、と従業員をカウンターに送り出す。
従業員は、動揺を残しつつも、売り方の指示に従った。
売り方は考えた。原油の価格表示が消えたのは、東証の職員の仕業だろうと。
機計室で事の次第を確認した彼が、表示を止めさせたのだろうと。
そして、これは自分のミスだったかもしれないと思った。
職員に知らせなければ、この表示消えもなく、3861は760円辺りで引けて、1900枚の買い注文も問題無く出来ていただろう。事情を知っていた他の大手も、それを望んでいたに違いない。
しかし、現実は過去に戻せない。
時間を確認。14時30分を少し回ったところ。
この残り時間なら、反転して高値を付ける事も可能。
だが、3861の現値は750円で止まったままだ。
迷う売り方の目に、従業員の手サインが映る。
売り方が出していた、新規客の後場の注文分・750円で2000枚が約定した内容だった。
売り方は思った。このままなら原油の件は立会場の外には広まらず、反転し高値に向かう事は無いだろう。少なくとも今日のザラ場中は。
それなら、残りの1900枚の買い注文は慌てる必要は無い。当初予定の出来ずば引けで充分だ。
売り方はそう考え、従業員に手サインで指示を出そうとした。
だが。
カウンターの方を見るその視界の端、2階の正面テラスの下辺りの中空に、初老が浮かんでいた。
しかも、例のチェロを抱えて。
驚愕する売り方。
それは、初老の在り様だけではなく、彼が演奏を始めた事に対しても。
「3861を1900枚、今すぐ成りで買え!」
手サインだけでなく、大声も出して従業員に指示を出す。
仮に新規客から売り注文が来ても、今約定した2000枚から1900枚を売れば良い。この2000枚約定は、新規客には未だ連絡していないのだから(違法)!
売り方にその決断をさせた、初老の演奏。
それは、以前売り方が証券会社の店頭で演った曲に酷似していた。
それも、相場が上げに転換する場面の辺りに。
ちょうど大口の売りが入っていたのか、売り方の3861の成り買い注文は、全数が750円で約定していた。
それを伝える従業員の手サイン。
売り方はそれを見て、今まで彼の心に纏わり付いていた違和感が消えた事を認識した。
初老の姿は消えていた。
しかし、チェロの音色は、立会場全体を震わせ続けた。
よく見ると、B5大の紙が十数枚、立会場の4m程度の上の空間に舞っていた。
中空から2~3秒毎に1枚生み出される、謎の紙。
それは概ね2小節分の間、中空を漂い、その後にカウンターの上辺りに落ちて行き、消える様だった。
周囲を確認する。
だが謎の紙の存在には、誰一人として気付いてない様だった。
しかし、それを周囲に訴える気は、売り方には無かった。
ほぼ間違いなく誰にも見えていないし、そんな事をしても、頭がおかしくなったと思われるのがオチだからだ。
相場は、チェロの音色に導かれる様に、上げに転じた。
それはつい先程までの、電光掲示の消去すらネタに使う様な殺伐としたものではなく、曲調に合わせたかの様な、穏やかで且つ優しさに満ちたものだった。
つまり初老のチェロの演奏が、立会場に居る(売り方以外の)全員の心をコントロールしているのだ。
従業員がブースに戻って来た。
「流石ですね、あのタイミングで1900枚の買い入れ! まるで相場が反転するのが見えてるみたいでした!」
上気した表情で、興奮気味に語る従業員。
「いや、単なるマグレさ」
とりあえず謙遜する売り方。本当の事など言える筈もない。
「今日の注文は、もう?」
「ああ、さっきので仕舞いだ。だが……」
売り方は、謎の紙が気になった。アレはいったい何だ?
時刻は14時48分。
場電を従業員に任せ、売り方はカウンターの方へ歩み出た。
中空を見上げる。
謎の紙は、カウンターの上だけではなく、ブースの方へも落ちていくのが確認出来た。各社のブースの、場電に吸い込まれていく様に。
どうやら、謎の紙は位置によって見え方が変わる様だった。
売り方は、それをもっと近くで見るべく、人のまばらなカウンターの前へ行った。
舞い降りてきた謎の紙は、並べられている個別の板に吸い込まれていく。
その紙は、一目では楽譜の様に見えた。
しかしよく見ると、売り方が休み時間に描いた様な、ローソク足のチャート図の様にも見えた。
それらが、板に吸い込まれる様に消えて行く。
そして、その板を扱う人間の目の色と表情を、上気したものに変えていく。
売り方は、それを唖然として眺めた。
“下げに不思議の下げ無し、上げに不思議の上げ有り”
相場ではよく言われる事だが、売り方は、その意味するところを知らなかった。
しかし、今、目の前でそれが開陳されている。
不思議の上げとは、相場の欠損を埋める、よく分からない初老の恣意の事だったのではないかと。
少なくとも、もはや初老の存在を否定する事は、売り方には出来なくなっていた。
15時ちょうど。後場終了。大引け。
この日のザラ場が終了した。
3861は、日中高値の820円で引けた。
そして、チェロの音色も謎の紙も、大引けと同時に消えていた。
ふざけるな、相場で何人死んだと思ってやがる。
売り方は、心の中で初老の行為に毒づいた。
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