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第38話・達観1
しおりを挟む満月の夜。雲一つなく晴れ渡っている。
まるで、昔の洋画によくあった疑似夜景のような明るさ。
「俺だ、九郎だよ! 加治屋 九郎!」
そんな明るさの中で見てるのだから、まず間違いはない。
この、一心不乱にフルートを演奏している女性は、あの純音だと!
「聞こえないのか!?」
フルートを吹いていると周囲の音が聞こえにくくなるのかもしれない。
そう思って訊いたのだが。
「…………」
フルートの音に切れ目は無く。
月夜のゲレンデに『ロミオとジュリエット』が流れ続けた。
「待ってろ!」
言って駆け出す。
立っているのはレストハウスの2階通路。そこへ繋がる鉄製の広い階段へと。
明るさ故によく見えていた。
しかし、だからこそ目を疑った。
純音の顔が、最後に会った7年前と全く同じに見えたから。
「うおおおお」
階段を駆け上る。
その間は、角度の都合で純音の姿は見えない。
それに、月影になるので、足元を注視しなければ危ないという事情もあった。
「おおっ、と……あれ」
階段を上り切って左を見る。
だが忽然と。
というか、それが当然といった感じで純音は消えていた。
もちろん、フルートの音も。
確かに、階段から左に10メートルほどの位置に居たのに!
とりあえずその場所に行ってみる。
スキーブーツで歩いても平気なように作られた、ゴツい通路。
そこを、場違いな革靴の乾いた足音を響かせつつ。
「……なんでだ」
着いた場所。
そこからは、月光に浮かび上がる雪のないゲレンデだけが見えた。
仮に、あの純音がプロジェクターで投影された映像だとすれば(例えば、月見客を楽しませるために、スキー場が用意したものだとして)、それを実行するための機器とかが、この位置からは見えて然るべきなのに。
視界の中にある人工物は、中途半端な位置に停められたスタリオンだけだった。
「じゃあ、あの純音は」
幻だったというのか。
懐かしさに刺激された俺の脳が見た、単なる願望の発露であると。
「…………」
こんな山の中でドレス姿ってのは、確かに願望の表れとしてスタンダードなものかもしれない。
風貌が7年前のそれなのも、その仮説を補う事柄だろう。
更に、演奏曲が良く知ってるものなのも、それに追い打ちをかけている。
「だが、それでも」
納得はいかない。
何故なら、俺は純音がフルートを演奏しているところを見たことがないからだ。
いや、話には聞いていた。
趣味で楽器演奏のサークルに入っていると。
そこでの担当はフルートだとも。しかし。
「居ないものは居ない、か……」
改めて周囲を見回す。
だが、どこにも人の気配は感じられなかった。
「ああ、そういえば」
振り向く。通路の建物側。
そこはガラス張りで、中には広い食堂のような設備がある。
すぐ横には、出入口の大きなドアが。
「ここで昼飯食ったんだよな」
何の気なしに、その大きなドアを押してみる。
シーズンオフの真っ只中、ドアには当然カギがかけられてる筈。
そう思ったのだが。
「……いらっしゃいませ、なのか?」
多少の重量感はあるものの、とりあえずドアは外に開いてしまった。
「え……」
見回す室内。
そこは、非常口を示す緑色の表示で薄明るく照らされていた。
そしてそれが指し示す先には、大き目の階段が。
「まさか」
そう思いながら室内に入り、並べられている椅子やテーブルを縫って階段の方へ歩いていく。
そして、階段の降り口に着いたところで、下の方からクルマのエンジンがかかる音が!
「ウソだろ」
言いながら、薄暗い階段を駆け下りる。
少し怖いものがあったが、言ってる場合じゃなかった。
「…………」
下の階に着いて、聞き耳をたてて音の元を辿る。
しかし、それよりも非常口の室内灯を探す目の方が速かった。
「あそこか!」
建物としては裏口、しかし、道路の前に面した側に、非常用の出入口らしいドアがあった。
それを目指して、2階と同じようなイスやテーブルの間を駆け抜けていく。
「おいおい」
ドアに着く。
今度は確信を持って、ドアノブを捻ってを外側に押した。
するとそれは何の抵抗もなく開き……
「ちょっと」
裏庭みたいな駐車場。
そこあったのは、月光のそれをも凌ぐかという白さの座布団。
野太い排気音、後部に付けられている赤いテールランプを数回瞬かせて。
「待てよっ!」
軽いホイールスピンを残し、目の前の道路への出入口へ走っていく。
「……すみねっ!!」
建物から出て、敷地の端の柵に張り付く。
座布団の行く先を確かめるためだ。
しかし、それは出入口から那須湯本の方へは向かわずに、こちらの方へ戻ってきた。
「…………!?」
そして、俺の目の前で道路の向こう側にある広い駐車場の方へ曲がって行き、更に排気音を甲高いものに変えて、山の下の方へ走り去っていった。
「……くっ」
追いかける? 今からスタリオンのところまで駆け戻って?
無理だ、到底追いつけない。
いくらスタリオンが暴力的な加速力を持っているといっても、これだけ差を開けられてしまっては。
しかも通った事のない峠道を。それも加速力の差が出にくい下りで。
仕方なく、白い座布団の排気音が聞こえなくなるまで、その柵の前に立ちつくした。
………………
…………
「でもまあ、よくある事じゃねーの?」
自分を慰める様に言う。走行中のスタリオン。
那須湯本のあたりは、この時間でも結構な人出だ。
来た時よりもその数は増えてるっぽい。
「元々、どこか人気のないところでフルートを吹こうとしてたと」
上り下りを問わず、クルマが数珠つなぎに走っている。
その狭い道(辛うじて片側一車線)の路側帯を、なにかのイベントがあるのか、大勢の人が歩いていたりする。
たまに車道まではみ出て歩いてる奴もいて、これはちょっと危ない。
「ところが、山に行く途中で面白そうな車に会って。それで付いて行こうとしたら撒かれて。仕方なく当初の予定通り山に来て」
それが若いカップルだったりすると特にムカつく。
撥ねられたいのか!? 当たっても知らんぞまったく……
「で、フルート吹いてたら、さっきの車がやって来て、出てきた男が訳の分からないことを言い出したと」
そうこうしながらも、なんとかその道幅の狭いゾーンを抜ける。
歩行者たちも、どこへ行ったのか全くいなくなった。
「そりゃ逃げるわ。当たり前すぎる」
考えてみれば当然の結論に、一人で頷く。
向こうにしてみれば相当怖かっただろうな、スマンかったな、と反省もした。
と内省しつつスタリオンを下らせていると、見覚えのある道路名の標識を見つけた。
その四つ角を右折すると、例の山岳道路に乗れるらしい。
迷わず、スタリオンを右折させた。
「しっかし、純音かあ」
一気に減る交通量。
市道への入り口まで一本道という事もあって、少し気持ちに余裕が生まれる。
「最後に会ったのは……」
就職した年。
6月に開催される、基板業界のショー。その自社コーナーの裏方としてビッグサイトに駆り出された日だった。
会社に入って2か月ほどで、まだ研修中の身だったので、やる事といえば基本的に雑用がメインだったのだが。
そこへ、純音がやって来たのだ。
学部を卒業し、院へ進んだと聞いていた。研究室に残ったと。
だから、そりゃ驚いた。
基板関係のショーなんて、むさいおっさんしか来ないと相場は決まってる。
そこへ、地味なリクルートスーツながら、可愛らしさでは定評のあった純音が来たのだから。
もう目立つのなんの。
即つかまえて話を聞いた。
すると、別に驚いた風も無く、純音はショーに来た理由を答えてくれた。
曰く、フィールドワークとして教授から外へ出ることを勧められたのだとか。
たしかに、後ろの方に大学の教授と、見覚えのある奴が2人ほど居た。
それで、そのショーを選んだのは……
「おっとお……」
カーブの向こう側から、ヘッドライトが上向きの対向車が出てきた。
パッシングして抗議する距離は無い。
目を細めてやり過ごす。
……そのショーを選んだのは、基板設計会社に就職したという俺に、会えるかもしれないと思ったからだと。
純音は、うつむいて赤面しながら、そう打ち明けてくれたのだ。
いやもう、大興奮!
若かったから。
だから、その日の宵の口に近くで落ち合おうという話になったのは当然の成り行きだし、有名高級ホテルの部屋が予約されていたのにも、特に疑問を持たなかったのだ。
若かったからな……
「くくく……」
自虐の笑い。
それで見落としそうになった。館への私道の入り口を。
「! きゅううっとな」
ブレーキかけてシフトダウン。
逆から見るとまるで見覚えのない風景だ。
建物の名前が多数書かれている看板に気づかなければ、行き過ぎる所だった。
「そしてカクッと」
ウィンカー出しつつ対向車が無い事を確認し、右にハンドル切って私道に入る。
館はこの先だ。
道順も、水曜に少し迷ったからよく覚えている。
ところが、純音と会った夜の事は、実はあまりよく覚えていない。
舞い上がってたんだろう。とにかくメシだってんで、会社の先輩に教えてもらった、こ洒落た店に連れて行った記憶はある。
純音がよく使ってるというホテルに行ったところまでは、なんとなく。
そして、幸せの絶頂の中で目覚めた次の朝、純音は居なくなっていたのだ。
「ここで曲がる、と」
信号の無い交差点を左折。
辺りに街灯や建物などはなく、月が無ければ全くの闇だったろう私道を、ヘッドライトの明かりだけを頼りに走っていく。
そう、頼るまでもなくホテル代は払ってあった。
俺は、照れ隠しなのだろうと勝手に決めつけ、赤外線通信で教えてもらっていたケータイへすぐには連絡を入れなかったのだ。
それで数日後、純音のケータイに電話をした。
ホテルのお礼をするつもりだった。もちろん、これからの事も話すつもりで。
しかしその時点で、その電話番号は使われていないものとなっていたのだ。
「そしてこのTの字を右折すると、もうすぐ見えてくる」
まるで見えなかった。
純音が何を考えているのか、その意図が。
行方も杳として知れない。
大学の研究室や、かつてのサークル仲間たちにも連絡を取ったのだが、手掛かりすら掴めなかったのだ。
「はい、着いた」
諦めはつかなかった。
しかし、社会人一年目の若造にはしなければならない事が山のようにあって、逃げられた女の後を追いかける時間の余裕は露ほども無かった。
それで、余裕が出来れば、とか、次の同窓会の時に、とか考えているうちに、いつしかその優先順位は酷く低いものに変わって行ってしまったのだ。
「留守の間、何事もなかったようですね、っと」
正門をスタリオンの窓からリモコンで開き、館の様子を見る。
満月の光に威容を浮かび上がらせるそれに、何らかの変化があるようには見えなかった。
……考えてみれば、あの事があってから、どうも俺の厭世観が酷くなったような気がする。
女は、いや、他人は基本的に信用できないものだという――
「裏庭も問題無しと」
祢宜さんから借り受けたマスターキーで、裏口から館に入る。
館の中は、非常用を兼ねた薄明るい常夜灯が点いていた。
その明かりを頼りに、地下室を目指す。
「やはり気になるからなあ」
とりあえず、再起動には成功したという試作のスーパーコンピュータ。
俺は、他人はおろか機械まで信用しなくなってしまったのか……
「ふむ、やっぱ俺の気にしすぎか」
手術室のような白く広い部屋の中央に鎮座する、四角い金属製の大きな箱群。
冷蔵庫のようなうなり音。
暗闇の中に、各々数個ついているパイロットランプの薄緑の光。
それらからは、なんら異変は感じられず。
「だよなあ。だから仮になんかあったとしても」
それは俺の疲れが見せる幻覚だろう。
今日は色々あり過ぎた。
だから。
コンピュータの上に、中学生くらいの女の子が座っていたとしても。
「……ふっ」
幻覚だな。間違いない。確定。
何故ならその女の子は、その淡いピンク色の少し大きめなサイズのパジャマを着た女の子は。
その、ボブテイルに切り揃えられた髪に大きなヘッドホンを乗せて、少し悲しげな表情をこちらに向けてる女の子は。
どう見ても純音の子供の頃にしか見えなかったのだから。
だから、ため息を一つ床に落とした後、そのコンピューターの上を見ると、そこにはもう何もなかったのだ。
「だろうな……」
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