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第一部

第6話 皇女の想い

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 あの事件があってから数日、バステトは王太子に謝りたいと、王族専用の特別棟の3階へ何度か訪れている。しかし、その度に扉の前で王子の部屋付きのメイドに断られて、一向に王子に会うことができない。
 
 自分をかばって怪我をしたルークを見舞い、ただ謝りたい。
 そして、かばってくれたことにお礼を言いたい。ルークがかばってくれなければ、怪我をしたのはバステトだったのだ。

 婚約破棄をしたいという気持ちは変わっていない。
 ルークは、マレに何か求めるものがあるのだろう。それに有利になようにバステトとの婚約を継続したいのだ。そして、そのためにケイリッヒにおけるバステトの立場を弱いものにしておきたいのだとしたら、そんな婚約はやはり続けるわけにはいかない。

 でも、ルークがいくらひどいことを考えていたとしても、それとこれとは別だ。
 きちんとルークがバステトを助けてくれたことにはお礼を言うべきだと思うのだ。

 それに、バステト自身もよくなかった。
 いくら正攻法ではだめだと思っても、あんなやり方はよくない。ルークに引きずられて、やり方を選ばなくなっていた。とてもでないが、女神さまに顔向けできない方法だった。

 だから、あんなひどい方法を取ろうとしたことを謝って、お礼を言って、その上で、きちんと婚約破棄をお願いしようと思うのだ。

 それなのに、ルークには会うことはできない。

『もういい加減にしてほしい! お前たちの言う通り、婚約破棄してやると言いに来たのだ! 通してくれてもいいではないか!』

 バステトはルークに会って、謝りたい。
 謝って、それから……。

 告げたいことがあるのだ。



 ルークに会うことをあきらめて、王太子の部屋のあるフロアを後にしようとしたところで、バステトはこのフロアにやってきたミケーネと行きあった。

「バステト様、ごきげんよう」
 彼女は、美しい所作で礼をとる。
 ミケーネにも謝らなくてはならない。彼女にも迷惑をかけた。
「ごきげんよう、ミケーネ、嬢。わたし、あやまるしたい。池のこと。ひどいこと、いった。ごめんなさい」
 
 ミケーネ嬢は、一瞬目を見開いたようだったが、すぐに令嬢らしい落ち着いた微笑を浮かべた。
「いいえ、バステト様。びっくりしましたが、私は大丈夫です。ルーク様がかばってくださいましたから。私がバステト様のお気持ちを考えず、ルーク様と親しくしたのも悪かったのです」
 バステトのためにゆっくりと話してくれるので、ミケーネの言っていることは、よくわかった。
「ルーク様が、私に声を掛けられたのは一時のお戯れでしょう。どうぞお気になさらないでくださいませ。ご婚約者様はバステト様ですもの」
 そんなものかもしれない。マレでも、力のある男は、気に入った女を複数人自分のハーレムに入れるものだ。その時々で寵愛するものは変わるものだ。

「それでは、私は失礼いたします」
「あ、今、ルーク、会えない、休んでいる」

 ミケーネに声をかけて失敗したと気づいた。
 言わないでほしい。聞きたくない。

「え? 私、ルーク様にこちらに伺うようにお呼びいただいたのですが……」
 下を向いてしまったバステトに、ミケーネも気づいたようだった。
 バステトがこのフロアに入れてもらえなかったことを。

「お許しください。私の立場では、ルーク様がお望みになられたことを断ることはできません。けして、ご婚約者様のお立場をないがしろにしたいわけではないのです」
「ん。行って。」
「はい。無聊をお慰めしてまいります。」
 ミケーネの最後に言った言葉は難しくて、バステトにはよくわからなかった。

 お見舞いを許されない理由が、これでわかってしまった。
 評判の悪い皇女を近づかないために、周りの従者やメイドたちが会わせようとしないのだとずっと思っていた。
 でも、そうではなかった。ルークがバステトに会いたくないんだ。
 弱っているとき、会いたいのは、婚約者のバステトではなく、ミケーネ嬢だったということだ。

 ルークも言っていたし、彼女も言うように、ミケーネ嬢とは、真実の愛ではなかったのだろう。ひと時の関係かもしれない。
 でも、だからどうだというのだ。
 今、ルークはミケーネ嬢を特別扱いしている。
 そして、ミケーネ嬢に飽きたら、次のミケーネ嬢が現れるだけだろう。

 自分は、永遠にルークの一番になることはない。
 それだけは変わらない。


  ◇◇◇◇◇◇

 
 数日ぶりに講義室に入ると、始業前のざわめきが、ぴたりとやんだ。
 きっと色々な噂が流れているのだろう。
 バステトは、いつもの窓際の一番後ろの席に座る。
 ふと、黒板に大きく書かれた文字が目に入る。バステトには半分ぐらいしか意味がわからない。

 バステトは、隣の生徒を捕まえる。
「あれ、読んで」

 彼は言いづらそうに目を伏せた。
「読んで」

 彼は意を決したように口を開いた。
「〈マレの皇女が王子の真実の恋のお相手の子爵令嬢を嫉妬から池に突き落とそうとした〉
 〈王子は、子爵令嬢をかばってけがを負って、記憶を失ってしまった〉
 ≪マレの皇女は婚約破棄されてさっさと国に帰ればいい≫」

 バステトは、席に座り込んだ。

 結果としてバステトの作戦はうまくいった。 
 その噂は、バステトが望んだものだった。
 婚約破棄したくて、問題を起こしたのだから、つらいけれど、これでいいのだ。

 でも、記憶喪失。
 記憶喪失って何だろう。
 ルークはどこまで忘れてしまったんだろう。
 入学した当初の優しかったルークとの想い出も、いちいちからかってきたあのやり取りも、全部忘れてしまったんだろうか?
 ルークの中に自分が残っていないかもしれないと思うと、たまらなく怖くなった。

 バステトは、講義室を飛び出した。



 気が付くと、バステトはルークの部屋のある特別棟の窓が見える場所まで来てしまっていた。
 王族専用の特別棟。バステトの部屋は2階、ルークの部屋は3階にある。
 バステトは、3階のルークの部屋と思しきあたりを見つめた。
 3階のある窓に、金の髪がうつった。
 バステトの心臓が跳ねる。ルークだ。
 しかし、ルークは、こちらを向くこともなく窓に背を向けてしまった。
 そこへミケーネがやってきてルークの腕に手を回し、そのまま、カーテンがひかれてしまった。

 その後は、いくら待ってもルークが現れることはなかった。
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