上 下
3 / 33

第2話・鬼女

しおりを挟む
 
「あなただって事はすぐに分かったわ」

 通されたホールの奥のスクリーンルームで、鬼の女性はウンザリした様に言った。

「あなたの、E線えーせんの弾き方には癖が有り過ぎるのよ」

 売り方を最初に応対したカウンターレディが、紅茶を二杯お盆に載せて部屋に入って来た。

「こんな奴にお茶なんか出すことないわよ」

 カウンターレディは、お茶と茶菓子をテーブルの上に置くと、10畳ほどのその部屋の隅に有った丸い簡素な椅子に座った。

「酷い言われようだな」

 彼女はつまりボディーガード代わり、或いは銀行からの監視役という事だろうか。
 鬼の女性は銀行内でそれなりの要職に就いており、面会者の売り方に至っては、その筋では知らぬ者は居ないと言われた、海千山千の山師だ。
 それ故、彼らを二人っきりにしない事は、銀行としては当然の配慮だった。

「まあ良いわ……まだ優しい方よ」

 カウンターレディを監視役と受け取った鬼の女性が諦める。
 そして出された紅茶に口をつけた。
 カップを持つ左手。多くののピアニストがそうである様に、彼女の指もまた長く美しいものだった。
 その薬指を一時はシンプルな指輪が飾っていたが、現在は無い。

「ふむ、最近は更に稼ぎまくってる様だな? 大したもんだ」

 左手に売り方の視線を感じていた鬼の女性が、独身で稼ぎに徹している=金の亡者、である事を揶揄されたと勘違いし、猛然と反論し始める。

「何言ってるの? そっちこそどうなのよ! 何なの、この間の暴落騒ぎは」

 嘗て売り方が証券会社の自己売買部門に居た頃、商品先物のディーラーだった彼女とは裁定売買の相場で丁々発止を演じた間柄だった。
 男女の関係だった頃もあった。簡単に破綻したが。

「知らんね、三重野がまた何かしたんじゃないか?」

 とりあえず惚けてみせる売り方。
(因みに三重野とは当時の日銀総裁であり、バブル潰しと称して行なった金融引き締めがその後失われた二十年を呼んだとして、いま尚低評価である)

 彼女の、為替のオプションを証拠金に異市場裁定売買で板を圧倒する、鬼神の様な買い上がりには、一切の迷いが無かった。
 その上、指の美しさに相応しい容姿と美貌を兼ね備えていた為、取引所で向かわれた他の参加者(多くはムサい野郎どもだ)たちは、たまったものではなかった。

「ネタは割れてるわよ。あれでヘッジファンドが何社トんだと思ってるの?」
「知るかよ」

 某大手証券も結構な角度に傾いたが。

 そのくせ一旦相場が動かないと見るや、場中でも寝たり、旅行に出掛けたりもした。
その影で幾つかの業者や個人が破産に至る事を承知の上で。
 その豪胆さをして、市場参加者たちは彼女を鬼の裁定師と呼んだ。

「じゃあ何しに来たの? お金なら腐るほど持ってるんでしょうに」

 そんな鬼が、今は銀行の為替部門で活躍していると風の噂を聞いていた売り方は、その伝を辿れば、少女を治すモノを持っている奴に会えるのではないかと考えたのだ。

「そ、それはな……」

 売り方にとって、少女の件を他人に聞かれるのは辛かったのだろう。
 口ごもり、監視役の女性を横目で見る。

「……お茶が冷めてるわね、熱いのに入れ替えて来てちょうだい」

 実際には、紅茶は冷めていなかった。が、売り方の逡巡を見て、話がプライベートなものになる、そう感じ取った鬼の女性が人払いをしようとしたのだ。
 だが監視役の女性も察したか、申し訳無さそうにフルフルと小さく首を横に振った。

「上には言っておくから」

 フルフル……。

「3分間だけで良いの、お願い」

 押し負けた監視役の女性が、では忘れ物をとってきますと言って席を立った。

 この後、恐らく彼女は上司から叱責を受けるだろう。それに対する謝意を込めて、売り方はドアを開ける女性に、自分の顔の前で、左手で手刀を翳して見せた。
 監視役の女性は、それに気付かなかった風で出て行った。

「では手短に言うぞ」

 売り方は、これまでの経緯を要約して伝えた。
 駆け引き無しで情報が欲しい、と。

 一通り聞き終わった鬼の女性が、ため息と共に答える。

「そんなもの、有るワケないじゃない」

 有ったら人が病気で死ぬなんて事無くなっちゃうでしょ、とも。

「そういう通り一遍な事が聞きたいワケじゃない!」

 食い下がる売り方。

「顧客の中に金持ちの妖怪みたいな爺とか居るだろ? そいつらがどんな薬飲んでるかだけでも良いんだ! 頼む!」

 少女の治療には、病院も医師も超一流を揃えた。設備や器具も勿論の事、開発中の新薬すら使わせたのだ。

「だから、そういうのは医者の方が詳しいでしょ? で、彼らは何て言ってるの?」

 売り方の脳裏を、医師達の沈痛な面持ちがよぎる。

「くっ……」

 全くの正論だった。売り方は反駁の論拠を失ってしまった。

「でもまあ、正確に言うと居ないわけでもないけどね」

 項垂れる売り方を哀れに思ったか、鬼の女性が呟くように話し始めた。

「相場の神なら、きっとね」
「……神だと? そんな居もしないものを!」

 売り方が、証券会社の自己売買部門に配属された当時、コーチ役の先輩社員から教えられた事。

 歩み値を見ても分からない。
 日足を見ても分からない。
 だが日中の1分足に僅かな違和感。
 30分足辺りで予感めいて。
 しかし1時間足ではまた見えなくなって。
 見返す30分足にももう何も感じられなくなって。

 具体的な数字以外の、何か良く分からない外からの力が板にかかってる状態。
 若しくは玉の出し入れ。合わない勘定。
 それらの殆どは単なる数字の打ち間違いか錯覚だが、稀にどう考えてもオカシイと思えるケースがある。
 誰もが関わりを否定する仕手。謎の介在。
 それを、相場の欠損を埋める存在=相場の神と呼ぶのだと。

「それが、ホントに居るのよ」
「バカな」

 売り方は、それを単なる概念上の存在だと思っていた。実在はしないと。

 立ち上がり、窓際に行って、ブラインドを僅かに開く鬼の女性。

「為替の板から株式を見てると、ホントよく思う、あそこには何か居るって」

 テーブルに横縞の影が落ちる。

「……私も探した事があるの。でも為替や商品の板には気配すら無くて」

 東証の方角を見やる。

「あなたなら見つけられるかもしれない、いえ、商品先物相場から私を退場に追い込んだ貴方なら、きっと」

「無理だろう、そんな事」

 それは途方も無い事だった。売り方が否定するのも無理は無い。
 しかし、それしか道は無いのだとしたら、否定しても意味が無い。
 彼らに残された時間に、それほどの余裕は無いのだから。

 グズる売り方を見かねたか、鬼の女性はハッパをかけることにした。

「それにね、よく言うでしょう?『神は、いつも貴方の傍に居ます』と」

 こんな事も知らないの? と蔑む様に。

「スマンな、宗教は、やってないんだ」
「ロリコンは、やってるけどね。サイテー」
「なっ……!」

 それは、売り方を元気付ける為とは言え、あまりな言い草だった。

「い、言うに事欠いててめえ、呪われてしまえっ!!」

 その売り方の悪態は、ドアの外に立っていた監視役の女性の聞き耳を潰さんばかりの大声だった。


しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

失われた相場譚2~信用崩壊~

焼き鳥 ◆Oppai.FF16
経済・企業
 前作『此岸にて~失われた相場譚~』の続編です。が、読んでなくても楽しめるように書いていきます。  日本の株式市場は完全に電子化されたことによりどのように変わったのか。  また、世界の経済システムを揺るがした大事件・リーマンショックの本質とは何だったのか。  これは株式相場に興味のある方、または実際にトレードしてる方、そしてもちろん、前作をお読み下さった方の為のラノベもどきです。  お楽しみ頂けましたら幸いです。 (クラウドワークスにて参考用として紹介済み) (加えて、カクヨム様にて『2008年の悪夢~失われた相場譚2~』として加筆修正しつつ転載を開始しました)

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

WEBで小説を発表しておこづかいをもらおう|いろいろ試した結果これが正解です

宇美
経済・企業
「小説を書いてお金をもらう」すべての小説を書く人の夢だと思います。 以前なら新人賞や持ち込みをして、幾多の競争をくぐりぬけて、出版社からデビュー、ぐらいしか方法がありませんでした。 かつては非常に狭き門でしたが、現在ではほかにも別の方法があります。 例えば ●ブログを開設して小説を載せたページに広告を貼り、広告料をもらう。 ●広告料を還元してくれる小説投稿サイトに投稿する。 これらをやればお金を稼げるの? 答えは、ただやっただけでは1銭も稼げません。 実際にチャレンジしてみた筆者が一番簡単で確実な方法をご紹介します。 これを読めば遠回りしない!!

【完結】幼馴染にフラれて異世界ハーレム風呂で優しく癒されてますが、好感度アップに未練タラタラなのが役立ってるとは気付かず、世界を救いました。

三矢さくら
ファンタジー
【本編完結】⭐︎気分どん底スタート、あとはアガるだけの異世界純情ハーレム&バトルファンタジー⭐︎ 長年思い続けた幼馴染にフラれたショックで目の前が全部真っ白になったと思ったら、これ異世界召喚ですか!? しかも、フラれたばかりのダダ凹みなのに、まさかのハーレム展開。まったくそんな気分じゃないのに、それが『シキタリ』と言われては断りにくい。毎日混浴ですか。そうですか。赤面しますよ。 ただ、召喚されたお城は、落城寸前の風前の灯火。伝説の『マレビト』として召喚された俺、百海勇吾(18)は、城主代行を任されて、城に襲い掛かる謎のバケモノたちに立ち向かうことに。 といっても、発現するらしいチートは使えないし、お城に唯一いた呪術師の第4王女様は召喚の呪術の影響で、眠りっ放し。 とにかく、俺を取り囲んでる女子たちと、お城の皆さんの気持ちをまとめて闘うしかない! フラれたばかりで、そんな気分じゃないんだけどなぁ!

お仕事はテストエンジニア!?

とらじゃむ
経済・企業
乙女ゲームの個人開発で生計を立てていた早乙女美月。 だが個人開発で食っていくことに限界を感じていた。 意を決して就活、お祈りの荒らしを潜り抜けようやく開発者に……と思ったらテストエンジニア!? 聞いたこともない職種に回されてしまった美月は……! 異色のITシステム開発現場の生々しい奮闘ストーリー!

首を切り落とせ

大門美博
経済・企業
日本一のメガバンクで世界でも有数の銀行である川菱東海銀行に勤める山本優輝が、派閥争いや個々の役員たちの思惑、旧財閥の闇に立ち向かう! 第一章から第七章まで書く予定です。 惨虐描写はございません 基本的に一週間に一回ほどの投稿をします。 この小説に登場する人物、団体は現実のものとは関係ありません。

鳴瀬ゆず子の社外秘備忘録 〜掃除のおばさんは見た~

羽瀬川璃紗
経済・企業
清掃員:鳴瀬ゆず子(68)が目の当たりにした、色んな職場の裏事情や騒動の記録。 ※この物語はフィクションです。登場する団体・人物は架空のものであり、実在のものとは何の関係もありません。 ※ストーリー展開上、個人情報や機密の漏洩など就業規則違反の描写がありますが、正当化や教唆の意図はありません。 注意事項はタイトル欄併記。続き物もありますが、基本的に1話完結、どの話からお読み頂いても大丈夫です。 25年1月限定で毎週金曜22時更新。

処理中です...