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 僕らが家に着く頃には、空は真っ黒に染まっており、無数の星に覆われていた。夜ごはんを自室に持って行き、栞と食べた。これが彼女と食べる、最後の食事。三時間を切った。
  
「何しよっか」

 僕の部屋の壁にかけてある時計を見て、栞は言った。

「一つやりたいことあるんだけど、いい?」
「なに?」

 僕はトランプを取り出した。不思議そうに僕を見る彼女を横目に、シャッフルする。
 
「好きなカード引いて」

 彼女は僕が何をしようとしているのか、察したのか何も言わず、引いてくれた。網戸にしているため、入ってくる風が心地いい。もう少しで秋がやってくる。

「僕に見せないようにしてね。覚えたら、戻して」

 彼女はトランプの絵柄を覚えると、束に戻した。そしてもう一度僕はシャッフルする。
 以前に、マジックを見せて、と言われてからひそかに練習していた。彼女が帰ってから、動画なんかを見ながら部屋で。過去に僕は彼女に披露したようだけど、それはきっと気を引かせるためにやったことだろう。今になってそう思う。実際、彼女と離れた後の僕はマジックをした覚えがない。
 
「これ?」

 僕は彼女が引いた、ハートの2を見せる。

「正解! すごいね」

 初歩的なマジックでも栞は喜んでくれた。この数週間で覚えたいくつかのマジックを披露し、その度に彼女は褒めてくれた。裏なんてない、まっすぐな彼女の発言に嬉しくなる。
 
 気を緩めたら、涙腺が崩壊しそうだ。笑顔で見送って欲しい、と彼女は言った。その願いだけは叶えてあげたいのに、これ以上ないくらい今の僕にとって難しいことだった。
 
「僕が覚えたのは、これくらいかな」

 短期間でマスターできそうなマジックを片っ端から覚えた。手先が器用とも、不器用とも言えない僕のマジックの完成度は、それなり。よく観察すれば、容易にタネがわかってしまうだろう。彼女は純粋に楽しんでくれたようだ。

「いつから練習してたの?」
「ショッピングモールに行ったときから。見せて欲しいって言ってたから」
「私のためにここまでしてくれるなんて、幸せものだなぁ」

 栞の声が少し震えていた気がするけれど、気のせいだろうか。

「お風呂借りてもいい?」
「別にいいけど」
「消えるなら、綺麗な状態で消えたいしね」

 それは建前であるように思える。僕も限界だったので、一人になることができて、ホッとする。
 ガチャン、という音と共に、彼女の姿は見えなくなった。可能な限り、残り時間を一緒に過ごしたいけれど、このままだと確実に笑顔で見送るなんて不可能だった。
 
 気分転換に、網戸を開け、空を見上げる。昼間の雨が嘘のように、雲一つなかった。少し欠けた綺麗な月が夜空に浮かんでいる。数え切れないくらいの星たちが輝き、幻想的だった。
 星にあまり詳しくないので、どれが何という星なのかはわからない。どれとどれを繋ぎ合わせれば、何という星座になるのかわからない。栞が上がってくるまで、まだ時間はある。

「少し調べてみようかな」

 パソコンを立ち上げ、夏の星座で検索をかけた。

「あがったよー」

 陽気な声で栞は扉を開いた。ちょっと無理してるんじゃないか。

「何してるの?」
「天体観測?」
「えっ、私もしたい」

 二人で見るには狭い窓に、並ぶ。

 ああ、これほどに時が止まってくれ、と願ったことはない。この部屋だけ、時間の流れが遅くなってくれよ......。

 無駄な願い。わかっていても、願わずにはいられなかった。あと何時間だろう。もしかしたら、一時間もないのかな。残り時間を数えるのが嫌で、少し前から時計を見ていなかった。日付が変わったことに気づかなかったら、彼女は消えないんじゃないか?
 そんなはずないことくらいわかってる。わかってるけど......。

「あと一時間とちょっとだね」

 栞の方から、タイムリミットを告げてきた。どうやら二十二時は過ぎているようだ。時計を確認すると、二十二時五十分だった。
 もう少しで一時間切るのか。

「ねえねえ、秋太はあの星座何かわかったりする?」

 窓から少し身を乗り出し、指差した。星が多すぎて、どのこと言ってるのかわからなかった。

「さそり座?」
「そうなの? すごっ。わかるんだ」

 さっき見たさそり座の形に似ていたから言ったけれど、当たっている保証はない。むしろ、外れていると思う。さっき調べたけれど、実際夜空を見上げても、あまりよくわからなかった。

「ねえねえ、あれって天の川かな?」

 天の川は僕も発見することができた。暗闇を分断するように青白い天の川が流れていた。

「織姫と彦星みたいだよね。私たち」
「会えなくなるから?」
「うん」
「織姫と彦星は七夕の日に会うことができるだけ、僕らよりはマシだと思うけど」
「確かに」

 栞は鼻歌を歌いながら、星たちを眺めている。何十回、何百回と見てきた、優しげな表情。

 やっぱり、ダメだ......。

「えっ。どうしたの?」

 自分でもびっくりしている。僕がこんな行動をとるなんて。

「ごめん。ちょっと前向いててもらってもいい?」

 僕は彼女の右肩に頭を下ろした。涙が出てきた。

 僕が好きだ、と伝えたとき、彼女は別れを受け入れられるか、訊いた。少しずつ受け入れられるはずだ、と言ったけれど、今はそんなこと考えられなかった。彼女がいない九月を想像することができなかった。
 学校へ登校する自分の隣には、どうしても彼女の存在がちらつく。ごはんを食べるときも、出かけるときも。隣には栞がいて、一緒に笑いながら、話している、そんな訪れることのない未来。
 
 ごめん。受け入れるの、無理かもしれない。

「......ずるいよ」

 栞は震え声で、言った。僕は頭をあげて、彼女を見る。

「私だって、我慢してた。笑顔でさよならしたい。そう思って、耐えてたのに。ずるいよ。秋太だけ、泣くなんて」

 一度涙がこぼれてしまうと、はどめが効かなくなったのか、どんどん溢れ出てくる彼女の涙。

 本当、何やってんだろ。辛いのは僕だけじゃない。そんなのわかっていたことなのに、僕は自分だけ楽になろうとしていた。最低だ。
 別れるのは辛い。今までに経験したことのない痛みだ。あのとき栞と別れていれば、ここまで辛くはならなかったと思う。けれど、僕のとった選択が正しかったと胸を張って言いたい。それなのに、こんな状況じゃ、言えるはずがないじゃないか。

 笑顔で別れる、それが一番だった。最後に笑いたい、笑いたいのに、涙が止まらないのはどうしてだ?

 止まってくれ。止まれよ。僕の言うことを聞いてくれ。

「何......その、顔」
「上手く......笑えてない?」
「うん。全然」

 無理やり笑おうとしても、できなかった。

「私とまた付き合ったこと......後悔してる?」
「......そんなわけないだろ」
「まだ、そういう顔もできるんだね」

 栞は口角を上げ、言った。

「......そういう顔?」
「真剣な顔してたよ。ちょっと怒ってた」
「それは......後悔してるはずないだろ」
「うん。私も。全く後悔してないよ。涙、止まってるよ」

 栞に言われるまで、気づかなかった。僕の涙を止めるため、わざわざそんなことを言ったのか? 自分ではどうしようもできなかった。僕以上に、僕のことを彼女はわかっているような気がした。

「最後に一つ、お願いしてもいいかな?」
「なんでもどうぞ」

 栞は何も言わず、僕を抱きしめた。突然のことで、すぐに言葉が出てこなかった。

「私の最初で、最後の恋。それを叶えてくれた人の温もりを感じさせて」

 僕の胸元に埋めていた顔を上げ、言った。僕も抱きしめ返した。今までの感謝を込めて、優しく。

 あたたかい。

 夏だというのに不快にならないあたたかさもあることを知った。

「栞」

 名前を呼ぶと、顔を上げて僕の方を見つめた。本当に綺麗で、愛おしい。僕は、唇を彼女の唇に重ねた。彼女は少し驚いたようだが、拒否しなかった。

「秋太は意外と大胆だね」
「うるさい」

 僕が言うと、今度は彼女の方からキスしてきた。僕も拒まなかった。

「どっちもどっち」
「だね」

 へへっ、と笑う彼女。僕もつられて、笑みがこぼれた。

「あ、笑えた」
「うん。笑えた」

 気持ちは少しずつ、ほんの少しずつ落ち着いてきた。

 手をつなぎながら、星たちを見ている。ふと、隣を見ると、栞の身体の変化に気づいた。

「透けてない?」
「えっ」
「ほら」

 僕が指すと、彼女も目線を下にした。

「あ、そういうことか。服が透けちゃってるのかと思って、焦ったぁ」
「もしそうだとしたら、僕はそんな指摘できないよ。それに、身体が透けてる今の状況の方が普通焦ると思うんだけど、反応薄いね」

 栞を見ているはずなのに、後ろの壁が見える。そんな状況であるのに、彼女は意外と淡然たる様子をしていた。

「消えるときは、こんな感じなんだろうなーって思ってたから、あんまり驚きはないかも」

 栞は僕の知らないところで、何度も何度もこの瞬間をイメージしてきていたのかもしれない。自分が消える瞬間を想像するのってどういう気分なのだろう。

 残り五分を切った。星なんかどうでも良くて、今は夜空を見上げるフリをして、隣の栞を見ていた。日付が変われば、彼女はいなくなり、彼女のために買った服や貰ったイヤフォンなんかも消えるんだろうな。

 僕の中に一つ、ある考えが浮かんでしまった。最後の最後にそんなことを思いついてしまうなんて、自分の思考回路にうんざりする。栞を困らせることになるだろうか。そうだとしても、確認しておきたかった。

「栞が消えたら、栞に関連する物は全てなくなって、お金なんかは戻ってくるんだよね」

 彼女は僕を見据えた。僕が何を言いたいかを覚ったように、頷く。

「消えるのは、物だけなの?」
「違うって言ったら、どうする?」
「受け入れられないけど、どうしようもないよね」

 彼女は小さく、「ごめんね」と言った。

 やっぱり、僕の嫌な推測は当たっているようだ。栞に関連することが消えるのなら、彼女と過ごした一ヶ月間の記憶が消えてもおかしくないと思った。
 僕らの力ではどうすることもできないことだ。知らずに、お別れをしたかった。

「出会った頃に言ってたルールって、このこと?」
「うん。私との思い出もなくなるって言ったら、秋太は手伝ってくれた?」
「こんなに愛おしく想ってしまってる自分がいるから、自信ないな。それでも、今の僕なら手伝いたいって言えるよ。君が幸せなら、それでいい」
「私は君の優しさに甘えてた。黙ってて、ずるいよね、私」

 栞は視線を外した。

「女の子はずるいくらいの方が可愛いんじゃなかったっけ?」
「そんなこと言ったかなぁ」
「言ってたよ」

 彼女は惚ける。きっと覚えているだろう。

「本当に薄くなってるねぇ」
「うん。綺麗」

 光の粒子みたいなものが、彼女の身体から出ている。それらが舞い上がっていく様子はとても綺麗だった。残り何分だろう。

「こんな綺麗に最後を迎えられるってある意味最高だ。おとぎ話の主人公になった気分」

 栞が主人公のおとぎ話はきっと素敵な話なんだろうな。悪者が誰一人出てこない、ほっこりするお話。

「君にぴったりだね」
「ふふっ」

 一分を切った。

「そろそろだ」
「うん」
「この一ヶ月、付き合わせちゃって、ごめんね」
「僕は最後に謝罪を聞きたくないよ」
「ごめんごめん。あっ、今のごめんもなしで! えっと、ありがとう! 私を彼女扱いしてくれたこと、本当に嬉しかった」
「感謝するのは僕の方だよ。栞に出会ったことで、色々変われた。楽しかった。ありがとう」

 栞は一度瞬きをし、笑顔を作った。この一ヶ月間見せてもらった表情の中で、一番綺麗で可愛くて、儚げで、彼女の全てを凝縮したような笑顔だった。

 栞は口を開いた。

「秋太が大好きだよ!」

 僕も彼女に応えた。上手く笑えていたかはわからない。彼女が望むような別れ方ができただろうか。
 
 最後の最後まで抱きしめ続けた。

 彼女の最後の言葉、声、表情、全てを忘れたくない。忘れないように反芻する。思い出を消さないでくれ。そう願っていると、いつの間にか僕は夢の中にいた。
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