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プロローグ
しおりを挟むその存在は夢を見ていた。
どこかもの悲しい夢を。
男が居る。
四十過ぎで親兄弟も居ない独り者。
余るほどのカネを持っているものの定職には就かず、日々を気の向くままに送っている。
男の考えていることが存在の中に伝わってくる。
嘗て必死に働いた事、稼いだ事。その代償で周囲が悲惨な状況に陥った事。
そして、疲れを癒す為にそこから離れた事。
存在には、男の波風の立たない暮らしが、ただ哀しいものと思えた。
しかしその生活が或る日を境に一変する。
十四・五才ほどの、髪の長い痩せた少女。
整ったその顔に滅多な事では感情を表さない。
男は、その少女を囲った。
存在は、やはり哀しいと思った。
男が、少女を笑顔にしようとし始めたからだ。
存在には分かっていたのだ、少女が何故笑顔になれないのかを。
男は、余っていた自宅の一室を改築し少女に与えた。
著名なデザイナーに委託したそれは、会心の出来と言う通りに完璧な仕上がりになった筈だった。
だが、少女は少し申し訳無さそうな顔をしただけだった。
男の落胆が存在の中に伝わる。
男は、ならばと、更に何かを買い与えようと考えた。
だが、ただ貯金を削るだけでは、少女に遠慮をさせるだけかもしれない。
そう考えた男は、かつて稼いでいた場所に戻る事にした。
実際に稼ぐところを見せられたなら自分の心が少女に伝わるかもしれない。
それで、少女に遠慮の気持ちが少しでも無くなればと。
存在には、男の考えている事が分からなくなり始めていた。
理解は出来るが、納得は出来ないという意味で。
男は、兜町の証券取引所に赴いた。
嘗て荒稼ぎをした場所。
だが199x年現在、そこはバブルが弾けて閑散としている。
儲けの為の価格変動幅(ボラティリティ)は期待出来なかった。
男は、相場に先ず空売りから入る、強引な手法を多用していた。
そして男が通った後には、ペンペン草の一本も生えていなかった。
そのため男は、その鉄火場に参加する相場師達から、“悪夢の売り方”という有り難くない二つ名を頂戴していた。
売り方は、相場では良く知られた方法で悪魔の召喚を行った。
それにあっけなく応え登場する悪魔。
妙に高価そうなダークスーツに、某大手証券会社の襟章をつけている。
身の内から溢れてくる胡散臭さを隠そうともしていなかった。
蛇の道は蛇の例え通り、売り方と悪魔の話は早かった。
契約金に話は至り、悪魔は売り方に“自らの魂”を要求した。
そこで売り方は、古ぼけたバイオリンケースを差し出した。
受け取り、ケースの蓋を開ける悪魔。
中には、ケースと同じ程度に古そうであるが、しかし手入れの行き届いたバイオリンが入っていた。
そのバイオリンは、売り方が幼い頃に彼の父親が買い与えたもの。
初心者用の安物の筈だったが、目利き達に見せると決まって興味を示した。
それ故、売り方が何かの担保になるものが必要になった場合、いつもこの古いバイオリンを提示する事にしていたのだ。
どうやら今回もその謎の価値は健在だった様で、悪魔は、それを食い入る様に見つめた後に思いの外に高い価格を提示してきた。
契約成立。
売り方は、悪魔から株式の口座を与えられ、バイオリンを手渡した。
そして内心でほくそ笑みつつ握手を交わした。
存在は、それは止めるべきだと思った。
そのバイオリンは見せ金の代わりにすべきものではないと。
だが存在の声は男には届かず、ただ、男の心がどこか遠いものに変わった。
その為、ただその様子を見るしかなくなってしまった。
もっとも、夢に口出しをする事など、そもそも不可能なのだが。
売り方は少女に、高価なマンションの一室と、それに見合った調度を与えた。
礼を言う少女。
その少しぶっきらぼうな仕草が、荒んでいた売り方の心を優しく撫ぜた。
悪魔は契約通りに相場を操った。
国債の不安や極端な通貨高を演出し、相場を下げに導く。
売り方は事前に売り玉を仕込み、要所でそれを買い戻し、益を得ていった。
売り方は少女を美容院に連れ出した。
病弱で、滅多に外出しないのを慮っての事だった。
少女は、整えられた髪の下に、普段は見せない明るい表情を浮かべた。
それが、相場が進むにつれ虚ろになっていく売り方の心に、暖かいものを与えた。
売り方はそれに幸せを感じた。
少なくとも存在にはそう思えた。
迎えるべき近い未来の前には簡単に消し飛んでしまいそうな、虚ろで儚い希望を拠り所にしていると。
相場は順調だった。
どこでどう売りを建てても、それは必ず利益を生んだ。
増してや彼は歴戦の相場師。悪魔のフォローもあって莫大な利益を生み出し続けた。
しかしその進行具合に反比例して、売り方のバイオリンを失った心は一段と虚ろになっていった。
それは、そのバイオリンが本当に売り方の魂である事の証明かもしれなかった。
それ故、悪魔から少女に入れ込む様を揶揄されても、売り方は気にも留めなかった。
売り方は少女をブティックに連れ出した。
前回の外出で元気なところを見せた事に、気を良くしていたのだ。
高価な服を幾つも試着させ、サイズさえ合えば、その全てを買った。
そして少女が最も気に入ったと思しき服を着せ、残りは家へ送る様にして、店を出た。
少女は少し上気した顔で、珍しく自分から行き先を希望してきた。
それは港にほど近い、有名な公園だった。
そこで売り方のバイオリンを聴きたいと。
シルバーのボディ、小さなドア、低い天井、豹を意味するエンブレム。
丁寧な運転で着いた目的地にて、少女を眺めのいいベンチに座らせる。
そして近くの出店へ行き、涼しげな洋菓子を買い求めた。
包装が済むまでの間、売り方は考える。
自分がバイオリンを演奏できることを、少女が知っていたのは意外だった。
しかしバイオリンは今は悪魔の手の内で、すぐには取り戻せない状況だ。
他のバイオリンでも演奏は可能だ。人に聴かせる程度の腕もある。
だが、少女には自分のバイオリンでの演奏を聴かせるべきではないかと。
売り方は何故かそう思い、処女への返答を出来ないでいたのだ。
しかしその逡巡は無用なものとなった。
両手に洋菓子を持ち振り返った売り方の目に映ったもの。
それは、ベンチの横に生気なく倒れている少女の姿だったのだから。
少女には持病が有った。
成長に比例して重くなるそれは、少女に普通の生活を許さない程に進行していたのだ。
応急手当の後に目を覚ました少女は、病室のベッドで強がってみせた。
だがそれには、明らかな強がりが滲んでいた。
その痛々しさに、売り方は手持ちのカネを全て主治医の前に積んで見せた。
しかし、主治医の返事は色良いものではなかった。
手術には、もっととんでもない額のカネが必要だと。
そして、仮に手術が成功しても、恐らく声は失われるだろうとも。
相場は佳境に入っていた。
売り方は、先日の手仕舞いで暫く相場を休みたいと悪魔に伝えた。
悪魔の方も、もういい加減下ブレイクは無理な状況になってきたと踏んでいた為、彼の提案に二つ返事で乗ってきた。
そして買い戻される悪魔の売り玉。
通常、ここまで売り叩かれた相場なら、少し上がったところで買い持ちの損切り売りが出てくるもの。売り玉はそれで難無く買戻しが可能。悪魔もそれを狙った。しかし。
異常に厚い売り板。
しかも少しでも買い上げると、すぐに板の外からその上の板を喰われる。
訝しむ悪魔。誰が仕掛けているのだと。
しかしその疑問はすぐに解けた。聞き覚えのある声が買いの注文を出していたからだ。
そう、その声の主は売り方だったのだ。
何故だ? と、驚きと怒りが半々の声で売り方に問う悪魔。
平然と、気が変わったと告げる売り方。
真意を読めない悪魔は、尚も買戻そうとする。
しかし、とうとう売値を超えたあたりで悪魔が悲鳴を上げた。
このままでは損を計上する羽目になる!
悪魔は、安い値段では殆ど買い戻せていなかった。
悪魔は売り方に、契約違反だとして契約の終了を宣告してきた。
それは即ち、売った魂を買い戻せという事だ。
だが売り方は、それを拒否した。
担がれ続ける悪魔は売り方に呪いの言葉を吐く。
曰く、売りは非人道的な行いだと。
曰く、少女性愛は悪魔の所業だと。
それはつまり俺が人間の屑だという事か? と悪魔に問う売り方。
そうだと答える悪魔。
したり、と発言を変える売り方。では契約を終了させようと。
そして買い玉を全て手仕舞い、大きな利益を手にした。
資金の殆どを失い、更には多額のマイナスまで作ってしまった悪魔は、バイオリンを、売った額以上で買い戻せと要求してきた。
だがしかし、人間の屑の魂にそんな高値がつけられるものだろうか?
まして、売りつける側が自らその価値が無いものと宣言している今に於いて。
事実、悪魔がバイオリンに貼り付けようとした巨額が書き込まれた値札は、何度やっても剥がれ落ちた。更には金額まで掻き消えた。
そこにまで至って悪魔は、やっと最初から売り方に嵌められていた事に気づいた。
結局売り方は、バイオリンをタダに近い額で買い戻し、悪魔の口座にはダメ押しのマイナスが加算された。
その売買にて得られた大金で少女に手術が施され、その後、療養生活に入った。
しかし少女は期待された快復を見せず、淡く微笑むのがやっとだった。
そして主治医の予言通り、彼女の声は失われていた。
バイオリンを取り戻した売り方の心が軋む。
と同時に、存在の中にも再び、その心の機微が伝わってきた。
少女の容態急変を自分の所為ではないか? とする自責の念が。
打てる手は全て打ったという認識が、現状を諦念に染めてみせる様を。
そして存在は、また哀しくなった。
売り方が諦めようとしなかったからだ。
曰く、相場には何だって有る筈だと。それこそ命さえもと。
つまり、売り方のその悲愴な決意を知る事によって。
夢は、そこで終わった。
存在は売り方に会いたいと思った。
しかし自身はこの世のものではない。名前すら無いのだ。
そもそも、会うには相手から存在を認識される必要があるが……
そこまで考えて存在は気が付いた。
会いたいのは寂しいからだと。
寂しいというのは、自我が蘇っているからだと。
そして、数十年の空白の期間の終わりの日に訪れたこの自我の復活は、売り方が自分を認識してくれる可能性があるのだという事を。
そして存在は思い出した。
かつて自分が他者から認識されていた事があるのを。
そこは株式相場であり、そこで自分は“相場の神”と呼ばれたのだと――
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