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第一部

第4話 王子の回想~永遠に失われた夜

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 約半年前。

 バステト皇女がケイリッヒに留学に来て間もなくの頃。
 国王夫妻、王太子と親しい親族だけで行われた晩餐会の夜、ルークとバステトは、王宮の月を見上げるテラスで、向かい合って言葉を交わしていた。
 学園での留学生活もルークのサポートがあって、やっと慣れたと思われる頃だった。15歳のバステト皇女も、その頃はルークを信頼していたし、ルークを見つめるその眼差しは少なからず好意を含んだものだった。

 白亜の王宮のガラス張りのそのテラスで、月の光を黒髪に受け翡翠の瞳を輝かせた彼女は、女神の寵愛を一心に受けたかのように美しかった。

 絞り出すように伝える声は、柄にもなく震えてしまった。

『初めて会ったときから、君に惹かれていた。昨年のあの祝祭の日、君に出会い、僕は君に恋をしたんだ』
 
 告げるその内容に、彼女は、目を見開く。

『ルークは、あの人なのか? あの仮面の、『……』』

 彼女は、驚きを隠せないというように瞳を揺らし、口に手を当てた。

『ああ、君がこの国に来たのは、僕が、君を望んだからだ』

『へへ、うれしい。いいよ、『……』。バステトがルークのお嫁さんになってあげる』

 また会えたと呟き、ふにゃっと崩れるような笑みで少女はルークを見上げた。



 その出来事は、夢でも何でもなく、現実の出来事だったはずだ。
 その証拠に、それを聞いたルークは、嬉々として婚約の誓約書にバステトと一緒にサインをしたのだから。
 彼女が自ら望むまでは婚約を強制することはしないでほしいという、彼女の父親であるマレの皇帝との約束もきちんと果たした。
 マレにも親書とともに誓約書の写しを送った。
 
 ルークは幸せの絶頂を極めていたはずだった。
 その後も二人であの時の思い出を語らいながら、今度の休みは街に出ようか、などと話をして、それはそれはいい雰囲気だったのだ。
 会話をしながら、バステトはルークの肩にもたれかかって寝てしまったので、それを抱き上げてベッドまで運んだ。
 本当に幸せな夜だった。

 そして、それ以降も、幸せな日々が続くはずだったのだ。

 ところが。


 
『ねえ、ルーク、「婚約者」ってなんだ?』
 昼休み、いつものように学園のカフェテラスの周りから少し離れた特等席に二人で座ると、バステトは腕組みをして眉を寄せる。
 そんな仕草も表情もすべてがかわいい。彼女は自分の婚約者なのだ。

『ああ、言葉がわからないんだね。「婚約者」は、婚約者のことだよ』

『知ってる。でも、よくわからない。クラスで「ご婚約、おめでとうございます」って言われたんだ。マレにいるハサンのことを言ってるんだと思うんだけど、学校を卒業したら結婚しようかって言ってたぐらいで、婚約の話が進んだとは聞いてないし』
 バステトは本気で悩んでいる風であるが、色々と突っ込みどころだらけな発言にルークは凍り付いた。

「エルマー、なんだろう、これ。僕は、夢を見てるのかな?」

「いやあ、料理に酒でも入ってたんすかねえ? 昨日、姫様いやにふにゃふにゃしてましたよね」
 そういや、王宮のフルーツポンチってリキュール入ってますねえ、などと護衛の大男は気の抜けた返事を返してくる。

『バステト、君、昨日のことを覚えてる?』

『昨日? あれ? 何してたっけ』

 ふざけるな!
 昨日の幸せな夜はなんだったんだ。

 ぴしりっと音がして手に持ったコップに日々が入ったのを見て、エルマーがコップを取り上げる。

 僕の告白は?
 バステトの返事は?

 その前にちょっと待て。

『バステト、君、さっき、ハサンとなんだって?』
 すると、ぱっと顔をほころばせる。

『ハサンというのはだな、3つ年下の私の幼馴染の従弟なんだ。とてもかわいい子でな。見送りの時に、姉さま、帰ってきたら結婚しましょうね、なんて言いだすんだ』

 ルークは、ハサンという名の少年の姿を思い出す。
 あのクソガキ。
 最後に嫌がらせか!

『バステト、君、まさかそれ、受けたの?』
 声が低くなる。

『んー? そのあと、確か父様が慌てて何か言い出して……』
 おそらく皇帝が慌てて止めたに違いない。
 当たり前だ!

『あれ?? 私返事してないかもしれない。返事をしておかなければ!』

 ルークは、息を深く吸って自分を落ち着かせた。
 別に最悪の事態ではない。
 これから、もう一度繰り返せばいいだけだ。
 彼女の心を再び取り戻せばいいだけ。
 彼女は自分を憎からず思っているはず。
 その証拠に彼女は昨夜、自分に頷いてくれたではないか。

 ルークは、いつもバステトに接している、やさしい微笑みを浮かべる。

『バステト、その返事は、君はもうできないよ。婚約は、本当だ。ただ、ハサンじゃない。君と僕との婚約だよ』

 バステトは目を丸くする。

『なんで?』
 
 僕が、君を望んだからだよ。君のことが欲しかったから。君に恋をしたから。

 でも、こんな人がたくさんいる場所で、それを口に出すのを一瞬ためらっているすきにバステトは続けてしまった。

『政略結婚なんて今のマレとケイリッヒなら必要ないのではないか? それに、今日、婚約おめでとうと言ってくれた子たちは、すごい、バステトのこと睨んでた。それって、ルークとの婚約だったからなんだな。みんな、異国人の王妃は、いやということなんだろう。ルーク、婚約破棄ってできるんだろう? やめにしないか?』

 何かが壊れてしまった。 

『君、ばかなの? 婚約解消なんてできるわけないでしょ。国が決めた婚約だよ?』
 自分で思っているよりも、冷たい声が出た。

「ルーク?」

『いい加減、気づいたら? 黒猫ちゃん。そのかわいい頭の中も猫みたいなのかな? わかりやすく言うとね、君は、僕と一生一緒にいるしかないんだよ。かわいいかわいい婚約者殿』

 いい加減、気づいてほしい。
 僕がどんなに君のことを想っているかということを。

 言葉の裏のそんな思いに、もちろん彼女が気づくはずもなく、彼女は、怒りの声をあげて、去って行ってしまった。



「いやあ、お約束ですねえ」
 バステトが去った後自己嫌悪に沈み、カフェテラスのテーブルの上で、組んだ手に額を押し付けるルークに、エルマーは相変わらずのんびりと続ける。

「エルマー、どこかに飛ばされたいの? 北方の砦はいつでも人手不足だよ」
 
 こうしてルークの幸せな夜は、永遠に失われてしまったのだった。
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