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第一部
第60話 夜の色
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どうやら、一目惚れというものをしたらしい、と気付いたのは、つい一昨日のことだ。
あの吸い込まれそうな瞳と目が合った瞬間、雷に打たれたように世界が真っ白に染まった。その後は、寝ても覚めても瞼を閉じる度、夜色の瞳ばかりが思い出される。
どういう訳か、姿が見たくて、声が聞きたくて堪らず、公爵が伯爵邸にいるタイミングを見計らい、何度も足を運んだ。だが、いつ行っても不在。会えないと、ますます思いは募る。
ようやく、クルチザン地区で偶然に再会した途端、灰色に淀む世界に光が差した。
優しく微笑みかけられると天にも昇れそうで、声を聞くだけでくすぐったくて、その姿を見るだけで心が弾んだ。
寂し気に微笑まれると、その肩に触れたくてたまらず、遠慮され拒絶されると、息の仕方もわからなくなる。
俺以外のものを見つめていると、苦しくてたまらないのに、目を離すこともできない。
自分でも、訳が分からなかった。これはなんだ?
夕暮れ色に染まった林の中で、向かい合って話した時、リリアーナは優しい声で言った。
『ウェイン卿は素晴らしい方ですから、きっと、これからは彩りある、光の中を進まれると思います』
あの時、どうしても、あの瞳が見たくてたまらなくなった。
無礼な振る舞いだと承知していたが、我慢できずに手を伸ばし、フードを外した。
晴れた夜空のように煌めく瞳、しっとりと薔薇色に透ける頬と唇。滑らかに輝く真珠のような肌に、緩く波打つ絹のような黒髪が一筋、影を落としていた。
その姿は、月から降りてきた精霊のようで、この世にこれほど美しいものがあるのか、と思った。
――それで、ようやく分かった。
公爵が、レディ・ブランシュのこととなると、子供に還ったかのように冷静さを欠いた振る舞いをするのが、まったく不可解だった。自分だけは、ああはなるまい、と確信していた。
平常心を保つことには自信がある。今まで、一度だって誰にもそんな想いを抱いたことはない。あんなものは無駄な感情だ。色恋に惑う己など、想像することすら難しい。
だが、落ちるときは、あっさりと落ちた。
俺のことなど、眼中にないとわかっていた。
どれほど焦がれて見つめても、彼女はこちらを見ない。ほんの時折、見返してくれたとしても、せいぜい一度か二度で、それもほんの一瞬。
俺と話すときの強張った様子から、それなりに、嫌われているだろうと覚悟していた。
(――それもまあ、仕方ない)
生まれ落ちてからこの方、自分のことなんか、大嫌いだった。
誰からも、肉親にまで厭われたこの醜い赤い瞳も、傷つけるだけしか能がないところも。嘘と偽善だらけの最低な世界のことも、憎んでいた。
それでも……、もし、あの瞳に映れたなら。
いつか、世界を優しく映すあの夜空みたいな瞳に俺も映れたなら、俺の世界も変わるかもしれない。彼女から、優しく笑いかけられるような人間になれたなら、自分のことを、ちょっとはマシなやつだと思えるんじゃないか。
次に会えた時、優しい言葉をかけたなら。何とかして、護衛という名目でも傍にいられたなら。いつか、あの瞳に映してくれるだろうか。笑いかけてくれるだろうか。
伯爵邸の書斎で、リリアーナは公爵の前でフードを脱いだ。
俺を見つめる瞳は、不安げに揺らぎ、星屑を散らしたように輝いていた。その澄んだ瞳を見た瞬間、決めた。
(世界中が彼女の敵だとしても、俺だけは、味方になる)
――そう決めた、筈だった。
『公爵のところにお連れします。……もうこれ以上、嘘は結構です』
言った途端に悲しげに俯いたリリアーナを見て、我に返った。
しまった、何をやってんだ、俺は。
救ってもらっただろう?
あの世界から、救い出してくれた。
初めて人を殺したのは、十二の時だ。
喉元を剣で貫くと、俺の首を狙い伸しかかってきたハイドランジア兵は、瞬く間にこと切れた。殺気立ち血走っていた目はぐるりと回転して白目を剥き、剣を振りかざしていた体は、糸が切れた操り人形のように崩れた。
ほとばしる生暖かい血を顔面に浴び、前髪から滴る赤い雫を見ながら、俺は笑った。
――ざまあみろ。
『レクターを行かせりゃいい』
『生かしといて良かった。この薄汚い化け物が役立つ日がくるなんて。なんでも置いとくもんだよ』
『こいつなら、死んだって、痛くも痒くもない。むしろ助かるじゃないか』
俺よりずっとデカイなりで見下ろしながら、兄達は口々にそう言った。
王都から、国境軍への加勢を命じられた、父であるウェイン子爵は頷いた。
『そうだな。ちょうどいい。お前のその目は、生まれついての人殺しの目だ』
――ざまあみろ。
お前らの思い通りになんか、ならない。
お前らが俺の死を望むなら、絶対に死んでやらない。
殺して、殺して、殺して、生き延びてやる。
実際、その身体能力の高さから危険視され、弾圧を受け数が激減し、殆ど見られなくなった、かつて北方の赤い悪魔と呼ばれた紅眼の民族の血は、伊達じゃなかったらしい。
面白い程あっけなく、俺の前に立ちはだかった奴らの体は頽れ、その命は消え去った。
――ざまあみろ。
俺は、死んでやらない。
そうやって生き延び続けていたら、気付いたら王宮騎士に取り立てられ、数えきれぬほどの勲章を与えられ、副団長にまでなっていた。
国中の貴族が集まった戦勝祝賀会で、兄達は俺と目が合うと青ざめて、機嫌を取るみたいに媚びたへつら笑いを浮かべた。
かつて、大きくて威圧的だった奴らは、虫けらみたいに小さく見えた。
――くだらない。何もかも、くだらなくて、最低だ。
だが、
『ウェイン卿が、ご無事に戻られて、良かったです』
彼女が、俺が生きるのを望んでくれるなら――
生まれてはじめて、生きたい、と思った。
世の中には、光と色彩があった。
人は、そう捨てたものじゃなかった。
その不安そうな肩に向かって手を差し出すと、リリアーナはそれを振り払った。
『やめてください。貴方だって、嘘つきなのは同じでしょう?』
――何のことだ? 訳がわからない。俺は、貴女を騙したりしない。
おまけに、リリアーナは泣き出した。
その涙を見た途端、頭が真っ白になった。
絶対に、泣かせるまいと思っていたのに。
慌てて、ハンカチを差し出したが、それすら拒絶された。
リリアーナは、一人になりたがっていた。
一旦離れるべきだろうか?
―― 貴方なんて、もういらない。
ほんの一瞬、こちらに向けられた瞳は、そう語っていた。
―― もう見ない、もう笑いかけない、もう近付かない、もう、期待なんてしない。
そんなのは絶対に、嫌だった。だが――
もう、取り返しがつかないのではないか、という不安が過った。
いや、今からだって、誤解を解けば何とかなる筈だ。
――だって、もう無理だ。
光を知ってしまって、今更、あの灰色の世界には戻れない。
どうすればいい、どうしたら、泣き止んで、また微笑んでくれる? こっちを見てくれる?
肩に触れると彼女は怯え、その細い肩を震わせた。
慌てて手を離し、ベンチを指し示し促すと、座ってくれた。
少し落ち着きを取り戻した様子を見てとって、僅かに安心した。
――この場で、話を聞こう。
それがどんな内容でも、ブルソールと繋がっていて、公爵を殺すために毒を盛ったと言われたって、必ず守ると言えばいい。
公爵に直談判でも何でもして、聞き入れてもらえなければ、連れて逃げたっていい。
絶対に、誰にも傷付けさせたりしない。
ところが、真相は拍子抜けするものだった。使用人のミスによるただの事故。
リリアーナが屋根裏に囚われていた理由もわかった。彼女を苦しめた前伯爵を許せないと思ったが、まずはさっきの無礼を詫びて、それから、心配いらないと言って、貴女が望むなら、アリスタのことぐらいどうとでも――そう、口を開きかけた時、リリアーナは俺を真っ直ぐに見た。
『ウェイン卿に、お願いがあります』
希望が見えたようで、安堵した。
それがどんな頼みであろうと、叶えてみせるに決まっている。命をかけたっていい。そうすれば、俺が味方だとわかってくれるだろう。さっきの馬鹿げた振る舞いも、最初に馬車に乗せた時やこれまでの最低の態度だって、水に流してもらえるに違いない。
――だが、彼女の願いには、絶望しかなかった。
『ですから……わたくしが毒を入れたことにして、わたくしを始末して、それで、お終いにしていただきたいのです』
――意味が、分からなかった。
理解できた瞬間、この手で彼女を刺し貫く様が脳裏に浮かび、体が震えた。
何を言ってるんだ?
俺は、絶対にそんなことしない。
傷付ける筈がないだろう。だって俺は――
『するわけがない、なんて、仰らないでしょう? グラミス伯爵夫人の馬車があの場所で停まっていなければ、あの日、わたくしを始末なさって、終わりになる筈だったではないですか』
目の前が、真っ暗になった。
――なぜ?
なぜ、それを知っている?知っているはずがない。そうだ、あの時、誰もいなかった。ちゃんと、部屋の周囲にまで、神経を研ぎ澄ませて、確認したのだから――
『嵐の夜、言っていらしたではありませんか。公爵様とお二人で、きっとわたくしが毒を入れたのだと。「毒を入れた者が誰で、どんな事情があろうとも、生まれてきたことを後悔させる」と。わたくしのような妹は、ブランシュの為にはいない方が良いから、ドブネズミを始末すると』
その時、ようやく、何もかも、最初から間違えていたことに気付いた。
知られていた知られていた知られていた、そればかりが頭の中でぐるぐると渦を巻いた。今すぐ跪いて、許しを請わなければと思うのに、喉の奥が潰れたみたいに、声も出せなかった。
『ウェイン卿にとっても、公爵様にとっても、それが最良の結末でしょう?……本当は、真実なんてどうでも良かったのですから』
違う、と言いたいのに、声は喉の奥でつかえる。
リリアーナは、もう、俺を見なかった。
怖いほど蒼白な顔をして、何もかも諦めて感情が抜け落ちたような微笑を浮かべていた。
月光を浴びたそれはまるで、この世のものでない幻みたいで、これまで見た何よりも清廉で、美しく見えた。
『騎士団団長が毒を盛られたのに何もしなければ、沽券に関わります。だから、わたくしを消して、噂を立てようと思われたのですよね』
夜色の瞳は、何もかも見透かし、輝いていた。
血の気の失せた真っ白な顔をして、このまま倒れて、その命が消えてしまいそうで、怖かった。
何よりも恐ろしいのは、彼女に生きることを諦めさせたのは、この俺自身ってことだった。
手を差し出し支えたくて堪らないのに、この汚れた手には、その資格がないことに気付いて、握り潰した。
月夜に吹く澄んだ風のような、その声を聞きながら、思った。
――やっぱり、この俺に奇跡なんか起きるはず、なかったな。
晴れた夜空のように優しい瞳に映れたなら、世界は、変わるはずだった。
いつか、信頼の眼差しを向けてもらえたなら、こんな自分でも好きになれる気がした。
春先に咲き初めた花のような微笑みを向けてもらえたなら、空だって飛べるんじゃないかと思った。
さっき、屋敷から出てきたリリアーナは、ひどく不安げに見えた。
あれはきっと、天が恵んでくれた、最後のチャンスだった。
優しく声を掛ければ、その瞳に映れただろうか?
僅かに残っていた、最後の一雫は、もう、取り零してしまった。
『若いメイドのちょっとした間違いだったというよりも、リリアーナ・ロンサールが人知れず消える方が、世間は喜ぶでしょう。
その方が、公爵様とウェイン卿にとっても――』
彼女はそこで、ふいに口を噤んだ。
何を言おうとしたのか、その続きが、その声が、耳の奥で聞こえた。
『都合が良いんでしょう?』
―― だって、はじめから、わたしが犯人かどうかなんて、どうでも良かった。
あえて噂を立てるために、自分と三人の騎士の姿を使用人に見せてから、わたしを紋章付きの馬車に乗せた。
そして、わたしをこの世から消そうとした。
ただ、自分の面子を守る為だけに、わたしを殺そうとした。
あなたはそういう人よ。
おぞましい、卑劣な、人殺し。
好きになんてなるはずがない。
ぜったいに愛したりしない。
それどころか、ずっとずっと、その顔を見るたびに不快で、恐ろしくて、逃げ出したかった。
何があっても、これから先もずっと、あなただけは選ばない――
彼女は立ち上がり、俺の前から立ち去ろうとした。
その手を、思わず掴んだ。
リリアーナは不思議そうに俺を見て、この醜い瞳を綺麗な瞳に映すと、気遣わしげに顔を曇らせた。
やっぱり、底無しに優しいんだな、と思った。
いつだって、話しかけるとそっと微笑み、柔らかな言葉遣いで返してくれた。
毒だって、それなら俺達に食わせれば良かったのに、自分が口にしようとした。
優しい言葉で、俺を助けてくれただろう?
だからまさか、知られていたなんて、思いもしなかった。
大丈夫か? そんなんで。この世は、平気で人を傷つけ利用しようとする、おぞましい、俺みたいな奴だって沢山いるのに。もう、俺は守ってやれないのに。いや……きっと、大丈夫か。
隠れることを止めた貴女の周りはこれから、貴女を守ろうとする人で溢れる。
――大丈夫じゃないのは、俺の方だ。
もう、傍にいる方法が、なくなってしまった。
言わずにいてくれたのに、俺が全部、言わせてしまった。
今更、何を言っても手遅れだと、もう希望などないと、あの灰色の世界に戻るしかないと、分かっている。
狂おしいほどに焦がれた、あの春の日差しみたいな笑みを向けられる日は来ないと、分かっている。
だけど、この手を離したら、二度と、その姿を見ることもできないだろう?
あの吸い込まれそうな瞳と目が合った瞬間、雷に打たれたように世界が真っ白に染まった。その後は、寝ても覚めても瞼を閉じる度、夜色の瞳ばかりが思い出される。
どういう訳か、姿が見たくて、声が聞きたくて堪らず、公爵が伯爵邸にいるタイミングを見計らい、何度も足を運んだ。だが、いつ行っても不在。会えないと、ますます思いは募る。
ようやく、クルチザン地区で偶然に再会した途端、灰色に淀む世界に光が差した。
優しく微笑みかけられると天にも昇れそうで、声を聞くだけでくすぐったくて、その姿を見るだけで心が弾んだ。
寂し気に微笑まれると、その肩に触れたくてたまらず、遠慮され拒絶されると、息の仕方もわからなくなる。
俺以外のものを見つめていると、苦しくてたまらないのに、目を離すこともできない。
自分でも、訳が分からなかった。これはなんだ?
夕暮れ色に染まった林の中で、向かい合って話した時、リリアーナは優しい声で言った。
『ウェイン卿は素晴らしい方ですから、きっと、これからは彩りある、光の中を進まれると思います』
あの時、どうしても、あの瞳が見たくてたまらなくなった。
無礼な振る舞いだと承知していたが、我慢できずに手を伸ばし、フードを外した。
晴れた夜空のように煌めく瞳、しっとりと薔薇色に透ける頬と唇。滑らかに輝く真珠のような肌に、緩く波打つ絹のような黒髪が一筋、影を落としていた。
その姿は、月から降りてきた精霊のようで、この世にこれほど美しいものがあるのか、と思った。
――それで、ようやく分かった。
公爵が、レディ・ブランシュのこととなると、子供に還ったかのように冷静さを欠いた振る舞いをするのが、まったく不可解だった。自分だけは、ああはなるまい、と確信していた。
平常心を保つことには自信がある。今まで、一度だって誰にもそんな想いを抱いたことはない。あんなものは無駄な感情だ。色恋に惑う己など、想像することすら難しい。
だが、落ちるときは、あっさりと落ちた。
俺のことなど、眼中にないとわかっていた。
どれほど焦がれて見つめても、彼女はこちらを見ない。ほんの時折、見返してくれたとしても、せいぜい一度か二度で、それもほんの一瞬。
俺と話すときの強張った様子から、それなりに、嫌われているだろうと覚悟していた。
(――それもまあ、仕方ない)
生まれ落ちてからこの方、自分のことなんか、大嫌いだった。
誰からも、肉親にまで厭われたこの醜い赤い瞳も、傷つけるだけしか能がないところも。嘘と偽善だらけの最低な世界のことも、憎んでいた。
それでも……、もし、あの瞳に映れたなら。
いつか、世界を優しく映すあの夜空みたいな瞳に俺も映れたなら、俺の世界も変わるかもしれない。彼女から、優しく笑いかけられるような人間になれたなら、自分のことを、ちょっとはマシなやつだと思えるんじゃないか。
次に会えた時、優しい言葉をかけたなら。何とかして、護衛という名目でも傍にいられたなら。いつか、あの瞳に映してくれるだろうか。笑いかけてくれるだろうか。
伯爵邸の書斎で、リリアーナは公爵の前でフードを脱いだ。
俺を見つめる瞳は、不安げに揺らぎ、星屑を散らしたように輝いていた。その澄んだ瞳を見た瞬間、決めた。
(世界中が彼女の敵だとしても、俺だけは、味方になる)
――そう決めた、筈だった。
『公爵のところにお連れします。……もうこれ以上、嘘は結構です』
言った途端に悲しげに俯いたリリアーナを見て、我に返った。
しまった、何をやってんだ、俺は。
救ってもらっただろう?
あの世界から、救い出してくれた。
初めて人を殺したのは、十二の時だ。
喉元を剣で貫くと、俺の首を狙い伸しかかってきたハイドランジア兵は、瞬く間にこと切れた。殺気立ち血走っていた目はぐるりと回転して白目を剥き、剣を振りかざしていた体は、糸が切れた操り人形のように崩れた。
ほとばしる生暖かい血を顔面に浴び、前髪から滴る赤い雫を見ながら、俺は笑った。
――ざまあみろ。
『レクターを行かせりゃいい』
『生かしといて良かった。この薄汚い化け物が役立つ日がくるなんて。なんでも置いとくもんだよ』
『こいつなら、死んだって、痛くも痒くもない。むしろ助かるじゃないか』
俺よりずっとデカイなりで見下ろしながら、兄達は口々にそう言った。
王都から、国境軍への加勢を命じられた、父であるウェイン子爵は頷いた。
『そうだな。ちょうどいい。お前のその目は、生まれついての人殺しの目だ』
――ざまあみろ。
お前らの思い通りになんか、ならない。
お前らが俺の死を望むなら、絶対に死んでやらない。
殺して、殺して、殺して、生き延びてやる。
実際、その身体能力の高さから危険視され、弾圧を受け数が激減し、殆ど見られなくなった、かつて北方の赤い悪魔と呼ばれた紅眼の民族の血は、伊達じゃなかったらしい。
面白い程あっけなく、俺の前に立ちはだかった奴らの体は頽れ、その命は消え去った。
――ざまあみろ。
俺は、死んでやらない。
そうやって生き延び続けていたら、気付いたら王宮騎士に取り立てられ、数えきれぬほどの勲章を与えられ、副団長にまでなっていた。
国中の貴族が集まった戦勝祝賀会で、兄達は俺と目が合うと青ざめて、機嫌を取るみたいに媚びたへつら笑いを浮かべた。
かつて、大きくて威圧的だった奴らは、虫けらみたいに小さく見えた。
――くだらない。何もかも、くだらなくて、最低だ。
だが、
『ウェイン卿が、ご無事に戻られて、良かったです』
彼女が、俺が生きるのを望んでくれるなら――
生まれてはじめて、生きたい、と思った。
世の中には、光と色彩があった。
人は、そう捨てたものじゃなかった。
その不安そうな肩に向かって手を差し出すと、リリアーナはそれを振り払った。
『やめてください。貴方だって、嘘つきなのは同じでしょう?』
――何のことだ? 訳がわからない。俺は、貴女を騙したりしない。
おまけに、リリアーナは泣き出した。
その涙を見た途端、頭が真っ白になった。
絶対に、泣かせるまいと思っていたのに。
慌てて、ハンカチを差し出したが、それすら拒絶された。
リリアーナは、一人になりたがっていた。
一旦離れるべきだろうか?
―― 貴方なんて、もういらない。
ほんの一瞬、こちらに向けられた瞳は、そう語っていた。
―― もう見ない、もう笑いかけない、もう近付かない、もう、期待なんてしない。
そんなのは絶対に、嫌だった。だが――
もう、取り返しがつかないのではないか、という不安が過った。
いや、今からだって、誤解を解けば何とかなる筈だ。
――だって、もう無理だ。
光を知ってしまって、今更、あの灰色の世界には戻れない。
どうすればいい、どうしたら、泣き止んで、また微笑んでくれる? こっちを見てくれる?
肩に触れると彼女は怯え、その細い肩を震わせた。
慌てて手を離し、ベンチを指し示し促すと、座ってくれた。
少し落ち着きを取り戻した様子を見てとって、僅かに安心した。
――この場で、話を聞こう。
それがどんな内容でも、ブルソールと繋がっていて、公爵を殺すために毒を盛ったと言われたって、必ず守ると言えばいい。
公爵に直談判でも何でもして、聞き入れてもらえなければ、連れて逃げたっていい。
絶対に、誰にも傷付けさせたりしない。
ところが、真相は拍子抜けするものだった。使用人のミスによるただの事故。
リリアーナが屋根裏に囚われていた理由もわかった。彼女を苦しめた前伯爵を許せないと思ったが、まずはさっきの無礼を詫びて、それから、心配いらないと言って、貴女が望むなら、アリスタのことぐらいどうとでも――そう、口を開きかけた時、リリアーナは俺を真っ直ぐに見た。
『ウェイン卿に、お願いがあります』
希望が見えたようで、安堵した。
それがどんな頼みであろうと、叶えてみせるに決まっている。命をかけたっていい。そうすれば、俺が味方だとわかってくれるだろう。さっきの馬鹿げた振る舞いも、最初に馬車に乗せた時やこれまでの最低の態度だって、水に流してもらえるに違いない。
――だが、彼女の願いには、絶望しかなかった。
『ですから……わたくしが毒を入れたことにして、わたくしを始末して、それで、お終いにしていただきたいのです』
――意味が、分からなかった。
理解できた瞬間、この手で彼女を刺し貫く様が脳裏に浮かび、体が震えた。
何を言ってるんだ?
俺は、絶対にそんなことしない。
傷付ける筈がないだろう。だって俺は――
『するわけがない、なんて、仰らないでしょう? グラミス伯爵夫人の馬車があの場所で停まっていなければ、あの日、わたくしを始末なさって、終わりになる筈だったではないですか』
目の前が、真っ暗になった。
――なぜ?
なぜ、それを知っている?知っているはずがない。そうだ、あの時、誰もいなかった。ちゃんと、部屋の周囲にまで、神経を研ぎ澄ませて、確認したのだから――
『嵐の夜、言っていらしたではありませんか。公爵様とお二人で、きっとわたくしが毒を入れたのだと。「毒を入れた者が誰で、どんな事情があろうとも、生まれてきたことを後悔させる」と。わたくしのような妹は、ブランシュの為にはいない方が良いから、ドブネズミを始末すると』
その時、ようやく、何もかも、最初から間違えていたことに気付いた。
知られていた知られていた知られていた、そればかりが頭の中でぐるぐると渦を巻いた。今すぐ跪いて、許しを請わなければと思うのに、喉の奥が潰れたみたいに、声も出せなかった。
『ウェイン卿にとっても、公爵様にとっても、それが最良の結末でしょう?……本当は、真実なんてどうでも良かったのですから』
違う、と言いたいのに、声は喉の奥でつかえる。
リリアーナは、もう、俺を見なかった。
怖いほど蒼白な顔をして、何もかも諦めて感情が抜け落ちたような微笑を浮かべていた。
月光を浴びたそれはまるで、この世のものでない幻みたいで、これまで見た何よりも清廉で、美しく見えた。
『騎士団団長が毒を盛られたのに何もしなければ、沽券に関わります。だから、わたくしを消して、噂を立てようと思われたのですよね』
夜色の瞳は、何もかも見透かし、輝いていた。
血の気の失せた真っ白な顔をして、このまま倒れて、その命が消えてしまいそうで、怖かった。
何よりも恐ろしいのは、彼女に生きることを諦めさせたのは、この俺自身ってことだった。
手を差し出し支えたくて堪らないのに、この汚れた手には、その資格がないことに気付いて、握り潰した。
月夜に吹く澄んだ風のような、その声を聞きながら、思った。
――やっぱり、この俺に奇跡なんか起きるはず、なかったな。
晴れた夜空のように優しい瞳に映れたなら、世界は、変わるはずだった。
いつか、信頼の眼差しを向けてもらえたなら、こんな自分でも好きになれる気がした。
春先に咲き初めた花のような微笑みを向けてもらえたなら、空だって飛べるんじゃないかと思った。
さっき、屋敷から出てきたリリアーナは、ひどく不安げに見えた。
あれはきっと、天が恵んでくれた、最後のチャンスだった。
優しく声を掛ければ、その瞳に映れただろうか?
僅かに残っていた、最後の一雫は、もう、取り零してしまった。
『若いメイドのちょっとした間違いだったというよりも、リリアーナ・ロンサールが人知れず消える方が、世間は喜ぶでしょう。
その方が、公爵様とウェイン卿にとっても――』
彼女はそこで、ふいに口を噤んだ。
何を言おうとしたのか、その続きが、その声が、耳の奥で聞こえた。
『都合が良いんでしょう?』
―― だって、はじめから、わたしが犯人かどうかなんて、どうでも良かった。
あえて噂を立てるために、自分と三人の騎士の姿を使用人に見せてから、わたしを紋章付きの馬車に乗せた。
そして、わたしをこの世から消そうとした。
ただ、自分の面子を守る為だけに、わたしを殺そうとした。
あなたはそういう人よ。
おぞましい、卑劣な、人殺し。
好きになんてなるはずがない。
ぜったいに愛したりしない。
それどころか、ずっとずっと、その顔を見るたびに不快で、恐ろしくて、逃げ出したかった。
何があっても、これから先もずっと、あなただけは選ばない――
彼女は立ち上がり、俺の前から立ち去ろうとした。
その手を、思わず掴んだ。
リリアーナは不思議そうに俺を見て、この醜い瞳を綺麗な瞳に映すと、気遣わしげに顔を曇らせた。
やっぱり、底無しに優しいんだな、と思った。
いつだって、話しかけるとそっと微笑み、柔らかな言葉遣いで返してくれた。
毒だって、それなら俺達に食わせれば良かったのに、自分が口にしようとした。
優しい言葉で、俺を助けてくれただろう?
だからまさか、知られていたなんて、思いもしなかった。
大丈夫か? そんなんで。この世は、平気で人を傷つけ利用しようとする、おぞましい、俺みたいな奴だって沢山いるのに。もう、俺は守ってやれないのに。いや……きっと、大丈夫か。
隠れることを止めた貴女の周りはこれから、貴女を守ろうとする人で溢れる。
――大丈夫じゃないのは、俺の方だ。
もう、傍にいる方法が、なくなってしまった。
言わずにいてくれたのに、俺が全部、言わせてしまった。
今更、何を言っても手遅れだと、もう希望などないと、あの灰色の世界に戻るしかないと、分かっている。
狂おしいほどに焦がれた、あの春の日差しみたいな笑みを向けられる日は来ないと、分かっている。
だけど、この手を離したら、二度と、その姿を見ることもできないだろう?
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