屋根裏の魔女、恋を忍ぶ

如月 安

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第二部

第61話 世界一の場所(マーク・エッケナー視点)

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 ――可愛かったなあ……。

 リリアーナ・ロンサールとレクター・ウェインが帰っていった扉を見やり、カップを片付けながらマーク・エッケナーは考えた。

 ――しかし、本当、何の為に来たんだろう……?

 まさか、本当に牽制するために来たのか?
 いやいやあ――と首を捻る。王宮騎士団副団長様だぞ。平民の男を牽制する必要など、あるはずない。

 いやしかし……恋とはそんなものなのか? 婚約者があれほど神がかって美しいと、通常より盲目的になったとしても、致し方ないとも言える。
 リリアーナ・ロンサール伯爵令嬢って、ちょっと前まで魔女だのなんだの騒がれてなかったっけ? ……まったく、これだからタブロイドは。

 あれが、レクター・ウェイン卿か……戦勝パレードでは見たけど、間近に見たのは初めてだ。オーラ凄かったな。緊張した。美形だ。二物を与えられたんだな。あんだけイケメンなら、壁ドン頭ポンポンあごクイ等、僕がやったら変質者になる行為も、キュンで許されるに違いない。羨ましい。

 ――僕は、自分の身の程をわきまえている。

「父さん、母さん、疲れたんじゃない? 僕が店番しとくから、奥で食べてきなよ。さっき、ラ・リュンヌのバゲットとキッシュ買ってきたから」

 昼食を先に取るよう勧めると、両親は古びたカウンターの向こうで穏やかに笑った。

「お客さんが来たら、ベルが鳴るからすぐにわかるわ。あなたも一緒に食べましょう、マーク。ラムシチューの残りがね、あるのよ」

 頬を緩ませる母は、少女のようだと僕は思う。

「いいね、母さんのシチューは世界一だ。ね、父さん」

 ああ、そうさなぁ、と父さんは丸眼鏡の下の頬を緩めた。膝に手をついて、古い丸椅子からそろそろと立ち上がる。
 父さんは、こんな風にゆっくり用心深く立ち上がる人だったっけ? 少し切なくなる。時の流れは、いずれ別れを運んでくることを、知っているから。

 ここに暮らして、十五年になる。


 §


「俺はさ、ぜってーいつか、ここを抜け出す。貨物船にこっそり潜り込むんだ。新大陸に行って、でっかい金鉱を見っけて、大金持ちになってやる。知ってるか? 新大陸にはさ、金がごろごろ埋まってるらしいぜ。この国じゃ、ロクな仕事にありつけやしないもんな。いいなあ、新大陸。行きてえなー」

 げほげほ。ひどく咳き込みながら、ビルはいつも同じ話を繰り返した。
 きれいに洗えば女の子と見間違える可愛い顔も、明るい金髪も何もかも、全身煤まみれで真っ黒なのに、この話をするとき、ビルの青い瞳はキラキラ輝いた。

「マークも一緒に行くだろ?」

「おう! もちろん!」

 大きく笑って、ハイタッチ。お決まりの、もう何十回、何百回繰り返したかわからない遣り取り。
 ビルと僕は、同じ親方につく徒弟だった。
 同じ孤児院から同じ日に煙突掃除徒弟組合に買われ、一緒に王都にやって来た。ずいぶん長い付き合いだ。歳も同じくらい……お互い、十歳程だと見当をつけていた。もちろん、そんな気がするってだけだ。僕たちは二人とも、生まれた年なんか知らないんだから。

 金塊が土に埋まっているわけないとか、そんな甘い話あるかよ、なんてことは絶対に言わないと決めていた。煤まみれの人生には、夢が必要だ。それは、大きければ大きいほど良い。

 新大陸から東動物園に、珍しい動物がやって来たって話題で、そのときの王都はもちきりだった。
 なんでも、腹についたポケットに子を入れて、二本足で飛び回る巨大なウサギだとか。そんな馬鹿な、と僕は内心、信じていなかった。

 ところがある日、煙突掃除に行った貴族の屋敷で、そこの子ども達が興奮気味に話していた。

「すごかったなぁ……、あの動物。おなかから赤ん坊が顔出してさ。父さまに頼んだら買ってもらえるかなぁ? 庭でも飼えるよね?」
「やめとけよ、僕はあんな動物はあんまりだな。ちゃんとした血統の馬と猟犬は別だけど。動物園はおまけに、平民も出入りしてただろ。臭いが移りそうだったじゃないか。平民とはせめて、観覧場所を分けて欲しいもんだ」

 うんざりした風の兄の声に、それはそうだね、と幼い弟の方が応えているのが、窓越しに聞こえた。

 本当にいるのか――と庭の片隅で休んでいた僕はびっくりした。
 新大陸。そんな不思議な生き物がいるのなら、本当に宝が埋まっているのかもしれない……すげーな。

「おい、マーク、背中、大丈夫か?」

 ビルが何でもない声で問うから、僕は笑って返す。

「おう、よゆうだ」

 本当はすごく、ずきずきした。昨日動物園に行ったらしい兄弟のいる屋敷の暖炉は、火を消して間がなかったから。

『四の五の言わずさっさと登れ! お戻りになるまでに直さねえと、旦那様がお怒りになるだろうが!』

 煤が詰まって逆流を起こしたばかりの暖炉の前で、屋敷の下男は僕に向かってそう怒鳴った。ところがどっこい、うちの親方は小心者だけど、幸いなことに良識があった。火を消したばかりの煙道に徒弟を登らせるわけにはいかない、と言い返した。
 下男は大きな舌打ちをして、執事を呼びに行った。現れた執事は冷たい目をした男で、黙って親方に銀貨を手渡した。――それで、僕は登らざるをえなくなったわけだ。

 
 煤を詰めた重い袋を荷車まで運び終わり、庭の縁石に腰かけて、親方が戻るのを待っていた。へこんだ水筒を口に運び、ぷはっと息を吐く。頬をなぶる風が冷たくて、気持ち良かった。
 突然、腕を伸ばしたビルが、僕のシャツをぐいっと捲った。背中が丸出しになる。

「うわ、なんだよ、ビル!」
「……やっぱ、水ぶくれになってる。マーク、明日は一日休んでろ。俺がぜんぶ登るから」

 言いながら、ビルはまた激しく咳き込んだ。いいよ大丈夫だよ、と言ったのに、「いいからいいから、いつかぜってー、新大陸に行こうな」とげほげほ笑った。

 戻って来た親方が、僕たちを見て笑った。僕もビルも、頭から爪先まで煤で真っ黒だから、どっちがどっちか、瞳の色でしか見分けつかねえな。おまえたち、双子みたいだなあ、と。


 その翌日の夜だ。
 七時間ぶりに煙道から引っ張り出されたビルの身体は、もう冷たく固まっていた。
 その煙道は、途中から角度がついて、しかも狭くなっていた。ビルの身体は、ぴったり詰まってしまった。もっと体が小さかったら、五、六歳くらいだったら良かったんだろうけれど、ビルは大き過ぎたのだ。
 最初、僕が下から登って、なんとか押し出そうとした。だけど、膝ががっちり嵌っていて、どうしようもなかった。「悪ぃ、しくじっちまった」と言って、ビルは文字通り二進も三進も行かない状況を笑い飛ばそうとしていた。色々試してみた。ロープで引っ張り出そうともしてみたけど、それも無理だった。

 とうとう万策尽き、レンガ職人が呼ばれた。
 屋敷の主人が、家の壁に穴を開ける羽目に陥ったことを大声で怒鳴っていた。親方はぺこぺこ頭を下げていた。
 大人たちが苦労して引きずり出した時には、もうダメになってた。壁を壊す振動で煤が落ちてきて、窒息しちまったんだろう、って誰かが言った。煤だらけだから、顔色も何もわからなくて、ただ眠っているように見えた。

「連れて帰りたい」と親方に縋ったけれど、ダメだ、と一蹴されて、ビルとはそれっきりだ。
 もしかしたら、あれはやっぱり眠っていただけで、今頃、うまく新大陸に渡って元気にやってんじゃないかなあ、なんて思う。あいつのことだから、本当に金を掘り当てて大金持ちになっているかも。そうだったらいい。
 
 ビルが起こした事故は、偉い子爵様の屋敷を壊す騒ぎになったから、治安隊が調査に来た。いかつい感じの中年の二人だった。僕の背中と膝と腕の火傷の跡まで念入りに調べて、厳しい声で親方に何か話していた。
 
 それがよっぽど堪えたのか、小心な親方は、僕を手放すと言った。
 これからは、最新式のブラシで自分で掃除すると決めたらしい。それなら少なくとも、貴族様にご迷惑をおかけしないからと。
 推定十歳の僕が連れて行かれたのは、エッケナー時計店だ。たぶんだけど、最新式のブラシを買う金は、エッケナー時計店の夫婦が払ったのだと思う。

 そうして、僕の世界は、様変わりした。

 僕の誕生日は、冬祭りの半年後の六月二十日ってことになった。冬祭りの贈り物と誕生日の贈り物、半年にちょうど一回、選べる楽しみができるでしょう、と時計店の夫婦は言った。
 高いものではないけれど、新しい服に靴、文房具。清潔なベッド。栄養のある食事。学校にも通わせてもらった。
 十一歳まで全くの無学だったはずなのに、不思議なことに勉強では苦労しなかった。すぐに周りを追い越して、成績はそこそこ良い方だった。
 希望通り、職業斡旋所に就職できた。孤児だった自分が、立派なものだ。時計店の両親は、自分のことのように喜んでくれた。

 ――『新大陸にはさ、金がごろごろ埋まってるらしいぜ。この国じゃ、ロクな仕事にありつけやしないもんな。いいなあ、新大陸。行きてえなー』
 
 ――しっかりやろう。

 ――ビルみたいな誰かを、助けてあげられるように。


 それを思い出したのは、唐突だった。

 ――冬。
 華やかな社交シーズンが始まる。貴族たちが、領地から戻ってくる。
 貴族とお近づきになりたい、娘を貴族の目にとまらせたい、そんな野望を抱く小金持ち連中も、続々とこの王都に集まる。つまり、使用人の募集が増えるのだ。職業斡旋所はもっとも忙しくなり、やりがいも増えた。

 その日、仕事を終えて帰るころには、朝には美しい純白に輝いていた雪は、すっかり踏み荒らされて、泥と混じってぐちゃぐちゃだった。
 レンガ敷きの道を滑らないよう、用心しながら歩いていた。後ろから蹄と車輪の音が聞こえて、振り返った肩越しに、四頭立ての巨大な馬車が近付いて来るのが見えた。
 
 泥が跳ねたら嫌だなぁ……と僕は思った。僕みたいな労働者階級にとって、スーツと靴は貴重品だ。
 歩みを止め道端の石段に登り、できるだけ脇によけたところで、ちょうど馬車が駆け抜けた。
 ドアに描かれた紋章が、すぐ目の前を通る。
 植物で巻かれた盾の上に、冠――どこかの偉い公爵様の馬車らしい。

 ――……冠……あの植物、何の葉っぱだろう……三つ葉の……シロツメクサかな……?
 
 ぼんやりと、どうでもいいことを考えて、足を再び進めた。

 ――『トゥリフォイルだよ。薄紅色の花を咲かせるんだ。ほら、領地のあぜ道に咲いているのを、見たことがあるだろう?』

 唐突に、穏やかで完璧な発音が、頭の中で響いた。

「…………?」

 最初の一個が飛び出してくると、残りはもう簡単だった。
 引き出しの引っかかりは、取れてしまえばすんなり引き出せる。

「………え……?」
 
 呆然と、遠ざかる馬車を見送った。

「…………あぁ…………」

 ――転がる馬車。厳しい母。逃げろ。優しい父。背中の銀色。黒い騎士。逃げろ。馬のいななき。雑草の匂い。痛い――

「違う……」

 喉が、からからだった。胸がムカムカして、頭がグラグラして、心臓を口から吐き出しそうだった。

 すぐ横を別の馬車が駆け抜けて、べしゃり、と裾と靴に泥雪が跳ねる。

 ――『マーク、いっしょに新大陸に行こうな』


 違うよ、ビル。

 血の色の満月。掌の感触。水。落ちてゆく。昏い、寒い、痛い――――

 ――違う。

 僕、マークじゃなかった。


 僕の名前は――――


 ――――レイモンドだ。


 その日、どうやって家まで辿り着けたのか、よく覚えていない。

 翌朝、体調が悪いことにして、初めて仕事をズル休みした。王立図書館が開館すると同時に駆け込んで、古新聞をひっくりかえした。

 それで、大概のことはわかった。
 
 十九年前だ。
 当時、僕は五歳で、もう死んだことになっていた。
 事件は、どうしてか事故だったことになっていた。一人を残して、侍女と護衛騎士たちは全滅だったらしい。馬に乗せて遊んでくれた、優しくて強い騎士たち。これで早く走れますよ――と靴に魔法をかける真似をしてくれた騎士。毎夜、読み聞かせをしてくれた若い侍女もいた。その顔が、順番に昨日のことのように浮かんで、僕は泣いた。そして――

 両親はあの時、亡くなったらしい。

 ――『レイモンド。いいこだね』

 膝の上、大きな掌、優しい声。父の全てを思い出して、僕はさらに泣いた。

 ――『レイモンド、もっとしっかりなさい』

 母の声。背筋の通った、凛として美しい、厳しい人だった。だけど最後、小さな僕を抱き締めて走ってくれた。

 ハンカチで顔を拭って、一度、外に出た。図書館の前にある噴水のへりに座って、しばらく、空を見た。

 どのくらい、そうしていたかわからない。しばらくして、僕はまた、図書館に戻った。

 それからの、ディクソン公爵家の記事を追い続けた。
 従兄のヒューバートが跡を継いだらしい。二歳下の僕とよく遊んでくれた従兄を思い出す。顔立ちや髪色だけじゃなく、好きなことや物語の好みまで似ていて、気の合う兄みたいな存在だった。
 両親が大事にしていた公爵家を、ヒューバートが継いでくれてくれて良かったと思った。

 ぐしょぐしょのハンカチで、何度も顔を拭いながら読んだ。
 僕が声を殺して泣いていたことに、図書館にいた他の人たちは気付いていないようだった。端っこの柱の陰の席に座って良かった。いや、気付いても見て見ぬふりしてくれたのかも。図書館で新聞読みながら、大の男が号泣。怖いわ、ふつーに。
 やがて、落ち着きを取り戻して大きく息をついた頃には、もう閉館間近だった。

 さて――


 ――名乗り出るべきか……?

 実の祖父や、従兄のヒューバートに会いたいかな? どうだろう……よくわからない。
 だけど、事件で記憶を失くして孤児院にいる時から、ずっと夢に見ていた。
 いつか、本当の家族が迎えに来てくれるんじゃないかと。ずっと会いたかった、と抱き締めてくれるんじゃないかと。
 だからまあ、そりゃ、会いたいか……こういうの、会いたいって言うのかな……だけど……。

 ――がっかり、されるだろうなぁ……。

 ――『レイモンド、努力なさい。そんなことでは、立派な公爵家の跡継ぎになれません』

 名乗り出たところで、僕はどうだろう。

 十一歳から、四年だけ通った学校。庶民向けの、読み書きと簡単な算数。貴族としての教養なんか齧ったこともない。
 ヒューバートは少なくとも、帝王学――政治学、散文、外国語、経済学なんかを完璧に修めているだろう。公爵家では、常に百点満点を期待される。それ以外は、僅かな失敗も認められない。今の僕を一言で表すと――

 ――無学無才。

 容姿と運動神経も微妙だし。これはまあ、たぶん、ヒューバートもだが。
 おまけに、煙道から落っこちて足を折った時の後遺症で、右足を引き摺って歩く。左手の薬指と小指も動かない。これはいつの怪我でだったか――もう忘れたな。

 五歳の時、母の誕生パーティーで披露したピアノは、『雨の夜のフォアシュピール三番』だった。特訓を受け、精一杯弾いたけれど、小さな手では小指が上手く届かなくて、音が飛んだ。
 弾き終わると、拍手が巻き起こった。大人たちは口々に、「利発なお坊っちゃまですこと」「素晴らしかったです」と誉めそやしてくれた。今なら、あれはただのゴマすりだと分かる。

 だけどあの時、幼い僕の心臓は、興奮でどきどき鳴っていた。良かった。みんな誉めてくれる。良かった――おそるおそる送った視線の先、母の瞳に浮かんでいたのは、あからさまな落胆の色だった。

『あなたは公爵家の跡継ぎ。隙を見せてはいけません。完璧でないのならば、しない方がずっとましです』

 ――名乗り出て、どうする?

 貴族になるのか? たぶん、なるんだろうな。おじい様……ブルソール国務卿か……すげえな。
 僕のこと、可愛がっ……てはなかったな。おじい様は、ただ怖い人だった。笑いかけられた記憶ひとつない。

 まさか、今さらおじい様の後継者になることはないだろうが……。
 屋敷の片隅で、血族の端くれとして、働かなくても衣食住に不自由しない暮らしはさせてもらえそうである。

 ――貴族、かあ……。


『きたないね、あのこたち』『まっくろけのおばけみたい』

 煙道から降りて来て、擦りむいた手で煤を袋に詰めていると、窓の外で僕と同い年くらいの兄弟がこっちを覗いていたことがある。慌てて姿勢を正して、帽子を取って、ぺこりと頭を下げた。親方と、ビルと、僕で。

 くすくす。くすくす。

 血色の良い、ピンク色の頬。頭のてっぺんから爪の隙間まで、清潔な体。ほつれ一つない、上等な服。

 くすくす。くすくす。きたないね。

 ――『臭いが移りそうだったじゃないか。平民とはせめて、観覧場所を分けて欲しいもんだ』

 ――……僕もかつて、あんな風だったろうか? 

 煙突掃除の子ども。当時は意識したことはなかったけど、屋敷に来ていた気はする。僕と変わらないくらいの歳の、真っ黒な煤にまみれた男の子。あのこ、どうしてるかな。無事に大人になれただろうか。

「…………」

 ひとまず、問題は先送りにすることにした。

 翌日はいつも通り、職業斡旋所の窓口に座った。働いていた方が、鉛のように重たい気分は紛れた。

 その朝の三番目、目の前の椅子に座ったのは、変な女だった。小さな身体にぶかぶかの外套を目深に被っていた。真っ黒ずくめ。魔女の真似か……?

 几帳面な、丁寧な文字で記入された用紙を見て、溜め息が零れた。身元保証人なし、紹介者なし、希望職種なし、経験なし、特技なし。顔は隠したまま。フードも取ろうとしない。
 やる気あんのか? 
 何しろ、心も頭もぐちゃぐちゃで、この二日間、ほとんど眠れていない。苛っとした。

『はあ、経験なし、身元保証なし、紹介状なし、ねえ……。まあ、難しいね、それじゃ、どこも雇ってくれないだろうね。誰か、紹介状を書いてくれそうな人、全くあてがないわけ?』

 そんなわけないだろ。
 誰しも、生きていれば人と関わる。誰か一人くらいひねり出せ。真剣に考えてみろ、と思った。
 ところが、目の前の魔女は、小さく首を横に振る。
 これ見よがしに、僕は溜め息ついた。

『ま、とりあえず、そのフード脱いで顔見せて。見目が良けりゃ、なんかあるかも』

 本当は、席に着く前にそのくらい脱いどけ、社会人の常識だろ、と言いたかった。
 目の前の魔女は、少し考えて、フードをはらりと落とした。――はい、それでよし、と書類に目を落とし、口を開こうとして、ん? と顔をあげた。

 あの時に受けた衝撃ときたら、筆舌に尽くしがたい。

 魔女の正体は、天使だった。

 いやこれ、本当の話。

 きらきらきらーと太陽を直接見たときみたいに、光が弾けて、目が眩んだ。

 しかも、しかも……

 何を口走ったかは、あまり定かではない。
 あからさまに下心のありそうな妙なことを口走り、キモかった可能性は否定できない。だって、しょうがないじゃないか。本物の天使が目前に舞い降りて来て、平静でいられる人間がこの世に何人いるのか、っていう話。

『ここで待っていてください!』

 そう言ったことは間違いないのだが、窓口を閉じ、上司に早退の許可を得て、鞄をひっ掴んで戻ると天使は忽然と消えていた。
 辺りを走り回って探したが、影も形も見つけられなかった。

 ――しまった……。

 どうしよう。

 あの天使……


 苦しくて、困り切って、今にも泣き出しそうだったのに。

 耳の奥の、ずっと深いところで、声がした。さっきの僕の声と、あのときの兄弟の声が重なる。

 ――くすくす。くすくす。

 ――『はあ、経験なし、身元保証なし、紹介状なし、ねえ……。まあ、難しいね、それじゃ、どこも雇ってくれないだろうね』

 くすくす。くすくす。きたないね。


 ――ごめん。

 ビル。

 

§


「さっきのお嬢様、天使様みたいだったわねぇ」

 小さな古い丸テーブルを囲んで、このごろ物忘れがひどくなったわ、が口癖の母さんが、しみじみと言う。ああそうさなあ、と父さんも感心したように言う。
 僕が初めてここに来た時、父さんはきびきびと親方に対応していた。親方から奪い取るように、父さんは僕を抱きかかえた。母さんは、絵に描いたような肝っ玉母さんだった。煤で汚れた僕を一番にキッチンに連れて来て、温かいシチューを山盛りよそってくれた。

 狭いキッチンの壁には、両親の似顔絵が貼ってある。学校に行き始めたばかりの頃、僕が描いたものだ。下手くそだし、安物の紙は黄ばんでいる。
 でも、誰もそれを剥がそうとしない。時々、丁寧な手つきで埃を払って、二人はそれを満足そうに眺めている。

 年季の入った錫製のスプーンで、ラムシチューを掬って、僕は笑う。

「幸せそうだったね」

 良かった。あのあと、彼女は優しい誰かに手を差し伸べてもらえたらしい。それが、レクター・ウェイン卿だったのかもしれない。

 第二騎士団副団長――さっきは本当、心臓が冷えた。二十年前のあの騎士達……黒鷹の制服と似ていたような気もするけれど、夜だったし曖昧だ。第一、実際にそうであれば、あのおじい様が許すまい。きっと違ったんだろう。

 さっきは、喋り過ぎただろうか。

 いや、大丈夫だ。こういう場合、嘘や隠し事は、余計に怪しまれて細かく調べられる可能性がある。真実だけを正直に話したって、僕とレイモンドが結び付けられることはない。そもそも、あれからもう二十年。誰しも、レイモンドのことなど忘れてしまったに違いない。

 うっとりと、夢見るように母が言う。

「お似合いだったわねえ……。おとぎ話にでてくるお姫様と騎士様みたい」

「そうだねえ」

 僕は、ラムシチューを噛みしめて味わう。とろとろの羊肉と野菜がたっぷり入った、優しい味。器やスプーンが銀でなくとも、肉が上等の仔牛でなくとも、世界一美味い料理は、誰がなんと言おうと間違いなくこれだ。

 この居心地の良い場所で、新しい誕生日をもらった。それから十五年、与えられてばかり。本当は三月生まれだなんてこと、僕にはもう、どうだっていい。

 万が一、誰かに気付かれても、もはや証明する方法はない。自分さえ、何も言わなければ大丈夫だ。
 黄ばんだ画用紙の中の似顔絵より、髪が白くなった両親を見て、僕は言う。


「父さん、母さん、元気でいてよね。僕、ずっとここにいるからさ」


 この場所は、世界のどこよりも素晴らしいのだから。




 
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