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第5章ダイジェスト(3):1
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五月の最終週となった。
総務部に入った三人の後輩たちもだいぶ仕事を覚え、職場には和やかな空気が漂っている。
午前中の仕事が一息ついたところで、私の口からフワァ~と大きなあくびが漏れてしまった。あと三十分もすればお昼休みだと思ったら、すっかり気が抜けたのである。
「おっと」
慌てて口を閉じて手の平で口元を覆った私は、キョロキョロと辺りに視線を走らせる。
みんな自分の仕事に集中しているのか、私の様子に気付いた人はいないようだ。
よかったと、思ったのもつかの間。
「タンポポちゃん。会社では、もう少し抑えてあくびをするか、手で隠しなさいね」
ちょうど経理部から戻ってきた留美先輩に、バッチリ見られていたようだ。
えへへと笑えば、先輩に口を開けるようにと言われる。
つい今しがた、大口を開けていたと注意されたのに、どういうことだろう。変だなと思いつつ口を開けると、ポイッとなにかが入れられた。
ハーブ独特の味がする。おそらくのど飴だ。
「急になんですか?」
舌で飴を転がしながら尋ねると、先輩が私の頭を撫でてきた。
「タンポポちゃんの声がいつもと違ったから、喉の調子が悪いのかなって。んー、熱はないようね」
スラリとした指がおでこから離れたところで、私は頭を下げた。
「心配してくださって、ありがとうございます。喉がいがらっぽいなって思っていたから、助かります」
「あら? もしかして、風邪の引きはじめかしら?」
「昨夜、激辛のキムチチャーハンをたくさん食べたので、それが原因かと」
「なるほどね、病気じゃなくてよかったわ。まぁ、あなたが本当に風邪を引いていたら、竹若君がすっ飛んできて、あれこれ世話を焼きそうよね」
和馬さんが現れないということは、私が元気である証拠だと先輩は言いたいらしい。なに、その判断基準。……たぶん、その通りだろうけど。
微妙な笑みを浮かべていると、先輩がニヤッと笑う。
「風邪じゃなくても、声がいつもと違うだけで同じことをしそうだわ。竹若君の心配性は、異常だもの」
そう言って、先輩は総務部の入り口へと意味ありげに目を向けた。
私もつられて見るけれど、そこに噂の主である和馬さんの姿はなく、お昼ご飯を食べに出ていく社員たちの背中ばかりが目に入る。
しばらく入り口を見ていた先輩が、不思議そうに首を傾げた。
「来ないわね。タンポポちゃんレーダーが壊れているのかしら」
「なんですか、そのレーダー」
「だって、あなたのことを話していると、必ずといっていいほど竹若君が現れるじゃない」
それは、まぁ、確かにそうだ。
ところが、そんな和馬さんが、私が風邪かもしれない事態であるにも関わらず、この場に現れない。
それは、ものすごく仕事が忙しいからである。
これまで何度打診していても応じてもらえなかった諸外国の市場が、最近になってウチの会社と取り引きしたいと申し出てきた。
さらに、これまで友好的だったヨーロッパ市場が、トップが入れ替わったのを機に取引を見直したいと言ってきたのである。
会社としても大きな利益と損益を生み出しかねない状況に、社長が率先して指揮を執っていた。つまり、社長秘書の和馬さんも忙しいという訳だ。
だから、ここ何日かは総務部へのお迎えもないし、夕ご飯を一緒に食べることもないし。この調子だと、週末の休みも彼は仕事かもしれない。
こんな風に忙しい和馬さんなので、私としては心配になる。
だったら、私になにができるだろかと考えた結果、お弁当を差し入れることを思いついた。お弁当箱に詰めたものではなくて、サンドウィッチやおにぎりだ。それなら、手軽に食べられるしね。
忙しくて食事もままならなかったというメールが届いた翌日から、出勤直後に社長室に立ち寄ることにしている。
タイミングが合わずに和馬さんへ手渡しできないこともあるけれど、社長室には必ず第二秘書か第三秘書が在中しているで問題ない。
和馬さんとのお付き合いを応援してくれているのは総務部内だけではなく、社長秘書さんたちも寛容だ。なので、差し入れの入った紙袋をきちんと受け取ってもらえるのは大助かりである。
日によっておにぎりかサンドウィッチのどちらかを作り、栄養のバランスも考えて、野菜ジュースも忘れずに。あとは、メッセージカードを添えている。
『夕方から天気が崩れるので、気をつけてくださいね』
『今日のおにぎりの具は、和馬さんが大好きな焼きたらこです』
といった具合だ。
この程度の内容ならメールで済ませてしまえるけれど、やっぱり手書きのメッセージの方が伝わるのではないかと思う。
差し入れをした一日目の夕方に和馬さんから来たメールには、『ユウカのメッセージを見て、元気が出ました』と書いてあった。それを見て、思わず笑顔になる。
いつもは和馬さんに助けてもらうばかりなので、自分にできることがあって嬉しい。
こんな風に精神面での支えになるというのは、大人の女性に少しは近付けた気がする。よし、この調子で頑張ろう。
そんな訳で、私は仕事の都合ですれ違う和馬さんに差し入れをするようになったのだ。
彼が忙しくなったのと時を同じくして、留美先輩は他の部署の応援に行っていたので、その事情を知らなかったという訳である。
「へえ、迎えに来られないくらいに忙しかったのね。それじゃ、タンポポちゃんも寂しいでしょう?」
先輩の言葉に、私は僅かに笑う。
「寂しくないと言えば嘘になりますけど、仕事ですから仕方ないですよ」
だから文句なんて言うつもりはないし、寂しいなんて口にしたら彼が気にしてしまうから、もっと言えない。
曖昧な笑みに、先輩は慰めるように優しく頭を撫でてくれた。
「じゃ、今日は仕事終わりに私とご飯を食べに行きましょうか。タンポポちゃんが大好きな黒豚メンチカツを奢るわよ」
「わぁ、ありがとうございます!」
そこで、デスクの上に置いていたスマートフォンが静かに震え出した。メールを着信したらしい。
『たまには、中村君との食事を楽しみなさい』
和馬さんからのメールである。タイミングの良さがものすごく恐ろしいが、深く考えないことにしよう。
「先輩、和馬さんの許可をもらいました。これで、安心してご飯を食べに行けます」
とびきり嬉しそうな私とは反対に、留美先輩は自分のスマートフォンを眺めて苦笑いをしている。
「私にも竹若君からメールが来たわ。『こちらの手が空くまでの間、ユウカの隣をお貸しします』ですって。タンポポちゃんレーダーは、まったく壊れてなかったわね」
「はは、ははは……」
私の口から、乾いた笑いしか出てこなかった。
仕事が終わり、留美先輩と一緒にお肉料理が美味しいお店で夕飯を取る。
大好物のメンチカツをごちそうしてもらって元気が出たけれど、ベッドに横になる頃には自然とため息が出てしまう。
手の中には、鳴らないスマートフォンがある。
あんなに人前でかまわれることが嫌だったのに、今は、それでもいいから和馬さんに会いたいと思ってしまう。
彼の優しい声が聞きたい。彼の大きな手で触れてほしい。彼の逞しい腕で抱きしめてもらいたい。
暗い画面のスマートフォンを見つめながら、そう考えていた。
「…………って、いやいやいや! 寂しさに流されちゃダメでしょう! そんなことをされたら、羞恥地獄に落ちるのは自分なんだし!」
ガバッと起き上がり、激しく左右に首を振る。
気を付けないと、和馬さんに毒され、人前でもベタベタすることが当たり前になってしまう。お、恐ろしい!
ブルブルと振っていた首の動きを止めると、また、ため息が出てしまった。なんだかんだで、寂しいのは本当のことだから。
「いつになったら、和馬さんの仕事は落ち着くのかなぁ」
和馬さんの話では、とりあえず一週間が目処だとのことだった。それだって、状況によってはさらに長引くこともある。彼の仕事が落ち着く日は、誰にも分からない。
「早く、和馬さんに会いたいなぁ」
そう呟きながら、私はメールの新規作成画面を起こした。
『今日もお疲れ様です。おやすみなさい』
それだけ書くと、急いで送信する。
他にもいろいろ伝えたかったけれど、最後には「寂しいです」と書いてしまいそうだから、すぐに送信したのだ。
ゴロンと仰向けに寝転がり、大きくなため息を零す。
「私ったら、なに、子供みたいに寂しがっているんだか。ずっと、会えないわけじゃないのに」
こんな思いを抱えるのは、今だけだ。
日常が戻ってくれば、これまでと同じように、和馬さんが仕掛けるあれこれによって、私は相も変わらず大騒ぎするのだ。
「さて、寝よっかなぁ」
リモコンで部屋の電気を消し、掛布団を肩まで引き上げる。
そして、スマートフォンを握り締めて、私は眠りについたのだった。
メールだけで和馬さんとのやり取りをするようになって、五日が経った。
この頃になると彼はさらに忙しくなっていて、朝から社長と共に外出しているという。
始業前に少しは会えるだろうかと期待したけれど、見事に外れてしまった。和馬さんへの差し入れが入っている紙袋の取っ手を、無意識に握り締める。
「どうしたの?」
社長室にやってきた私を出迎えてくれた文学青年風の第三秘書さんが、私の様子に首を傾げる。
今にも零れそうだったため息を無理やり呑み込み、がっかりした気分を無理やり浮かべた笑顔で隠した。
「いえ、その……。和馬さん、忙しそうだなって思いまして……」
第三秘書さんは、『口止めされているわけじゃないけど、一応内緒だよ』と前置きしてから、静かに話し出した。
「今は難しい時期みたいなんだよね。ヨーロッパ市場のお偉いさんがこっちの話に耳を傾けてはくれるんだけど、些細なことで態度を一転させてしまいそうって言うか。社長も、同行している竹若先輩もピリピリしてるよ。まぁ、先方は分からず屋って感じではなさそうだから、気分で切り捨てるってことはしないんじゃないかな。その分、見る目は厳しいだろうけど」
「そうだったんですか……」
私はゆっくりと息を吐き、ここ数日で気になっていた質問を投げかけた。
「それで、あの……、和馬さんは元気ですか?」
彼から送られてくる短いメッセージだけでは、なにも分からない。それに、たとえ具合が悪くても、私に心配かけないようにと、和馬さんは隠してしまうだろうから。
顔を合わせることすらできないので、すごく気になっていた。
ジッと見つめていると、第三秘書さんは「参ったな」と呟き、困ったように笑う。誤魔化せないと思ったのだろう。短く息を吐いてから、話してくれた。
「疲れているせいか、少し顔色が悪いかな。三人の秘書の中で、竹若先輩が一番動き回っているしね。でも、一時的なものだから、気にするほどのことじゃないよ。タンポポちゃんの笑顔を見たら、きっと一瞬で復活するだろうしね」
私が気落ちしないように、優しく励ましてくれる。
「教えてくださって、ありがとうございます」
ペコリ、と小さく頭を下げれば、「僕から聞いたってことは、内緒だよ」と言われた。
「タンポポちゃんを不安にさせたとなれば、竹若先輩に蹴り飛ばされるから。そうなったら、僕なんて一たまりもないよ」
ブルブルと全身を震わせ、大げさに怖がって見せる様子に、フッと笑ってしまう。それでも、気分が晴れることはない。
これまで以上に輪をかけて忙しい和馬さんに簡単な昼食を差し入れすることしかできないことに、私の眉毛が情けなく下がってしまう。
――もっと、もっと、和馬さんをしっかり支えられるようになれたらいいのに……
彼の生活を支えられるようになるためには、どんな立場がいいのだろうか。恋人でもできないことは、なにになればできるようになるのだろうか。
大変な時期だからこそ、すぐそばで力になってあげたいと、真剣に思う。
――和馬さんと結婚すれば、昼食だけじゃなくて、生活全般の面倒を見てあげられる?
ふと頭の奥に浮かんだ考えに、ボワッと顔が熱を持った。
――う、うわっ。それはちょっと、考えが飛躍してるよね!?
しょんぼりと眉を下げたかと思えば、いきなり赤面する私に、第三秘書さんが大きく首を傾げる。
「タンポポちゃん、どうかした?」
「い、いえ、なんでもありません! あ、あの、これ、お願いします」
おにぎりと野菜ジュースが入った紙袋を第三秘書さんへと差し出す。
「確かに、預かりました」
微笑みと共に受け取ってくれた時、秘書さんのスマートフォンが着信を告げた。
話し始めた彼にペコリとお辞儀して立ち去ろうとすれば、二、三言交わしただけで通話を終えてしまう。
「待って、タンポポちゃん! 急きょ予定が変わって、社長と竹若先輩は昼前には戻ってくるって。その後の外出はないみたいだよ」
口早に告げられた。
「よかったね。今日こそ、先輩に会えるね」
自分のことのように喜んでくれる第三秘書さんに、気恥ずかしさがこみ上げる。
お付き合いを反対されるのは困るけれど、全力で応援されると妙に居たたまれない。
「わざわざ教えてくださって、ありがとうございました。では、失礼しますっ」
なんとも言えない笑顔を返し、私はパタパタと小走りで総務に向かったのだった。
無事、始業前に滑り込んだ私は、和馬さんに会えるかもしれないという期待に胸を弾ませつつ、バリバリと仕事を進める。
はじめのうちはウキウキとしていたけれど、そのうち、仕事で忙しい彼のところに顔を出しに行っていいものだろうかと思うようになった。
それなら、大人しく総務部で待っていた方がいいだろう。少しでも余裕があれば、きっと彼のほうから総務部に来てくれるはずだ。
ところが、昼休みになっても和馬さんは来なかった。
午後三時を過ぎても一向に現れないところを見ると、相当に忙しい証拠なのだ。それが分かっているから、のこのこと顔を出しに行けない。
――でも、見るくらいなら大丈夫だよね。声をかけなければ、邪魔にならないよね。
私は隣に座る同僚に飲み物を買いに行くからと言って席を立ち、お財布を握り締めて総務部を後にした。
社長室の扉が見える廊下の端で、私はちびちびとカフェオレを飲んでいる。中から出てくる彼の姿を、チラッとでも見られたらいいのにと思いながら。
ところが、慌ただしく出入りを繰り返すのは社長第二秘書、第三秘書の二人ばかり。和馬さんはぜんぜん出てこなかった。
「あれ? 午後はいるって言ってたのに……」
ポツリと呟いたところで、ロビーが賑やかになる。
気になって入り口が見えるところまでやってくると、社長と和馬さん、そして長身の女性という三人が入ってきたところだった。
どうやらさらに予定が変わり、お客様を迎えに行っていたらしい。
ワインレッドのタイトスカートスーツをピシッと着こなしているその女性が、淡い金髪のロングヘアをサラリと揺らし、厳しい目つきでロビーをグルリと見渡す。
いかにもトップという貫禄がある女性は、おそらくヨーロッパ市場の鍵を握る重要な人なのだろう。なにしろ、社長が出迎えに行ったくらいなのだから。
その重要人物である女性が、和馬さんに熱心な様子で話しかけている。
私がそんな三人を声も出さずに眺めていたのは、見惚れていたからではない。
穏やかな微笑みを湛え、話しかけられたことに丁寧に対応している和馬さん。なにを話しているのか分からないけれど、相手とスムーズにやり取りをしているのだから、通訳は完璧なのだろう。
そんな彼をかっこいいと思う同時に、モヤモヤが湧き上がる。
恋人である私は、和馬さんと五日も話していないのに。あのお客様は、あんなに間近で彼の声を聞き、しかも微笑みまで向けられていた。
やりきれない思いが胸の中で燻り始めるけれど、ただの広報課社員である私は駆け寄ることなどできない。
それに、あのお客様がロビーを見回しているのは、この会社のことを色々な点からチェックしているからではないだろうか。そこに関係のない私が傍に行ったら、いい印象を与えない可能性がある。
そのことがもし、会社の信用や品位を落として、取引中止となってしまったら?
大げさなのかもしれないが、まったくありえないわけではないだろう。人の上に立つ人物というのは、一般人とは違う視点で物事を見ている場合があるから。
一応、当初の目的通り、和馬さんの姿を見ることができたのだから、これ以上、ここにいることはない。
私は和馬さんたちに気付かれる前に、その場を離れることにした。
翌日。土曜日の今日は、仕事が休みだ。
だけど、和馬さんから『明日も休日出勤となりました』というメールが昨日のうちに来ていた。
もしかしたら予定が変わるかもしれないと期待していたけれど、朝ご飯を食べ終えた頃になっても休日出勤は撤回されることはなく、テーブルの上に乗せてあるスマートフォンは、相も変わらず画面が暗転したままだった。
「ああ、もう。私、しっかりしなさいよ!」
しょぼくれた自分の顔に、パチンと平手を入れる。
――心を広く持つって決めたじゃない。
連日慌ただしく過ごし、さらには休日出勤までして仕事をしている和馬さんを思えば、会えないくらいで不貞腐れている私は、かなり心の狭い人間ではないか。
「このまま部屋に籠っているのはよくないよね。よし、出掛けよう」
自分の頬をもう一度パチンと叩き、私は使った食器を手に椅子から立ち上がった。それから着替えとメイクを済ませ、部屋を出る。
そして私は、前から行ってみたかった浅草へと向かった。
テレビでしか見たことがなかった山門前の大きな提灯に感動し、活気溢れる仲見世通りをじっくり歩いた。日本人の私が見ても、とても面白い場所だ。
綺麗な扇子がたくさん並ぶ店先で足を止めていると、なんと、店の中から和馬さんが出てきた。
「ユウカ?」
珍しく彼が目を丸くしている。こんなに驚く和馬さんを見るのは、初めてかもしれない。私だって、同じくらいビックリしているけどね。
すぐに優しい微笑みを浮かべた彼が、穏やかな口調で尋ねてきた。
「どうして、あなたがここに?」
「家にいてもつまらないですし、せっかく晴れているので出掛けようかなって。それに、前から浅草に来てみたかったんです。それにしても、ずごい偶然ですね。まさか、ここで和馬さんに会えるとは思わなかったです」
部屋の中でウジウジと燻っていなくて正解だった。
ニコニコ笑いながら見上げる私に、フワリと笑みを深める和馬さん。数日振りの笑顔に、ささくれ立っていた気持ちがスウッと落ち着いた。
「ところで、和馬さんはどうしてここにいるんですか?」
尋ねたところで、彼の背後から一人の女性が出てくる。昨日、会社のロビーで見かけた、あの綺麗で長身の女性だった。
彼がネクタイまできっちり締めたスーツ姿であることに、私は今さらながら気付く。
和馬さんは、この女性と浅草に来ていたのだ。服装からして、これも接待の一環なのだろう。
凪いだ気持ちが、またザワリと波立つ。
なんとも言えない顔で見上げていると、彼の背後にいた女性がニコッと笑い、早口の英語で和馬さんに話しかけた。
それに対して、彼が流暢に言葉を返す。英語だということは分かっても、語学に自信のない私には、なにを言っているのか正確に理解できなかった。
気持ちが落ち着かないせいか、自分が仲間外れにされている錯覚に陥る。
しばらくその女性と話していた和馬さんが、ふいに私に声をかけてきた。
「この後もこちらの方を案内することになっていますので、残念ながらユウカと一緒に回ることはできません」
申し訳ないという気持ちがありありと伝わってくる口調に、私はパッと笑顔を作った。
「和馬さんはお仕事なんですし、気にしないでくださいね。私こそ、和馬さんが忙しい時にのん気に出歩いていて、逆に申し訳ないというか」
両手をパタパタと振ってそう言うと、彼は目を細めて苦笑を浮かべる。
「間もなく、この仕事が一段落します。そうしたら、埋め合わせをさせてくださいね」
私はさらに忙しなく手を振る。
「埋め合わせなんて、いいですって。ほら、大切なお客様を待たせたら駄目ですよ」
「ユウカ、すみません」
目線を下げる彼に、首を横に振った。
「仕事なんですから、謝るのはおかしいですよ。さぁ、行ってください」
彼が大好きだという笑顔を、精いっぱい作る。そして、数歩進むたびにこちらを振り返る彼に向かって、私は大きく手を振った。
やがて二人の姿が見えなくなり、ゆっくりと手を下ろす。それと同時に、私から笑顔が消えた。盛大なため息を吐けば、後ろからポンと肩を叩かれる。
ビックリして振り返って、またビックリ。私の肩を叩いたのは、社長だった。
和馬さんと同じスーツ姿なので、あの女性の接待として来ているのだろう。
「小向日葵君。竹若を借りっぱなしで、悪いな」
社長からも謝られて、かえって申し訳なくなる。私はフルフルと首を横に振った。
「大事なお客様を接待するほうが、優先なんですから」
「だが、まさか、あそこまで竹若が気に入られるとは思わなかったなぁ。まぁ、アイツの容姿はいかにも日本人って感じだから、分からなくもないが」
あの女性は日本文化に興味があり、それもあって浅草にやってきたという。
本来であれば彼女専属の秘書が案内するか、案内人を手配するものだが、すっかり和馬さんを気に入った彼女が、是非、案内をお願いしたいと申し出てきたのだとか。
会社としてもプライベートな用事にまで世話をする道理はないものの、少しでも印象を良くしておきたいということから、無下に断れなかったそうだ。
「じゃ、俺も行かないとな。小向日葵君、また、会社で」
「はい。どうぞ、お気を付けて」
社長を見送る私の視線の先に、少し前を歩く和馬さんと女性の後姿がある。
初めての浅草観光を楽しんでいるのか、それとも、和馬さんと一緒にいられることを喜んでいるのか。とにかく、彼女は終始笑顔だった。
対する和馬さんも、穏やかな表情を崩さない。質問を受けるたびに、優しい笑顔で丁寧に答えている。
彼は接待する立場で、少しでも相手に気分良く過ごしてもらうためにも、笑顔は欠かせない。それでも今の彼の笑顔は、私の胸を締めつける切ない眩しさがあった。
――仕事だし、大切な接待だし……
唇を噛みしめて自分に言い聞かせるけれど、二人の姿を目にするほどに、胸の奥のモヤモヤが広がってしまう。
私はブルリと頭を振って、和馬さんたちがいる方向とは反対に足を進める。
――このモヤモヤ、和馬さんには絶対に内緒にしなくちゃ。
一歩踏み出すごとに、「和馬さんは仕事」、「心を広く」と何度も何度も繰り返したのだった。
総務部に入った三人の後輩たちもだいぶ仕事を覚え、職場には和やかな空気が漂っている。
午前中の仕事が一息ついたところで、私の口からフワァ~と大きなあくびが漏れてしまった。あと三十分もすればお昼休みだと思ったら、すっかり気が抜けたのである。
「おっと」
慌てて口を閉じて手の平で口元を覆った私は、キョロキョロと辺りに視線を走らせる。
みんな自分の仕事に集中しているのか、私の様子に気付いた人はいないようだ。
よかったと、思ったのもつかの間。
「タンポポちゃん。会社では、もう少し抑えてあくびをするか、手で隠しなさいね」
ちょうど経理部から戻ってきた留美先輩に、バッチリ見られていたようだ。
えへへと笑えば、先輩に口を開けるようにと言われる。
つい今しがた、大口を開けていたと注意されたのに、どういうことだろう。変だなと思いつつ口を開けると、ポイッとなにかが入れられた。
ハーブ独特の味がする。おそらくのど飴だ。
「急になんですか?」
舌で飴を転がしながら尋ねると、先輩が私の頭を撫でてきた。
「タンポポちゃんの声がいつもと違ったから、喉の調子が悪いのかなって。んー、熱はないようね」
スラリとした指がおでこから離れたところで、私は頭を下げた。
「心配してくださって、ありがとうございます。喉がいがらっぽいなって思っていたから、助かります」
「あら? もしかして、風邪の引きはじめかしら?」
「昨夜、激辛のキムチチャーハンをたくさん食べたので、それが原因かと」
「なるほどね、病気じゃなくてよかったわ。まぁ、あなたが本当に風邪を引いていたら、竹若君がすっ飛んできて、あれこれ世話を焼きそうよね」
和馬さんが現れないということは、私が元気である証拠だと先輩は言いたいらしい。なに、その判断基準。……たぶん、その通りだろうけど。
微妙な笑みを浮かべていると、先輩がニヤッと笑う。
「風邪じゃなくても、声がいつもと違うだけで同じことをしそうだわ。竹若君の心配性は、異常だもの」
そう言って、先輩は総務部の入り口へと意味ありげに目を向けた。
私もつられて見るけれど、そこに噂の主である和馬さんの姿はなく、お昼ご飯を食べに出ていく社員たちの背中ばかりが目に入る。
しばらく入り口を見ていた先輩が、不思議そうに首を傾げた。
「来ないわね。タンポポちゃんレーダーが壊れているのかしら」
「なんですか、そのレーダー」
「だって、あなたのことを話していると、必ずといっていいほど竹若君が現れるじゃない」
それは、まぁ、確かにそうだ。
ところが、そんな和馬さんが、私が風邪かもしれない事態であるにも関わらず、この場に現れない。
それは、ものすごく仕事が忙しいからである。
これまで何度打診していても応じてもらえなかった諸外国の市場が、最近になってウチの会社と取り引きしたいと申し出てきた。
さらに、これまで友好的だったヨーロッパ市場が、トップが入れ替わったのを機に取引を見直したいと言ってきたのである。
会社としても大きな利益と損益を生み出しかねない状況に、社長が率先して指揮を執っていた。つまり、社長秘書の和馬さんも忙しいという訳だ。
だから、ここ何日かは総務部へのお迎えもないし、夕ご飯を一緒に食べることもないし。この調子だと、週末の休みも彼は仕事かもしれない。
こんな風に忙しい和馬さんなので、私としては心配になる。
だったら、私になにができるだろかと考えた結果、お弁当を差し入れることを思いついた。お弁当箱に詰めたものではなくて、サンドウィッチやおにぎりだ。それなら、手軽に食べられるしね。
忙しくて食事もままならなかったというメールが届いた翌日から、出勤直後に社長室に立ち寄ることにしている。
タイミングが合わずに和馬さんへ手渡しできないこともあるけれど、社長室には必ず第二秘書か第三秘書が在中しているで問題ない。
和馬さんとのお付き合いを応援してくれているのは総務部内だけではなく、社長秘書さんたちも寛容だ。なので、差し入れの入った紙袋をきちんと受け取ってもらえるのは大助かりである。
日によっておにぎりかサンドウィッチのどちらかを作り、栄養のバランスも考えて、野菜ジュースも忘れずに。あとは、メッセージカードを添えている。
『夕方から天気が崩れるので、気をつけてくださいね』
『今日のおにぎりの具は、和馬さんが大好きな焼きたらこです』
といった具合だ。
この程度の内容ならメールで済ませてしまえるけれど、やっぱり手書きのメッセージの方が伝わるのではないかと思う。
差し入れをした一日目の夕方に和馬さんから来たメールには、『ユウカのメッセージを見て、元気が出ました』と書いてあった。それを見て、思わず笑顔になる。
いつもは和馬さんに助けてもらうばかりなので、自分にできることがあって嬉しい。
こんな風に精神面での支えになるというのは、大人の女性に少しは近付けた気がする。よし、この調子で頑張ろう。
そんな訳で、私は仕事の都合ですれ違う和馬さんに差し入れをするようになったのだ。
彼が忙しくなったのと時を同じくして、留美先輩は他の部署の応援に行っていたので、その事情を知らなかったという訳である。
「へえ、迎えに来られないくらいに忙しかったのね。それじゃ、タンポポちゃんも寂しいでしょう?」
先輩の言葉に、私は僅かに笑う。
「寂しくないと言えば嘘になりますけど、仕事ですから仕方ないですよ」
だから文句なんて言うつもりはないし、寂しいなんて口にしたら彼が気にしてしまうから、もっと言えない。
曖昧な笑みに、先輩は慰めるように優しく頭を撫でてくれた。
「じゃ、今日は仕事終わりに私とご飯を食べに行きましょうか。タンポポちゃんが大好きな黒豚メンチカツを奢るわよ」
「わぁ、ありがとうございます!」
そこで、デスクの上に置いていたスマートフォンが静かに震え出した。メールを着信したらしい。
『たまには、中村君との食事を楽しみなさい』
和馬さんからのメールである。タイミングの良さがものすごく恐ろしいが、深く考えないことにしよう。
「先輩、和馬さんの許可をもらいました。これで、安心してご飯を食べに行けます」
とびきり嬉しそうな私とは反対に、留美先輩は自分のスマートフォンを眺めて苦笑いをしている。
「私にも竹若君からメールが来たわ。『こちらの手が空くまでの間、ユウカの隣をお貸しします』ですって。タンポポちゃんレーダーは、まったく壊れてなかったわね」
「はは、ははは……」
私の口から、乾いた笑いしか出てこなかった。
仕事が終わり、留美先輩と一緒にお肉料理が美味しいお店で夕飯を取る。
大好物のメンチカツをごちそうしてもらって元気が出たけれど、ベッドに横になる頃には自然とため息が出てしまう。
手の中には、鳴らないスマートフォンがある。
あんなに人前でかまわれることが嫌だったのに、今は、それでもいいから和馬さんに会いたいと思ってしまう。
彼の優しい声が聞きたい。彼の大きな手で触れてほしい。彼の逞しい腕で抱きしめてもらいたい。
暗い画面のスマートフォンを見つめながら、そう考えていた。
「…………って、いやいやいや! 寂しさに流されちゃダメでしょう! そんなことをされたら、羞恥地獄に落ちるのは自分なんだし!」
ガバッと起き上がり、激しく左右に首を振る。
気を付けないと、和馬さんに毒され、人前でもベタベタすることが当たり前になってしまう。お、恐ろしい!
ブルブルと振っていた首の動きを止めると、また、ため息が出てしまった。なんだかんだで、寂しいのは本当のことだから。
「いつになったら、和馬さんの仕事は落ち着くのかなぁ」
和馬さんの話では、とりあえず一週間が目処だとのことだった。それだって、状況によってはさらに長引くこともある。彼の仕事が落ち着く日は、誰にも分からない。
「早く、和馬さんに会いたいなぁ」
そう呟きながら、私はメールの新規作成画面を起こした。
『今日もお疲れ様です。おやすみなさい』
それだけ書くと、急いで送信する。
他にもいろいろ伝えたかったけれど、最後には「寂しいです」と書いてしまいそうだから、すぐに送信したのだ。
ゴロンと仰向けに寝転がり、大きくなため息を零す。
「私ったら、なに、子供みたいに寂しがっているんだか。ずっと、会えないわけじゃないのに」
こんな思いを抱えるのは、今だけだ。
日常が戻ってくれば、これまでと同じように、和馬さんが仕掛けるあれこれによって、私は相も変わらず大騒ぎするのだ。
「さて、寝よっかなぁ」
リモコンで部屋の電気を消し、掛布団を肩まで引き上げる。
そして、スマートフォンを握り締めて、私は眠りについたのだった。
メールだけで和馬さんとのやり取りをするようになって、五日が経った。
この頃になると彼はさらに忙しくなっていて、朝から社長と共に外出しているという。
始業前に少しは会えるだろうかと期待したけれど、見事に外れてしまった。和馬さんへの差し入れが入っている紙袋の取っ手を、無意識に握り締める。
「どうしたの?」
社長室にやってきた私を出迎えてくれた文学青年風の第三秘書さんが、私の様子に首を傾げる。
今にも零れそうだったため息を無理やり呑み込み、がっかりした気分を無理やり浮かべた笑顔で隠した。
「いえ、その……。和馬さん、忙しそうだなって思いまして……」
第三秘書さんは、『口止めされているわけじゃないけど、一応内緒だよ』と前置きしてから、静かに話し出した。
「今は難しい時期みたいなんだよね。ヨーロッパ市場のお偉いさんがこっちの話に耳を傾けてはくれるんだけど、些細なことで態度を一転させてしまいそうって言うか。社長も、同行している竹若先輩もピリピリしてるよ。まぁ、先方は分からず屋って感じではなさそうだから、気分で切り捨てるってことはしないんじゃないかな。その分、見る目は厳しいだろうけど」
「そうだったんですか……」
私はゆっくりと息を吐き、ここ数日で気になっていた質問を投げかけた。
「それで、あの……、和馬さんは元気ですか?」
彼から送られてくる短いメッセージだけでは、なにも分からない。それに、たとえ具合が悪くても、私に心配かけないようにと、和馬さんは隠してしまうだろうから。
顔を合わせることすらできないので、すごく気になっていた。
ジッと見つめていると、第三秘書さんは「参ったな」と呟き、困ったように笑う。誤魔化せないと思ったのだろう。短く息を吐いてから、話してくれた。
「疲れているせいか、少し顔色が悪いかな。三人の秘書の中で、竹若先輩が一番動き回っているしね。でも、一時的なものだから、気にするほどのことじゃないよ。タンポポちゃんの笑顔を見たら、きっと一瞬で復活するだろうしね」
私が気落ちしないように、優しく励ましてくれる。
「教えてくださって、ありがとうございます」
ペコリ、と小さく頭を下げれば、「僕から聞いたってことは、内緒だよ」と言われた。
「タンポポちゃんを不安にさせたとなれば、竹若先輩に蹴り飛ばされるから。そうなったら、僕なんて一たまりもないよ」
ブルブルと全身を震わせ、大げさに怖がって見せる様子に、フッと笑ってしまう。それでも、気分が晴れることはない。
これまで以上に輪をかけて忙しい和馬さんに簡単な昼食を差し入れすることしかできないことに、私の眉毛が情けなく下がってしまう。
――もっと、もっと、和馬さんをしっかり支えられるようになれたらいいのに……
彼の生活を支えられるようになるためには、どんな立場がいいのだろうか。恋人でもできないことは、なにになればできるようになるのだろうか。
大変な時期だからこそ、すぐそばで力になってあげたいと、真剣に思う。
――和馬さんと結婚すれば、昼食だけじゃなくて、生活全般の面倒を見てあげられる?
ふと頭の奥に浮かんだ考えに、ボワッと顔が熱を持った。
――う、うわっ。それはちょっと、考えが飛躍してるよね!?
しょんぼりと眉を下げたかと思えば、いきなり赤面する私に、第三秘書さんが大きく首を傾げる。
「タンポポちゃん、どうかした?」
「い、いえ、なんでもありません! あ、あの、これ、お願いします」
おにぎりと野菜ジュースが入った紙袋を第三秘書さんへと差し出す。
「確かに、預かりました」
微笑みと共に受け取ってくれた時、秘書さんのスマートフォンが着信を告げた。
話し始めた彼にペコリとお辞儀して立ち去ろうとすれば、二、三言交わしただけで通話を終えてしまう。
「待って、タンポポちゃん! 急きょ予定が変わって、社長と竹若先輩は昼前には戻ってくるって。その後の外出はないみたいだよ」
口早に告げられた。
「よかったね。今日こそ、先輩に会えるね」
自分のことのように喜んでくれる第三秘書さんに、気恥ずかしさがこみ上げる。
お付き合いを反対されるのは困るけれど、全力で応援されると妙に居たたまれない。
「わざわざ教えてくださって、ありがとうございました。では、失礼しますっ」
なんとも言えない笑顔を返し、私はパタパタと小走りで総務に向かったのだった。
無事、始業前に滑り込んだ私は、和馬さんに会えるかもしれないという期待に胸を弾ませつつ、バリバリと仕事を進める。
はじめのうちはウキウキとしていたけれど、そのうち、仕事で忙しい彼のところに顔を出しに行っていいものだろうかと思うようになった。
それなら、大人しく総務部で待っていた方がいいだろう。少しでも余裕があれば、きっと彼のほうから総務部に来てくれるはずだ。
ところが、昼休みになっても和馬さんは来なかった。
午後三時を過ぎても一向に現れないところを見ると、相当に忙しい証拠なのだ。それが分かっているから、のこのこと顔を出しに行けない。
――でも、見るくらいなら大丈夫だよね。声をかけなければ、邪魔にならないよね。
私は隣に座る同僚に飲み物を買いに行くからと言って席を立ち、お財布を握り締めて総務部を後にした。
社長室の扉が見える廊下の端で、私はちびちびとカフェオレを飲んでいる。中から出てくる彼の姿を、チラッとでも見られたらいいのにと思いながら。
ところが、慌ただしく出入りを繰り返すのは社長第二秘書、第三秘書の二人ばかり。和馬さんはぜんぜん出てこなかった。
「あれ? 午後はいるって言ってたのに……」
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どうやらさらに予定が変わり、お客様を迎えに行っていたらしい。
ワインレッドのタイトスカートスーツをピシッと着こなしているその女性が、淡い金髪のロングヘアをサラリと揺らし、厳しい目つきでロビーをグルリと見渡す。
いかにもトップという貫禄がある女性は、おそらくヨーロッパ市場の鍵を握る重要な人なのだろう。なにしろ、社長が出迎えに行ったくらいなのだから。
その重要人物である女性が、和馬さんに熱心な様子で話しかけている。
私がそんな三人を声も出さずに眺めていたのは、見惚れていたからではない。
穏やかな微笑みを湛え、話しかけられたことに丁寧に対応している和馬さん。なにを話しているのか分からないけれど、相手とスムーズにやり取りをしているのだから、通訳は完璧なのだろう。
そんな彼をかっこいいと思う同時に、モヤモヤが湧き上がる。
恋人である私は、和馬さんと五日も話していないのに。あのお客様は、あんなに間近で彼の声を聞き、しかも微笑みまで向けられていた。
やりきれない思いが胸の中で燻り始めるけれど、ただの広報課社員である私は駆け寄ることなどできない。
それに、あのお客様がロビーを見回しているのは、この会社のことを色々な点からチェックしているからではないだろうか。そこに関係のない私が傍に行ったら、いい印象を与えない可能性がある。
そのことがもし、会社の信用や品位を落として、取引中止となってしまったら?
大げさなのかもしれないが、まったくありえないわけではないだろう。人の上に立つ人物というのは、一般人とは違う視点で物事を見ている場合があるから。
一応、当初の目的通り、和馬さんの姿を見ることができたのだから、これ以上、ここにいることはない。
私は和馬さんたちに気付かれる前に、その場を離れることにした。
翌日。土曜日の今日は、仕事が休みだ。
だけど、和馬さんから『明日も休日出勤となりました』というメールが昨日のうちに来ていた。
もしかしたら予定が変わるかもしれないと期待していたけれど、朝ご飯を食べ終えた頃になっても休日出勤は撤回されることはなく、テーブルの上に乗せてあるスマートフォンは、相も変わらず画面が暗転したままだった。
「ああ、もう。私、しっかりしなさいよ!」
しょぼくれた自分の顔に、パチンと平手を入れる。
――心を広く持つって決めたじゃない。
連日慌ただしく過ごし、さらには休日出勤までして仕事をしている和馬さんを思えば、会えないくらいで不貞腐れている私は、かなり心の狭い人間ではないか。
「このまま部屋に籠っているのはよくないよね。よし、出掛けよう」
自分の頬をもう一度パチンと叩き、私は使った食器を手に椅子から立ち上がった。それから着替えとメイクを済ませ、部屋を出る。
そして私は、前から行ってみたかった浅草へと向かった。
テレビでしか見たことがなかった山門前の大きな提灯に感動し、活気溢れる仲見世通りをじっくり歩いた。日本人の私が見ても、とても面白い場所だ。
綺麗な扇子がたくさん並ぶ店先で足を止めていると、なんと、店の中から和馬さんが出てきた。
「ユウカ?」
珍しく彼が目を丸くしている。こんなに驚く和馬さんを見るのは、初めてかもしれない。私だって、同じくらいビックリしているけどね。
すぐに優しい微笑みを浮かべた彼が、穏やかな口調で尋ねてきた。
「どうして、あなたがここに?」
「家にいてもつまらないですし、せっかく晴れているので出掛けようかなって。それに、前から浅草に来てみたかったんです。それにしても、ずごい偶然ですね。まさか、ここで和馬さんに会えるとは思わなかったです」
部屋の中でウジウジと燻っていなくて正解だった。
ニコニコ笑いながら見上げる私に、フワリと笑みを深める和馬さん。数日振りの笑顔に、ささくれ立っていた気持ちがスウッと落ち着いた。
「ところで、和馬さんはどうしてここにいるんですか?」
尋ねたところで、彼の背後から一人の女性が出てくる。昨日、会社のロビーで見かけた、あの綺麗で長身の女性だった。
彼がネクタイまできっちり締めたスーツ姿であることに、私は今さらながら気付く。
和馬さんは、この女性と浅草に来ていたのだ。服装からして、これも接待の一環なのだろう。
凪いだ気持ちが、またザワリと波立つ。
なんとも言えない顔で見上げていると、彼の背後にいた女性がニコッと笑い、早口の英語で和馬さんに話しかけた。
それに対して、彼が流暢に言葉を返す。英語だということは分かっても、語学に自信のない私には、なにを言っているのか正確に理解できなかった。
気持ちが落ち着かないせいか、自分が仲間外れにされている錯覚に陥る。
しばらくその女性と話していた和馬さんが、ふいに私に声をかけてきた。
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申し訳ないという気持ちがありありと伝わってくる口調に、私はパッと笑顔を作った。
「和馬さんはお仕事なんですし、気にしないでくださいね。私こそ、和馬さんが忙しい時にのん気に出歩いていて、逆に申し訳ないというか」
両手をパタパタと振ってそう言うと、彼は目を細めて苦笑を浮かべる。
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「埋め合わせなんて、いいですって。ほら、大切なお客様を待たせたら駄目ですよ」
「ユウカ、すみません」
目線を下げる彼に、首を横に振った。
「仕事なんですから、謝るのはおかしいですよ。さぁ、行ってください」
彼が大好きだという笑顔を、精いっぱい作る。そして、数歩進むたびにこちらを振り返る彼に向かって、私は大きく手を振った。
やがて二人の姿が見えなくなり、ゆっくりと手を下ろす。それと同時に、私から笑顔が消えた。盛大なため息を吐けば、後ろからポンと肩を叩かれる。
ビックリして振り返って、またビックリ。私の肩を叩いたのは、社長だった。
和馬さんと同じスーツ姿なので、あの女性の接待として来ているのだろう。
「小向日葵君。竹若を借りっぱなしで、悪いな」
社長からも謝られて、かえって申し訳なくなる。私はフルフルと首を横に振った。
「大事なお客様を接待するほうが、優先なんですから」
「だが、まさか、あそこまで竹若が気に入られるとは思わなかったなぁ。まぁ、アイツの容姿はいかにも日本人って感じだから、分からなくもないが」
あの女性は日本文化に興味があり、それもあって浅草にやってきたという。
本来であれば彼女専属の秘書が案内するか、案内人を手配するものだが、すっかり和馬さんを気に入った彼女が、是非、案内をお願いしたいと申し出てきたのだとか。
会社としてもプライベートな用事にまで世話をする道理はないものの、少しでも印象を良くしておきたいということから、無下に断れなかったそうだ。
「じゃ、俺も行かないとな。小向日葵君、また、会社で」
「はい。どうぞ、お気を付けて」
社長を見送る私の視線の先に、少し前を歩く和馬さんと女性の後姿がある。
初めての浅草観光を楽しんでいるのか、それとも、和馬さんと一緒にいられることを喜んでいるのか。とにかく、彼女は終始笑顔だった。
対する和馬さんも、穏やかな表情を崩さない。質問を受けるたびに、優しい笑顔で丁寧に答えている。
彼は接待する立場で、少しでも相手に気分良く過ごしてもらうためにも、笑顔は欠かせない。それでも今の彼の笑顔は、私の胸を締めつける切ない眩しさがあった。
――仕事だし、大切な接待だし……
唇を噛みしめて自分に言い聞かせるけれど、二人の姿を目にするほどに、胸の奥のモヤモヤが広がってしまう。
私はブルリと頭を振って、和馬さんたちがいる方向とは反対に足を進める。
――このモヤモヤ、和馬さんには絶対に内緒にしなくちゃ。
一歩踏み出すごとに、「和馬さんは仕事」、「心を広く」と何度も何度も繰り返したのだった。
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