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第二部
第27話 すばらしい計画ー03
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アナベルの顔は――真っ青だった。息を呑む。
「……っ? アナベル!? 具合が悪いの!?」
額にうっすら冷たい汗を滲ませながら、アナベルは小さな頭を横に振った。
「……いえ、大丈夫です」
どう見たって、大丈夫そうではない。
「だ、だけど……具合が悪そう」
慌てて支えるように握った手は冷たく、小さく震えていた。運河添いに配置された木製のベンチが目に入る。
「とりあえず、このベンチに座って。お従兄さまを呼んで来るから、ここで待っていて。今日はもう、帰りましょう」
「いえ、でも……」
「いいから、座ってて」
強く促すと、よろめくように腰を下ろしたアナベルは片手で額を押さえて俯いてしまう。本当に具合が悪そうだ。
――ランブラーを呼びに行かなくちゃ。
この時ばかりは、目前の庭園の広大さに焦らされた。
わたしの歩幅は小さく、走るのも遅いったらない。日頃の運動不足が悔やまれる。
「あら?」
「レディ・リリアーナ?」
裾を持って運河沿いに駆け戻る途中、美しい声に親しみをこめて呼ばれ顔を上げる。
デリア・ビシャール伯爵令嬢とビアンカ・フォーティナイナー子爵令嬢の一分の隙も無い美しい立ち姿が、目の前にあった。
ブランシュの親友である、美しいお姉様達。
上品なスリーブドレスは、すとんと優美なラインを描いて流れ落ちる。きゅっと小さく纏めた髪の上にちょこんと載るボンネットは最新流行のもの……と言っても、彼女たちは流行を追うのではない。
ブランシュと同じで、彼女たちが流行を作る。社交界の令嬢達は、タブロイドを飾る彼女たちの写真を憧憬の念をもって穴の空くほど見つめ、お手本とする。
今日も目の覚めるように美しい二令嬢は、おっとりと優しく微笑む。
同じくブランシュの親友であるコンスタンス・バルビエ侯爵令嬢は、今日は一緒ではないらしい。
「どうかされたの? そんなに急いで」
「何か、お困りごとでもございまして?」
「あの、付き添いの彼女の具合が……」
息を整えながら指し示した先のベンチでは、血の気が失せて真っ白な顔をしたアナベルが苦しそうに腰を下ろしている。
デリアとビアンカは、途端に気遣わし気に柳眉を寄せた。
「まあ……! 大変、ずいぶん具合が悪そうね。レディ・リリアーナ、貴方は彼女についていて差し上げて」
「わたくし、代わりにロンサール伯爵を呼んで参りますわ――」
その時、彼女は現れた。
「あら、ごきげんよう。ビシャール伯爵令嬢、フォーティナイナー子爵令嬢」
まず目をひいたのは、気の強そうなアーモンド形の瑠璃色の瞳だ。
それから、一筋の解れもないプラチナブロンドの巻き髪。つんと通った鼻筋。強い弧を描く柳の眉。
苛烈な焔を思わせる、燃えるような深紅のドレス――――
デリアとビアンカの顔からすっと表情が消えた。
瞳を眇めたビアンカが、口の中で転がすように呟く。
「……マージョリー・ダーバーヴィルズ……」
その名を聞いて、二人の反応に合点がいく。
『天敵なの』
――そう、ブランシュが言っていた。
この女性が、カメレオン侯爵と呼ばれるダーバーヴィルズ侯爵の令嬢……? ダーバーヴィルズ侯爵は国務卿の側近で、枢密顧問官のひとりでもある。
マージョリーの瑠璃色の瞳が細められ、顎と唇の片端が同時に上がった。
「今日に限って、金魚のフンじゃないようね? ノワゼット公爵様のご威光を鼻にかけたいつもの令嬢はご一緒じゃないの?」
言われたデリアとビアンカは、洗練された仕草ではらりと扇を開く。
上品に口元を覆ったかと思うと、つんと横を向いた。
無視されたマージョリーは、その反応に満足したようにくつくつと肩を揺らす。
「あら?――貴女、もしかして……リリアーナ・ロンサール……? その口元、ブランシュ・ロンサールとよく似ているわね……」
「……え? は、はい」
応えて、深い礼をする。
「リリアーナ・ロンサールと申します。お会いできて光栄です。侯爵令嬢」
あの姉に天敵認定されるだけあって、なかなか強そうな人である。
早くランブラーを呼びに行きたい。
しかし、この場において彼女の位は誰よりも高かった。
「マージョリー・ダーバーヴィルズよ。よろしくね、レディ・リリアーナ」
マージョリー・ダーバーヴィルズ侯爵令嬢のしっとりと濡れたワインレッドの唇は緩やかに下弦の弧を描く。
「ふぅん、貴女がねえ……ふぅん……へえー……」
わたしの頭のてっぺんから爪先まで、ゆっくりと視線を這わせたマージョリーは、ふふっと可笑しそうに笑う。
「会ってみたいと思っていたわ……。ずいぶん地味なのねえ、がっかり」
「……あ、はい。すみません」
マージョリーが明るい声で愉快そうに続ける。
「あなたったら引き籠ってばかりで、なかなか会えないんだもの。だけど、今日はきっと現れるだろうと思って、楽しみにしていたの。あなた、あの第二騎士団の不吉な騎士と婚約されたんですって?」
「はい?」
――「不吉な」と言われた? ウェイン卿のこと?
いやまてよ、「素敵な」の言い間違いかもしれない。きっとそうだ。
「は、はい! 大変光栄なことに、レクター・ウェイン卿と婚約させていただいております!」
声は上擦ったものの、堂々と言い切ったわたしを見て、マージョリーは声を上げて笑った。白い喉をのけぞらせて。
「そうなの? 良かったじゃない。引き籠もり魔女と不吉な騎士。変わり者同士、お似合いで何よりですこと」
引き籠もり魔女は半分本当だから別にいいとして、「不吉な」騎士? 不可解……いやまてよ、「秀逸な」騎士の聞き間違いかも――やだ、わたしったら。きっとそうだ。
「お似合いだなんて――」
恐れ多いです、と続けかけたところで――
「いい加減になさったら? 誰からも嫌われて当然ですわ」
「侯爵令嬢と仰ったって、淑女が身に着けるべき礼儀も持ち合わせておられない」
鈴を鳴らすような美しい声音が、マージョリー・ダーバーヴィルズの喉笛めがけて攻撃を仕掛けた。
デリアとビアンカが、白蝶貝とレースで繊細な細工が施された扇の内側で牙を剥いたらしい。
へ? と間の抜けた声を漏らしたわたしの前で、マージョリーの眦が吊り上がった。
「なんですって!――生意気だわ。礼儀知らずはどっちかしらね。ビシャール伯爵家とフォーティナイナー子爵家……揃って成り上がり者のくせに! 自覚をお持ちでないようね!」
マージョリーの金切り声が辺りに響いた途端、道行く人々が一斉に足を止めた。視線を浴びて、わたしの胸はどきりと鳴る。
しかし、デリアとビアンカはちっとも怯まなかった。むしろ観客を得た二人の美しい瞳は生き生きと輝き、扇の上で滑らかな弧を描く。
「あーら、どうでしょう? 高貴でご立派なご令嬢のお味方は、今この王都に如何ほどいらしゃるのかしら?」
「さあね、サソリも毛虫も毒ガエルも、お仲間はことごとく追放されてしまわれて――」
くすっと、二人は顔を見合わせた。
「あら? お気の毒だこと。まさか……ひとりぼっち?」
「おかわいそうに。誰にも相手にされない憂さを、弱いものいじめで晴らしていらっしゃる。……ほら、暖かい目で見守って差し上げなくちゃ」
優しく麗しいお姉さま方の牙には、猛毒が仕込んであったらしい。この牙を向けられたら、きっと象でも失神すると思われた。
実際、マージョリーはみるみる青ざめた。唇を震わせ、奥歯をぎりりと噛みしめたかと思うと、唐突とも思える動きでわたしの帽子に手を伸ばす。
「その帽子を取りなさい! 顏も見せないなんて、卑怯者!」
デリア・ビシャール伯爵令嬢が、その手を扇でぴしりと払った。
「ベール付きの帽子が失礼ですって? 未だかつて、そんなルール見たことも聞いたこともございませんわ。リリアーナはわたくしたちの妹分ですから、手出し無用です!」
「卑怯者はあなたのほうよ。無様な醜態を晒されるのはお止めなさいな! さ、リリアーナ、こんなやさぐれた人はほうっておいて、行きましょう!」
目の前で繰り広げられる生まれて始めて見る修羅場というものに、わたしは言葉を失くして凍りつく。
社交場における自身の修行不足を痛感する次第である。
真っ白い顔でベンチに腰掛けていたアナベルが、こちらの騒ぎに気付いた。具合が悪そうにしながら立ち上がる様子が目の端に映って、はっとする。
――それどころじゃないんだった。
早く、ランブラーを呼びにいかないと――。
「アナベル、座ってて――」
その時、わたしは完全にアナベルに気を取られていた。
後に聞いたところによると、マージョリー・ダーバーヴィルズは、デリアの肩を押したらしい。それを支えようとしたビアンカのヒールの踵が、プラタナスの根に取られてよろめいたらしい。
どんっと身体の右横に何か当たった。
「あ」
――転んじゃう。
一歩、二歩、三歩、たたらを踏んだ。
それは、一瞬の出来事で。
よろめく身体を支えようと手をついた先は、運河沿いに立てられた木製の柵だった。
みしり、と不穏な音が響く。
きゃー、とか、危ない、とかいう類の悲鳴がどこからか聞こえた。
これも後で聞いたところによると、手をついた柵の根元が、たまたま夏の間に虫に喰われていたらしい。
ぐらっと世界が反転した。
公開演習の日に相応しい、真っ青な秋晴れの空を視界に映しながら、わたしは落ちた。
真っ逆さまに。
「……っ? アナベル!? 具合が悪いの!?」
額にうっすら冷たい汗を滲ませながら、アナベルは小さな頭を横に振った。
「……いえ、大丈夫です」
どう見たって、大丈夫そうではない。
「だ、だけど……具合が悪そう」
慌てて支えるように握った手は冷たく、小さく震えていた。運河添いに配置された木製のベンチが目に入る。
「とりあえず、このベンチに座って。お従兄さまを呼んで来るから、ここで待っていて。今日はもう、帰りましょう」
「いえ、でも……」
「いいから、座ってて」
強く促すと、よろめくように腰を下ろしたアナベルは片手で額を押さえて俯いてしまう。本当に具合が悪そうだ。
――ランブラーを呼びに行かなくちゃ。
この時ばかりは、目前の庭園の広大さに焦らされた。
わたしの歩幅は小さく、走るのも遅いったらない。日頃の運動不足が悔やまれる。
「あら?」
「レディ・リリアーナ?」
裾を持って運河沿いに駆け戻る途中、美しい声に親しみをこめて呼ばれ顔を上げる。
デリア・ビシャール伯爵令嬢とビアンカ・フォーティナイナー子爵令嬢の一分の隙も無い美しい立ち姿が、目の前にあった。
ブランシュの親友である、美しいお姉様達。
上品なスリーブドレスは、すとんと優美なラインを描いて流れ落ちる。きゅっと小さく纏めた髪の上にちょこんと載るボンネットは最新流行のもの……と言っても、彼女たちは流行を追うのではない。
ブランシュと同じで、彼女たちが流行を作る。社交界の令嬢達は、タブロイドを飾る彼女たちの写真を憧憬の念をもって穴の空くほど見つめ、お手本とする。
今日も目の覚めるように美しい二令嬢は、おっとりと優しく微笑む。
同じくブランシュの親友であるコンスタンス・バルビエ侯爵令嬢は、今日は一緒ではないらしい。
「どうかされたの? そんなに急いで」
「何か、お困りごとでもございまして?」
「あの、付き添いの彼女の具合が……」
息を整えながら指し示した先のベンチでは、血の気が失せて真っ白な顔をしたアナベルが苦しそうに腰を下ろしている。
デリアとビアンカは、途端に気遣わし気に柳眉を寄せた。
「まあ……! 大変、ずいぶん具合が悪そうね。レディ・リリアーナ、貴方は彼女についていて差し上げて」
「わたくし、代わりにロンサール伯爵を呼んで参りますわ――」
その時、彼女は現れた。
「あら、ごきげんよう。ビシャール伯爵令嬢、フォーティナイナー子爵令嬢」
まず目をひいたのは、気の強そうなアーモンド形の瑠璃色の瞳だ。
それから、一筋の解れもないプラチナブロンドの巻き髪。つんと通った鼻筋。強い弧を描く柳の眉。
苛烈な焔を思わせる、燃えるような深紅のドレス――――
デリアとビアンカの顔からすっと表情が消えた。
瞳を眇めたビアンカが、口の中で転がすように呟く。
「……マージョリー・ダーバーヴィルズ……」
その名を聞いて、二人の反応に合点がいく。
『天敵なの』
――そう、ブランシュが言っていた。
この女性が、カメレオン侯爵と呼ばれるダーバーヴィルズ侯爵の令嬢……? ダーバーヴィルズ侯爵は国務卿の側近で、枢密顧問官のひとりでもある。
マージョリーの瑠璃色の瞳が細められ、顎と唇の片端が同時に上がった。
「今日に限って、金魚のフンじゃないようね? ノワゼット公爵様のご威光を鼻にかけたいつもの令嬢はご一緒じゃないの?」
言われたデリアとビアンカは、洗練された仕草ではらりと扇を開く。
上品に口元を覆ったかと思うと、つんと横を向いた。
無視されたマージョリーは、その反応に満足したようにくつくつと肩を揺らす。
「あら?――貴女、もしかして……リリアーナ・ロンサール……? その口元、ブランシュ・ロンサールとよく似ているわね……」
「……え? は、はい」
応えて、深い礼をする。
「リリアーナ・ロンサールと申します。お会いできて光栄です。侯爵令嬢」
あの姉に天敵認定されるだけあって、なかなか強そうな人である。
早くランブラーを呼びに行きたい。
しかし、この場において彼女の位は誰よりも高かった。
「マージョリー・ダーバーヴィルズよ。よろしくね、レディ・リリアーナ」
マージョリー・ダーバーヴィルズ侯爵令嬢のしっとりと濡れたワインレッドの唇は緩やかに下弦の弧を描く。
「ふぅん、貴女がねえ……ふぅん……へえー……」
わたしの頭のてっぺんから爪先まで、ゆっくりと視線を這わせたマージョリーは、ふふっと可笑しそうに笑う。
「会ってみたいと思っていたわ……。ずいぶん地味なのねえ、がっかり」
「……あ、はい。すみません」
マージョリーが明るい声で愉快そうに続ける。
「あなたったら引き籠ってばかりで、なかなか会えないんだもの。だけど、今日はきっと現れるだろうと思って、楽しみにしていたの。あなた、あの第二騎士団の不吉な騎士と婚約されたんですって?」
「はい?」
――「不吉な」と言われた? ウェイン卿のこと?
いやまてよ、「素敵な」の言い間違いかもしれない。きっとそうだ。
「は、はい! 大変光栄なことに、レクター・ウェイン卿と婚約させていただいております!」
声は上擦ったものの、堂々と言い切ったわたしを見て、マージョリーは声を上げて笑った。白い喉をのけぞらせて。
「そうなの? 良かったじゃない。引き籠もり魔女と不吉な騎士。変わり者同士、お似合いで何よりですこと」
引き籠もり魔女は半分本当だから別にいいとして、「不吉な」騎士? 不可解……いやまてよ、「秀逸な」騎士の聞き間違いかも――やだ、わたしったら。きっとそうだ。
「お似合いだなんて――」
恐れ多いです、と続けかけたところで――
「いい加減になさったら? 誰からも嫌われて当然ですわ」
「侯爵令嬢と仰ったって、淑女が身に着けるべき礼儀も持ち合わせておられない」
鈴を鳴らすような美しい声音が、マージョリー・ダーバーヴィルズの喉笛めがけて攻撃を仕掛けた。
デリアとビアンカが、白蝶貝とレースで繊細な細工が施された扇の内側で牙を剥いたらしい。
へ? と間の抜けた声を漏らしたわたしの前で、マージョリーの眦が吊り上がった。
「なんですって!――生意気だわ。礼儀知らずはどっちかしらね。ビシャール伯爵家とフォーティナイナー子爵家……揃って成り上がり者のくせに! 自覚をお持ちでないようね!」
マージョリーの金切り声が辺りに響いた途端、道行く人々が一斉に足を止めた。視線を浴びて、わたしの胸はどきりと鳴る。
しかし、デリアとビアンカはちっとも怯まなかった。むしろ観客を得た二人の美しい瞳は生き生きと輝き、扇の上で滑らかな弧を描く。
「あーら、どうでしょう? 高貴でご立派なご令嬢のお味方は、今この王都に如何ほどいらしゃるのかしら?」
「さあね、サソリも毛虫も毒ガエルも、お仲間はことごとく追放されてしまわれて――」
くすっと、二人は顔を見合わせた。
「あら? お気の毒だこと。まさか……ひとりぼっち?」
「おかわいそうに。誰にも相手にされない憂さを、弱いものいじめで晴らしていらっしゃる。……ほら、暖かい目で見守って差し上げなくちゃ」
優しく麗しいお姉さま方の牙には、猛毒が仕込んであったらしい。この牙を向けられたら、きっと象でも失神すると思われた。
実際、マージョリーはみるみる青ざめた。唇を震わせ、奥歯をぎりりと噛みしめたかと思うと、唐突とも思える動きでわたしの帽子に手を伸ばす。
「その帽子を取りなさい! 顏も見せないなんて、卑怯者!」
デリア・ビシャール伯爵令嬢が、その手を扇でぴしりと払った。
「ベール付きの帽子が失礼ですって? 未だかつて、そんなルール見たことも聞いたこともございませんわ。リリアーナはわたくしたちの妹分ですから、手出し無用です!」
「卑怯者はあなたのほうよ。無様な醜態を晒されるのはお止めなさいな! さ、リリアーナ、こんなやさぐれた人はほうっておいて、行きましょう!」
目の前で繰り広げられる生まれて始めて見る修羅場というものに、わたしは言葉を失くして凍りつく。
社交場における自身の修行不足を痛感する次第である。
真っ白い顔でベンチに腰掛けていたアナベルが、こちらの騒ぎに気付いた。具合が悪そうにしながら立ち上がる様子が目の端に映って、はっとする。
――それどころじゃないんだった。
早く、ランブラーを呼びにいかないと――。
「アナベル、座ってて――」
その時、わたしは完全にアナベルに気を取られていた。
後に聞いたところによると、マージョリー・ダーバーヴィルズは、デリアの肩を押したらしい。それを支えようとしたビアンカのヒールの踵が、プラタナスの根に取られてよろめいたらしい。
どんっと身体の右横に何か当たった。
「あ」
――転んじゃう。
一歩、二歩、三歩、たたらを踏んだ。
それは、一瞬の出来事で。
よろめく身体を支えようと手をついた先は、運河沿いに立てられた木製の柵だった。
みしり、と不穏な音が響く。
きゃー、とか、危ない、とかいう類の悲鳴がどこからか聞こえた。
これも後で聞いたところによると、手をついた柵の根元が、たまたま夏の間に虫に喰われていたらしい。
ぐらっと世界が反転した。
公開演習の日に相応しい、真っ青な秋晴れの空を視界に映しながら、わたしは落ちた。
真っ逆さまに。
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