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第二部
第22話 誰がために何を為すか
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ヴァルターが船倉にいた子供たちを助け出して甲板まで導いてくると、ナディア達が、子供たちの世話を引き受けた。
漕ぎ手たちは持ち場に戻り、見張り台や、操舵室へとそれぞれ役割を決めて散っていく。
順調に船をマレに向けて出発させようとしたその時だった。
『おい、船だ! 取引相手の船が来たぞ!』
『急げ! 錨を上げろ!』
時間がかかりすぎてしまったのだ。
バステトは、唇をかむ。
今から出発しても、速度を上げるまでに追いつかれてしまうだろう。
横につけられたら、こちらの戦力では防ぎきれないだろう。
どうすれば……!
「いえ、大丈夫です。味方です」
接舷した取引先の船から降りてきたのは、小柄な若いケイリッヒ人の青年だった。
顔立ちは幼く、十代といっても通用しそうな雰囲気だ。
にこにこと笑いながら一番に船に乗り込んでくる。
バステトは、背後にヴァルターを従えて先頭に立ってヨナスと対面する。
「初めまして。姫様。俺はヨナス。こいつと同じ、王子の影の騎士だよ」
影の騎士、ヨナスは、マレに向かう船室の一部を借り切って、バステトを椅子に座らせると、その前に向き合った。ヴァルターは入り口近くに立つ。
「さて、姫様、話をしなきゃね」
ヨナスは、バステトの顔をのぞき込む。
「まず、ルーク王子は、マレに来ていないよ。王子は、キーランに向かった。」
「なんで!?」
バステトはびっくりしてしまった。
ルークは、マレのために行動を起こしてくれたのだから、てっきりマレに内密に入り込んているのだと思っていたのだ。行動を一緒にすることはできないだろうが、マレでルークに会うことはできるかと思っていた。怒られるだろうとも思っていた。それなのに、ルークはマレにいないなんて。
「このクーデターの鍵はキーランにあるからだよ。王子はこのクーデターを止めるために動いてる。はっきりしたことがわかったら、教えるよ」
あの夜、なんで教えてくれなかったんだろう?
そう思ってしまいそうになるのを首を振ってとどめる。だって、それは、ハサンのことをバステトに教えてくれなかった理由と同じだろうとすぐにわかってしまったからだ。バステトが、信頼するに足りないのだろう。
バステトは、だから、ルークに信頼されるような人間になりたくて、バステトがすべきことをするためにここまできたのだから。
「姫様は、それでもマレへ行くの?」
「私がマレへ行くのは、ルークを追いかけたかったからじゃない。私がすべきことが、マレにあるからだ」
バステトは、ヨナスの目を正面から見返した。
「私はマレのためにできることをしたい。私は、神殿の巫女だ。マレの民を勇気づけ、癒しを与える力になりたい。それに……ハサンと私は、話をすべきだ」
「あー。知ってるんだ」
バステトは目を伏せる。
「ハサンのことは、私がルークに信頼されてないから……私が愚かで足りないからルークは話をしないんだってわかってる」
でも、とバステトはつづけた。
「せめて、ルークに信頼されるような人間になりたい。今のままじゃ、だめだ。何も知らされず、ルークの帰りをただ待ってる、情けないバステトのままじゃルークに信頼なんてしてもらえない。私は、変わりたい。そのために、行動する。ルークに信頼してもらえる人間になる」
バステトは顔を上げた。
「それに、何もできないままじゃ、私がいやだ。ルークは多分、マレのために陛下にも内緒で何かをしようとしてくれてる。それなのに、自分の故国なのに、何もできないままただ見てるだけなんて、情けなくて、そんなの許せない。だから、バステトは、バステトにしかできない事を、バステトがすべきことをする」
「それが、舞と、ハサン様とのことなんだね」
バステトは小さくうなずいた。
「マレに行かないと、できない」
ヨナスの目を見て、譲れないという意思を込めて断言した。
「姫様最後に、一つだけ聞くよ。それは、誰のためにするの?」
ヨナスの問いかけは真摯で、バステトはそれにこたえようと必死で考えた。
誰ため、だなんて今まで真剣に考えたことはない。
誰のために?
ハサンと話をしたいのは、誰のため?
ルークに信頼されたいのは、誰のため?
民に舞を届けたいのは、誰のため?
それは、相手のためだろうか?
いや、違うのではなかろうか?
相手のためにそれをしたバステトが、自分が何かを為しえたと、満足するためではないだろうか?
バステトは、不意にそれに気が付き、逃げが許されない自分の責任の重さを強く感じた。
だから。
自らに刻み込むように、ゆっくりと伝える。
「全部、バステトのためだ。マレの皇女として、マレの舞姫として、ルークの婚約者として、それを為すべきだと、私が、私のためにそう決めた。責任は私がとる。ヨナス、ヴァルター、私に力を貸してほしい」
ヨナスは、心持ち視線をやわらげると、バステトの前に跪き、その手を取った。
「皇女殿下、ここからは、影の騎士、ヴァルターとヨナスが御身をお守りし、マレの皇都までご同道致します」
◇◇◇◇◇◇
皇都についてからの方針と大枠の行動を決めた後、ヨナスとヴァルターは、船の甲板に出る。
「最後の答え、正解は何だったんだ?」
「んー。正直、何でもよかった。王子のためでも、ハサン様のためでも、どれでも、俺は協力したよ? 王子からも、姫様に従うように、指示が出ているからね」
「なら、なぜ聞いた?」
「姫様がどう考えるか知りたかった。上に立つものとしての姫様の資質がね」
「どう思った」
「同じじゃない?」
「そうか」
ヨナスは、甲板の手すりに起用にのぼり、腕を広げる。
「あーあ、俺たち、もう影の騎士首だよー? こーんなに、人前で顔さらしてさ。俺、姫様の近衛騎士にしてもらおうかなー。ヴァルターも身の振り方、考えといた方がいいよ」
セリフと違い、楽しそうな口調だ。
「……」
「そういやさ、俺。副長からすぐにこっちに向かえって呼び出されたんだけど、向こうは大騒ぎなんじゃないの?出てくるとき、うまくやったの?」
「……」
応えないヴァルターに、ヨナスは、不審な目を向ける。
「何やらかしたの……」
「姫様が、自分に何かあった時のために婚約破棄の証書を書いておいてきてた」
「ええ!? 姫様、そんなの置いてきちゃったの!? ばれたら王子に殺されるってば。……ちゃんと誰か握りつぶしたよな? これ、一番超特急案件じゃね?」
ヨナスは、先ほどまでの余裕もどこへやら、バタバタと走り出したのだった。
◇◇◇◇◇◇
マレ皇国皇都ハシュールの西、騎馬で半日の場所に位置する都市ミニヤにおける市庁舎。
ここには現在、マレでクーデターを起こした軍部の最高司令部がおかれていた。
世襲制の将軍職に就くジャマールは、司令部に置かれた円卓の一角に座る、まだ年若い、少年ともいえる年齢の若者を憎々し気に睨みつける。
「では、ハサン殿は、このまま皇都ハシュールを前にして、我々に無為に時を過ごせというのかな?」
ジャマールは30代前半。世襲とはいえ、軍で長きにわたりたたきあげられた根っからの軍人だ。その眼光は鋭く、見る者を委縮させるには十分な迫力がある。
対し、ハサンと呼ばれた若者は、口元にうっすらと笑みを浮かべ、臆することもなく返答を返す。
「はい。わが軍は、ここまで行軍続きでした。戦らしい戦はなかったとはいえ、かなりの無理をおしての進軍に兵たちは疲弊しています。ここは、この都市に腰を落ち着けて、先に兵たちの回復を図るのが得策かと」
「しかし、皇都は目前! 士気の高い今、この勢いを維持し一気に落とすべきだろう。ここで足を止めるのは、士気の低下にしかならん!」
「将軍閣下のおっしゃることに賛成だ」
「ここは進むべきだろう」
強硬派の幕僚は、次々とおもねるようにジャマールの言葉に追随する。
「皆さんのおっしゃることはよくわかります。攻め落とすべきがハシュールでなければ、その言は正しい」
てっきり反論がくると思っていたハサンからの肯定に、将軍をはじめとした主だった幕僚は勢いをそがれた。
「しかし、我々が向かうはハシュールなのです。背後には、騎馬で回り込むのは不可能な山岳地帯、正面には、切り出した壁が天然の要害となった頑強な門と城壁を備えており、守りはかたい。戦えば、兵力の損耗は必至」
「しかし」
少年は続ける。
「過去、この国の歴史において、一度だけ皇都が落ちたことがありました」
そして、この幕僚会議に参加する、最高司令部の幕僚の一人一人に目を向ける。
はっと気づいた一人が声を上げる。
「150年ほど前のマラーガ事変の時。その時は確か……」
「はい。兵糧攻めでした」
幕僚たちは、ごくりと息をのむ。
兵糧攻めの凄惨さは、生半なものではない。軍人ばかりではなく、一般市民をも巻き込んで死地に追いやるのだ。
年若いこの少年がそれを実践することを口にする。
その冷たさに幕僚たちは心胆を寒からしめた。
「政権奪取後の政情安定のためにこそ、軍の力は必要となります。今は、不用意に兵を損耗させず、兵力を温存させるべき時かと愚考します」
「私は、ハサン殿の意見を押しますな」
「わたくしも」
皇族派と神殿派の有力諸侯は、ハサンを後押しする。その発言力も無視することはできない。
ここまで、参謀として勝利に十分貢献してきたハサンの言をないがしろにすべきではないことは、ジャマール自身が一番よく知っていた。
「それでは、3日、兵たちには休息をとらせる! 3日後のこの時間に再度幕僚会議を招集する。解散だ!」
ジャマールは、内心にくすぶる怒りを抑えきれず、苛立ちも露わに席を立った。
会議を終え、市長舎の廊下をずかずかと足音高く歩く。
「神童だかなんだか知らんが、気に入らん! 生意気なガキだ」
ジャマールは当初からハサンが気に入らなかった。
ジャマールの一族は、マレの西部を納める諸侯の一人であり、代々軍部における世襲の将軍職についていた。
建国当初3軍あったマレの軍は、今となっては、形骸化した国王の近衛隊と、2軍をとりこんで膨れ上がったジャマールの一族が率いる軍部しかない。実質的にマレの軍は、ジャマールの一族の支配下にあった。そして、その後継者であるジャマールは、生まれたときから軍のトップに立つことが決まっていた。
幼い頃より人の上に立つことに慣れきっていたジャマールは、10代の頃、生まれて初めて皇都へ赴き、皇族と相対する。そこで初めて、自分より上の立場の者がいることに気づき、愕然とする。その時に感じたのは、疑問だった。この国の軍という名の力は全て自分の一族が握っている。実質的に国を守っているのは自分なのだ、自分が守っている国なのに、自分こそがこの国の守護者であるのに、なぜ自分は人に頭を下げる必要があるのかと。頭を下げるべきは、守ってもらう立場にある皇帝ではないのかと。
そして、父からの代替わりにより更に肥大化した自尊心は、いつしか皇族への敵愾心へと変わり、彼は、国を手に入れることを望むようになっていた。
ジャマールは、キーランとの密約を密かに結び、クーデターのための資金を確保した。
しかし、事を為すには、軍事的には、西部へと至るルートにある皇帝派の諸侯が邪魔であったし、もし皇帝を倒したとて、国民の統治は神殿の宗教的な求心力なくしてはなしえない。
かくなる上は、キーランより資金だけでなく軍事力も借り入れて力で皇都を落とすか、その検討を始めたときに現れたのがハサンであった。
ハサンは、「婚約者であった神殿の舞姫、皇女バステトを奪われた」高貴な血筋の哀れな公子。
彼は、皇帝への怒りから反逆を企て、軍部に力を貸したいと申し出てきた。
世襲である神殿の高位神官の血筋でありながら、皇帝の妹姫を母に持つ彼は、皇帝派の諸侯の懐柔にも、神殿の求心力を利用するにも、まさにぴったりの人材だった。
キーランを国内で招き入れることに懸念を示す幕僚も多く、ハサンは一も二もなく歓迎されたのだ。
そして、この少年は軍事においても非凡な才を発する。
当初との想定と異なり、軍部には将軍ではなく、ハサンを神輿に担ぎたがる一派が現れ、軍の内部は、二分されつつあった。
自尊心の高いジャマールには、この状況は耐えがたかった。
いつか追い落としてやる。
今はまだ手を出せないが、ジャマールはその機会を虎視眈々と狙っていた。
漕ぎ手たちは持ち場に戻り、見張り台や、操舵室へとそれぞれ役割を決めて散っていく。
順調に船をマレに向けて出発させようとしたその時だった。
『おい、船だ! 取引相手の船が来たぞ!』
『急げ! 錨を上げろ!』
時間がかかりすぎてしまったのだ。
バステトは、唇をかむ。
今から出発しても、速度を上げるまでに追いつかれてしまうだろう。
横につけられたら、こちらの戦力では防ぎきれないだろう。
どうすれば……!
「いえ、大丈夫です。味方です」
接舷した取引先の船から降りてきたのは、小柄な若いケイリッヒ人の青年だった。
顔立ちは幼く、十代といっても通用しそうな雰囲気だ。
にこにこと笑いながら一番に船に乗り込んでくる。
バステトは、背後にヴァルターを従えて先頭に立ってヨナスと対面する。
「初めまして。姫様。俺はヨナス。こいつと同じ、王子の影の騎士だよ」
影の騎士、ヨナスは、マレに向かう船室の一部を借り切って、バステトを椅子に座らせると、その前に向き合った。ヴァルターは入り口近くに立つ。
「さて、姫様、話をしなきゃね」
ヨナスは、バステトの顔をのぞき込む。
「まず、ルーク王子は、マレに来ていないよ。王子は、キーランに向かった。」
「なんで!?」
バステトはびっくりしてしまった。
ルークは、マレのために行動を起こしてくれたのだから、てっきりマレに内密に入り込んているのだと思っていたのだ。行動を一緒にすることはできないだろうが、マレでルークに会うことはできるかと思っていた。怒られるだろうとも思っていた。それなのに、ルークはマレにいないなんて。
「このクーデターの鍵はキーランにあるからだよ。王子はこのクーデターを止めるために動いてる。はっきりしたことがわかったら、教えるよ」
あの夜、なんで教えてくれなかったんだろう?
そう思ってしまいそうになるのを首を振ってとどめる。だって、それは、ハサンのことをバステトに教えてくれなかった理由と同じだろうとすぐにわかってしまったからだ。バステトが、信頼するに足りないのだろう。
バステトは、だから、ルークに信頼されるような人間になりたくて、バステトがすべきことをするためにここまできたのだから。
「姫様は、それでもマレへ行くの?」
「私がマレへ行くのは、ルークを追いかけたかったからじゃない。私がすべきことが、マレにあるからだ」
バステトは、ヨナスの目を正面から見返した。
「私はマレのためにできることをしたい。私は、神殿の巫女だ。マレの民を勇気づけ、癒しを与える力になりたい。それに……ハサンと私は、話をすべきだ」
「あー。知ってるんだ」
バステトは目を伏せる。
「ハサンのことは、私がルークに信頼されてないから……私が愚かで足りないからルークは話をしないんだってわかってる」
でも、とバステトはつづけた。
「せめて、ルークに信頼されるような人間になりたい。今のままじゃ、だめだ。何も知らされず、ルークの帰りをただ待ってる、情けないバステトのままじゃルークに信頼なんてしてもらえない。私は、変わりたい。そのために、行動する。ルークに信頼してもらえる人間になる」
バステトは顔を上げた。
「それに、何もできないままじゃ、私がいやだ。ルークは多分、マレのために陛下にも内緒で何かをしようとしてくれてる。それなのに、自分の故国なのに、何もできないままただ見てるだけなんて、情けなくて、そんなの許せない。だから、バステトは、バステトにしかできない事を、バステトがすべきことをする」
「それが、舞と、ハサン様とのことなんだね」
バステトは小さくうなずいた。
「マレに行かないと、できない」
ヨナスの目を見て、譲れないという意思を込めて断言した。
「姫様最後に、一つだけ聞くよ。それは、誰のためにするの?」
ヨナスの問いかけは真摯で、バステトはそれにこたえようと必死で考えた。
誰ため、だなんて今まで真剣に考えたことはない。
誰のために?
ハサンと話をしたいのは、誰のため?
ルークに信頼されたいのは、誰のため?
民に舞を届けたいのは、誰のため?
それは、相手のためだろうか?
いや、違うのではなかろうか?
相手のためにそれをしたバステトが、自分が何かを為しえたと、満足するためではないだろうか?
バステトは、不意にそれに気が付き、逃げが許されない自分の責任の重さを強く感じた。
だから。
自らに刻み込むように、ゆっくりと伝える。
「全部、バステトのためだ。マレの皇女として、マレの舞姫として、ルークの婚約者として、それを為すべきだと、私が、私のためにそう決めた。責任は私がとる。ヨナス、ヴァルター、私に力を貸してほしい」
ヨナスは、心持ち視線をやわらげると、バステトの前に跪き、その手を取った。
「皇女殿下、ここからは、影の騎士、ヴァルターとヨナスが御身をお守りし、マレの皇都までご同道致します」
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「んー。正直、何でもよかった。王子のためでも、ハサン様のためでも、どれでも、俺は協力したよ? 王子からも、姫様に従うように、指示が出ているからね」
「なら、なぜ聞いた?」
「姫様がどう考えるか知りたかった。上に立つものとしての姫様の資質がね」
「どう思った」
「同じじゃない?」
「そうか」
ヨナスは、甲板の手すりに起用にのぼり、腕を広げる。
「あーあ、俺たち、もう影の騎士首だよー? こーんなに、人前で顔さらしてさ。俺、姫様の近衛騎士にしてもらおうかなー。ヴァルターも身の振り方、考えといた方がいいよ」
セリフと違い、楽しそうな口調だ。
「……」
「そういやさ、俺。副長からすぐにこっちに向かえって呼び出されたんだけど、向こうは大騒ぎなんじゃないの?出てくるとき、うまくやったの?」
「……」
応えないヴァルターに、ヨナスは、不審な目を向ける。
「何やらかしたの……」
「姫様が、自分に何かあった時のために婚約破棄の証書を書いておいてきてた」
「ええ!? 姫様、そんなの置いてきちゃったの!? ばれたら王子に殺されるってば。……ちゃんと誰か握りつぶしたよな? これ、一番超特急案件じゃね?」
ヨナスは、先ほどまでの余裕もどこへやら、バタバタと走り出したのだった。
◇◇◇◇◇◇
マレ皇国皇都ハシュールの西、騎馬で半日の場所に位置する都市ミニヤにおける市庁舎。
ここには現在、マレでクーデターを起こした軍部の最高司令部がおかれていた。
世襲制の将軍職に就くジャマールは、司令部に置かれた円卓の一角に座る、まだ年若い、少年ともいえる年齢の若者を憎々し気に睨みつける。
「では、ハサン殿は、このまま皇都ハシュールを前にして、我々に無為に時を過ごせというのかな?」
ジャマールは30代前半。世襲とはいえ、軍で長きにわたりたたきあげられた根っからの軍人だ。その眼光は鋭く、見る者を委縮させるには十分な迫力がある。
対し、ハサンと呼ばれた若者は、口元にうっすらと笑みを浮かべ、臆することもなく返答を返す。
「はい。わが軍は、ここまで行軍続きでした。戦らしい戦はなかったとはいえ、かなりの無理をおしての進軍に兵たちは疲弊しています。ここは、この都市に腰を落ち着けて、先に兵たちの回復を図るのが得策かと」
「しかし、皇都は目前! 士気の高い今、この勢いを維持し一気に落とすべきだろう。ここで足を止めるのは、士気の低下にしかならん!」
「将軍閣下のおっしゃることに賛成だ」
「ここは進むべきだろう」
強硬派の幕僚は、次々とおもねるようにジャマールの言葉に追随する。
「皆さんのおっしゃることはよくわかります。攻め落とすべきがハシュールでなければ、その言は正しい」
てっきり反論がくると思っていたハサンからの肯定に、将軍をはじめとした主だった幕僚は勢いをそがれた。
「しかし、我々が向かうはハシュールなのです。背後には、騎馬で回り込むのは不可能な山岳地帯、正面には、切り出した壁が天然の要害となった頑強な門と城壁を備えており、守りはかたい。戦えば、兵力の損耗は必至」
「しかし」
少年は続ける。
「過去、この国の歴史において、一度だけ皇都が落ちたことがありました」
そして、この幕僚会議に参加する、最高司令部の幕僚の一人一人に目を向ける。
はっと気づいた一人が声を上げる。
「150年ほど前のマラーガ事変の時。その時は確か……」
「はい。兵糧攻めでした」
幕僚たちは、ごくりと息をのむ。
兵糧攻めの凄惨さは、生半なものではない。軍人ばかりではなく、一般市民をも巻き込んで死地に追いやるのだ。
年若いこの少年がそれを実践することを口にする。
その冷たさに幕僚たちは心胆を寒からしめた。
「政権奪取後の政情安定のためにこそ、軍の力は必要となります。今は、不用意に兵を損耗させず、兵力を温存させるべき時かと愚考します」
「私は、ハサン殿の意見を押しますな」
「わたくしも」
皇族派と神殿派の有力諸侯は、ハサンを後押しする。その発言力も無視することはできない。
ここまで、参謀として勝利に十分貢献してきたハサンの言をないがしろにすべきではないことは、ジャマール自身が一番よく知っていた。
「それでは、3日、兵たちには休息をとらせる! 3日後のこの時間に再度幕僚会議を招集する。解散だ!」
ジャマールは、内心にくすぶる怒りを抑えきれず、苛立ちも露わに席を立った。
会議を終え、市長舎の廊下をずかずかと足音高く歩く。
「神童だかなんだか知らんが、気に入らん! 生意気なガキだ」
ジャマールは当初からハサンが気に入らなかった。
ジャマールの一族は、マレの西部を納める諸侯の一人であり、代々軍部における世襲の将軍職についていた。
建国当初3軍あったマレの軍は、今となっては、形骸化した国王の近衛隊と、2軍をとりこんで膨れ上がったジャマールの一族が率いる軍部しかない。実質的にマレの軍は、ジャマールの一族の支配下にあった。そして、その後継者であるジャマールは、生まれたときから軍のトップに立つことが決まっていた。
幼い頃より人の上に立つことに慣れきっていたジャマールは、10代の頃、生まれて初めて皇都へ赴き、皇族と相対する。そこで初めて、自分より上の立場の者がいることに気づき、愕然とする。その時に感じたのは、疑問だった。この国の軍という名の力は全て自分の一族が握っている。実質的に国を守っているのは自分なのだ、自分が守っている国なのに、自分こそがこの国の守護者であるのに、なぜ自分は人に頭を下げる必要があるのかと。頭を下げるべきは、守ってもらう立場にある皇帝ではないのかと。
そして、父からの代替わりにより更に肥大化した自尊心は、いつしか皇族への敵愾心へと変わり、彼は、国を手に入れることを望むようになっていた。
ジャマールは、キーランとの密約を密かに結び、クーデターのための資金を確保した。
しかし、事を為すには、軍事的には、西部へと至るルートにある皇帝派の諸侯が邪魔であったし、もし皇帝を倒したとて、国民の統治は神殿の宗教的な求心力なくしてはなしえない。
かくなる上は、キーランより資金だけでなく軍事力も借り入れて力で皇都を落とすか、その検討を始めたときに現れたのがハサンであった。
ハサンは、「婚約者であった神殿の舞姫、皇女バステトを奪われた」高貴な血筋の哀れな公子。
彼は、皇帝への怒りから反逆を企て、軍部に力を貸したいと申し出てきた。
世襲である神殿の高位神官の血筋でありながら、皇帝の妹姫を母に持つ彼は、皇帝派の諸侯の懐柔にも、神殿の求心力を利用するにも、まさにぴったりの人材だった。
キーランを国内で招き入れることに懸念を示す幕僚も多く、ハサンは一も二もなく歓迎されたのだ。
そして、この少年は軍事においても非凡な才を発する。
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自尊心の高いジャマールには、この状況は耐えがたかった。
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乙女ゲームの悪役令嬢であるエルファリナに転生した私は、彼女のその境遇に対して深い悲しみを覚えていた。
彼女は、家族からも婚約者からも愛されていない。それどころか、その存在を疎まれているのだ。
こんな環境なら歪んでも仕方ない。そう思う程に、彼女の境遇は悲惨だったのである。
だが、彼女のように歪んでしまえば、ゲームと同じように罪を暴かれて牢屋に行くだけだ。
そのため、私は心を強く持つしかなかった。悲惨な結末を迎えないためにも、どんなに不当な扱いをされても、耐え抜くしかなかったのである。
そんな私に、解放される日がやって来た。
それは、ゲームの始まりである魔法学園入学の日だ。
全寮制の学園には、歪な家族は存在しない。
私は、自由を得たのである。
その自由を謳歌しながら、私は思っていた。
悲惨な境遇から必ず抜け出し、自由気ままに生きるのだと。
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