上 下
5 / 34
第一部

第5話 作戦の決行日

しおりを挟む
 今日は、作戦の決行日だ。

 作戦と言っても単純だ。
 人の大勢いる中庭の池に子爵令嬢を呼び出して、ちょっと言い合いをして、彼女を池に突き落とすのだ。

  バステトはまず、先日色々と教えてくれた親切な令嬢に、子爵令嬢を池の前まで呼び出してもらうことにした。彼女は、この間会った時は、ルークに何か言われて青い顔をして走り去ってしまったから心配だったが快く引き受けてくれた。バステトは、あまり知り合いがいないので正直助かった。

 そして、池の前で子爵令嬢を待つ。
 この池のある中庭は、食堂に通じる渡り廊下に面していて、とても人通りが多い。
 念には念を入れてお昼の人が特に多い時間を選んだ。
 池の端には、清掃員の姿も見える。もちろん、ごみを散らかして、通報しておいたのはバステトだ。彼女が落ちても、助けてくれる人がたくさんいる。その辺は抜かりない。
    タオルを準備できなかったのは痛いが、医務室が近いから大丈夫だろう。季節もいいし、風邪を引く心配はないはずだ。
 石で舗装していないこの池は絶妙な深さで、怪我はしないし溺れない上に、どろどろぐちゃぐちゃべちょべちょの状況を作り出すのには、まさに最適なのだ。
   
 重要なのは、周りにどう見えるかだ。

 池の端の絶妙な突き落としスポットに立って、悪役皇女らしく腕を組んでふんぞり返ると、バステトは、子爵令嬢の到着を待った。

   ところが。

「おや、『黒猫ちゃん』 今日はどうしたのかな?」

『へ?』

 なんでお前が来る!?

 なんと声をかけてきたのはルークだった。
  いつも通り、似非王子スマイルで、周りの視線を集めながら、こちらに歩いてくる。微妙に息を切らしているようだ。珍しい。

 バステトは混乱しつつある頭の中で目まぐるしく考えを巡らせる。

    今から追い払えるか?
    いや、この王子はバステトの嫌がることをするのが得意だ。少しでも追い返す素振りでもしようものなら徹底的に居座るだろう。

 では、果たして王子がこの場にいて、この作戦は成り立つのか?

 いや、むしろいいのでは?
 バステトは思い直した。
 王子も目の前で子爵令嬢が突き落とされれば、バステトを咎めないわけにはいかない。

 いつものように婚約者のかわいい嫉妬だなんて、周囲にごまかせるレベルではないはずだ。癇癪もちで、嫉妬で我を忘れる王妃なんて、国のトップに相応しくない。そんな王妃、国民は誰も望んでいないのだから。

 バステトは、自然とどや顔になる顔を引き締めて、この作戦を継続することに決めた。

 子爵令嬢が来たら、ルークに覚られる前に速やかに作戦を決行するのだ。

 そこへ、件の令嬢が、ベビーピンクの髪をゆらしながら、にこやかにやってくる。すらっとして、背はバステトより高い。白い制服を可憐に着こなした、可愛らしいというより美しい令嬢だ。

「まあ、ルーク様、ごきげんよう。バステト様は、初めましてですわね。私、ミケーネ=フォン=デッケンと申します。デッケン子爵家の長女でございます。以後お見知りおきを」

 バステトとミケーネ嬢とは、公式には初対面だ。学園では、身分の上下なく名前で呼び合うことになるが、最初の挨拶はきちんと行うらしい。
 彼女は、略式のきれいな礼をとる。バステトは、ケイリッヒの儀礼はよくわからないが、とても品の好い所作だということはわかった。

「ミケーネ嬢?」
 ルークは、返事をしないバステトと子爵令嬢を見比べて軽く眉をあげた。

 バステトは、無言で子爵令嬢をにらみつける。
 ここからが勝負だ。

 ミケーネという令嬢は、何も言わないバステトに、困ったように首を傾げた。
「ルーク様、バステト様、お話とは何でしょうか?」

 バステトは、ルークを無視することにして問いかける彼女に対峙した。
 ごめんなさい、と心の中で謝る。

「このどろぼうねこ! ルーク様にちかづかないでよ!」

 彼女は一瞬目を見開くと、みるみるうちに瞳をうるませる。
 バステトは罪悪感ましましだが、ぐっとこらえる。

「そんな、私、そんなつもりでは……。申し訳ありません、バステト様」

 胸の前で祈るように手を組み、悲壮な声をあげる彼女に、周りの注目はいい具合に集まっている。
 よし、いける!

 バステトは、子爵令嬢を突き落とすため、一歩足を踏み出す。
 だが、そこで彼女は、瞳いっぱいに涙をためたまま、なんとルークの方へ小走りで走り寄り、その後ろに隠れてしまったのだ!

「ルーク様、私達は、そんな関係ではないのだと、皇女様に誤解をといて差し上げなくては……」

 彼女はもじもじとルークの後ろに寄り添うと王子の服の裾を握りしめて小さくなった。その姿は文句なくかわいい。池に突き落とせば、バステトへの悪評というダメージは計り知れないはずだ。
 それなのに、ルークが邪魔で手が届かない。

 もういい!突き落とせないかもしれないけど、それをしようとしたことを皆に見せるのが大事!

 バステトは意を決してルークの後ろの令嬢に手を伸ばそうとした。
 が、あっけなくルークに腕をつかまれてしまった。

「バステト皇女。それはいただけないな」
 大きくはないがよく通る声だ。そして、小さくマレ語で続ける。
『馬鹿な黒猫。君の魂胆なんかバレバレだよ。問題を起こして婚約破棄に持ち込もうとしたんだろうけど、君に問題なんか起こさせないよ』

 この馬鹿王子!せっかくいいところだったのに!
 バステトはルークをにらみつけてさらに怒鳴りつけようとした。

 が、できなかった。

 ルークが、バステトのつかんだ腕から手を滑らせ、彼女の指に指を絡ませるようにつなぐと、その胸に引き寄せてしまったからだ。

「婚約者としては、どうかと思うよ」

 絡ませた右手を上に引かれ、自然顔が上がる。小柄なバステトは、バランスを崩してルークに倒れこむように引き寄せられ、至近距離でルークと目を合わせてしまった。
 バステトは、もう口をパクパクとすることしかできなかった。
 心臓がばくばく音を立て、顔に熱がこもる。
 ルークとこんなに近づいたのは初めてだった。いつも、軽口をたたくだけで、手をつなぐことさえしなかった。
 ルークの顔が近い。

 ……本当は、いつも、思っていた。
 吸い込まれるようなきれいな瞳は、オアシスの水に落としたサファイヤのようだと。
 光をはじくきれいな髪は、砂漠の砂にこぼれる、朝の光のようだと。
 普段は、心の奥に押し込めていた思いが溢れてきてしまいそうで、慌てて下を向いた。
 ここから先は、考えてはいけない。

 ルークは、バステトを抱え込むように背中にそっと手を添わせて、引き寄せたバステトの耳元にささやきかける。

『手をつないだだけでこんなに赤くなるなんて。黒猫はかわいいね』
『思うに、僕たちはちょっと、距離が遠すぎたと思うんだ。僕もずいぶん我慢したと思わない?』
『そろそろ、キスぐらいしてもいいよね』

 ルークの口撃は、とどまるところを知らない。

『なっ、なななな』

 そっと触れられた背中も、握られた手も、ささやかれた耳元もどこもかしこも熱くて。

 バステトは、混乱から逃げるように慌てて手を振り払って、ルークの胸を押した。
 もちろんルークがそんなことぐらいでびくともするわけなくて、よろけたのはバステトの方だった。

 バステトが池の方へよろける。

 一瞬何が起こったかわからなかった。

 いつも余裕の笑みを浮かべているルークが、浅葱色の目を見開き、バステトの方へ手を伸ばす。
 ルークに腕をつかまれ、ぐっとその胸に引き寄せられるとバステトの視界は、そのまま暗闇に覆われてしまった。
 がんっと鈍い衝撃が走り、バステトはルークに視界を覆われたまま、ずるずると引きずられるように地面に座り込む。
 
「殿下っ」
「きゃーっ」

 護衛の声や、悲鳴がこだまする。
 バステトが手をついてそっと体を起こして顔をあげると、そこで目にしたのは、池の端にある石造りのモニュメントを背に、頭から血を流し、蒼白な顔のまま動かない、美しい王子の姿だった。



≪しかし、池には彼女をかばった王子が落ちることになってしまい、更に王子は、池のモニュメントに頭をぶつけて怪我を負ってしまった。≫



 そう、王子がかばった「彼女」は、子爵令嬢ではなく、バステトなのである。




しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【完】前世で子供が産めなくて悲惨な末路を送ったので、今世では婚約破棄しようとしたら何故か身ごもりました

112
恋愛
前世でマリアは、一人ひっそりと悲惨な最期を迎えた。 なので今度は生き延びるために、婚約破棄を突きつけた。しかし相手のカイルに猛反対され、無理やり床を共にすることに。 前世で子供が出来なかったから、今度も出来ないだろうと思っていたら何故か懐妊し─

【完結】伯爵令嬢の格差婚約のお相手は、王太子殿下でした ~王太子と伯爵令嬢の、とある格差婚約の裏事情~

瀬里
恋愛
【HOTランキング7位ありがとうございます!】  ここ最近、ティント王国では「婚約破棄」前提の「格差婚約」が流行っている。  爵位に差がある家同士で結ばれ、正式な婚約者が決まるまでの期間、仮の婚約者を立てるという格差婚約は、破棄された令嬢には明るくない未来をもたらしていた。  伯爵令嬢であるサリアは、高すぎず低すぎない爵位と、背後で睨みをきかせる公爵家の伯父や優しい父に守られそんな風潮と自分とは縁がないものだと思っていた。  まさか、我が家に格差婚約を申し渡せるたった一つの家門――「王家」が婚約を申し込んでくるなど、思いもしなかったのだ。  婚約破棄された令嬢の未来は明るくはないが、この格差婚約で、サリアは、絶望よりもむしろ期待に胸を膨らませることとなる。なぜなら婚約破棄後であれば、許されるかもしれないのだ。  ――「結婚をしない」という選択肢が。  格差婚約において一番大切なことは、周りには格差婚約だと悟らせない事。  努力家で優しい王太子殿下のために、二年後の婚約破棄を見据えて「お互いを想い合う婚約者」のお役目をはたすべく努力をするサリアだが、現実はそう甘くなくて――。  他のサイトでも公開してます。全12話です。

婚約者が病弱な妹に恋をしたので、私は家を出ます。どうか、探さないでください。

待鳥園子
恋愛
婚約者が病弱な妹を見掛けて一目惚れし、私と婚約者を交換できないかと両親に聞いたらしい。 妹は清楚で可愛くて、しかも性格も良くて素直で可愛い。私が男でも、私よりもあの子が良いと、きっと思ってしまうはず。 ……これは、二人は悪くない。仕方ないこと。 けど、二人の邪魔者になるくらいなら、私が家出します! 自覚のない純粋培養貴族令嬢が腹黒策士な護衛騎士に囚われて何があっても抜け出せないほどに溺愛される話。

【完結】騎士団長の旦那様は小さくて年下な私がお好みではないようです

大森 樹
恋愛
貧乏令嬢のヴィヴィアンヌと公爵家の嫡男で騎士団長のランドルフは、お互いの親の思惑によって結婚が決まった。 「俺は子どもみたいな女は好きではない」 ヴィヴィアンヌは十八歳で、ランドルフは三十歳。 ヴィヴィアンヌは背が低く、ランドルフは背が高い。 ヴィヴィアンヌは貧乏で、ランドルフは金持ち。 何もかもが違う二人。彼の好みの女性とは真逆のヴィヴィアンヌだったが、お金の恩があるためなんとか彼の妻になろうと奮闘する。そんな中ランドルフはぶっきらぼうで冷たいが、とろこどころに優しさを見せてきて……!? 貧乏令嬢×不器用な騎士の年の差ラブストーリーです。必ずハッピーエンドにします。

待つわけないでしょ。新しい婚約者と幸せになります!

風見ゆうみ
恋愛
「1番愛しているのは君だ。だから、今から何が起こっても僕を信じて、僕が迎えに行くのを待っていてくれ」彼は、辺境伯の長女である私、リアラにそうお願いしたあと、パーティー会場に戻るなり「僕、タントス・ミゲルはここにいる、リアラ・フセラブルとの婚約を破棄し、公爵令嬢であるビアンカ・エッジホールとの婚約を宣言する」と叫んだ。 婚約破棄した上に公爵令嬢と婚約? 憤慨した私が婚約破棄を受けて、新しい婚約者を探していると、婚約者を奪った公爵令嬢の元婚約者であるルーザー・クレミナルが私の元へ訪ねてくる。 アグリタ国の第5王子である彼は整った顔立ちだけれど、戦好きで女性嫌い、直属の傭兵部隊を持ち、冷酷な人間だと貴族の中では有名な人物。そんな彼が私との婚約を持ちかけてくる。話してみると、そう悪い人でもなさそうだし、白い結婚を前提に婚約する事にしたのだけど、違うところから待ったがかかり…。 ※暴力表現が多いです。喧嘩が強い令嬢です。 ※史実とは関係ない異世界の世界観であり、設定はゆるゆるで、ご都合主義です。魔法も存在します。 格闘シーンがお好きでない方、浮気男に過剰に反応される方は読む事をお控え下さい。感想をいただけるのは大変嬉しいのですが、感想欄での感情的な批判、暴言などはご遠慮願います。

運命の番?棄てたのは貴方です

ひよこ1号
恋愛
竜人族の侯爵令嬢エデュラには愛する番が居た。二人は幼い頃に出会い、婚約していたが、番である第一王子エリンギルは、新たに番と名乗り出たリリアーデと婚約する。邪魔になったエデュラとの婚約を解消し、番を引き裂いた大罪人として追放するが……。一方で幼い頃に出会った侯爵令嬢を忘れられない帝国の皇子は、男爵令息と身分を偽り竜人国へと留学していた。 番との運命の出会いと別離の物語。番でない人々の貫く愛。 ※自己設定満載ですので気を付けてください。 ※性描写はないですが、一線を越える個所もあります ※多少の残酷表現あります。 以上2点からセルフレイティング

誰にも信じてもらえなかった公爵令嬢は、もう誰も信じません。

salt
恋愛
王都で罪を犯した悪役令嬢との婚姻を結んだ、東の辺境伯地ディオグーン領を治める、フェイドリンド辺境伯子息、アルバスの懺悔と後悔の記録。 6000文字くらいで摂取するお手軽絶望バッドエンドです。 *なろう・pixivにも掲載しています。

誰からも愛されない悪役令嬢に転生したので、自由気ままに生きていきたいと思います。

木山楽斗
恋愛
乙女ゲームの悪役令嬢であるエルファリナに転生した私は、彼女のその境遇に対して深い悲しみを覚えていた。 彼女は、家族からも婚約者からも愛されていない。それどころか、その存在を疎まれているのだ。 こんな環境なら歪んでも仕方ない。そう思う程に、彼女の境遇は悲惨だったのである。 だが、彼女のように歪んでしまえば、ゲームと同じように罪を暴かれて牢屋に行くだけだ。 そのため、私は心を強く持つしかなかった。悲惨な結末を迎えないためにも、どんなに不当な扱いをされても、耐え抜くしかなかったのである。 そんな私に、解放される日がやって来た。 それは、ゲームの始まりである魔法学園入学の日だ。 全寮制の学園には、歪な家族は存在しない。 私は、自由を得たのである。 その自由を謳歌しながら、私は思っていた。 悲惨な境遇から必ず抜け出し、自由気ままに生きるのだと。

処理中です...