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第12話・場立ち

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『言ってくれるじゃねえか』
「ああ、それとな」

 山師の返しを軽く流して。

「5406の客と、今日買った小口の客全員に、とりあえず売っては如何と提案しとけ」

 この時点で売り方は確信していた。相場はこれから下げに入ると。
 その確信に応える様に、他社の場立ち達が3861への売り注文を出すべくカウンターの前に殺到した。
 約定していた従業員が、カウンターの前から弾き出される。

 時計を確認する。13時11分だった。
 売り方が、3861の売りを成りに変更したのが概ね3分前。
 つまり、売り方の先見通りの展開になった。
 もっともこの下げは、売り方自身の売り浴びせが切っ掛けだったのだが。

『売らせろって?』
「そうだ、この下げはキツいものになりそうだからな。前場の買値を下回るかもしれん」
 売り方は、従業員に5406の板を見る様に指示を出した。
 電光掲示板では、まだ買値より遥かに上の値段が付いているが、売り方は、この下げは全業種に影響すると踏んだのだ。

『いや、気持ちは分かるんだがな』
「じゃあ悠長な事を言ってないで、さっさと客に電話しろよ」
 暢気な山師の声に、僅かに苛つく売り方。
 電光掲示板では、為替が再び円高方向に走り始めた。

『おいおい、俺らが今、何やってるか忘れちまったのか?』
「相場だろ」
 何を今更と即答する売り方。
 3861は、成り売りの連続で800円を割ってしまっていた。

『違う。客の注文を執行する証券業務だ』
「では、客に損させても構わないと?」
 5406は、鉄鋼全体の上げの中で未だ値を保っているが、長続きはしない感じだ。

『あのな、オマエみたいな考えの人間ばかりじゃないのよ、株の客ってのはな』
「しかし、誰でも損するのは嫌だろ」
『そうじゃねえんだよ。例えば小口の4件、ありゃ全員貧乏サラリーマンだ。仕事中に株屋から電話が入るのを極端に嫌う』
「それでも」
『前場での約定は連絡したさ。昼休みの時間を狙って。喜んでたよ、全員な。それで俺らは手数料を頂戴して、この仕事は終わりだ』

 山師の言っている事は、証券業を営む者としては至極真っ当なものだった。

「ん、まあ、小口はそれで良いとしても、2件の大口は?」
『彼らこそ、小まめに連絡を入れられる事を嫌う。自分の読みを否定されていると思う傾向にあるからな、ああいう連中は』
「…………」

 自分の注文が勝手に弄られていたら、そりゃ良い気分はしない。
 仮に、それで儲けが出たとしても。
 売り方は、先日までの自分の売買を思い出し、納得せざるを得なかった。

『それとな、オマエさっき3861売っただろ。出来たのか?』
「ああ、約定した」

 売り方は、それで得た利益を伝えようとした。が、それに被せる様に山師が。

『それな、問題だぜ。一度売られた事を知らない客が、再度手仕舞いしてくれと今日の内に言ってきたら、どうする心算つもりなんだ?』

 この場合、資金の額によっては、差金決済になってしまう。
 現物口座で差金決済は出来ない。

「いや、それは最悪、空売りパッチって事で」
『言っただろ、新規の客だって。だから信用口座用の審査なんて未だやっちゃいない』

 つまりパッチは出来ないという事だ。差金決済もまた然り。

『それにこの客は、あくまでも買いの注文しか出してねえんだ。値段はある程度の裁量を認める形だったがな』

 そこまで聞いて、売り方は自分のミスだった事に気付いた。
 慌てて、従業員に3861の板を見る様に指示を出す。
 それで売り方は、また違和感を覚えたが、今は気にしない事にした。

「スマン、調子に乗ってた。昼の注文750円に乗っける形で、買い注文を出しとく」
『ダメだ、前場と同じ値段770円で1900枚買え。そうでないと拙い』
「そんなもん、最良執行をした、で通せよ」

 従業員が板の状況を報せてくる。
 現在790円で、その下は10円刻みの節目ごとに500枚前後の買い注文が有るだけで、スカスカの状態。
 これで大きな成り売りが入ったら、770円などあっさりと突破して下がるのは明らかだった。

『もう言っちまってんだよ、770円で1900枚買えましたー、ってな』

 それを聞いて、売り方は違和感の本体を見た様な気がした。

「ちょっと待て、その大口は幾ら口座に入金してるんだ? 差金はそれ次第だろ」
『え? あ、そうだな……』

 3861は790円の買いを喰ったが、787円辺りで一旦止まっていた。
 為替の円高と原油の高騰は継続していたが、売りの一旦の買戻しが入っている為。
 それは、天井で売った後、動きを見せない売り方を他社の場立ちが警戒しているからだ。

『スマン、ちょっとド忘れしちまってな』
「おいおい、数人しか居ない大口の中身すら憶えてないのか?」

 驚く売り方。
 と同時に、売り方の中に或る予感が芽生えた。

『いやスマン、今からちょっと調べて』

 少し狼狽した雰囲気の山師。
 それに被せる様に売り方。

「まさか、その大口の名前も忘れてるんじゃないだろうな?」
『名前、って……』

 憶えていない。
 インカムが、山師の絶句を売り方に伝えた。

「それは、俺と同じ苗字じゃなかったか? いや、多分そうだ」
『そうだ! 思い出した!』

 従業員が、再度3861の板を報せてくる。
 785円の攻防に変わった様だ。
 カウンターの前が賑やかになり始め、従業員が何度も弾き出されている。

「おまけに、そいつは70がらみの爺だ」
『そっ、その通りだ。凄いな、なんで知ってるんだ?』

 憶えていなかった事の衝撃から解き放たれる様に、山師。

『あ、ひょっとしてオマエの親戚か何かか?』
「俺に親戚は居ない。知ってるだろ」

 売り方の予感は、確信に変わった。

「恐らくだが、さっき俺が話した、例の初老だろう」
『初老って、まさか……』

 インカムが、二度目の山師の絶句を伝える。

 売り方は従業員に、3861を750円で2000枚の買い注文を手サインで送った。
 それは周囲の場立ち達も見ていたが、有り得ないという表情が大勢だった。
 ただ、カウンターの中の実栄証券達は、忙しそうに動き回っている。

「奴が俺の持ってる注文を知ってるのは、当然なんだ。なんせ、自分が出したものなんだからな!」

 売り方は思い出した。
 初老は、仮に相場の神だとしても、必ずしも相場の中だけにしか存在出来ないワケじゃない。
 立会場には誘われたから来ただけで、最初に会ったのは、証券会社の店頭の路上だったのだから。

『有り得んっ! “相場の神”なんてモノが、居てたまるかっ……!』

 そう言った山師の背後から、来客の旨を伝える声が聞こえる。

「俺に、相場の神の存在を教えてくれた人間の言うセリフか?」
『いや、アレは……単に相場に伝わる伝説と言うかだな……』

 山師は完全に狼狽してしまった。
 無理も無い、今まで手張りの言い訳として使われてきた架空の存在が、いきなり実在するという事実を突きつけられたのだから。

「差金の件は気にしないで良いと思う。なんせ注文を出した本人が相場を煽ってるんだしな」

 山師を落ち着かせようとする売り方。
 だが、その売り方の目は、カウンターの中に釘付けになっていた。
 実栄達が動き回っている、正にその中。
 インカムの向こうからは、山師への来客を告げる声が繰り返されている。

「それより、生保が来たんじゃないのか?」
『そ、そうだが……じゃあ、3861の件は、とりあえず任せて大丈夫だな?』
「ああ、大丈夫だ」

 実栄達が着ている茶色のブレザー。それに紛れる様にブラウンのジャケット。

『ちゃんと買っておけよ』
「任せとけ」
『何か有ったらすぐに場電を使え。若いのに相手させっから』
「了解」

 それで売り方は、場電を切ろうとした。だが。

『後場が引けたら、すぐに会社に来てくれ。生保への説明が要る』
「あいよ」

 山師は、それでやっと場電を切った。


「さて、と……」

 インカムを外し、席を立つ売り方。
 カウンターへ歩み寄る。
 その中では、実栄達が板の書き換えにテンテコ舞いだ。

 売り方は、尚も残る、焦燥にも似た違和感を持て余していた。
 どうやったら、この不快な気分を解消出来る?

 時刻は、13時30分を少し回ったところ。
 為替は、10銭程度の円高に振れている。
 原油は、1ドル上げた後に数セントの上下を繰り返している。上げの原因は未だ不明。
 相場全体は、それらの流れを受けて下げ方向に入っている。
 業種では、紙パが特に下げている。
 その中で3861は、売り方の750円買い注文が板に乗ると、それを待っていたかの様に売り注文が出され、一気に下がっていた。この時点で775円だ。

「どうしましたか!?」

 場電を放置した事に驚いた従業員が、売り方の傍に駆け寄ってくる。
 山師が生保との打ち合わせに入った今、場電の前に座っている必要は無いと、売り方は判断した。
 しかし、WTIの件は未だ不明だ。連絡が入るかもしれない。
 売り方は、それらの事を従業員に伝え、場電の番をする様に指示した。

「やっぱり、我慢出来なくなったんですね」

 そんな事を言って、ブースへ向かう従業員。
 売り方は苦笑いしてしまった。

 欧州の早起き組が参加して来るのは、普段は14時頃だった。
 それまでには、まだ時間が有る。
 売り方はその間に、カウンターの中にチラチラと見え隠れする、初老めいた人物の腕を掴んでやりたくなったのだ。

 しかし売り方は、その初老めいた人物を捕まえる事は出来なかった。

 カウンターの中の、実栄達に混ざっている初老。
 そのカウンターへ行く売り方。
 しかし、売り方がそのカウンターの前に着くと、いつの間にかその初老は、そこから遠く離れたブースの前に居る。
 そのブースに行くと、今度は真向かいのブースに居る、と言った具合。

 しかも、移動した時間すら感じさせない。
 まるで瞬間移動。
 もっとも、その存在感が最初から揺らいでいるので、そもそも移動したのかどうかも怪しかったのだが。

 まるで蜃気楼を相手にしている様だ。
 時間の無駄を悟り、3861を扱っているカウンターに行く売り方。
 1900枚の買い注文を出す必要がある。
 場立ちを掻き分け、板を見ようとする。
 しかし、その場立ち達から押し戻される。
 売買が活発なカウンターの前に出るのは、ブースの中から見るのよりも、ずっと大変な事だった。

 それでも、なんとかカウンターの前に辿り着く売り方。
 しかし、他の銘柄の板が邪魔で、よく見えない。
 それを見計らってか、カウンターの中の実栄証券が、3861の板を売り方の前に出してくれた。
 773ヤリの772カイ。
 770円の買い注文を出すなら、そろそろといった所だ。

「ありがとう」

 素直に礼を述べる売り方。
 しかし、首から下の動作は、それに準じなかった。
 乱暴にその手首を掴む。
 板を出した実栄の袖は、ブラウンのジャケットのそれだったからだ。

「捕まえたぞ、このエセ神もどきが!」


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