美味しいだけでは物足りない

のは

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 挨拶なら済ませてあります

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 空っぽだった食糧庫に、塩、油、砂糖などの調味料が、そして米や小麦、豆や根菜類などが入るだけでもだいぶ見違えた。
 しかも、オーレンときたら人に頼らずすべて自分で運び入れたらしい。すごい体力だ。

「トマトの時期が楽しみですよね。あのあたりの瓶は全部トマトで埋まります」
「まあ、トマトはたくさん必要だよね」
 ナジュアムの適当な相槌に彼は顔を輝かせ、トマトソースの万能性について語り始めた。
 生き生きしていて可愛いが、ナジュアムのはまだ存在しないトマトソースより、もうすでに中身の入ったものに興味があった。春野菜のピクルスやオイル漬けは彩りを考えて仕込んであるらしく見ているだけで楽しかった。
「美味しそう……」
「味見しますか?」
「いや、いまは食べないよ」
 きっぱり答えると、オーレンはなぜかしょんぼりした。
 けど、これらが増えていくのを見るのは、ひそかな楽しみになりそうだ。

「そうだ、ナジュアムさん。今度一緒にマルシェに行きませんか?」
 明るく話しかけられて、ナジュアムは一瞬言われたことの意味を捉えかねた。
「俺と?」
 本気だろうか、それとも社交辞令なのかわからず見つめ返す。オーレンは例のあの、断られると思っていないようなキラキラした瞳で返事を待っている。
 ナジュアムは困惑して視線を下げた。

「けど……」
「お忙しいですか?」
「そうじゃなくて、嫌じゃないの? 俺と出かけるの」
「どうしてですか?」

 耳の奥で聞こえたのは、ヤランの声だ。おまえと一緒に歩くと恥ずかしいんだよ。周りに妙な誤解なんてされたくねえ。そんなふうに言って、彼は人前でナジュアムと会おうとしなかった。
 思えば結構前から、こっちが浮気相手だったのかもしれない。
 沈み込みそうになるナジュアムを、ふっとすくい上げるようにオーレンは微笑む。
「どうして?」

「その、変に、誤解されたりだとか……」
「誤解って何をです?」
 オーレンはさっぱりわからないというように首を傾げている。
「だから、周りの人とかに」
「ご近所さんになら、もう挨拶を済ませてありますよ?」
「え!?」
 思いがけないことを言われて、ひっくり返るかと思った。

「いきなり知らない男が家の周りをウロウロしだしたら不安でしょう? ナジュアムさんに住んでいいと許可をもらってすぐ隣三軒は周りましたよ」

 当然でしょう、みたいに言われても初耳だった。
「うっそ、なにか、言われなかった?」
 ナジュアムは恐る恐る尋ねた。小さい頃から容姿のせいでいろいろと誤解を受けやすい。年に数回は誑かしたのなんだの言われるので、ご近所づきあいも最小限にしている。
「ナジュアムさんが相当なお人好しだということはわかりました」
「お人好し?」
「そしてトマトソースを分けてもらいました」
「ええ?」
 いや、確かに、うちには存在しないはずのトマトソースが料理にちょいちょい使われてはいたが。

 今度はナジュアムのほうがさっぱりわからない。説明を求めてオーレンを窺うと、彼のほうもナジュアムを見つめていた。

「俺、行きたいです。もちろん、ナジュアムさんが嫌じゃなければ、ですけど」
 彼は本気で言っているのだと、ようやく理解した。
「……行きたいの?」
「はい!」
 この人たらしめ。
「なら、行く」
 そう答えると、こちらまで頬が緩みそうになるくらい、オーレンは喜んだ。


「一緒に、買い物か……」
 次の日仕事に行ってもどことなくソワソワしてしまった。気を抜くと、何を着て行ったらいいかなんて考えてしまう。
「ナジュアムさん、いいことでもありましたか?」
 下働きの少年に指摘されてしまう始末だ。
「別に、なにもないよ」
 とっさにごまかして、集中していない自分を心の中で叱咤して仕事に戻る。

 浮かれている自覚はある。
 たとえば、しつこい客に付きまとわれても面倒な先輩にからまれても、あまり気にならない。おおらかな気持ちで受け流せる。
 そうして気づけば、約束に日が近づいていた。

 その日の仕事はとても順調だった。客をスムーズにさばけたおかげで、昼休憩も余裕があった。
 このところ、オーレンはナジュアムにジャムかパテの小瓶を押し付けるようになった。食べきり前提なので開けられない日も多く、時々こっそり下働きの子にあげたりしていたのだが、今日は開けてしまおう。

 瓶は引き出しに入れてあって、すでに七個ほど溜まっている。そこからジャガイモのパテを選び取る。
 ふたを開けた瞬間から、もう期待が高まっている。
 小ぶりのジャムスプーンですくい取り、パンにひと塗すれば舌触りは滑らかで、ジャガイモの甘みとチーズの塩味が素朴なパンの風味を引き立てた。ここにスープもあれば最高だが、断っているのはナジュアムだ。
 休憩中とはいえ、職場に良い匂いを漂わせてしまうのは問題だ。目立ってしまう。

 そのくらい食べたって罰は当たりませんよ、なんてオーレンの不服そうな顔が目に浮かぶようでナジュアムは頬を緩めかけ、慌てて引き締める。
 一瞬、家にいる時のようなくつろいだ気分になっていた。本人もそうだが、彼の作る料理もかなり危ない。

 夕方になると少々問題が起きた。
「ナジュアムさん、ごめんなさい、僕……」
 下働きの少年が泣きそうな顔でやってきた。渡すべき書類を間違えてしまったらしい。こういう時は叱ったりしない。委縮して失敗を隠されるほうがずっと困る。
「大丈夫、良く気付いたね。あとは任せて」
 彼の視線に合わせ身をかがめ、ナジュアムは彼を安心させるようしっかり頷いて見せた。

 実際、たいした失敗ではない。ナジュアムがちょっと行って叱られてくればいいだけだ。
 全部片づけ終えたときにはさすがに疲れてしまったが、家に帰ればいつものようにオーレンがおかえりなさいと迎えてくれる。
 それだけですっかり気が抜けてしまうみたいだった。
 彼の笑顔を見て、思いがけず腹の虫が鳴いた。
 こっちは恥ずかしくてたまらないってのに、オーレンときたら笑うでもなく咎めるような顔になっているし。

「お昼はちゃんと食べました?」
「食べたよ。パテもちゃんと食べた」
「ならよかったです。今日はスズキを焼きましたよ」
「食べる」
 
 粗くちぎったパセリで飾られたスズキは、皮目がこんがりとしていて、いかにもうまそうだった。
 一口食べればうまみが口の中にふわっと広がる。ブラックオリーブのねっとりとした塩味や、ケッパーのほのかな辛みとよく合った。
 ピクルスの酸味が今日はまろやかだ。それがまたこの料理にはぴったりなのだ。

「美味しいですか?」
「美味しい……」
「じゃあどうして顔をしかめるんですか?」
「美味しすぎて困ってる」

 食事中だからか、オーレンは声を殺して笑った。
「食べすぎなきゃ大丈夫ですよ」
「食べすぎちゃうだろ、これ」
 ナジュアムがムッとすると、オーレンの口から堪え切れなかったように短い笑い声が漏れる。
「ったく、太っちゃいそうだよ」
「まさか、太ったから追い出すとか言いませんよね?」

 妙にうろたえるから、今度はこっちが笑ってしまった。
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