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第一部
第5話 作戦の決行日
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今日は、作戦の決行日だ。
作戦と言っても単純だ。
人の大勢いる中庭の池に子爵令嬢を呼び出して、ちょっと言い合いをして、彼女を池に突き落とすのだ。
バステトはまず、先日色々と教えてくれた親切な令嬢に、子爵令嬢を池の前まで呼び出してもらうことにした。彼女は、この間会った時は、ルークに何か言われて青い顔をして走り去ってしまったから心配だったが快く引き受けてくれた。バステトは、あまり知り合いがいないので正直助かった。
そして、池の前で子爵令嬢を待つ。
この池のある中庭は、食堂に通じる渡り廊下に面していて、とても人通りが多い。
念には念を入れてお昼の人が特に多い時間を選んだ。
池の端には、清掃員の姿も見える。もちろん、ごみを散らかして、通報しておいたのはバステトだ。彼女が落ちても、助けてくれる人がたくさんいる。その辺は抜かりない。
タオルを準備できなかったのは痛いが、医務室が近いから大丈夫だろう。季節もいいし、風邪を引く心配はないはずだ。
石で舗装していないこの池は絶妙な深さで、怪我はしないし溺れない上に、どろどろぐちゃぐちゃべちょべちょの状況を作り出すのには、まさに最適なのだ。
重要なのは、周りにどう見えるかだ。
池の端の絶妙な突き落としスポットに立って、悪役皇女らしく腕を組んでふんぞり返ると、バステトは、子爵令嬢の到着を待った。
ところが。
「おや、『黒猫ちゃん』 今日はどうしたのかな?」
『へ?』
なんでお前が来る!?
なんと声をかけてきたのはルークだった。
いつも通り、似非王子スマイルで、周りの視線を集めながら、こちらに歩いてくる。微妙に息を切らしているようだ。珍しい。
バステトは混乱しつつある頭の中で目まぐるしく考えを巡らせる。
今から追い払えるか?
いや、この王子はバステトの嫌がることをするのが得意だ。少しでも追い返す素振りでもしようものなら徹底的に居座るだろう。
では、果たして王子がこの場にいて、この作戦は成り立つのか?
いや、むしろいいのでは?
バステトは思い直した。
王子も目の前で子爵令嬢が突き落とされれば、バステトを咎めないわけにはいかない。
いつものように婚約者のかわいい嫉妬だなんて、周囲にごまかせるレベルではないはずだ。癇癪もちで、嫉妬で我を忘れる王妃なんて、国のトップに相応しくない。そんな王妃、国民は誰も望んでいないのだから。
バステトは、自然とどや顔になる顔を引き締めて、この作戦を継続することに決めた。
子爵令嬢が来たら、ルークに覚られる前に速やかに作戦を決行するのだ。
そこへ、件の令嬢が、ベビーピンクの髪をゆらしながら、にこやかにやってくる。すらっとして、背はバステトより高い。白い制服を可憐に着こなした、可愛らしいというより美しい令嬢だ。
「まあ、ルーク様、ごきげんよう。バステト様は、初めましてですわね。私、ミケーネ=フォン=デッケンと申します。デッケン子爵家の長女でございます。以後お見知りおきを」
バステトとミケーネ嬢とは、公式には初対面だ。学園では、身分の上下なく名前で呼び合うことになるが、最初の挨拶はきちんと行うらしい。
彼女は、略式のきれいな礼をとる。バステトは、ケイリッヒの儀礼はよくわからないが、とても品の好い所作だということはわかった。
「ミケーネ嬢?」
ルークは、返事をしないバステトと子爵令嬢を見比べて軽く眉をあげた。
バステトは、無言で子爵令嬢をにらみつける。
ここからが勝負だ。
ミケーネという令嬢は、何も言わないバステトに、困ったように首を傾げた。
「ルーク様、バステト様、お話とは何でしょうか?」
バステトは、ルークを無視することにして問いかける彼女に対峙した。
ごめんなさい、と心の中で謝る。
「このどろぼうねこ! ルーク様にちかづかないでよ!」
彼女は一瞬目を見開くと、みるみるうちに瞳をうるませる。
バステトは罪悪感ましましだが、ぐっとこらえる。
「そんな、私、そんなつもりでは……。申し訳ありません、バステト様」
胸の前で祈るように手を組み、悲壮な声をあげる彼女に、周りの注目はいい具合に集まっている。
よし、いける!
バステトは、子爵令嬢を突き落とすため、一歩足を踏み出す。
だが、そこで彼女は、瞳いっぱいに涙をためたまま、なんとルークの方へ小走りで走り寄り、その後ろに隠れてしまったのだ!
「ルーク様、私達は、そんな関係ではないのだと、皇女様に誤解をといて差し上げなくては……」
彼女はもじもじとルークの後ろに寄り添うと王子の服の裾を握りしめて小さくなった。その姿は文句なくかわいい。池に突き落とせば、バステトへの悪評というダメージは計り知れないはずだ。
それなのに、ルークが邪魔で手が届かない。
もういい!突き落とせないかもしれないけど、それをしようとしたことを皆に見せるのが大事!
バステトは意を決してルークの後ろの令嬢に手を伸ばそうとした。
が、あっけなくルークに腕をつかまれてしまった。
「バステト皇女。それはいただけないな」
大きくはないがよく通る声だ。そして、小さくマレ語で続ける。
『馬鹿な黒猫。君の魂胆なんかバレバレだよ。問題を起こして婚約破棄に持ち込もうとしたんだろうけど、君に問題なんか起こさせないよ』
この馬鹿王子!せっかくいいところだったのに!
バステトはルークをにらみつけてさらに怒鳴りつけようとした。
が、できなかった。
ルークが、バステトのつかんだ腕から手を滑らせ、彼女の指に指を絡ませるようにつなぐと、その胸に引き寄せてしまったからだ。
「婚約者としては、どうかと思うよ」
絡ませた右手を上に引かれ、自然顔が上がる。小柄なバステトは、バランスを崩してルークに倒れこむように引き寄せられ、至近距離でルークと目を合わせてしまった。
バステトは、もう口をパクパクとすることしかできなかった。
心臓がばくばく音を立て、顔に熱がこもる。
ルークとこんなに近づいたのは初めてだった。いつも、軽口をたたくだけで、手をつなぐことさえしなかった。
ルークの顔が近い。
……本当は、いつも、思っていた。
吸い込まれるようなきれいな瞳は、オアシスの水に落としたサファイヤのようだと。
光をはじくきれいな髪は、砂漠の砂にこぼれる、朝の光のようだと。
普段は、心の奥に押し込めていた思いが溢れてきてしまいそうで、慌てて下を向いた。
ここから先は、考えてはいけない。
ルークは、バステトを抱え込むように背中にそっと手を添わせて、引き寄せたバステトの耳元にささやきかける。
『手をつないだだけでこんなに赤くなるなんて。黒猫はかわいいね』
『思うに、僕たちはちょっと、距離が遠すぎたと思うんだ。僕もずいぶん我慢したと思わない?』
『そろそろ、キスぐらいしてもいいよね』
ルークの口撃は、とどまるところを知らない。
『なっ、なななな』
そっと触れられた背中も、握られた手も、ささやかれた耳元もどこもかしこも熱くて。
バステトは、混乱から逃げるように慌てて手を振り払って、ルークの胸を押した。
もちろんルークがそんなことぐらいでびくともするわけなくて、よろけたのはバステトの方だった。
バステトが池の方へよろける。
一瞬何が起こったかわからなかった。
いつも余裕の笑みを浮かべているルークが、浅葱色の目を見開き、バステトの方へ手を伸ばす。
ルークに腕をつかまれ、ぐっとその胸に引き寄せられるとバステトの視界は、そのまま暗闇に覆われてしまった。
がんっと鈍い衝撃が走り、バステトはルークに視界を覆われたまま、ずるずると引きずられるように地面に座り込む。
「殿下っ」
「きゃーっ」
護衛の声や、悲鳴がこだまする。
バステトが手をついてそっと体を起こして顔をあげると、そこで目にしたのは、池の端にある石造りのモニュメントを背に、頭から血を流し、蒼白な顔のまま動かない、美しい王子の姿だった。
≪しかし、池には彼女をかばった王子が落ちることになってしまい、更に王子は、池のモニュメントに頭をぶつけて怪我を負ってしまった。≫
そう、王子がかばった「彼女」は、子爵令嬢ではなく、バステトなのである。
作戦と言っても単純だ。
人の大勢いる中庭の池に子爵令嬢を呼び出して、ちょっと言い合いをして、彼女を池に突き落とすのだ。
バステトはまず、先日色々と教えてくれた親切な令嬢に、子爵令嬢を池の前まで呼び出してもらうことにした。彼女は、この間会った時は、ルークに何か言われて青い顔をして走り去ってしまったから心配だったが快く引き受けてくれた。バステトは、あまり知り合いがいないので正直助かった。
そして、池の前で子爵令嬢を待つ。
この池のある中庭は、食堂に通じる渡り廊下に面していて、とても人通りが多い。
念には念を入れてお昼の人が特に多い時間を選んだ。
池の端には、清掃員の姿も見える。もちろん、ごみを散らかして、通報しておいたのはバステトだ。彼女が落ちても、助けてくれる人がたくさんいる。その辺は抜かりない。
タオルを準備できなかったのは痛いが、医務室が近いから大丈夫だろう。季節もいいし、風邪を引く心配はないはずだ。
石で舗装していないこの池は絶妙な深さで、怪我はしないし溺れない上に、どろどろぐちゃぐちゃべちょべちょの状況を作り出すのには、まさに最適なのだ。
重要なのは、周りにどう見えるかだ。
池の端の絶妙な突き落としスポットに立って、悪役皇女らしく腕を組んでふんぞり返ると、バステトは、子爵令嬢の到着を待った。
ところが。
「おや、『黒猫ちゃん』 今日はどうしたのかな?」
『へ?』
なんでお前が来る!?
なんと声をかけてきたのはルークだった。
いつも通り、似非王子スマイルで、周りの視線を集めながら、こちらに歩いてくる。微妙に息を切らしているようだ。珍しい。
バステトは混乱しつつある頭の中で目まぐるしく考えを巡らせる。
今から追い払えるか?
いや、この王子はバステトの嫌がることをするのが得意だ。少しでも追い返す素振りでもしようものなら徹底的に居座るだろう。
では、果たして王子がこの場にいて、この作戦は成り立つのか?
いや、むしろいいのでは?
バステトは思い直した。
王子も目の前で子爵令嬢が突き落とされれば、バステトを咎めないわけにはいかない。
いつものように婚約者のかわいい嫉妬だなんて、周囲にごまかせるレベルではないはずだ。癇癪もちで、嫉妬で我を忘れる王妃なんて、国のトップに相応しくない。そんな王妃、国民は誰も望んでいないのだから。
バステトは、自然とどや顔になる顔を引き締めて、この作戦を継続することに決めた。
子爵令嬢が来たら、ルークに覚られる前に速やかに作戦を決行するのだ。
そこへ、件の令嬢が、ベビーピンクの髪をゆらしながら、にこやかにやってくる。すらっとして、背はバステトより高い。白い制服を可憐に着こなした、可愛らしいというより美しい令嬢だ。
「まあ、ルーク様、ごきげんよう。バステト様は、初めましてですわね。私、ミケーネ=フォン=デッケンと申します。デッケン子爵家の長女でございます。以後お見知りおきを」
バステトとミケーネ嬢とは、公式には初対面だ。学園では、身分の上下なく名前で呼び合うことになるが、最初の挨拶はきちんと行うらしい。
彼女は、略式のきれいな礼をとる。バステトは、ケイリッヒの儀礼はよくわからないが、とても品の好い所作だということはわかった。
「ミケーネ嬢?」
ルークは、返事をしないバステトと子爵令嬢を見比べて軽く眉をあげた。
バステトは、無言で子爵令嬢をにらみつける。
ここからが勝負だ。
ミケーネという令嬢は、何も言わないバステトに、困ったように首を傾げた。
「ルーク様、バステト様、お話とは何でしょうか?」
バステトは、ルークを無視することにして問いかける彼女に対峙した。
ごめんなさい、と心の中で謝る。
「このどろぼうねこ! ルーク様にちかづかないでよ!」
彼女は一瞬目を見開くと、みるみるうちに瞳をうるませる。
バステトは罪悪感ましましだが、ぐっとこらえる。
「そんな、私、そんなつもりでは……。申し訳ありません、バステト様」
胸の前で祈るように手を組み、悲壮な声をあげる彼女に、周りの注目はいい具合に集まっている。
よし、いける!
バステトは、子爵令嬢を突き落とすため、一歩足を踏み出す。
だが、そこで彼女は、瞳いっぱいに涙をためたまま、なんとルークの方へ小走りで走り寄り、その後ろに隠れてしまったのだ!
「ルーク様、私達は、そんな関係ではないのだと、皇女様に誤解をといて差し上げなくては……」
彼女はもじもじとルークの後ろに寄り添うと王子の服の裾を握りしめて小さくなった。その姿は文句なくかわいい。池に突き落とせば、バステトへの悪評というダメージは計り知れないはずだ。
それなのに、ルークが邪魔で手が届かない。
もういい!突き落とせないかもしれないけど、それをしようとしたことを皆に見せるのが大事!
バステトは意を決してルークの後ろの令嬢に手を伸ばそうとした。
が、あっけなくルークに腕をつかまれてしまった。
「バステト皇女。それはいただけないな」
大きくはないがよく通る声だ。そして、小さくマレ語で続ける。
『馬鹿な黒猫。君の魂胆なんかバレバレだよ。問題を起こして婚約破棄に持ち込もうとしたんだろうけど、君に問題なんか起こさせないよ』
この馬鹿王子!せっかくいいところだったのに!
バステトはルークをにらみつけてさらに怒鳴りつけようとした。
が、できなかった。
ルークが、バステトのつかんだ腕から手を滑らせ、彼女の指に指を絡ませるようにつなぐと、その胸に引き寄せてしまったからだ。
「婚約者としては、どうかと思うよ」
絡ませた右手を上に引かれ、自然顔が上がる。小柄なバステトは、バランスを崩してルークに倒れこむように引き寄せられ、至近距離でルークと目を合わせてしまった。
バステトは、もう口をパクパクとすることしかできなかった。
心臓がばくばく音を立て、顔に熱がこもる。
ルークとこんなに近づいたのは初めてだった。いつも、軽口をたたくだけで、手をつなぐことさえしなかった。
ルークの顔が近い。
……本当は、いつも、思っていた。
吸い込まれるようなきれいな瞳は、オアシスの水に落としたサファイヤのようだと。
光をはじくきれいな髪は、砂漠の砂にこぼれる、朝の光のようだと。
普段は、心の奥に押し込めていた思いが溢れてきてしまいそうで、慌てて下を向いた。
ここから先は、考えてはいけない。
ルークは、バステトを抱え込むように背中にそっと手を添わせて、引き寄せたバステトの耳元にささやきかける。
『手をつないだだけでこんなに赤くなるなんて。黒猫はかわいいね』
『思うに、僕たちはちょっと、距離が遠すぎたと思うんだ。僕もずいぶん我慢したと思わない?』
『そろそろ、キスぐらいしてもいいよね』
ルークの口撃は、とどまるところを知らない。
『なっ、なななな』
そっと触れられた背中も、握られた手も、ささやかれた耳元もどこもかしこも熱くて。
バステトは、混乱から逃げるように慌てて手を振り払って、ルークの胸を押した。
もちろんルークがそんなことぐらいでびくともするわけなくて、よろけたのはバステトの方だった。
バステトが池の方へよろける。
一瞬何が起こったかわからなかった。
いつも余裕の笑みを浮かべているルークが、浅葱色の目を見開き、バステトの方へ手を伸ばす。
ルークに腕をつかまれ、ぐっとその胸に引き寄せられるとバステトの視界は、そのまま暗闇に覆われてしまった。
がんっと鈍い衝撃が走り、バステトはルークに視界を覆われたまま、ずるずると引きずられるように地面に座り込む。
「殿下っ」
「きゃーっ」
護衛の声や、悲鳴がこだまする。
バステトが手をついてそっと体を起こして顔をあげると、そこで目にしたのは、池の端にある石造りのモニュメントを背に、頭から血を流し、蒼白な顔のまま動かない、美しい王子の姿だった。
≪しかし、池には彼女をかばった王子が落ちることになってしまい、更に王子は、池のモニュメントに頭をぶつけて怪我を負ってしまった。≫
そう、王子がかばった「彼女」は、子爵令嬢ではなく、バステトなのである。
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