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第39話・達観2
しおりを挟む広い広い法帖の館。
那須のお山の高いところの別荘地、その只中にあって周囲に別の建物も無い。
ぽつんと建ってる、異常に巨大で豪奢な造りの洋館の中。
真夜中に聞こえてくるのは、遥か遠くからの風の音くらいだ。
そんなとこに心細くもたった一人で、しかも昔の女の事を思い出して思い切りブルーな気分のままで、まともに寝れるわけはないと思ってたんだが。
今は土曜の朝の9時。
那須のお山は今日も雲一つない快晴の中に。
すっかり寝が足りて冴えた頭と体で、キチンとタキシードを着て、掃除の業者たちを迎え入れている。
「お早うございます、お待ちしておりました。私は館の主の代理人で加治屋と申します」
「おはよう……って、また監督役の人が代わったの?」
「え?……ええまあ」
裏庭の駐車場。
そこに駐車された、30人乗り程度のマイクロバスと2t積みくらいのパネルトラックが各1台。
トラックのパネルサイドには、掃除会社を示す派手なプリントが。
バスはレンタカーのようでプリント無しのシルバーボディ、中から20数人の作業員が降りてくる。
そして、黙々とトラックから掃除用と思しき機材を降ろし始めた。
その中の一人、どうも作業員の上司らしい女性(他の作業員はお揃いの作業着なのに、この女性だけは紺色のスーツ姿だったのだ)がこちらに歩み寄って来て、上の会話になったのだが。
「ふうん、今度はなんとも若いのになったものね……大丈夫なの?」
遠慮のない視線を投げかけてくる女性。
年齢は、俺と同じくらいか(つまり30)。
身長は160ちょうどってとこだろう。太っても痩せてもいない。前髪を横に流した髪型の下に、細い眼鼻と小さな口が付いている顔。
ぞんざいな物言いに違わない、イヤミっぽい雰囲気を持っている女だ。
「はい、引継ぎは問題なく済ませてあります」
女の物言いにちょっとムッとしながらも、とりあえず丁寧な返答をする。
仕事は信用が第一。
初手から悪印象を与えてはいけないからな。
「そんなチャラい恰好してよく言うね、似合ってないよ?」
鼻笑いも一つ追加して。
なんだコイツ、煽るようなことをいけシャーシャーと。
「確かに、この服は仕立ててもらったばかりなのでまだ馴染んでないところはあるかもしれません。しかし仕事に影響は与えませんので」
問題無い旨を申し立てる。
しかし。
「その服に見合うような仕事ができるって言うの? へえぇ……」
ニヤニヤしながら。
「何年経ってもムリじゃない?」
更に煽ってきた。
「…………」
童顔というのはホント良い事ないよな。
初対面では必ずなめてかかられる。
それでも、こんな露骨なのはめったに無いが。
「あら、怒っちゃった? ゴメンね。でもぉ」
怒らせるのがそもそもの目的だったのか、女が急にマジメな顔になって。
「アンタのような若いのに使われるのは嫌なものなのよ。そこ分かってね」
などと宣ってきた。
「私は今年、社会人8年目の30才です。あなたとそれほど変わらないと思いますが」
と、とりあえずの反論を試みた。
と同時に、脳裏にチビッ子メイドの横顔がよぎる。
ああ、サラも最初はこんな気分だったのか……
女性は若く見られたほうが嬉しかろうと思ってても、社会人としてのやり取りの中では気分悪い事この上ないよな。
今度会ったら謝っておこう。
会えたらだが。
「はい? さんじゅっさい? そのぼっちゃん顔で?」
女が、わざとらしいほどの驚き顔で俺の顔を凝視して。
「よほど楽な仕事をしてきたのね、その様子だと」
と嘲るように言ってきた。
「……そろそろ仕事にとりかかって頂けますか?」
基板設計の仕事の責任の重さは、相当なものだ。
それを使う電気製品の性能や安全性を決定づけるのはもちろん、未だに決定的な設計検証の手段が確立していないのだ。
だから、製品前のチェックは使えるシミュレータ全てを動員して、その上で配線図や過去の問題事例なんかを首っ引きでプロットアウトした図面を塗り絵して、問題となる可能性のあるところが無いか確認している。
モノによっては、データ作成時間よりもチェックする時間の方が長い場合だってあるほどに念入りに。
それでも不具合やミスは発生する。
それらは殆どが初めて発見されたものなのだが、それでも発注元に対しては責任をとる必要がある。場合によっては設計代を減らされることだってあるのだ。
(もちろん自分の査定や給料にも響いてくる)
だからプレッシャーの連続だ。
入社して2~3年で辞めていく者が後を絶たない。
正直に言って、10人入社して1人残れば御の字だ。
全滅した年もあったほどだから。
「そ、そうね。いえ別に仕事したくないって言ってるんじゃないのよ。ただね」
自分の本業を思い出して、知らずに眉間にしわが寄ったのか。
俺の顔を見てハッとした表情になった女が、話を変えてくる。
「魚心あれば水心って言うでしょう? 30才なら言いたいこと分かるよね?」
声を潜ませて。いかにもこれが本題だと言わんばかりに。
「……具体的にお願いします」
どうせロクなことではないと分かってはいても。
とりあえず全部喋らせる必要はあった。
でなければ断ることもできないから。
「じゃあぶっちゃけるけど、要は手抜きさせてね、って事よ」
女は、館側の人間が俺以外に居ないと気づいたか、憚りない声量でしゃべり始めた。
その内容は、手抜き掃除をするが、館の主には完璧な仕事だったと報告して、通常の料金を支払わさせてほしい、というものだった。
「アンタもどうせバイトみたいなもんなんでしょ? 時給安いんでしょ? お礼に1枚あげるからさ」
1枚……1万円のことだろうか?
5千円、いや千円かもしれんところが怖ろしい……
「なに変な顔してんの、仕事なんて適当にやってればいいでしょ。カッコつけたって良い事なんてないんだし」
金額について考える際に表情が曇ったか、女がダメを押すように手抜きの了承を強要してくる。
しかし、なんとも薄っぺらい仕事観だ。バイトの高校生かよ。
でもまあ別に珍しくもないか。
栃木に来てからこっち、今まで会った人たち全員ちゃんとした人間だったってだけで、むしろその事の方が珍しいと言える。
「もう、さっさと分かりましたって言いなさ――」
「お断りします」
被せるように言った。
「はあっ? 断るですって? バカなのアンタ???」
本気で驚いた顔になる女。
まさかとは思ったが、この手抜きの提案、俺の仕事に対する姿勢を問うカマかけとかではなく、本気のものだったのだ。
女の表情でそれが確定した。
「本気のご提案とは思えませんでしたので」
だから、サックリ断った。
「こんな事、冗談で言えるわけないじゃない」
しかし、女はなおも食い下がってきた。
いい加減しつこい。
「本気なら尚更問題です。強要されるのであれば、この会話を私の雇い主に見せて、今回の仕事を取りやめにしてもらうことも可能ですが」
「へえっ!? どうやって? そんなんワタシが言ってないよって言えばオシマイじゃん」
ニヤニヤ笑いやがってこの女、とことん俺を舐めてかかってる。
かなりムッときたので、少し痛い目を見てもらうことにした。
「これなんですがね」
「なによ、そのカメラがなんだってのよ」
祢宜さんから預かっている、例の一眼レフ。
長いレンズの中ほどを右手で持っている。
元々は、掃除の結果を写真に収めて、データを神社の方へ送るために持っていたのだが。
「この表示部をご覧ください」
言って、カメラを再生モードにして背面を女に突き出して見せる。
背面のほとんどは液晶画面だ。
「なっ……」
画面は恐らく、女の足元が映ってるだけだろう。
しかし音声は。
付属のしょぼいスピーカーから、先ほどまでの女の声が流れ始めた。
「ひ、卑怯よこんなの」
ファインダーを覗かなければ、撮られているとは思わない。
そんな、人としての習性を教わっていた。カメラサークルの先輩から。
(昔の青年向けマンガにそういうシーンがあったのだとか)
「言った事を言ってないと白を切る奴に言われたくはないね」
そして、最近のデジカメは動画も撮れる。もちろん音声付きで。
何かの規制のせいで30分までしか撮れないらしいが。
だがそれでも、悪質業者の鼻っ柱を折るには充分な時間だった。
「分かったわよ、普通にやれば良いんでしょ。あ~あ、ヤなやつぅ」
嫌そうに言って、踵を返して館の方に向かう女。
その間際、俺の足元に唾を吐いた。
って、コイツ!
少し俺の靴にかかったじゃねえか!
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