光の射す方へ

弐式

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27.それを光と信じて(最終)

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   *   *   *

 あれから季節が変わり、灯は表面上はかつての生活に戻っていた。
 
 灯は2ヶ月ほどのリハビリを経て退院して、学校に復帰した。学業にとって1ヶ月のブランクができたのは大変だが、灯にはまだ充分やり直す時間がある。

 むしろ問題は、灯の命が誰かに狙われているらしいということだった。

 リハビリは思いのほか順調で、1ヶ月が過ぎたことには退院の目途が立ったと灯自身は思っていた。それからさらに1ヶ月退院までに時間がかかったのは、万が一を考えた医師が退院の許可を長引かせていたのではないか、と灯は後になって思う。

 警察は一時は灯の母親を疑っていたようだったが、地道な捜査の末、事故現場の近所に住む30代の女を逮捕した。

 目を覚ました時に会った二人の警官が顔写真を持って聞きに来たが、灯の全く知らない相手だった。

 動機は、姑との確執やなかなか子供ができないことへの執拗な干渉や家庭のことに無関心な旦那などによってストレスが溜まり、突発的に家を飛び出して、たまたま見かけた女の子を発作的に突き飛ばした、というものだった。

 理不尽な話だと思ったが、そんなものかもしれないと思って不思議と怒りは沸かなかった。

 灯が怒らなくても、然るべき処罰が与えられるだろう。

 そんなふうに思えたのは、ついこの間まで、もっと理不尽な世界にいたからなんだろうと思う。

 灯は、自分がアカリだった、あの闇に閉ざされた世界やエリューズニルでのこと、そこで出会ったヘルやバルドルのことを誰にも話さなかったし、話す気もなかった。

 話したところで夢の話だの、臨死体験が見せた幻だったとでも言われるのが関の山だろう。しかし、灯にはどうしても、あれが自分が死と接したことで見た幻覚だとは思えなかった。だから、本当に語るべき時が来て、語るべき相手がいたら、その時は語ろうと思っていた。

 あの世界で、バルドルは言った。

 自分の価値は、自分で決めるんだ、と。

 自分自身で生き方を決めて、納得できるように生きるのだ、とも。

 そして――母親が、それを認めてくれないのなら、納得するまで喧嘩すればいい……そんなことも言った。

 でも……再び、家族での生活が始まっても、それは叶わなかった。

 表面上では元の家族の生活が始まったように見えたが、全く異なるものだった。

 灯がピアノを弾かないと宣言したからか。

 灯が事故によって生死の境を彷徨ったからか。

 その結果、灯の体は普通の生活はできるようになってもピアノを弾くようなことは、とても望めなくなったからか。

 それとも警察に疑われて連日取り調べを受けたからか。

 何がきっかけになったか分からないが、母親は灯の存在を認識できなく無くなっていた。灯はいないものとして扱われるようになっていた。意図的な養育放棄や無視ネグレクトを仕掛けてくる相手には喧嘩のしようもない。

 さすがにまずいと思った父親が連れて行った精神科の医者の見立てでは、灯のことを意識的に無視しているとか、そういうことではなかったらしい。

 母親は、起きながらにして夢の世界の住民となっていた。

 母親の心の中には、本物の灯ではなく、別の灯が住んでいた。母親の中にいる灯は、誰にも負けないピアノの名手で、母親の理想を体現した人間になっていた。

 灯は、母親が”理想の”灯のために作った食事を食べていた。

 そんな居心地の悪い家庭に嫌気がさしたか、父親は自然に家に寄りつかなくなっていった。それでも、義務感からか世間体か、灯が高校、短大を卒業するまでの費用は出してくれた。

 短大を出てから家をでて、父親とも数えるほどしか会っていない。

   *   *   *

 それから長い時間が経った。

 灯は証券会社に就職して縁のあった取引先の男性と結婚し、やがて男の子をもうけた。そして、その子もいつの間にか成長し、もうすぐ24歳になる。そして、もうすぐ結婚しようとしている。

 言葉にすれば一言だが、その間に色んなことがあった。

 思い出を振り返れば振り返るほど、自分はいい母親だっただろうか、と自問しては苦悩する。他人に愛されたことがない者は、他人を愛する術を知らない。

「君はいい母親だったよ」

 コップのワインを口にしながら夫に言われ、灯はうつむく。あの闇の世界での出来事や、エリューズニルでの話を、灯は初めて他人に話していた。

 母親とは、家を出てから5年ほど経った頃一度だけ会った。

 風の噂で母親は一日中家からは出ない生活を送っていると聞いた。父親が手配して世話をさせていた家政婦に挨拶し、久方ぶりに実家に戻った灯は迷わずにピアノが置いてある部屋に向かった。

 小さな丸椅子に腰かけた母親は、にこにこしながら時折拍手していた。母親のこんな顔を見るのはいつ以来だろうと悲しくなった。きっと彼女には、ピアノに向かって弾いている灯の姿が見えているのだろう。

 ……あなたの理想の娘になれなくてごめんなさい。

 灯は心の中で呟いた。

 その時母親が、灯のほうに目を向けずに言葉を発した。

「ねぇ、灯。あなた、10年くらい前に、事故にあったことがあったよね?」

 灯は、はっと振り返る。

「私ね……あなたが眠ってる間に夢を見たの。あなたは真っ暗な世界を旅してた。自分を探して彷徨っているの。それでね――あなたの中で私は怪物だった。そしてあなたはピアノが大嫌い」
 
 母親は灯のほうを振り返らなかった。その母親の前に、灯は立った。その灯のことはやっぱり見えていないようで、まったく反応はなかった。

 そんな母親の両肩を灯は掴んだ。

「そうだよ! 私は――」

 その声だって、彼女には届いていなかった。自分の両肩に手を置いた灯ではなく、幻の灯に向かって母親は話し続けた。

「そんなの、嘘だよね。ひどい悪夢だったよ……」

 灯は彼女の肩から手を放して、自分でも清々しいと思える満面の笑みを浮かべて言った。

「……そうだよ。あなたの娘が、そんなはず、ないじゃない」

 それはきっと、灯が彼女にかける最後の言葉。もう二度と会うことはないだろうと思いながら、実家を後にした。

 結局、自分があの闇の世界で得たのは、"生きる"ということは他人を踏みにじるということなのだ、という事実にすぎなかったのかもしれない。

 もしそれを口にしたら、バルドルは怒るだろうか。

 ヘルは、それみたことかと嘲笑するだろうか。

 それと同時に、中学生の時に、死さえ考えるほど強烈な絶望感も、過去の出来事になってしまえば、なんてささやかなことだったのだろうとも思える。事故が原因で灯はピアノも弾けなくなったし、走れなくもなった。無くしたものは多かった。

 それでも灯は、どこかに光を探してきた。

「また」という言葉を残して別れたバルドルの姿を、今でもどこかに探していた。そして、ある日突然、バルドルが誰なのか気付いた。彼の顔を見るたびに、バルドルの顔を思い出す。本当にそっくりなのだ。探すまでもなくバルドルはいつでも灯のそばにいて、ずっと、ずっと見守ってくれていたのだ。

「もう少し飲むか?」

 夫に差し出されたワインのボトルに、灯がグラスを差し出した時、玄関が開いたことを知らせるチャイムが鳴った。

「ただいま」

 という息子の声に、

「おかえり。光輝……」

 ちょっと呂律が回っていないかな、などと思いながら灯は声をかけた。

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