屋根裏の魔女、恋を忍ぶ

如月 安

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第一部

第84話 去り行く希望

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 ざらりと乾いた土が頬に触れ、口中に鉄の味が広がる。

「よっぽど、大事なんですね、あの令嬢」

 呆れたような声音と共に、男のブーツの先が、わき腹に突き刺さる。鋭い痛みに、息が止まる。

「……行け、もういいだろう、早く」

 ひゅっと音を立てて、頭に向かって振りかざされた蹴りを咄嗟に肩で庇う。それでも、視界がぐらりと揺れる。口の中で、砂利と血の味が混じった。

「ふっ、早く戻って欲しいんでしょう? 受け身、とらない方がいいんじゃないですか?」

 がつっと背を蹴られ、また息が止まる。

『あの令嬢、俺が時間通りに戻らないと、酷い目に遭うのに』

 男が放った言葉が、頭の中で何度も何度も響き、胸を切り裂く。
 
(酷い目に、遭っているのか……?)


『ウェイン卿がご無事に戻られて、良かったです』

(あの優しい声で、もう一度、呼んでもらえるなら、)

 願ったのに。生まれて初めて、祈ったのに。

 ――俺への加護は、もういらない。全部渡すから、あの人を無事に返してほしい。


「そんなに大事なら、言っといてくれりゃ良かった。知ってたら、もっと大事にしたのに」

 くくく、と嗤う男の声を聞いて、全身の血が、ぞわりと沸騰した。

 ――殺してやる。

 仲間も全員、存分に苦しませてから、一人残らず、生まれてきたことを後悔させてから、

 ――この手で、全員、屠ってやる。
 
 だが、

「……早く、行け」
    
 ただ、それしか、それを繰り返すしか、今の俺にはできなかった。

「もうちょっと愉しませてもらったら、そうしますよ」

 男が小さく嗤いながら、先程、捨てた剣を静かに拾い上げ、かちゃりと握り直す音が聞こえた。
 ゆるゆると身を起こし、地面に手をつく。乾いた土を握りしめながら、絞り出すように、口を開く。

「……金がいるなら、用意する。……宝石がほしいなら、俺が、いくらでもとってくる。だから、……返してくれ。」

 望みは、ただひとつだけ。
 返してほしい。

 ――俺の、光。


「驚いたな……あのレクター・ウェインが、俺の前で土下座して懇願したって言っても、誰も信じてくれないだろうな……」

 男の足が、俺の左肩を踏む。そのまま、ぐいっと靴底で押され、頭を下げる姿勢になった。

「戦場では、鬼神の如くだったって? 誰も、あんたには勝てなかった。運悪く、あんたと当たっちゃった敵は、もれなく全滅したって?……どうだろう、苦しまなかったのかな? いや、やっぱ、怖かっただろうなぁ……死ぬのは、誰でも怖いもんな……」

 そう呟いた男の声は、俺に向かって、というより、ここにいない誰かに問いかけているようだった。

(ああ……、そうか)

 ようやく、気付く。

(恨みがあるのは、俺にか……)

 リリアーナは、巻き込まれた。俺が、巻き込んだ。

 自身の首に、冷たい刃が触れた。
 
「その赤い悪魔を仕留めたって言ったら、どんくらいの名声が得られんだろう?」

 男が力を籠め、首筋に刃がめり込む。

 ――このまま剣を引かれたら、動脈が切れる。

(……死ぬだろうな……)

 愉悦にまみれた声音が続ける。

「試させてくれたら、返してやってもいいけど?」


(返してさえくれるなら、そんなこと、どうだっていい)


 繰り返し、見る夢。

 あのおぞましい結末は、あの時、この手によって迎えていた筈のもの。
 
(あんな結末より、ずっといい)

 俺の死体は、仲間の誰かがすぐに見つける。あいつらは優秀だ。返り血を浴びた男の後をつけ、リリアーナを救い出す。


(悲しんでくれるだろうか? 少しは、泣いてくれるだろうか?)

 いや……無理か。
 ドブネズミ呼ばわりして、命狙って、話しかけられて無視して、渾身の感じ悪さで睨み付けた。挙げ句、好きだとか友人でいいから側に居たいとか言い出して、相当、変な奴だと思われているのは間違いない。

 それでも、できれば、少し悲しんでくれたなら嬉しい……

 ……いや、やっぱりいい。辛いことは忘れて、笑っていてほしい。

 夜会に出ればきっと、彼女を楽しませようとする者たちが周りを取り囲む。友人もたくさんできる。 公爵やレディ・ブランシュと一緒に、歌劇を観に行くだろうか? ロンサール伯爵は、リリアーナを初めて見るもので溢れた場所に連れ出して、楽しませるだろう。

 ――リリアーナは、心から楽しそうに、花が零れるみたいに、笑う。

 やがていつか、愛する男と出会って、幸せな結婚をする。誰からも愛されて、穏やかで幸せな生涯を送る。
 そうして、記憶の片隅にひっそりと住む、俺のことを、数年に一度くらい、ふと、何かの拍子に思い出してくれたなら……これ以上の幸福が、あるだろうか。


 愛しい人を想って、終わる。


 ――俺には、もったいない、穏やかな最期。


「……リリアーナ……」


 目を閉じて、その名を、そっと呟いた。






「…………あー、あほくさ」

 男は低い声でぼそっと呟くと、剣を放り投げた。ざんっと音がして、投げられた剣が離れた場所に落ちる。

 驚いて、顔を上げる。

 ふいっと背を向けた男の表情は、もう見えなかった。

 行き止まりのレンガ塀の僅かな突起に手をついたかと思うと、蝶のように身軽に飛び上がり、その向こうに消える。

 慌てて、立ち上がる。 ぐらり、と頭がふらつく。男に殴られた衝撃の残滓から、一歩遅れた。


(しまった……!)


 跡を追ってレンガ塀を越えるが、男の姿は消えていた。

 焦り、見回す。ばくばくと心臓が鳴る。

(見失う訳には、いかない)

 レンガ塀を伝い、付近で一番高い建物の屋根に駆け上る。見渡すと、ようやく、それらしき男の姿が見えた。馬に跨り、すでに町の外に出ている。海岸沿いの道を一心不乱に前のめりに駆ける様子が見て取れる。

(あの方角には、何があった?)

 地図で見た、この辺りの地形を思い出す。確か――

(……入り江)


 建物から飛び降りると、店先に繋がれた馬が目に留まる。手綱を引き寄せ、飛び乗る。「ああっ、ちょっと!!」誰かの声が聞こえたが、構っていられない。

(出航する前に、追いつくしかない)

 海岸沿いの道の先に、男の乗る馬の姿はもうない。

 入り江の方角に向け、脇目もふらず馬を走らせるが、騎馬と違って、思うように速度が出せない。

 ――悪夢の中に、いるようだった。

 追いかけても追いかけても、決して追い付けない悪い夢。

(……神様)

 救い出させてくれたら、どんなものでも差し出す。

 だから、


 入り江の向こうに、船の帆が見えた。ゆっくりと動き出し、徐々に加速してゆく。

 ――息が、止まる。

 船は風を受け、どんどん沖へと進んで行く。


(嫌だ、やめてくれ)

 ――間に合わない。

 返せ、返してくれ、他には、何もいらないから、

 叫び出したいのに、喉の奥が貼りつき、声は出てこなかった。



 馬を止め、目の前に広がる海を見やる。

 船は波を切り裂き、白い飛沫を上げながら、遥か先に向かって進んでゆく。
 
(……もう、どうやったって、追いつけない)

 飛び込むか……泳ぐうちに力尽きて、溺れ死ぬことになる。……だが……それで、いいんじゃないか?

(ここにいて、何になる?)

 この六日間の、苦しみを思う。この先に待つのは、灰色よりもっと深い闇。

『そんなに大事なら、言っといてくれりゃ良かった。知ってたら、もっと大事にしたのに』

 あの男の嗤い声が、頭の中で響いた。

 ぞわり、と鳥肌が立ち、血が沸騰する。同時に、……それでも、と思う。


 ――助けを、待っているだろうか?


 それなら、俺は、何年かかっても、何十年、百年かかっても、探す。
 大海に落ちた針を探すようなものだったとしても、諦めたりしない。
 途中で壊れて、狂気の中に棲んだとしても。命が尽きて、この生涯を終えたとしても。生まれ変わって、また探すから。

  再び会って、その瞳にもう一度、映してもらうまで、諦めない。だから、それまで、どうか、

 ――生きていてくれ。


 生きて、生きて、生きていてくれ。


 大海へ向けて遠ざかる船が小さく消えゆくまで、ただ、それだけを願い続けた。




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