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第3話・街角

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 売り方は、兜町をあてもなく歩いていた。
 銀行からは追い出された。出入り禁止の宣告まで受けて。

 銀行の本店は、株式の相場師である彼にとっては言わば敵地だ。そもそも中に入れただけでも奇跡に近かった。
 故に、それらゴタゴタには特に感慨を持たなかった。
 ただ、鬼の女性に嵌められた感が、心の据わりを悪くしていた。

「何処に居るかも分からない奴を、どうやって探せってんだ……」

 通り過ぎる街角、電気店のショーウィンドウ。
 道側に向けて並べられた、最新の16:9ブラウン管テレビ。
 それらが映し出すニュースは、盛んに不況を伝えていた。

「こんな泡、最初からハジけるって見えてたじゃないか」

 ショーウィンドウの前で立ち止まり、頼まれもしないコメントをつける売り方。
 第一次オイルショックで父親を失った彼には、この不景気に対し苛立ちに近い感情が有った。

 更にニュースは、銀行の不良債権と、それに伴なう貸し剥がしを伝え始めた。
 鬼の女性の、氷の様な瞳が売り方の脳裏に浮かぶ。

「他人の事が言えるのかよ、まったく」

 吐き捨てる様に言って、再び歩きはじめた。

 夕刻、更に増えた人通り。
 横断歩道、歩行者用信号機。
 通りの反対車線の方から、おーいこっちだ、と呼ぶ声がする。
 反射的に顔を上げると、売り方の前を歩いていた青年がその声に対して手を振り返した。
 知り合い同士なのか、青年はちょうど青になった横断歩道を通って反対車線側へ行った。

「もうこんな所まで来ていたのか」

 考え事をしながら歩くと、意外と遠くまで行ってしまうのはよくある事だ。
 反対車線側は、テレビのニュースでよく出てくる、某中堅証券会社の本店だった。
 そして、そこで青年達が落ち合う様を見て、売り方はある単純な事に気付いた。

「そうか、探すんじゃなくて呼び出せば良いのか」

 売り方は、何故か青年達が居る所に行こうと思った。
 しかし、その時にはもう歩行者用信号は赤に変わっていた。

 信号が変わるのを待ち、道路を横断した売り方。
 証券会社のウィンドウが目の前。
 広い電光掲示板によって、有名な銘柄数十点の四本値が、出来高と共に表示されている。
 青年達は既に居らず、また、人通り自体も然程多くなかった。

「呼び出すと言っても、一体どうやって……」

 鬼はバイオリンで呼び出せた。しかしそれは、昔彼女と幾度もセッションを行った事があったからだ。その音の記憶が、千の言葉よりも雄弁に彼女に訴えかけたのだ。
 だがいま売り方が探している人物とは、面識すらない。
 いや、そもそも人間であるかどうかさえ不明なのだ。

 売り方はガードレールに腰を下ろし、溜息を一つ歩道に落とした。
 先輩や鬼の女性が言う相場の神は、違うものかもしれないし、同じものかもしれない。
 共通しているのは、それは相場の中にしか居ない、という事だ。

 しかし、悪魔の証券会社で口座を開設していた売り方は、当然ながら手仕舞いと同時に、口座を取り上げられていた。
 そして、悪魔の証券会社が傾くのを見て、恐れた他の証券会社は彼に口座を開かせようとはしなかった。
 つまり、今の売り方は、相場に入れない状態なのである。

 徒手空拳、そんな言葉が売り方の脳裏をよぎる。
 カネなら掃いて捨てるほど持っているというのに。

 足元の、ガードレールに凭れ掛けさせているバイオリンケースが揺れる。
 それを見て、売り方は自分の大学生時代を思い出した。
 講義そっちのけで紛争やバイトに明け暮れる同期達を余所目に、ひとり駅前の広場でバイオリンを演奏していた頃を。

 倒れそうになるバイオリンケースを支える。
 あの頃、このケースは、聴衆から投げられる小銭を受け止める役目も負っていた。
 しかし売り方は、貧乏な当時でも小銭が欲しくてやっていた訳ではない。
 ただ純粋に、バイオリンを弾く事が楽しかったのだ。
 小銭は、聴く人が居てくれる、という事の証だった。
 それで売り方は勇気を得ていたのだ。

 あの頃のオマエは何処へ行った?
 そうケースに問い掛けられた様な気がした売り方は、おもむろにそれを開き、バイオリンを取り出した。
 柔らかい西日を浴びて輝く、ニスが塗られたバイオリンの表面。
 俺は今も此処に居るぞ、と。

 銀行での一件の後、弦は緩めていなかった。調弦は不要だ。
 そして松脂の匂い。
 それで大学生の頃の気持ちが更に想起され、昂ぶった。
 通行人に迷惑? 俺の様なクズが何を今更だ。そう売り方は自虐した。

 さて何を弾くか。
 数々の譜面が売り方の脳裏に浮かんだ。
 しかし、どれをとっても、今のこの気分を変えて高めるのに値するものではなかった。
 やはり、ここは相場に関連したものでなければ。

 そう思いながら売り方がふと視線を上げると、目の前の証券会社の電光掲示板がちょうどその表示を切り替えるところだった。
 個別の四本値から、日経平均の日足チャートへ。
 その広い表示部分に、およそ1年分のチャートと出来高を表示した。

「こんな事も出来るのか」

 それを初めて見た売り方は、少し驚きつつも、ある閃きを得た。

「これを楽譜(スコア)に見立ててしまえ」

 バイオリンの弦は四本。それに寄値・高値・安値・引値を宛がえば。
 更に、出来高を音の強弱に見立てれば。
 即興の曲としては面白いものになるかもしれない。

 チャートからざっくりとしたメロディラインを読み取った売り方は、左右を確認した。
 表示板の端の方にひとり、チャートを眺めている初老の男性が居る以外は、何故か人通りは無く、また、西日の黄色い光が、不思議な空気感を醸している。
 風も無く、問題は無いどころか、舞台としては寧ろ奇跡的に最良な状態だった。

 演奏を始める。
 リズムはシンプルに四つ打ちとする。
 だが、売り方が頭の中に書いた単純なメロディは、実際にバイオリンの弦に乗せると、想像した以上に不思議で且つ魅惑的なものとなって、空気を震わせた。

 それでも、細かなところで音の連続的に不都合な箇所が出てくる。
 それを認識した売り方は、その度に修正を加え、弾き直していった。
 そして、その修正を重ねる毎に音の流れは良くなり、また、チャートと曲との親和性も高まっていった。

 売り方は、いつしかその作業に夢中になっていた。

   新年のご祝儀相場から始まり 節分天井彼岸底
   配当権利で揉めた後には春の新人相場だ 桜舞い散る華やかさ

 流れて行く、尻の下の地面を見ながら車の運転をする奴は居ない様に。
 いま鳴らしている音の次、そのまた次の音の為にバイオリンを操っていく。

   決算5月病で暴落して大騒ぎ 6月ボーナス買い遅れは居ないだろうな?
   7月で手仕舞い 8月欧米でサマーラリー

 弓の毛が弦を撫ぜる様は、注文が整然と並んだ板に成りの発注を下すのに似て。
 弦が震えて出す音は、あったであろう板の動きを彷彿させるものになっていった。

   9月にまた配当権利 出来高不足は気にするな
   10月11月は半期決算 気温と株価は下げの季節へ

 弦を押さえる左手の指先。バイオリン本体を支える顎と肩。
 それらから伝わる振動は体を通り、輻射音となってバイオリン本体の音に色を添える。

   暮れに走るは株価も同じ 麦藁帽子は冬に買え

 そして、演奏者を、相場との同期による恍惚へ誘うものへと。

 その曲は、関連した程度、のものではなく、日経225の即興曲アンプロンプチュと名づけても良いほどの完成度になっていた。

 しかし、相場の動きや雰囲気を表わすには、バイオリン一挺ではやはり厳しかった。
 もっと低域をカバーする楽器の音が欲しい。例えばチェロとか。
 そう売り方が思ったのと、実際にチェロの音色が聞こえてきたのは、ほぼ同時だった。

「!?!?」

 電光掲示板を眺めていた筈の、初老の男性。
 いつの間にか、何処から出したのか小さな椅子に座り、大きな弦楽器を抱く様に構えて、あまつさえ演奏までしていた。
 しかも、その奏でられる音は、文句無しに素晴らしいものだった。

 驚愕する売り方。
 それは音の素晴らしさでも、メロディラインのトレースの良さにでもなく、明らかにバイオリンのパートと思しき箇所まで取り込んで喰ってしまいかねないほどの、ノリの良さと迫力に対してだった。
 それは、とてもこんな初老の男に出せるものではなかった。

 この地味なブラウンのジャケットに身を包んだ銀髪の初老は、一体何者なのだと。

 このままでは、リードのポジションを喰われてしまう。
 子供じみた対抗意識に駆られた売り方は、弾き方を変えにかかった。
 ちっぽけなバイオリンに対し、圧倒的なチェロの音域。
 それに加え、この演奏者の技術なのか、常識外れの音数を鳴らしてくる。
 音数に関しては、今まで負けた事の無い速弾きで対抗出来るだろう。
 しかし音域に関しては。

 とりあえず速弾きに移行する売り方。
 テンポを4から8に細かくし、基本的な音数を2倍にした。
 しかし、それでも初老のチェロに並ぶのがやっとの有様。
 移弦が音の速度を越えているのか、それとも右腕が2本有るとでも言うのか。

 その喧嘩じみた演奏の中で、売り方は気付いた。
 売り方の、寄値・高値・安値・引値の4音に対し、チェロの初老は5つ目の音を奏でていると。
 それは、敢えて名前をつけるとするなら、現値。
 リードを奪われるとした、売り方の焦燥は正しかった。
 初老の奏でる音の方が、チャートに対して、臨場感という意味で明らかに優れているものだったのだから。

 速弾きを諦め、売り方は音域の拡大に挑んだ。
 音の高低は、弦の振動する周波数の事だ。つまり単位時間あたり何度震えるかという。
 演奏の流れの中で、更に1オクターブ下の音を出そうとする。
 瞬間、四弦全てを開放し、弓を持つ力を最大限に減らしてG線に載せる。
 目の前に、見えない大木を抱き抱える様な心持ちで。
 バイオリンの規格を遥かに下回る低音を出すべく、弓をゆっくりと引いて。

「……!」

 売り方は、弓を落とした。

 売り方は戸惑った。
 弓を落とした事にではなく、自分が荒唐無稽に挑もうとしていた事に気付いて。
 しかもそれには、僅かながらも成功の手ごたえが有ったという事に。

 自分は、一体何を……。
 チェロの音も止み、静まった歩道の上。
 落ちた弓を見つめながら、激しい演奏からきた疲労で動けなくなった売り方。
 その視界の中に、ブラウンのジャケットの袖が入り込み、弓を拾い上げた。

「あ、ありがとう……」

 律儀に礼を述べる売り方に弓を渡したのは、件の初老だった。
 チェロを持って来ている。
 よく見ると、それには弦が5本あった。
 売り方は、演奏中のチェロの音数に関して理解したものの、新たな疑問が発生した。
 五弦なら、普通はバロック・チェロ(=古楽器)の筈だが、胴体の作りやネックの角度は、明らかにモダン・チェロ(=四弦)のそれだった。
 つまり、この初老の持っているチェロは、オリジナルだという事だ。

「……有り得ない」

 売り方が、思わず本音を漏らしてしまう。
 この初老は、演奏法の固まっていない(であろう)オリジナルチェロで、ついさっき出来上がったばかりの曲(しかもその楽譜は売り方の頭の中にしかなかった)を軽々と弾き、その上更に作曲者を凌駕するレベルの演奏までしてみせたのだ。

(ミスター・フィドラー、良いフィドルをお持ちですね。しかも弾き方が良い。特にE線の。あれが全ての弦で出来れば、きっと素晴らしく……)

 現実味の薄い声で話しかける初老。響く様な遠ざかる様な。

「いったい、何故……?」

 混乱している売り方は、とりあえずの疑問を口にした。
 それに対し、初老は。

(お呼び頂きましたので、参上しました次第です)

 と、売り方の混乱を助長する様な事を言った。

「呼んだ? 俺が? いつ? 誰を?」

 その質問に対しては、初老は肩をすくめて見せるだけだった。

(欲しいものが有るのなら、買えば良いのです)

 今度は初老から話しかけてくる。

「それは、そうだが……」
(何故、それをしませんか?)
「売ってないものなら、それは出来ないだろう」
(相場には何でも有る、のではなかったのですか?)

 やっと売り方は気付いた。この初老は、何故か自分の行動を理解しているのだと。
 しかし、初老はこれ以上会話に進展は無いと踏んだのか、切り上げる台詞を口にした。

(お待ちしております、立会場あのばしょで)
「え? ちょっと待て……」

 いつの間にか、チェロも座っていた小さな椅子も無く、手ぶらで街角に溶ける様に消えて行く初老。
 それを追いかけようとして、いつの間にか出て来ていた人並みに押され、その場に留められてしまう売り方。
 見回すと、あたりはもうすっかり夜になっていた。

 売り方は、自分の時間感覚が壊れてしまったのかと訝しんだ。
 証券会社の電光掲示板は、通常の株価の四本値の表示に戻っている。
 初老が居た時の不思議な感じは無く、街もすっかりいつもの表情に戻っていた。
 蓋も開きっ放しで路上に放置された、バイオリンケースを通行人が避けている事以外は。

 売り方は、暗澹たる気分でバイオリンをケースに仕舞い始めた。
 気分を高揚させる為に即興で作曲して。
 それが出来の良いものだと一人で勝手に盛り上がって。
 それを他人に、しかもあんな爺一歩手前に簡単にコピーされて。
 その上、演奏で負けてしまうなんて。

 しかし、売り方は気を取り直す事にした。
 それでも自分は一人じゃないと。
 頑張って、やるべき事から目を背けずに向かって行くべきなのだと。
 売り方の手元、ケースの中に、数枚の硬貨が街灯の光を受けて輝いていたのだから。


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