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第一部
第81話 溜め息
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(……あー、失敗したなぁ……)
今日、何度目かもわからない、大きな嘆息が落ちる。
出航の日、メイデイランドの町で最後の買い出しをしている。買い忘れたものがあるからと一人で市場に残り、他の仲間は、先に戻らせた。
さっさと戻りゃ良いものを、わざとのんびりしてしまう。我が家とも言える船である。そこに戻るのに、気が進まないとは、どういうことだよ?
理由なら、わかっている。
§
夜明け前。
船は寝静まり、潮騒だけが響いていた。
何もかも呑み込んで溶かしてしまいそうな、真っ黒な海原が、どこまでも続く。
「落ちないでくださいよ」
後ろから呼びかけると、まだ暗い甲板で柵にもたれ、ぼんやりと空を見上げていたリリアーナは、びっくりした様子で振り向いた。
「ちょっと、早起きすぎやしませんか?」
「はい……習慣というのは恐ろしいもので。明け方になると目が冴えてしまいまして。レオンも早起きですね」
おっとりと微笑んで答える。暗い海と夜に包まれていても、リリアーナの肌は月の光を浴びて青白く輝いていた。
ロンサール家の血筋には、末恐ろしいものがある。ロンサール伯爵とレディ・ブランシュも、目の覚めるような美形であった。権力者は美しいものに弱い。ロンサール一族が強欲であったなら、きっと多くの血が流れただろう。
「ああ……屋敷でも、夜明け前に起き出して、洗濯とかしてましたもんねぇ」
「ご存じでしたか……」
びっくりしたように見開かれた夜色の瞳は、星を散りばめて輝く。
「もちろん。屋敷のすべてを把握するのが、執事の仕事ですから」
なるほど……と納得したように頷くと、絹のような黒髪が流れる。
ここ最近のあの屋敷は、わりと居心地が良かった。少なくとも、屋敷の主であるロンサール伯爵、レディ・ブランシュ、レディ・リリアーナの三人は、ちょっと変わったところはあるが、善人であった。巻き込んで悪いことしたな、と反省している。
「盛大な溜め息をついてましたが、悩みごとですか?」
「……はい。己の不甲斐なさを嘆いておりました」
思い詰めたように眉を顰めるリリアーナを見て、胸がちくちくと痛む。
ロンサール伯爵とレディ・ブランシュは今頃、生きた心地もしていないだろう。
第二騎士団の奴らどうでもいいが、あの二人には悪いことをした。執事でいる間、労われたことはあっても、声を荒げられたり、無理難題を突き付けられたことはない。
「……令嬢には、申し訳ないことをしたと思っています。あの時、やっぱり、眠ってもらえば良かった。連れて来たのは失敗でした」
詫びると、リリアーナは晴れやかに笑った。
「いいえ。この誘拐の顛末は、最初に想像していたよりも、ずっと楽しいものでした。生まれて初めて船に乗って旅をして、皆さんに親切にしてもらって、海の上で食事ができるなんて、夢のような時間です。禍転じて福と為す、です」
ふんわり、と笑う顔は、甘い砂糖菓子を連想させる。
「では、溜め息の理由は?」
「……はい……そうですね……」
リリアーナは言い淀んで眉を顰める。
「……鋼の心臓を持つには、どうしたら良いものかと考えあぐねておりました」
……この令嬢は、しばしば理解しずらいことを言う。
「……さあ、難しい問題ですね。誰にでも、苦手な分野はありますから……」
曖昧に応えとく。
「そうですよねぇ、欲しいものを諦めることにかけては、自信を持っておりましたが、ここへ来て、その自信が揺らぎかけている、と申しますか……」
「……令嬢に手に入らないものがあるとは思えませんが」
リリアーナは、仰天、という風に目を見開く。
「とんでもありません。この世は、決して手に入らないもので溢れています。欲しがるどころか、憧れを抱くのも憚られるような、手の届かないものばかりでしょう?」
「そうですかねえ……」
この令嬢へ向ける、レクター・ウェインの眼差しが脳裏を過る。この令嬢の欲しがるものなら、命をかけてでも手に入れ、差し出そうとするのは間違いない。
この令嬢を誘拐して、唯一利点があったとすれば、今頃、あの男が間違いなく地獄を見ていることくらいだ。
だがそれは、どっちにしたって同じことだ。あの熱視線を、この令嬢は平然と受け流していた。あいつに脈がないのは明らか。ざまあみろ、である。
……そこまで考えて、無性にやるせなくなる。なんでかなー……という思いには蓋をする。こういうのは、深く考えてロクなことなんかないのだ。
「……ですから、欲しくなってしまいそうなものに見向きもせずに居続けられる、強靭なハートを持つには、どうしたらいいかと思っておりました」
「……いっそ、欲しいって言ってみちゃったらどうです?」
リリアーナは、大きな瞳を零れ落ちそうなほど見開いた。
「……それは、……絶対にできません。最初に、心に決めたことですから。墓場まで、持って行きます」
低く、決意を込めた声で言う。そんなに我慢しないといけない物ってなんなんだ? あくまでも、ほんの少し、気にはなる。
「レオンには、そういうものはありませんか?」
からりと明るくなった声の様子から、話題変えられたな、と思ったが、まあいいのだ。船を降りたこの令嬢とは、もう会うこともない。欲しいものを聞いたって、用意してやれるはずもない。
「どうだろう……どうかなあ? 失くしたもんで返して欲しいもんならいっぱいありますが、それはもう、どうやったって戻ってこないからなぁ……」
言った途端、しまった、真面目に返しちゃった、と後悔した。この令嬢のふわふわした雰囲気のせいだ。
リリアーナの夜を呑み込んだみたいな瞳が、途端に気遣わし気に曇る。
(ほら、だから言わなきゃよかった)
まあ……、と言って、言葉を失くしたみたいに少し考えてから、リリアーナは口を開いた。
「……これは、わたくしの話ですが……。わたくしは、ずっと失くしてばかりでした。五歳のある日を境に、周りにあった大事なものは次々に消えて行き、いつの間にか、ぜんぶ失くして、空っぽになって、もう何も戻ってこないだろうと思っていた頃がありました」
「なるほど」
「でも、後になって、屋敷に味方になってくれる人が現れました。その人は、わたしの救世主でした」
「ああ、アリスタですか?」
リリアーナは、零れ咲く花のように笑った。
「アリスタはもちろんですが、ロウブリッターという執事もです」
(………は?)
「……俺? ですか?」
まったく、覚えがない。
「はい。ロウブリッターは、人の孤独に寄り添える人でした。わたしが孤独だと知って、同じように使用人の中で独りぼっちだったアリスタを、わたしに付けてくれたんです。だけど、いつまでたっても交流を始めないものだから、アリスタに伝言を頼んで、会えるように仕向けてくれました」
「令嬢は……前向きな性格ですねぇ」
呆れ声で、返してやる。ロンサール家の人間は、ちょっとお人好しが過ぎる。
「そうでしょうか……? 自分では、これ以上ない程、後ろ向きだと自負しておりますが……」
「いや、前向きです。しかも、楽天的です」
だから、俺なんかに裏をかかれるのだ。
「そうでしょうか……?」
夜色の瞳は、優しい光を宿す。
「そう言えば、レオンはご存じでしたか? ロンサール伯爵邸に棲む妖精の話」
「……妖精? ああ、知ってますよ。メイド達が騒いでたやつでしょう? 若い娘さん達は、ああいうの好きですからね」
妖精の正体は、リリアーナだった。俺は前から気付いていたが、よくやるなぁと思っていた。俺だったら、自分に嫌がらせしてくる奴に仕返しはしても善行はしてやらない。
リリアーナ・ロンサールは美しい顔を綻ばせた。
「妖精の正体は……レオンでしょう?」
「……はい? なんのことです?」
ぽかん、として首を捻ると、夜の海を呑み込んだような瞳は、柔らかく細められる。
「あの時……ロウブリッターが屋敷に来て間もない頃、ブランシュの馬車を引く馬のうち、体調の悪い馬を一頭、外して木に繋いでくれていたでしょう?」
げっ! と発しかけた言葉を呑み込む。
(……誰かに見られるとは、やきがまわったものである)
言葉を失くして額を押さえる俺に向かって、月から降りてきたとしか思えぬ姿で、目の前の精霊は続けた。
「レオンは、他にも、色々と助けてくれていたでしょう? 例えば、シイタケと間違えて業者が月夜茸を届けた時にはこっそり処分してくれました。そういえば、一度なんて、屋敷にブランシュの熱烈な信者が夜中に侵入してきた時、追い返してくれたでしょう?」
『お前……腕が落ちすぎ』
プファウに言われた言葉が、今頃、胸に突き刺さる。
「屋根裏に閉じこもっていた頃、とかく暇人でしたので、屋敷の使用人を見て、色々想像して、点と点を繋ぎ合わせて線を引いていました。一年前、ロウブリッターが屋敷に来た時から、何か訳ありのようだけれど、親切で優しい人なんだろうと、思っていましたよ」
絶句した俺に向かって、なおも続ける。
「ですから、ランブラーの言っていた悪意の主が、まさかロウブリッターだとは、思いもよりませんでした。だって、ロウブリッターはずっと、童話に出てくる屋敷を守ってくれる妖精みたいだと――」
「あー、そのへんで、お願いします。恥すぎて、死にたくなるので」
「……褒め言葉ですが……」
「いい年した男に向かって、妖精みたい、とか言ってはいけません」
「……なるほど、そういうものですか?」
「はい。そういうものです」
「……では、妖精ではないにしても、ロウブリッター執事が、わたしの救世主だったことは、間違いありません。レオンが、アリスタとわたしを引き合わせようと画策してくれなかったら、今のわたしはいなかった」
「そんなにいいものですかねぇ」
親切にしてやろうと思ったわけじゃない。どれもこれも、揉め事が起きれば、本懐を遂げられなくなる可能性があったから。ただ排除しただけ。
どうしてか込み上げる苦いものを、噛みしめて笑う。
「はい、それはもう、間違いありません。……ですから、レオンが失くしたものと同じくらい、大事なものをいつかまた受け取れるように、祈ることにします。
わたしの願い事は、時間はかかるかも知れませんが、意外と叶うんですよ」
目の前の妖精は、そう言って、悪戯っぽく笑った。
それはまるで、春先に咲き零れる花を思わせるような、そんな笑みだった。
真っ暗だった海が、白々と青みを増す。
ここのところずっと、世界はインク壺を倒したようだった。
それなのに、目の前の景色が、色彩を持ってキラキラと輝き出した。
――だから、つい、
「……まあ、確かに。失くすと、貰えるのかもしれません」
今まで思いもしていなかった台詞が、唇から勝手に零れ落ちてしまったのだ。
しかし――
……船から降ろすと約束した日は、今日であった。
―― 一緒に来て欲しいと頼んでみたら、どうなるだろう?
ふと、そんな考えが、頭を掠める。
(おそらく、いや、絶対、断られる)
リリアーナが、姉と従兄どれだけ大切に思っているか、間近に見ていた。よく知っている。
港町の市場の屋台の一つに、花屋があった。赤と白のストライプのパラソルの下、バケツに生けられた色とりどりのチューリップ、ポピー、カスミソウ、菜の花。鮮やかな風景。よく日焼けした花売りの少年が、愛嬌のある声で客に呼び掛けている。
桃色のガーベラが目に留まる。
(……一輪、買ってみるかなぁ……?)
花びらを一枚一枚ちぎりながら、「一緒に来る、来ない、一緒に来る、来ない……」と呟き占う己の姿が、胸を過った。
……これはもう、いわゆる、重症であった。
もし、もしも、一緒に来てもらえたなら。
これから先、失くしたものを思い出し、死にたくなることはないだろう、と思えた。
しかし、考えれば考えるほど、絶対に断られるだろう、とも思えた。そして、うじうじと思い悩み、船に帰れないでいる。己でも呆れるが、帰れないもんは帰れないのである。
――もし、断られたら、どうしたらいいだろう。
リリアーナを乗せたまま、船を出航させてしまえば、どうなる?
帰れないと知って、悲しむだろう。憎まれ、恨まれるかもしれない。だが、大切にするし、髪の一筋も傷つけないように守り抜く自信ならある。そのうち、心を開いてくれるようには、ならないだろうか?
そこまで考えて、頭を振る。
(……馬鹿なことを)
女性を誘拐して閉じ込めるなど、鬼畜にも劣る。人の所業ではない。第一、仲間たちが許すまい。リリアーナを泣かせたら、今度こそ、剣を抜かれる。海に突き落とされる。ああ見えて、アナベルはめちゃくちゃ強い。
ドンッと後ろから誰かにぶつかられた。
「あら、ごめんなさい」
旅装姿の見目の良い三十路女が、艶っぽい視線を送ってきて、ぺこりと頭を下げるのに、頷き返す。
(あーあ、マジでやきが回ったかなぁ……腕が落ち過ぎだわ……)
女の持つ編み模様の手提げから、掏られた財布を掏り返す。女は擦り返されたことに気付かぬ様子で人混みに消えて行った。
大きく息を吸って、吐く。
(ここで、くよくよしていたって、しょうがねえ)
――約束は守る。それが、男ってもんである。
切ない胸の内を鎮め、船のある方角に向かって、重い足取りで歩き出した。
完全に、油断していた。
「おい、ロウブリッター」
唐突に背後から呼ばれて、思わず振り返った。
―― しまった。
と思った時には、遅かった。
そこには、血のような瞳の悪魔、レクター・ウェインが立っていた。
今日、何度目かもわからない、大きな嘆息が落ちる。
出航の日、メイデイランドの町で最後の買い出しをしている。買い忘れたものがあるからと一人で市場に残り、他の仲間は、先に戻らせた。
さっさと戻りゃ良いものを、わざとのんびりしてしまう。我が家とも言える船である。そこに戻るのに、気が進まないとは、どういうことだよ?
理由なら、わかっている。
§
夜明け前。
船は寝静まり、潮騒だけが響いていた。
何もかも呑み込んで溶かしてしまいそうな、真っ黒な海原が、どこまでも続く。
「落ちないでくださいよ」
後ろから呼びかけると、まだ暗い甲板で柵にもたれ、ぼんやりと空を見上げていたリリアーナは、びっくりした様子で振り向いた。
「ちょっと、早起きすぎやしませんか?」
「はい……習慣というのは恐ろしいもので。明け方になると目が冴えてしまいまして。レオンも早起きですね」
おっとりと微笑んで答える。暗い海と夜に包まれていても、リリアーナの肌は月の光を浴びて青白く輝いていた。
ロンサール家の血筋には、末恐ろしいものがある。ロンサール伯爵とレディ・ブランシュも、目の覚めるような美形であった。権力者は美しいものに弱い。ロンサール一族が強欲であったなら、きっと多くの血が流れただろう。
「ああ……屋敷でも、夜明け前に起き出して、洗濯とかしてましたもんねぇ」
「ご存じでしたか……」
びっくりしたように見開かれた夜色の瞳は、星を散りばめて輝く。
「もちろん。屋敷のすべてを把握するのが、執事の仕事ですから」
なるほど……と納得したように頷くと、絹のような黒髪が流れる。
ここ最近のあの屋敷は、わりと居心地が良かった。少なくとも、屋敷の主であるロンサール伯爵、レディ・ブランシュ、レディ・リリアーナの三人は、ちょっと変わったところはあるが、善人であった。巻き込んで悪いことしたな、と反省している。
「盛大な溜め息をついてましたが、悩みごとですか?」
「……はい。己の不甲斐なさを嘆いておりました」
思い詰めたように眉を顰めるリリアーナを見て、胸がちくちくと痛む。
ロンサール伯爵とレディ・ブランシュは今頃、生きた心地もしていないだろう。
第二騎士団の奴らどうでもいいが、あの二人には悪いことをした。執事でいる間、労われたことはあっても、声を荒げられたり、無理難題を突き付けられたことはない。
「……令嬢には、申し訳ないことをしたと思っています。あの時、やっぱり、眠ってもらえば良かった。連れて来たのは失敗でした」
詫びると、リリアーナは晴れやかに笑った。
「いいえ。この誘拐の顛末は、最初に想像していたよりも、ずっと楽しいものでした。生まれて初めて船に乗って旅をして、皆さんに親切にしてもらって、海の上で食事ができるなんて、夢のような時間です。禍転じて福と為す、です」
ふんわり、と笑う顔は、甘い砂糖菓子を連想させる。
「では、溜め息の理由は?」
「……はい……そうですね……」
リリアーナは言い淀んで眉を顰める。
「……鋼の心臓を持つには、どうしたら良いものかと考えあぐねておりました」
……この令嬢は、しばしば理解しずらいことを言う。
「……さあ、難しい問題ですね。誰にでも、苦手な分野はありますから……」
曖昧に応えとく。
「そうですよねぇ、欲しいものを諦めることにかけては、自信を持っておりましたが、ここへ来て、その自信が揺らぎかけている、と申しますか……」
「……令嬢に手に入らないものがあるとは思えませんが」
リリアーナは、仰天、という風に目を見開く。
「とんでもありません。この世は、決して手に入らないもので溢れています。欲しがるどころか、憧れを抱くのも憚られるような、手の届かないものばかりでしょう?」
「そうですかねえ……」
この令嬢へ向ける、レクター・ウェインの眼差しが脳裏を過る。この令嬢の欲しがるものなら、命をかけてでも手に入れ、差し出そうとするのは間違いない。
この令嬢を誘拐して、唯一利点があったとすれば、今頃、あの男が間違いなく地獄を見ていることくらいだ。
だがそれは、どっちにしたって同じことだ。あの熱視線を、この令嬢は平然と受け流していた。あいつに脈がないのは明らか。ざまあみろ、である。
……そこまで考えて、無性にやるせなくなる。なんでかなー……という思いには蓋をする。こういうのは、深く考えてロクなことなんかないのだ。
「……ですから、欲しくなってしまいそうなものに見向きもせずに居続けられる、強靭なハートを持つには、どうしたらいいかと思っておりました」
「……いっそ、欲しいって言ってみちゃったらどうです?」
リリアーナは、大きな瞳を零れ落ちそうなほど見開いた。
「……それは、……絶対にできません。最初に、心に決めたことですから。墓場まで、持って行きます」
低く、決意を込めた声で言う。そんなに我慢しないといけない物ってなんなんだ? あくまでも、ほんの少し、気にはなる。
「レオンには、そういうものはありませんか?」
からりと明るくなった声の様子から、話題変えられたな、と思ったが、まあいいのだ。船を降りたこの令嬢とは、もう会うこともない。欲しいものを聞いたって、用意してやれるはずもない。
「どうだろう……どうかなあ? 失くしたもんで返して欲しいもんならいっぱいありますが、それはもう、どうやったって戻ってこないからなぁ……」
言った途端、しまった、真面目に返しちゃった、と後悔した。この令嬢のふわふわした雰囲気のせいだ。
リリアーナの夜を呑み込んだみたいな瞳が、途端に気遣わし気に曇る。
(ほら、だから言わなきゃよかった)
まあ……、と言って、言葉を失くしたみたいに少し考えてから、リリアーナは口を開いた。
「……これは、わたくしの話ですが……。わたくしは、ずっと失くしてばかりでした。五歳のある日を境に、周りにあった大事なものは次々に消えて行き、いつの間にか、ぜんぶ失くして、空っぽになって、もう何も戻ってこないだろうと思っていた頃がありました」
「なるほど」
「でも、後になって、屋敷に味方になってくれる人が現れました。その人は、わたしの救世主でした」
「ああ、アリスタですか?」
リリアーナは、零れ咲く花のように笑った。
「アリスタはもちろんですが、ロウブリッターという執事もです」
(………は?)
「……俺? ですか?」
まったく、覚えがない。
「はい。ロウブリッターは、人の孤独に寄り添える人でした。わたしが孤独だと知って、同じように使用人の中で独りぼっちだったアリスタを、わたしに付けてくれたんです。だけど、いつまでたっても交流を始めないものだから、アリスタに伝言を頼んで、会えるように仕向けてくれました」
「令嬢は……前向きな性格ですねぇ」
呆れ声で、返してやる。ロンサール家の人間は、ちょっとお人好しが過ぎる。
「そうでしょうか……? 自分では、これ以上ない程、後ろ向きだと自負しておりますが……」
「いや、前向きです。しかも、楽天的です」
だから、俺なんかに裏をかかれるのだ。
「そうでしょうか……?」
夜色の瞳は、優しい光を宿す。
「そう言えば、レオンはご存じでしたか? ロンサール伯爵邸に棲む妖精の話」
「……妖精? ああ、知ってますよ。メイド達が騒いでたやつでしょう? 若い娘さん達は、ああいうの好きですからね」
妖精の正体は、リリアーナだった。俺は前から気付いていたが、よくやるなぁと思っていた。俺だったら、自分に嫌がらせしてくる奴に仕返しはしても善行はしてやらない。
リリアーナ・ロンサールは美しい顔を綻ばせた。
「妖精の正体は……レオンでしょう?」
「……はい? なんのことです?」
ぽかん、として首を捻ると、夜の海を呑み込んだような瞳は、柔らかく細められる。
「あの時……ロウブリッターが屋敷に来て間もない頃、ブランシュの馬車を引く馬のうち、体調の悪い馬を一頭、外して木に繋いでくれていたでしょう?」
げっ! と発しかけた言葉を呑み込む。
(……誰かに見られるとは、やきがまわったものである)
言葉を失くして額を押さえる俺に向かって、月から降りてきたとしか思えぬ姿で、目の前の精霊は続けた。
「レオンは、他にも、色々と助けてくれていたでしょう? 例えば、シイタケと間違えて業者が月夜茸を届けた時にはこっそり処分してくれました。そういえば、一度なんて、屋敷にブランシュの熱烈な信者が夜中に侵入してきた時、追い返してくれたでしょう?」
『お前……腕が落ちすぎ』
プファウに言われた言葉が、今頃、胸に突き刺さる。
「屋根裏に閉じこもっていた頃、とかく暇人でしたので、屋敷の使用人を見て、色々想像して、点と点を繋ぎ合わせて線を引いていました。一年前、ロウブリッターが屋敷に来た時から、何か訳ありのようだけれど、親切で優しい人なんだろうと、思っていましたよ」
絶句した俺に向かって、なおも続ける。
「ですから、ランブラーの言っていた悪意の主が、まさかロウブリッターだとは、思いもよりませんでした。だって、ロウブリッターはずっと、童話に出てくる屋敷を守ってくれる妖精みたいだと――」
「あー、そのへんで、お願いします。恥すぎて、死にたくなるので」
「……褒め言葉ですが……」
「いい年した男に向かって、妖精みたい、とか言ってはいけません」
「……なるほど、そういうものですか?」
「はい。そういうものです」
「……では、妖精ではないにしても、ロウブリッター執事が、わたしの救世主だったことは、間違いありません。レオンが、アリスタとわたしを引き合わせようと画策してくれなかったら、今のわたしはいなかった」
「そんなにいいものですかねぇ」
親切にしてやろうと思ったわけじゃない。どれもこれも、揉め事が起きれば、本懐を遂げられなくなる可能性があったから。ただ排除しただけ。
どうしてか込み上げる苦いものを、噛みしめて笑う。
「はい、それはもう、間違いありません。……ですから、レオンが失くしたものと同じくらい、大事なものをいつかまた受け取れるように、祈ることにします。
わたしの願い事は、時間はかかるかも知れませんが、意外と叶うんですよ」
目の前の妖精は、そう言って、悪戯っぽく笑った。
それはまるで、春先に咲き零れる花を思わせるような、そんな笑みだった。
真っ暗だった海が、白々と青みを増す。
ここのところずっと、世界はインク壺を倒したようだった。
それなのに、目の前の景色が、色彩を持ってキラキラと輝き出した。
――だから、つい、
「……まあ、確かに。失くすと、貰えるのかもしれません」
今まで思いもしていなかった台詞が、唇から勝手に零れ落ちてしまったのだ。
しかし――
……船から降ろすと約束した日は、今日であった。
―― 一緒に来て欲しいと頼んでみたら、どうなるだろう?
ふと、そんな考えが、頭を掠める。
(おそらく、いや、絶対、断られる)
リリアーナが、姉と従兄どれだけ大切に思っているか、間近に見ていた。よく知っている。
港町の市場の屋台の一つに、花屋があった。赤と白のストライプのパラソルの下、バケツに生けられた色とりどりのチューリップ、ポピー、カスミソウ、菜の花。鮮やかな風景。よく日焼けした花売りの少年が、愛嬌のある声で客に呼び掛けている。
桃色のガーベラが目に留まる。
(……一輪、買ってみるかなぁ……?)
花びらを一枚一枚ちぎりながら、「一緒に来る、来ない、一緒に来る、来ない……」と呟き占う己の姿が、胸を過った。
……これはもう、いわゆる、重症であった。
もし、もしも、一緒に来てもらえたなら。
これから先、失くしたものを思い出し、死にたくなることはないだろう、と思えた。
しかし、考えれば考えるほど、絶対に断られるだろう、とも思えた。そして、うじうじと思い悩み、船に帰れないでいる。己でも呆れるが、帰れないもんは帰れないのである。
――もし、断られたら、どうしたらいいだろう。
リリアーナを乗せたまま、船を出航させてしまえば、どうなる?
帰れないと知って、悲しむだろう。憎まれ、恨まれるかもしれない。だが、大切にするし、髪の一筋も傷つけないように守り抜く自信ならある。そのうち、心を開いてくれるようには、ならないだろうか?
そこまで考えて、頭を振る。
(……馬鹿なことを)
女性を誘拐して閉じ込めるなど、鬼畜にも劣る。人の所業ではない。第一、仲間たちが許すまい。リリアーナを泣かせたら、今度こそ、剣を抜かれる。海に突き落とされる。ああ見えて、アナベルはめちゃくちゃ強い。
ドンッと後ろから誰かにぶつかられた。
「あら、ごめんなさい」
旅装姿の見目の良い三十路女が、艶っぽい視線を送ってきて、ぺこりと頭を下げるのに、頷き返す。
(あーあ、マジでやきが回ったかなぁ……腕が落ち過ぎだわ……)
女の持つ編み模様の手提げから、掏られた財布を掏り返す。女は擦り返されたことに気付かぬ様子で人混みに消えて行った。
大きく息を吸って、吐く。
(ここで、くよくよしていたって、しょうがねえ)
――約束は守る。それが、男ってもんである。
切ない胸の内を鎮め、船のある方角に向かって、重い足取りで歩き出した。
完全に、油断していた。
「おい、ロウブリッター」
唐突に背後から呼ばれて、思わず振り返った。
―― しまった。
と思った時には、遅かった。
そこには、血のような瞳の悪魔、レクター・ウェインが立っていた。
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