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第二部
第79話 再会
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コツコツ――――誰もいないはずの外側から、ドアがノックされた。
「…………?」
アナベルとオウミが、素早く視線を交わす。
修道士の側近の首を掴むと、男が声を振り絞る素振りを見せた。咽喉仏を押して声を塞ぐ。
「………しまったな。俺たちの気配はともかく、このおっさん、駄々洩れだもんな。まったく、もっと空気読めよ、おっさんも見つかったら困る身の上だろうが」
オウミがすたすたと窓の傍に身を寄せ、声を上げた。
「やっべえ――」
わずかに興奮を滲ませ、オウミは場違いに明るい声で続ける。
「窓の下、黒い騎士がいっぱいだ。溶けたアイスにたかる蟻みたい」
廊下にも、騎士の気配。音と気配を消し、いつの間にか、この部屋はすっかり囲まれているらしい。
ドアの前に感じる気配は、よりにもよって――――
「……レクター・ウェインかよ。囲まれてんなぁ」
レオンはうんざりと舌打ちして、天井を仰いだ。
面倒くせぇ。とりあえずこれは折っとくか。ほんの少し力を入れれば、きっと骨の折れる痛快な音が鳴ってすっきりする。
「何で、気付かれたんだろう?」
眉をひそめるアナベルに、首を握っていないほうの手を軽く上げて見せる。
「悪い悪い、見つかったのは俺のせいかも。この格好は目立つからなぁ……ところでさ、唐突に死期を悟った動物って、みんな同じような顔するよな? 血走った目をかっと見開いてさ。何のためだろう?」
たっぷりと涙を溜め、うるうると縋ってくる瞳を見返しながら言う。
オウミは俺を呆れたように見た。
「さあね、無駄だとは思いつつ、生への糸口を血眼で探したくなるんじゃない? それよりさ……おかしい。誰も抜剣する気配ない。殺気もない。バルコニーから出て、突破する? こっちにはアナベルがいるし、行けるだろう」
おそらく、窓の下にいる騎士程度、アナベルならどうとでもなる。当のアナベルは、自身の右手に握る銀の燭台をじっと見下ろしていた。
「……できなくはないけど、怪我させるのもね。……それに、ちょうどいいじゃない。レクター・ウェインには話がある」
アナベルはドアの方を一瞥すると、銀の燭台をマントルピースの上にそっと置いた。無表情で、こちらを見ないまま続ける。
「一応、聞いとく。これ、あんた達の考えた茶番の一部じゃないでしょうね? 私がロンサール伯爵と会うよう、仕向けたみたいに」
オウミが、春の日差しのように穏やかな笑みを浮かべる。
「えー? なんのこと?」
「よく言う。あの日、私を使いに出したのはどこの誰だっけ? 大欅の前で待ち合わせ――そこにちょうど、侍女を探してるロンサール伯爵と令嬢が乗る馬車が通りがかった」
「すごい偶然だね!」
「運命的だ」
「……ロンサール邸で働く、百人もの使用人……。ねえレオン。元執事なら、羽根のように軽い舌の持ち主を知っていたでしょう。令嬢の予定を調べるくらい、朝飯前だった?」
オウミに負けないくらい朗らかに笑って、俺は軽く肩を竦める。
何故、レクター・ウェインは、さっさと剣を抜いて突入して来ないのだろう。血も涙もない男が、何を躊躇っている? 誰に気遣うことがある? まさか俺じゃないだろう。アナベルを気遣っているのか。本当に、アラン・ノワゼットは、現在もまだ、アナベルを絞首台に送ろうとするだろうか。
「……令嬢を船に連れて行ったら、お前、嬉しそうだったろう」
金糸に縁取られた純白の制服。柔らかに光る風になびく、金色のマント。
ハイドランジアに生まれた者なら、誰もが憧れた騎士の頂。建国神話に謳われた、最強の近衛騎士団。ハイドランジア国民の誇りだった。
たった一人しか、残らなかったが―――。
どこか疲れを滲ませて、アナベルは遠い目をした。
「私だけじゃない。なんてきれいなものが、この世にはあるんだろう――令嬢と話したら、誰だってそう思う」
「そうだね」とオウミも同意する。
「令嬢を見ると、思い出したよね。一番良かった頃をさ。いや本当は、当時もしんどいことはいっぱいあったし、記憶の中で美化してるだけって解ってる。それでも、あれはもう、なんていうか、守りたくなる……本能だなあ……」
おぼろげに光る記憶の中で、滲む故郷。
かつて、それさえあったなら、何も要らない、この命だって捨てられると思ったものが、俺たちにはあった。
もうどこにもない。
あの泥に濁った水底にも、少しは光が届いているだろうか。そうだったらいい。ただそう願うだけだ。
「喪ったものを重ねて、ほんの束の間、忘れて、癒されても、永遠に代わりにはできない。令嬢の傍にしばらくいて、逆によくわかった。だから――」
リリアーナの傍を離れたら、アナベルはもう笑わない。
かつて、自信に溢れ胸を張っていた仲間は、ひっそりと痩せた肩を落とす。
「――私は、ここから出て行く」
オウミが噴き出して笑った。
「なんだよ、自分だけどっか行くみたいに。もちろんだ。俺たちも行くよ。新大陸には、皆で行こう」
「ああ、一蓮托生だ」
――新しい土地で、ゆっくりと朽ちてゆく。
肉体の隅々にまで悔恨の根を張った仲間たちと。魂は、あの水底に埋葬して行こう。土塊となり果てる日を待ち詫びながら、俺は時折、リリアーナの笑顔を思い出すだろうか。
――『わたしは、祈ることにします。レオンが失くしたものと同じくらい、大事なものをまた受け取れるように』
ふと気が変わって、怯え切った小鹿の首から手を離す。
アナベルの手が、扉に伸びる。
どうせ、レクター・ウェインもアラン・ノワゼットも修道士もその一味も、オウミも俺も、行き着く先は同じ。遠周りするかどうかってだけ。
やがて、扉は静かに開いた。
§
「――遅い……! 遅くないですか? 何かあったんじゃないかしら……?」
一人で王宮の廊下を往く紫紺の騎士を見かけたという人は、すぐに見つかった。それも複数人。
その騎士は、国務卿の威厳あやかる騎士らしく、高貴な色である紫紺のマントを翻し、迷いのない足取りで、ある部屋へ向かっていたと言う。
わたしは、公爵の執務室で待っているように言われた。ウェイン卿が数名の騎士と衛兵を連れて、その階へと向かったのである。
――「必ず、連れて戻りますから。ご心配なさらず、ここで待っていてください」
気配を消せないわたしが一緒だと、悟られてしまうから。
柘榴石の瞳を優しく細められ、穏やかな声音で、子どもに含み聞かせるように言われて、わたしは頷いた。
「何かってなに? ないない。リリアーナ、心配いらないって」
「まだ半時も経っていない。さ、紅茶でも飲んで、ゆったりと待っていよう」
ランブラーとノワゼット公爵の声は、落ち着き払い過ぎている。きっとわざとだ。逆にますます心配になってくる。
そわそわと気を揉みつつ、ランブラー、ブランシュ、ノワゼット公爵、それからエレノアと共に、温かい紅茶をいただいている。
「何かって、そりゃあ…………あの船の人たちは、善い人だったんです。でも……」
――まさか、ウェイン卿とレオンが喧嘩しちゃうなんてことは……ないわよねぇ?
いやだ、あるわけないわ――と一人で首を大きく振る。二人とも、冷たそうに見えるけれども、内実は空のように優しく、風のようにさっぱりして、海のように懐の深い人だもの。
それに、レオンが誰かと合流しているとすれば、おそらく、リーグかアナベルが一緒にいる。あの二人は明白に温厚だ。
……しかし、とうてい有り得なさそうなことが、ほんの些細なボタンのかけ違えがきっかけで起こりうる。だからこそ、「ああ、あの時、ああしていればこうしていれば」と後悔するのが常なのだ。
「やっぱり、わたしも一緒に……」
腰を浮かしかけると、ブランシュに制止される。
「まあまあ、落ち着きなさいよ、リリアーナ。大丈夫。ウェイン卿は、絶対にあなたの意に添わないことはしないわよ――」
ブランシュが言いかける途中で、ノワゼット公爵執務室の扉は開いた。ウェイン卿の隣、現れたのは――――。
「――令嬢」
微笑むその姿に、わたしは長椅子から飛び上がった。
「――アナベルっ!!」
ほっそりした身体に、王宮の侍女のお仕着せ。質素な出で立ちは、アナベルの新雪を思わせる清廉さをいっそう引き立てていた。
「ごきげんよう。ご無沙汰しております」
スカートを摘まむ指先、引いた足先まで、溜め息がこぼれるほど美しい所作である。
「……アナベル……会いたかった。元気だった? 少し痩せた? ちゃんと食べていた? 夜はどこに泊まっていたの? 寒くなかった? ちゃんと眠れてた?」
以前よりも小さくなった気がする白い手を取って、矢継ぎ早に問いかけると、アナベルは幼い少女のようにはにかんだ。
「令嬢……心配かけて、ごめんなさい」
「無事で良かった」とランブラーがわたしの後ろで碧い瞳を細める。「心配したのよ」とブランシュも瞳を潤ませる。
「扉を叩いたら、すんなり出てきてくれました」
優しい声で、ウェイン卿がほっとしたように言う。アナベルを横目に見ながら、エルガー卿が神妙な顔つきで同意して見せる。
「はい、本当に。アナベルさんに手荒な真似をするわけにはいきませんからね。レディ・リリアーナの命の恩人だし、第一、カマユ――」
ふふっ、と吹き出すような笑い声が、その背後から上がる。
「ウェイン卿に怪我をさせたら、令嬢が悲しむってアナベルが言うもんだから」
笑いを堪えるみたい口元を緩ませてそう言い放つのは、黒い制服を纏う騎士で――
「まあ! オウミじゃないですか!」
「強がりやがって」と誰かがくすりと囁くのを華麗に無視して、オウミは糸のように目を細めた。恭しく、わたしに向かって礼をする。
「こんにちは。令嬢」
「その節は、お世話になりました。その格好、素敵ですね」
船の上でも、今この時も、オウミの態度は朗らかだ。誰でも持つはずの仄かな陰すら、彼はまったく感じさせない。
ゆえに少し、得体が知れない。けれど、これだけは言える。彼は、とても思慮深い人だ。
「ふふ、そうでしょう? やっぱり、令嬢も黒がいいと思うよねぇ」
オウミに一歩近づくと、ふと、錆びた鉄の香りがした気がした。にこにこと朗らかに笑ったまま、彼はすっと窓際に移動する。
「窓、開けてもいい? この部屋、何か蒸し暑いね」
問われたラッド卿が、何か察したみたいに軽く頷き、無言のまま薄く窓を開ける。ギンモクセイの放つ芳香混じりの風が吹き込んで、鉄錆の香りはたちまち消えた。
「窓の近くは、肌寒くありませんか?」
冬の足音はすぐそこだ。暖炉に火を入れるには少し早いが、外の風は充分に冷たい。
「平気。俺、暑がりなんだよねー」
オウミは朗らかに笑ってうそぶいた。
「場所、ビンゴだったのか?」
ノワゼット公爵が優雅に足を組み替えながら騎士たちに問うと、ウェイン卿が小さく頷いた。
「はい。ハーバルランドの外交官の私室です。修道士の手下とおぼしき男たちが伸びていましたが……」
エルガー卿が、横で顔をしかめる。
「とてもじゃないけど、動かせる状態じゃない。一旦、見張りと一緒に置いてきましたけど……あれは、話せるようになるまで、時間がかかりそうだ」
アナベルがわたしから目を逸らし、天井の隅に視線を流す。
「床で寝ている分については、腕の良い整骨医がいれば、元に戻せるはずですよ」と小さく呟く。
「ソファーに座ってた方は、ちょっと時間かかるかもねー」とオウミが窓辺で朗らかに言い放つ。
「あの人たち、王宮に侵入するために狭い箱に閉じ込められてたんだ。運動不足で固い体への無理な体勢が祟って、関節が外れちゃったみたい。気の毒にねぇ。普段からストレッチしてれば良かったのに」
飄々と明るい声でそう告げたのは、紫紺の制服を着た人である。
所縁深い紫紺色に気付いたエレノアが、「あら」と意外そうに小さく声を上げた。「どうも」と彼は気安く挨拶する。「おや、ブルソール公爵邸の侍女殿も、人たらし揃いのロンサール家に骨抜きにされたクチですか」
「……まあ! レオン!」
「令嬢、久しぶりだね。相変わらず、瞳がきらっきら」
冗談めかして、レオンは蒼灰色の瞳を柔らかく細めた。ブランシュが、恐る恐る言う。
「…………レオン……? ということは……まさか、この人が……ロウブリッターなのっ!?」
「へえー! これは道で会っても、絶対にわからない」とランブラーが感心したようにしげしげと見遣る。
「ふぅーん」とノワゼット公爵が意味ありげに唇の端を上げる。
ちっ、とオデイエ卿が忌々しそうに舌打ちながら、以前怪我をした左肩に手を遣ると、周りの騎士たちが胡乱な目付きを一斉にレオンに向けた。ウェイン卿とラッド卿の眼差しも、極めて冷ややかである。
「黒鷹の本拠地に、ご招待ありがとう。飲み物は、熱い紅茶でけっこうですよ。砂糖なしミルクありで」
目尻に皺を寄せたレオンが侍女に向けて明るく合図すると、侍女は「は、はい」と上擦った声で応える。
それを見たオデイエ卿が、眦を吊り上げた。
「ちょっとあんた! 自分の立場、わかってんの? アナベルはともかく、あんたはすんなり帰さないからね!」
ナイフのように鋭い声で言われて、レオンはにやりと笑った。
「もしかして、誘われてる?」
「誘ってない!!」
くわっと牙を剥いたオデイエ卿に、レオンはへらっと笑いかけた。
「夜までかかる? そんなら俺、レクター・ウェインの部屋に泊まる」
「はあっ!? なんだそれは!?」
今度はウェイン卿が眦を吊り上げるのを見て、レオンは満足そうに一層目を細める。
「赤い悪魔とは、ぜひとも夜っぴて語り合いたいと思っていた。『常識』という命題について」
「………意味がわからない」
苦手な野菜を前にした子どものように、不愉快そうに顔を歪めるウェイン卿を見て、わたしは頬に手を遣る。
「ふふふ、わたしったら、さっきまですごく気を揉んでいたんですよ。レオンとウェイン卿が喧嘩になってしまうのじゃないかって。そんなはず、ありませんのにね。だって、レオンもウェイン卿も、どちらも、すごく紳士的でお優しいのですもの。こんなに仲良くおなりだなんて、感動いたしました。取り越し苦労でした。ねえ?」
「え?……は、ははい。も、もちろん、喧嘩なんて、すすするはずありません」
なぜだか頬を盛大に引き攣らせ、ウェイン卿が目をしばたいた。
「レオン、会えて、嬉しいです」
言うと、レオンは微笑んだまま、急に困惑気味に眉を下げる。
アナベルが、部屋の様子をぐるりと見渡してから、口を開く。
「至急、お知らせしたいことがあります。実は、一緒にここまで来た、修道士の側近が、カナリアのようにお喋り好きで、色々と教えてくれたんですよ。ねえ、令嬢――?」
アナベルが、わたしの顔をじっと見て、優しい笑みを浮かべた。落ち着いた声が続ける。
「――修道士とご友人関係にあるという話は、本当ですか?」
「…………はい?…………え……? え、えええっっ!?」
淑女らしくない、仰天した声が、わたしの口から飛び出した。
「そ、それは一体、どういう……?」
アナベルは、こんな時に冗談を言うタイプではない。その海色の眼差しは、真剣そのものである。
「――もしそうなら、令嬢の想像以上に、修道士は危険な相手です。すぐに、これ以上、会うのを止めてくださ――」
「ちょ、ちょっと待って。修道士と、お友達? こ、このわたしが?」
胸を押さえて叫ぶと、「……令嬢……」とウェイン卿がすごく何か言いたげに目を細めている。
「リリアーナ? 危ないことはダメって、僕、何度も言ったよねえ?」
ランブラーの顔に、八面玲瓏な笑みがゆっくりと広がる。
「リリアーナ? ドッキリはもう、お腹いっぱいだから、ほどほどにね」
ノワゼット公爵が、幼子に言い聞かせるみたいに優しい声を出す。
「リリアーナったら! 修道士を探るなら、わたしも仲間に入れてって言ったのに……!」
ブランシュは拗ねたように、さくらんぼの唇を尖らせる。
「…………あら?」
心外なことに、わたしったら、まったく信用がない。
こほんと咳払いをして、わたしは背筋を正して目を薄めた。
「このわたしが、修道士とお友達――? 冗っ談じゃありません。一番、仰天しているのは、このわたしです。筋金入りの引きこもりを見くびられては困ります。わたくしは、お友達どころか、お知り合いすら、ほとんどいない身の上でございます!」
胸を張って堂々きっぱりと言いきると、うっ、と周りは言葉を失う。
アナベルはゆっくりと瞬きながら、細い首を捻った。
「修道士は、レディ・リリアーナを自分の『お気に入り』だとして、傷つけないように手下に命じました。修道士の側近によると、詳細は知らないけれども、その時の口調から、少なくとも顔見知りであることは間違いないと……」
「あら、でも、ちょっと待って。おかしいわ。夏にうちの馬車を襲って、ウェイン卿に撃退された襲撃犯たちは、修道士の関係者だったんでしょう?」
ブランシュが可愛らしく顎を叩くと、ノワゼット公爵が軽い相槌を打つ。
「下っ端だったけどね」
「――修道士は今回、レディ・ブランシュとロンサール伯爵にも手を出すなと命じていました。夏から今日までの間に、……何か、心境の変化があったんじゃないでしょうか」
アナベルが真面目な口調で言うと、また部屋中の視線がわたしに刺さる。
「そうなると、ここ半年ほどの間に、リリアーナは、修道士と会った。もしくは、二人の間に何かあった……?」
「もう、お従兄様、何もありませんったら」
「……令嬢は、そうとは知らずに、向こうが勝手に見かけて、惚れ込まれたんじゃないの?」
窓辺で冷たい風にあたるオウミが、涼しい声で言う。
「ええ? そんなこと、あるかしら?」
わたしが首を傾げると、ノワゼット公爵は目を細める。
「……うん、それは大いにあり得るな……」
ウェイン卿が額を押さえる。
「あり得ますね……」
ランブラーが大きく息をつく。
「身内の欲目を大きく差し引いても、お人形よりも、お人形のようだものなぁ……」
「はあ……?」
ブランシュが、首を捻るわたしの肩に優しく手を置く。
「修道士の正体は、貴族だと言われているのよね? リリアーナと知り合いの貴族……。それだけで、すごく数が絞られるんじゃない?」
ランブラーが大きく頷いて、立てた指を一本ずつ折ってゆく。
「ああ。……うちで開いたパーティーに参加した、僕とブランシュの友人たち。
豚公爵の異名をとる、ヒューバート・ディクソン公爵。
第一騎士団団長、グラハム・ドーン公爵。
レディ・マージョリーの父であるシオドア・ダーバーヴィルズ公爵。あとは、グラミス老伯爵と、僕の同僚である、王宮政務官たち……思い付くのは、これくらいかな」
「どう? リリアーナ?」
「……確かに、わたしが存じ上げる貴族の方は、そのくらいです」
ノワゼット公爵が、厳しく眉根を寄せる。
「……ふむ……この中の誰かが……修道士……?」
「でも……まさか! 信じられません。これまでお会いした方はどなたも、お優しく公正明大な方々ばかりで……闇組織の黒幕? 疑わしい人なんて……」
「そうかしら? 誰も彼も、疑わしいわ」とそれまで黙っていたエレノアが口を挟む。ティーカップに鼻先を寄せ、静かに続ける。
「――罪を犯すのは、悪人とは限らないもの」
「――気をつけてくれよ、令嬢」
口を開いたのは、レオンだ。優しく微笑んだまま、落ち着いた低い声が告げる。
「『悪意』は、通り雨みたいなものだ。唐突に、穏やかに晴れた道を歩く人の頭上に降ってくる。悪意の主がいかにも悪人らしく、状況がいかにもそれらしければ、こっちも用心出来て助かるんだが、残念ながらそうとは限らない。通り雨は、傘を持ってない時に限って降るものだから」
唇は柔らかな弧を描くのに、蒼灰色の瞳は、真剣そのものである。
「……レオン……」
「穏やかな老執事だった俺が言うと、説得力あるだろう? 気を引き締めて、令嬢から離れるなよ、黒鷹ども。気に入った女に対して、男の考えることといったらロクなもんじゃない。まして、相手はあの修道士だ」
「言われなくても、わかっている」
真剣なウェイン卿と、レオンの鋭い視線が絡む。
「そうか。なら、今夜は『常識』について語り明かそうじゃないか。なあ、レクター・ウェイン」
「だから! 意味がわからない!! なんっなんだ、お前はっ!?」
わたしはまた、ほうと息を吐いた。
「ほら、言った通り、すごく面白くて親切でしょう?」
「ふふっ、本当だなぁ。こんな執事がいてくれたら、毎日楽しそうだ」
ランブラーがのんびり答えながら、顎先に手を遣る。
「わたしは前から、ロウブリッターを気に入ってたわ。最高に気の利く執事だった。ね、またうちで働かない?」
胸の前で手を組んだブランシュが冗談ぽく笑いかけると、レオンは黙って肩をすくめた。
「いずれにしても、修道士を見つけましょう――手っ取り早く」
アナベルが、真剣な声で言う。
「修道士の顔を知っている人間に、面通しさせましょう。今、この王宮にいるんですから」
「なんだって?」
ノワゼット公爵が、笑みを消して立ち上がる。
「修道士の、素顔を知っている? 誰がだ?」
「ええ」とアナベルも真顔で頷く。
「修道士のターゲットは、その男でした。十五人の刺客を今日この王宮に侵入させたのは、その為です。しかも、別ルートで侵入した五人の刺客はその男を消すために探し回っているはず。先に見つけないと」
「修道士の尻尾を掴める……。修道士の頭巾党を壊滅させれば、勲章ものだ。何としても、第二騎士団が先に見つける」
ノワゼット公爵が言うと、ランブラーも美しい笑みを浮かべる。
「修道士の頭巾党の壊滅。この国の、いや、この大陸の治安が素晴らしく向上するだろう。最高じゃないか。……その男の情報は?」
「――名前はわかりません。細身で焦げ茶の髪と虹彩。右目の下に泣き黒子があるという若い男が、修道士と直に会ったことがある、と側近の男は言っていました」
ランブラーが、呆気に取られたように目を見開く。ノワゼット公爵が首を捻る。
「細身で、焦げ茶の髪と虹彩……。右目の下に泣き黒子がある、若い男……? 誰だ? 誰か、知ってるか?」
騎士たちが眉を寄せて首を振る中、ランブラーがそっと手を上げる。
「伯爵の知り合いか?」
ノワゼット公爵が問うと、ランブラーはゆっくりと首を横に振る。
「いいえ。でも、知っています。たぶんそれ、僕の同僚、ジョセフ・シュバルツ政務官が探してた客ですよ」
「…………?」
アナベルとオウミが、素早く視線を交わす。
修道士の側近の首を掴むと、男が声を振り絞る素振りを見せた。咽喉仏を押して声を塞ぐ。
「………しまったな。俺たちの気配はともかく、このおっさん、駄々洩れだもんな。まったく、もっと空気読めよ、おっさんも見つかったら困る身の上だろうが」
オウミがすたすたと窓の傍に身を寄せ、声を上げた。
「やっべえ――」
わずかに興奮を滲ませ、オウミは場違いに明るい声で続ける。
「窓の下、黒い騎士がいっぱいだ。溶けたアイスにたかる蟻みたい」
廊下にも、騎士の気配。音と気配を消し、いつの間にか、この部屋はすっかり囲まれているらしい。
ドアの前に感じる気配は、よりにもよって――――
「……レクター・ウェインかよ。囲まれてんなぁ」
レオンはうんざりと舌打ちして、天井を仰いだ。
面倒くせぇ。とりあえずこれは折っとくか。ほんの少し力を入れれば、きっと骨の折れる痛快な音が鳴ってすっきりする。
「何で、気付かれたんだろう?」
眉をひそめるアナベルに、首を握っていないほうの手を軽く上げて見せる。
「悪い悪い、見つかったのは俺のせいかも。この格好は目立つからなぁ……ところでさ、唐突に死期を悟った動物って、みんな同じような顔するよな? 血走った目をかっと見開いてさ。何のためだろう?」
たっぷりと涙を溜め、うるうると縋ってくる瞳を見返しながら言う。
オウミは俺を呆れたように見た。
「さあね、無駄だとは思いつつ、生への糸口を血眼で探したくなるんじゃない? それよりさ……おかしい。誰も抜剣する気配ない。殺気もない。バルコニーから出て、突破する? こっちにはアナベルがいるし、行けるだろう」
おそらく、窓の下にいる騎士程度、アナベルならどうとでもなる。当のアナベルは、自身の右手に握る銀の燭台をじっと見下ろしていた。
「……できなくはないけど、怪我させるのもね。……それに、ちょうどいいじゃない。レクター・ウェインには話がある」
アナベルはドアの方を一瞥すると、銀の燭台をマントルピースの上にそっと置いた。無表情で、こちらを見ないまま続ける。
「一応、聞いとく。これ、あんた達の考えた茶番の一部じゃないでしょうね? 私がロンサール伯爵と会うよう、仕向けたみたいに」
オウミが、春の日差しのように穏やかな笑みを浮かべる。
「えー? なんのこと?」
「よく言う。あの日、私を使いに出したのはどこの誰だっけ? 大欅の前で待ち合わせ――そこにちょうど、侍女を探してるロンサール伯爵と令嬢が乗る馬車が通りがかった」
「すごい偶然だね!」
「運命的だ」
「……ロンサール邸で働く、百人もの使用人……。ねえレオン。元執事なら、羽根のように軽い舌の持ち主を知っていたでしょう。令嬢の予定を調べるくらい、朝飯前だった?」
オウミに負けないくらい朗らかに笑って、俺は軽く肩を竦める。
何故、レクター・ウェインは、さっさと剣を抜いて突入して来ないのだろう。血も涙もない男が、何を躊躇っている? 誰に気遣うことがある? まさか俺じゃないだろう。アナベルを気遣っているのか。本当に、アラン・ノワゼットは、現在もまだ、アナベルを絞首台に送ろうとするだろうか。
「……令嬢を船に連れて行ったら、お前、嬉しそうだったろう」
金糸に縁取られた純白の制服。柔らかに光る風になびく、金色のマント。
ハイドランジアに生まれた者なら、誰もが憧れた騎士の頂。建国神話に謳われた、最強の近衛騎士団。ハイドランジア国民の誇りだった。
たった一人しか、残らなかったが―――。
どこか疲れを滲ませて、アナベルは遠い目をした。
「私だけじゃない。なんてきれいなものが、この世にはあるんだろう――令嬢と話したら、誰だってそう思う」
「そうだね」とオウミも同意する。
「令嬢を見ると、思い出したよね。一番良かった頃をさ。いや本当は、当時もしんどいことはいっぱいあったし、記憶の中で美化してるだけって解ってる。それでも、あれはもう、なんていうか、守りたくなる……本能だなあ……」
おぼろげに光る記憶の中で、滲む故郷。
かつて、それさえあったなら、何も要らない、この命だって捨てられると思ったものが、俺たちにはあった。
もうどこにもない。
あの泥に濁った水底にも、少しは光が届いているだろうか。そうだったらいい。ただそう願うだけだ。
「喪ったものを重ねて、ほんの束の間、忘れて、癒されても、永遠に代わりにはできない。令嬢の傍にしばらくいて、逆によくわかった。だから――」
リリアーナの傍を離れたら、アナベルはもう笑わない。
かつて、自信に溢れ胸を張っていた仲間は、ひっそりと痩せた肩を落とす。
「――私は、ここから出て行く」
オウミが噴き出して笑った。
「なんだよ、自分だけどっか行くみたいに。もちろんだ。俺たちも行くよ。新大陸には、皆で行こう」
「ああ、一蓮托生だ」
――新しい土地で、ゆっくりと朽ちてゆく。
肉体の隅々にまで悔恨の根を張った仲間たちと。魂は、あの水底に埋葬して行こう。土塊となり果てる日を待ち詫びながら、俺は時折、リリアーナの笑顔を思い出すだろうか。
――『わたしは、祈ることにします。レオンが失くしたものと同じくらい、大事なものをまた受け取れるように』
ふと気が変わって、怯え切った小鹿の首から手を離す。
アナベルの手が、扉に伸びる。
どうせ、レクター・ウェインもアラン・ノワゼットも修道士もその一味も、オウミも俺も、行き着く先は同じ。遠周りするかどうかってだけ。
やがて、扉は静かに開いた。
§
「――遅い……! 遅くないですか? 何かあったんじゃないかしら……?」
一人で王宮の廊下を往く紫紺の騎士を見かけたという人は、すぐに見つかった。それも複数人。
その騎士は、国務卿の威厳あやかる騎士らしく、高貴な色である紫紺のマントを翻し、迷いのない足取りで、ある部屋へ向かっていたと言う。
わたしは、公爵の執務室で待っているように言われた。ウェイン卿が数名の騎士と衛兵を連れて、その階へと向かったのである。
――「必ず、連れて戻りますから。ご心配なさらず、ここで待っていてください」
気配を消せないわたしが一緒だと、悟られてしまうから。
柘榴石の瞳を優しく細められ、穏やかな声音で、子どもに含み聞かせるように言われて、わたしは頷いた。
「何かってなに? ないない。リリアーナ、心配いらないって」
「まだ半時も経っていない。さ、紅茶でも飲んで、ゆったりと待っていよう」
ランブラーとノワゼット公爵の声は、落ち着き払い過ぎている。きっとわざとだ。逆にますます心配になってくる。
そわそわと気を揉みつつ、ランブラー、ブランシュ、ノワゼット公爵、それからエレノアと共に、温かい紅茶をいただいている。
「何かって、そりゃあ…………あの船の人たちは、善い人だったんです。でも……」
――まさか、ウェイン卿とレオンが喧嘩しちゃうなんてことは……ないわよねぇ?
いやだ、あるわけないわ――と一人で首を大きく振る。二人とも、冷たそうに見えるけれども、内実は空のように優しく、風のようにさっぱりして、海のように懐の深い人だもの。
それに、レオンが誰かと合流しているとすれば、おそらく、リーグかアナベルが一緒にいる。あの二人は明白に温厚だ。
……しかし、とうてい有り得なさそうなことが、ほんの些細なボタンのかけ違えがきっかけで起こりうる。だからこそ、「ああ、あの時、ああしていればこうしていれば」と後悔するのが常なのだ。
「やっぱり、わたしも一緒に……」
腰を浮かしかけると、ブランシュに制止される。
「まあまあ、落ち着きなさいよ、リリアーナ。大丈夫。ウェイン卿は、絶対にあなたの意に添わないことはしないわよ――」
ブランシュが言いかける途中で、ノワゼット公爵執務室の扉は開いた。ウェイン卿の隣、現れたのは――――。
「――令嬢」
微笑むその姿に、わたしは長椅子から飛び上がった。
「――アナベルっ!!」
ほっそりした身体に、王宮の侍女のお仕着せ。質素な出で立ちは、アナベルの新雪を思わせる清廉さをいっそう引き立てていた。
「ごきげんよう。ご無沙汰しております」
スカートを摘まむ指先、引いた足先まで、溜め息がこぼれるほど美しい所作である。
「……アナベル……会いたかった。元気だった? 少し痩せた? ちゃんと食べていた? 夜はどこに泊まっていたの? 寒くなかった? ちゃんと眠れてた?」
以前よりも小さくなった気がする白い手を取って、矢継ぎ早に問いかけると、アナベルは幼い少女のようにはにかんだ。
「令嬢……心配かけて、ごめんなさい」
「無事で良かった」とランブラーがわたしの後ろで碧い瞳を細める。「心配したのよ」とブランシュも瞳を潤ませる。
「扉を叩いたら、すんなり出てきてくれました」
優しい声で、ウェイン卿がほっとしたように言う。アナベルを横目に見ながら、エルガー卿が神妙な顔つきで同意して見せる。
「はい、本当に。アナベルさんに手荒な真似をするわけにはいきませんからね。レディ・リリアーナの命の恩人だし、第一、カマユ――」
ふふっ、と吹き出すような笑い声が、その背後から上がる。
「ウェイン卿に怪我をさせたら、令嬢が悲しむってアナベルが言うもんだから」
笑いを堪えるみたい口元を緩ませてそう言い放つのは、黒い制服を纏う騎士で――
「まあ! オウミじゃないですか!」
「強がりやがって」と誰かがくすりと囁くのを華麗に無視して、オウミは糸のように目を細めた。恭しく、わたしに向かって礼をする。
「こんにちは。令嬢」
「その節は、お世話になりました。その格好、素敵ですね」
船の上でも、今この時も、オウミの態度は朗らかだ。誰でも持つはずの仄かな陰すら、彼はまったく感じさせない。
ゆえに少し、得体が知れない。けれど、これだけは言える。彼は、とても思慮深い人だ。
「ふふ、そうでしょう? やっぱり、令嬢も黒がいいと思うよねぇ」
オウミに一歩近づくと、ふと、錆びた鉄の香りがした気がした。にこにこと朗らかに笑ったまま、彼はすっと窓際に移動する。
「窓、開けてもいい? この部屋、何か蒸し暑いね」
問われたラッド卿が、何か察したみたいに軽く頷き、無言のまま薄く窓を開ける。ギンモクセイの放つ芳香混じりの風が吹き込んで、鉄錆の香りはたちまち消えた。
「窓の近くは、肌寒くありませんか?」
冬の足音はすぐそこだ。暖炉に火を入れるには少し早いが、外の風は充分に冷たい。
「平気。俺、暑がりなんだよねー」
オウミは朗らかに笑ってうそぶいた。
「場所、ビンゴだったのか?」
ノワゼット公爵が優雅に足を組み替えながら騎士たちに問うと、ウェイン卿が小さく頷いた。
「はい。ハーバルランドの外交官の私室です。修道士の手下とおぼしき男たちが伸びていましたが……」
エルガー卿が、横で顔をしかめる。
「とてもじゃないけど、動かせる状態じゃない。一旦、見張りと一緒に置いてきましたけど……あれは、話せるようになるまで、時間がかかりそうだ」
アナベルがわたしから目を逸らし、天井の隅に視線を流す。
「床で寝ている分については、腕の良い整骨医がいれば、元に戻せるはずですよ」と小さく呟く。
「ソファーに座ってた方は、ちょっと時間かかるかもねー」とオウミが窓辺で朗らかに言い放つ。
「あの人たち、王宮に侵入するために狭い箱に閉じ込められてたんだ。運動不足で固い体への無理な体勢が祟って、関節が外れちゃったみたい。気の毒にねぇ。普段からストレッチしてれば良かったのに」
飄々と明るい声でそう告げたのは、紫紺の制服を着た人である。
所縁深い紫紺色に気付いたエレノアが、「あら」と意外そうに小さく声を上げた。「どうも」と彼は気安く挨拶する。「おや、ブルソール公爵邸の侍女殿も、人たらし揃いのロンサール家に骨抜きにされたクチですか」
「……まあ! レオン!」
「令嬢、久しぶりだね。相変わらず、瞳がきらっきら」
冗談めかして、レオンは蒼灰色の瞳を柔らかく細めた。ブランシュが、恐る恐る言う。
「…………レオン……? ということは……まさか、この人が……ロウブリッターなのっ!?」
「へえー! これは道で会っても、絶対にわからない」とランブラーが感心したようにしげしげと見遣る。
「ふぅーん」とノワゼット公爵が意味ありげに唇の端を上げる。
ちっ、とオデイエ卿が忌々しそうに舌打ちながら、以前怪我をした左肩に手を遣ると、周りの騎士たちが胡乱な目付きを一斉にレオンに向けた。ウェイン卿とラッド卿の眼差しも、極めて冷ややかである。
「黒鷹の本拠地に、ご招待ありがとう。飲み物は、熱い紅茶でけっこうですよ。砂糖なしミルクありで」
目尻に皺を寄せたレオンが侍女に向けて明るく合図すると、侍女は「は、はい」と上擦った声で応える。
それを見たオデイエ卿が、眦を吊り上げた。
「ちょっとあんた! 自分の立場、わかってんの? アナベルはともかく、あんたはすんなり帰さないからね!」
ナイフのように鋭い声で言われて、レオンはにやりと笑った。
「もしかして、誘われてる?」
「誘ってない!!」
くわっと牙を剥いたオデイエ卿に、レオンはへらっと笑いかけた。
「夜までかかる? そんなら俺、レクター・ウェインの部屋に泊まる」
「はあっ!? なんだそれは!?」
今度はウェイン卿が眦を吊り上げるのを見て、レオンは満足そうに一層目を細める。
「赤い悪魔とは、ぜひとも夜っぴて語り合いたいと思っていた。『常識』という命題について」
「………意味がわからない」
苦手な野菜を前にした子どものように、不愉快そうに顔を歪めるウェイン卿を見て、わたしは頬に手を遣る。
「ふふふ、わたしったら、さっきまですごく気を揉んでいたんですよ。レオンとウェイン卿が喧嘩になってしまうのじゃないかって。そんなはず、ありませんのにね。だって、レオンもウェイン卿も、どちらも、すごく紳士的でお優しいのですもの。こんなに仲良くおなりだなんて、感動いたしました。取り越し苦労でした。ねえ?」
「え?……は、ははい。も、もちろん、喧嘩なんて、すすするはずありません」
なぜだか頬を盛大に引き攣らせ、ウェイン卿が目をしばたいた。
「レオン、会えて、嬉しいです」
言うと、レオンは微笑んだまま、急に困惑気味に眉を下げる。
アナベルが、部屋の様子をぐるりと見渡してから、口を開く。
「至急、お知らせしたいことがあります。実は、一緒にここまで来た、修道士の側近が、カナリアのようにお喋り好きで、色々と教えてくれたんですよ。ねえ、令嬢――?」
アナベルが、わたしの顔をじっと見て、優しい笑みを浮かべた。落ち着いた声が続ける。
「――修道士とご友人関係にあるという話は、本当ですか?」
「…………はい?…………え……? え、えええっっ!?」
淑女らしくない、仰天した声が、わたしの口から飛び出した。
「そ、それは一体、どういう……?」
アナベルは、こんな時に冗談を言うタイプではない。その海色の眼差しは、真剣そのものである。
「――もしそうなら、令嬢の想像以上に、修道士は危険な相手です。すぐに、これ以上、会うのを止めてくださ――」
「ちょ、ちょっと待って。修道士と、お友達? こ、このわたしが?」
胸を押さえて叫ぶと、「……令嬢……」とウェイン卿がすごく何か言いたげに目を細めている。
「リリアーナ? 危ないことはダメって、僕、何度も言ったよねえ?」
ランブラーの顔に、八面玲瓏な笑みがゆっくりと広がる。
「リリアーナ? ドッキリはもう、お腹いっぱいだから、ほどほどにね」
ノワゼット公爵が、幼子に言い聞かせるみたいに優しい声を出す。
「リリアーナったら! 修道士を探るなら、わたしも仲間に入れてって言ったのに……!」
ブランシュは拗ねたように、さくらんぼの唇を尖らせる。
「…………あら?」
心外なことに、わたしったら、まったく信用がない。
こほんと咳払いをして、わたしは背筋を正して目を薄めた。
「このわたしが、修道士とお友達――? 冗っ談じゃありません。一番、仰天しているのは、このわたしです。筋金入りの引きこもりを見くびられては困ります。わたくしは、お友達どころか、お知り合いすら、ほとんどいない身の上でございます!」
胸を張って堂々きっぱりと言いきると、うっ、と周りは言葉を失う。
アナベルはゆっくりと瞬きながら、細い首を捻った。
「修道士は、レディ・リリアーナを自分の『お気に入り』だとして、傷つけないように手下に命じました。修道士の側近によると、詳細は知らないけれども、その時の口調から、少なくとも顔見知りであることは間違いないと……」
「あら、でも、ちょっと待って。おかしいわ。夏にうちの馬車を襲って、ウェイン卿に撃退された襲撃犯たちは、修道士の関係者だったんでしょう?」
ブランシュが可愛らしく顎を叩くと、ノワゼット公爵が軽い相槌を打つ。
「下っ端だったけどね」
「――修道士は今回、レディ・ブランシュとロンサール伯爵にも手を出すなと命じていました。夏から今日までの間に、……何か、心境の変化があったんじゃないでしょうか」
アナベルが真面目な口調で言うと、また部屋中の視線がわたしに刺さる。
「そうなると、ここ半年ほどの間に、リリアーナは、修道士と会った。もしくは、二人の間に何かあった……?」
「もう、お従兄様、何もありませんったら」
「……令嬢は、そうとは知らずに、向こうが勝手に見かけて、惚れ込まれたんじゃないの?」
窓辺で冷たい風にあたるオウミが、涼しい声で言う。
「ええ? そんなこと、あるかしら?」
わたしが首を傾げると、ノワゼット公爵は目を細める。
「……うん、それは大いにあり得るな……」
ウェイン卿が額を押さえる。
「あり得ますね……」
ランブラーが大きく息をつく。
「身内の欲目を大きく差し引いても、お人形よりも、お人形のようだものなぁ……」
「はあ……?」
ブランシュが、首を捻るわたしの肩に優しく手を置く。
「修道士の正体は、貴族だと言われているのよね? リリアーナと知り合いの貴族……。それだけで、すごく数が絞られるんじゃない?」
ランブラーが大きく頷いて、立てた指を一本ずつ折ってゆく。
「ああ。……うちで開いたパーティーに参加した、僕とブランシュの友人たち。
豚公爵の異名をとる、ヒューバート・ディクソン公爵。
第一騎士団団長、グラハム・ドーン公爵。
レディ・マージョリーの父であるシオドア・ダーバーヴィルズ公爵。あとは、グラミス老伯爵と、僕の同僚である、王宮政務官たち……思い付くのは、これくらいかな」
「どう? リリアーナ?」
「……確かに、わたしが存じ上げる貴族の方は、そのくらいです」
ノワゼット公爵が、厳しく眉根を寄せる。
「……ふむ……この中の誰かが……修道士……?」
「でも……まさか! 信じられません。これまでお会いした方はどなたも、お優しく公正明大な方々ばかりで……闇組織の黒幕? 疑わしい人なんて……」
「そうかしら? 誰も彼も、疑わしいわ」とそれまで黙っていたエレノアが口を挟む。ティーカップに鼻先を寄せ、静かに続ける。
「――罪を犯すのは、悪人とは限らないもの」
「――気をつけてくれよ、令嬢」
口を開いたのは、レオンだ。優しく微笑んだまま、落ち着いた低い声が告げる。
「『悪意』は、通り雨みたいなものだ。唐突に、穏やかに晴れた道を歩く人の頭上に降ってくる。悪意の主がいかにも悪人らしく、状況がいかにもそれらしければ、こっちも用心出来て助かるんだが、残念ながらそうとは限らない。通り雨は、傘を持ってない時に限って降るものだから」
唇は柔らかな弧を描くのに、蒼灰色の瞳は、真剣そのものである。
「……レオン……」
「穏やかな老執事だった俺が言うと、説得力あるだろう? 気を引き締めて、令嬢から離れるなよ、黒鷹ども。気に入った女に対して、男の考えることといったらロクなもんじゃない。まして、相手はあの修道士だ」
「言われなくても、わかっている」
真剣なウェイン卿と、レオンの鋭い視線が絡む。
「そうか。なら、今夜は『常識』について語り明かそうじゃないか。なあ、レクター・ウェイン」
「だから! 意味がわからない!! なんっなんだ、お前はっ!?」
わたしはまた、ほうと息を吐いた。
「ほら、言った通り、すごく面白くて親切でしょう?」
「ふふっ、本当だなぁ。こんな執事がいてくれたら、毎日楽しそうだ」
ランブラーがのんびり答えながら、顎先に手を遣る。
「わたしは前から、ロウブリッターを気に入ってたわ。最高に気の利く執事だった。ね、またうちで働かない?」
胸の前で手を組んだブランシュが冗談ぽく笑いかけると、レオンは黙って肩をすくめた。
「いずれにしても、修道士を見つけましょう――手っ取り早く」
アナベルが、真剣な声で言う。
「修道士の顔を知っている人間に、面通しさせましょう。今、この王宮にいるんですから」
「なんだって?」
ノワゼット公爵が、笑みを消して立ち上がる。
「修道士の、素顔を知っている? 誰がだ?」
「ええ」とアナベルも真顔で頷く。
「修道士のターゲットは、その男でした。十五人の刺客を今日この王宮に侵入させたのは、その為です。しかも、別ルートで侵入した五人の刺客はその男を消すために探し回っているはず。先に見つけないと」
「修道士の尻尾を掴める……。修道士の頭巾党を壊滅させれば、勲章ものだ。何としても、第二騎士団が先に見つける」
ノワゼット公爵が言うと、ランブラーも美しい笑みを浮かべる。
「修道士の頭巾党の壊滅。この国の、いや、この大陸の治安が素晴らしく向上するだろう。最高じゃないか。……その男の情報は?」
「――名前はわかりません。細身で焦げ茶の髪と虹彩。右目の下に泣き黒子があるという若い男が、修道士と直に会ったことがある、と側近の男は言っていました」
ランブラーが、呆気に取られたように目を見開く。ノワゼット公爵が首を捻る。
「細身で、焦げ茶の髪と虹彩……。右目の下に泣き黒子がある、若い男……? 誰だ? 誰か、知ってるか?」
騎士たちが眉を寄せて首を振る中、ランブラーがそっと手を上げる。
「伯爵の知り合いか?」
ノワゼット公爵が問うと、ランブラーはゆっくりと首を横に振る。
「いいえ。でも、知っています。たぶんそれ、僕の同僚、ジョセフ・シュバルツ政務官が探してた客ですよ」
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