2 / 12
出戻り妃になったワケ
しおりを挟む
都でも裕福な商家の末娘である宇春は、一年と半年前、伯父の勧めで儲秀宮の女官登用試験を受けた。
あまりにも引っ込み思案すぎる宇春を心配した伯父が、社会に出ることで自信をつけて欲しいという意図で受けさせたのだ。
勉強は得意だったので、試験の出来はそれなりに良かったと思う。
いや、良すぎたのだ。
その結果を見た誰かが、宇春のことを妃の座に押し上げてしまうくらいには。
皇帝陛下は、政敵を容赦なく断罪する政治的手腕と、周囲を圧する威厳とで冷血皇帝との二つ名を持つお方だ。
しかし、お若いのに女性に興味がないらしい。
宮殿の美姫には目もくれなかったため、様々なタイプの妃を揃えることになったのだとか。
宇春は、その変わり種の──多分「学問」枠にいれられてしまったのだ。
結論から言うと、この試みは完全なる失敗に終わった。皇帝陛下は当時選ばれた妃の誰の元へもやってくることはなかったのだ。
そして宇春は、一年後、宮を出されて実家に帰ることになった。
最近では、皇帝陛下は男性にしか興味がないのでは、と市井の間でもささやかれている。
「来たわ! 宇春様、待ってたわ」
「きゃあ、本当に戻ってきてくれたのね。うれしい」
「妹妹も一緒ね。これからまた一緒に働けるのね」
儲秀宮の裏手には、女官や下級宮女たちの寝泊まりする建屋がある。そこに入ると、女官たちが我先にと声をかけてきた。
「あ、あああの、私もう妃じゃないんで、様をつけないでください」
「いいのよ。私たちがそう呼びたいの」
そんな風に歓迎されると心がほっこりしてくる。
妃嬪の侍女たちは妃だった宇春に冷たいけれど、女官たちの様子は正反対だ。
彼女たちの後ろから、女官長も現れる。
「よく来てくれたわね。宇春。これで、次の詩吟の会も皇帝陛下のご期待に添えるわ」
「あの、わ、私なんかでお力になれるかわからないのですが」
「何を言ってるの。あなたがいてくれれば百人力よ」
「そうですっ。宇春様は、本気出せばすごいんですから!」
「そうね。妹妹がおまじないすればさらにばっちりよね」
そんな風に喜んでくれるのが、本当は少し後ろめたい。
宇春がここにやって来たのは──実は女官たちの手伝いのためだけではなかったからだ。
翌日、宇春は数カ月前までよく訪れていた旧隆文楼にやってきた。
一度は去った後宮に、宇春が再び戻って来た理由は、実はこの場所にやってくるためだったのだ。
皇帝が詩や書を書くために建てられた隆文楼は、新旧二か所ある。宇春が訪れたのは、すでに取り壊しが決まっている旧館の方だ。
取り壊し前とは言え、隆文楼の中には鍵がかかっていて入れない。だから、彼と会うのはいつも、隆文楼をぐるりととりまく回廊の裏手だった。
建物の周りを回りながら、彼との出会いを思い出す。
彼との出会いは、いなくなってしまった岑貴妃の猫探しがきっかけだった。猫の足取りを追っているうちにこの隆文楼にたどりついたのだ。
猫は、座って昼寝をする彼の膝の上に、行儀よく丸くなって寝そべっていた。
──そう、今、この瞬間のように。
古ぼけた赤い壁にもたれかかり、腕を組んで目を閉じている彼の姿があった。胡坐をかいた膝の上にはいつかのように岑貴妃の白猫が丸くなっている。
きゅっと心臓がしめつけられるようにきしみ、久しぶりに見たその姿が視界の先で歪む。
軽く結った黒髪に、通った鼻筋。目を開ければ、意思の強さを示す黒い深い眼差しが自分を貫くのを宇春は知っている。
そして、目を覚ますと、彼は宇春の名を呼ぶのだ。
「宇春?」
こんな風に優しい声で。
(でも、こんな風に呼んでもらうのは最後かもしれない)
「劉さん」
「夢じゃなくて、本当に?」
「はい、夢じゃありません。宇春です」
宇春がこの後宮に戻ってきたのは、彼に会うためだった。
なけなしの勇気を振り絞って、宇春は、ここにやってきたのだ。
──そう、彼に、振られるために。
あまりにも引っ込み思案すぎる宇春を心配した伯父が、社会に出ることで自信をつけて欲しいという意図で受けさせたのだ。
勉強は得意だったので、試験の出来はそれなりに良かったと思う。
いや、良すぎたのだ。
その結果を見た誰かが、宇春のことを妃の座に押し上げてしまうくらいには。
皇帝陛下は、政敵を容赦なく断罪する政治的手腕と、周囲を圧する威厳とで冷血皇帝との二つ名を持つお方だ。
しかし、お若いのに女性に興味がないらしい。
宮殿の美姫には目もくれなかったため、様々なタイプの妃を揃えることになったのだとか。
宇春は、その変わり種の──多分「学問」枠にいれられてしまったのだ。
結論から言うと、この試みは完全なる失敗に終わった。皇帝陛下は当時選ばれた妃の誰の元へもやってくることはなかったのだ。
そして宇春は、一年後、宮を出されて実家に帰ることになった。
最近では、皇帝陛下は男性にしか興味がないのでは、と市井の間でもささやかれている。
「来たわ! 宇春様、待ってたわ」
「きゃあ、本当に戻ってきてくれたのね。うれしい」
「妹妹も一緒ね。これからまた一緒に働けるのね」
儲秀宮の裏手には、女官や下級宮女たちの寝泊まりする建屋がある。そこに入ると、女官たちが我先にと声をかけてきた。
「あ、あああの、私もう妃じゃないんで、様をつけないでください」
「いいのよ。私たちがそう呼びたいの」
そんな風に歓迎されると心がほっこりしてくる。
妃嬪の侍女たちは妃だった宇春に冷たいけれど、女官たちの様子は正反対だ。
彼女たちの後ろから、女官長も現れる。
「よく来てくれたわね。宇春。これで、次の詩吟の会も皇帝陛下のご期待に添えるわ」
「あの、わ、私なんかでお力になれるかわからないのですが」
「何を言ってるの。あなたがいてくれれば百人力よ」
「そうですっ。宇春様は、本気出せばすごいんですから!」
「そうね。妹妹がおまじないすればさらにばっちりよね」
そんな風に喜んでくれるのが、本当は少し後ろめたい。
宇春がここにやって来たのは──実は女官たちの手伝いのためだけではなかったからだ。
翌日、宇春は数カ月前までよく訪れていた旧隆文楼にやってきた。
一度は去った後宮に、宇春が再び戻って来た理由は、実はこの場所にやってくるためだったのだ。
皇帝が詩や書を書くために建てられた隆文楼は、新旧二か所ある。宇春が訪れたのは、すでに取り壊しが決まっている旧館の方だ。
取り壊し前とは言え、隆文楼の中には鍵がかかっていて入れない。だから、彼と会うのはいつも、隆文楼をぐるりととりまく回廊の裏手だった。
建物の周りを回りながら、彼との出会いを思い出す。
彼との出会いは、いなくなってしまった岑貴妃の猫探しがきっかけだった。猫の足取りを追っているうちにこの隆文楼にたどりついたのだ。
猫は、座って昼寝をする彼の膝の上に、行儀よく丸くなって寝そべっていた。
──そう、今、この瞬間のように。
古ぼけた赤い壁にもたれかかり、腕を組んで目を閉じている彼の姿があった。胡坐をかいた膝の上にはいつかのように岑貴妃の白猫が丸くなっている。
きゅっと心臓がしめつけられるようにきしみ、久しぶりに見たその姿が視界の先で歪む。
軽く結った黒髪に、通った鼻筋。目を開ければ、意思の強さを示す黒い深い眼差しが自分を貫くのを宇春は知っている。
そして、目を覚ますと、彼は宇春の名を呼ぶのだ。
「宇春?」
こんな風に優しい声で。
(でも、こんな風に呼んでもらうのは最後かもしれない)
「劉さん」
「夢じゃなくて、本当に?」
「はい、夢じゃありません。宇春です」
宇春がこの後宮に戻ってきたのは、彼に会うためだった。
なけなしの勇気を振り絞って、宇春は、ここにやってきたのだ。
──そう、彼に、振られるために。
2
お気に入りに追加
66
あなたにおすすめの小説
真夜中の仕出し屋さん~料理上手な狛犬様と暮らすことになりました~
椿蛍
キャラ文芸
「結婚するか、化け物屋敷を管理するか」
仕事を辞めた私に、父は二つの選択肢を迫った。
料亭『吉浪』に働いて六年。
挫折し、料理を作れなくなってしまった――
結婚を断り、私が選んだのは、化け物屋敷と父が呼ぶ、亡くなった祖父の家へ行くことだった。
祖父が亡くなって、店は閉まっているはずだったけれど、なぜか店は開いていて――
初出:2024.5.10~
※他サイト様に投稿したものを大幅改稿しております。
離縁の雨が降りやめば
月ヶ瀬 杏
キャラ文芸
龍の眷属と言われる竜堂家に生まれた葵は、三つのときに美雲神社の一つ目の龍神様の花嫁になった。
これは、龍の眷属である竜堂家が行わなければいけない古くからの習わしで、花嫁が十六で龍神と離縁する。
花嫁が十六歳の誕生日を迎えると、不思議なことに大量の雨が降る。それは龍神が花嫁を現世に戻すために降らせる離縁の雨だと言われていて、雨は三日三晩降り続いたのちに止むのが常だが……。
葵との離縁の雨は降りやまず……。
【短編】旦那様、2年後に消えますので、その日まで恩返しをさせてください
あさぎかな@電子書籍二作目発売中
恋愛
「二年後には消えますので、ベネディック様。どうかその日まで、いつかの恩返しをさせてください」
「恩? 私と君は初対面だったはず」
「そうかもしれませんが、そうではないのかもしれません」
「意味がわからない──が、これでアルフの、弟の奇病も治るのならいいだろう」
奇病を癒すため魔法都市、最後の薬師フェリーネはベネディック・バルテルスと契約結婚を持ちかける。
彼女の目的は遺産目当てや、玉の輿ではなく──?
拝啓、愛しの侯爵様~行き遅れ令嬢ですが、運命の人は案外近くにいたようです~
藤原ライラ
ファンタジー
心を奪われた手紙の先には、運命の人が待っていた――
子爵令嬢のキャロラインは、両親を早くに亡くし、年の離れた弟の面倒を見ているうちにすっかり婚期を逃しつつあった。夜会でも誰からも相手にされない彼女は、新しい出会いを求めて文通を始めることに。届いた美しい字で洗練された内容の手紙に、相手はきっとうんと年上の素敵なおじ様のはずだとキャロラインは予想する。
彼とのやり取りにときめく毎日だがそれに難癖をつける者がいた。幼馴染で侯爵家の嫡男、クリストファーである。
「理想の相手なんかに巡り合えるわけないだろう。現実を見た方がいい」
四つ年下の彼はいつも辛辣で彼女には冷たい。
そんな時キャロラインは、夜会で想像した文通相手とそっくりな人物に出会ってしまう……。
文通相手の正体は一体誰なのか。そしてキャロラインの恋の行方は!?
じれじれ両片思いです。
※他サイトでも掲載しています。
イラスト:ひろ様(https://xfolio.jp/portfolio/hiro_foxtail)

【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。
だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。
その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」
【完結】365日後の花言葉
Ringo
恋愛
許せなかった。
幼い頃からの婚約者でもあり、誰よりも大好きで愛していたあなただからこそ。
あなたの裏切りを知った翌朝、私の元に届いたのはゼラニウムの花束。
“ごめんなさい”
言い訳もせず、拒絶し続ける私の元に通い続けるあなたの愛情を、私はもう一度信じてもいいの?
※勢いよく本編完結しまして、番外編ではイチャイチャするふたりのその後をお届けします。
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
王宮医務室にお休みはありません。~休日出勤に疲れていたら、結婚前提のお付き合いを希望していたらしい騎士さまとデートをすることになりました。~
石河 翠
恋愛
王宮の医務室に勤める主人公。彼女は、連続する遅番と休日出勤に疲れはてていた。そんなある日、彼女はひそかに片思いをしていた騎士ウィリアムから夕食に誘われる。
食事に向かう途中、彼女は憧れていたお菓子「マリトッツォ」をウィリアムと美味しく食べるのだった。
そして休日出勤の当日。なぜか、彼女は怒り心頭の男になぐりこまれる。なんと、彼女に仕事を押しつけている先輩は、父親には自分が仕事を押しつけられていると話していたらしい。
しかし、そんな先輩にも実は誰にも相談できない事情があったのだ。ピンチに陥る彼女を救ったのは、やはりウィリアム。ふたりの距離は急速に近づいて……。
何事にも真面目で一生懸命な主人公と、誠実な騎士との恋物語。
扉絵は管澤捻さまに描いていただきました。
小説家になろう及びエブリスタにも投稿しております。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる