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第4章ダイジェスト(2):1
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週が明けて、いよいよ今日は入社式。
広報課の私は社内報に掲載する式典の写真を収めるべく、仕事用カメラを手に会場へと向かっていた。
「さてさて、どんな感じかなぁ」
大会議室後方の扉を静かに開けて、素早く中に入る。
ステージに向かって並べられているパイプ椅子に、新入社員たちは大人しく座っていた。隣にいる人と少しばかり会話をしているくらいで、騒がしいといった様子はない。
その時、扉が静かに開いた。
祝辞を述べるために、式に参列する社の上層部たちが入ってきたのだ。そして、社長の姿が現れた途端、場内のどよめきはいっそう大きくなった。
スラリと背が高く、しかもフランス人の血が四分の一入っているという整った顔はいつ見ても圧倒される。
社内報インタビューの時に接する社長は砕けた雰囲気を出しているが、今はこの会社のトップとしての顔をしていた。整った顔が一層オーラを放っている。
だけど、新入社員たちがソワソワしているのは、社長のことだけではなかった。
社長第一秘書の和馬さん、精悍な顔立ちをしたスポーツマンタイプの第二秘書さんと、品の良い眼鏡をかけた文学美青年タイプの第三秘書さんもいるからだ。
社長と秘書さんたちはタイプの違うそれぞれに素敵な人。
「私にとっては、和馬さんが一番かっこいいけどね」
他の人たちの邪魔にならないように会場の隅っこでカメラを構えつつ、彼の様子を盗み見た。
いつもの甘くて優しい雰囲気はなく、はキリッとした立ち姿で、表情も引き締まっている。SPも務める和馬さんには、今までに見た事のない緊張感があった。
――珍しいものを見ちゃったな。仕事中の和馬さんは、あんな顔をしているんだね。写真に撮りたいなぁ。
厳しい表情ですらすごく素敵。
ついつい和馬さんを見つめていると、社長との打合せを終えた和馬さんがふと顔を上げた。視線の先に私の姿を捉えると、一瞬驚いた顔をした後、鋭かった表情がフワリと和らぐ。
その顔がなんだかすごく嬉しそうで、私まで嬉しくなってしまう。
私は胸の前で小さく手を振った。
すると和馬さんも軽く手を振り返してくれる。切れ長の目をユルリと細め、ウットリするほど綺麗な笑顔付きで。
とたんに、会場のそこかしこで感嘆のため息が漏れ聞こえる。
社会に慣れていないうら若きお嬢さん方に、スーツをビシッと着こなした長身美丈夫な和馬さんの笑顔は、可憐なハートを撃ち抜く威力があったに違いない。
少しばかり会場内がざわついていたけれど、進行役が式の始まりを告げると、途端に静まり返った。
入社式は特に何事もなく終えることができた。
ただ、新入社員たちの間には心穏やかならぬ事態が勃発していたようだ。
すぐそばで写真撮影をしていた私の耳には、『うわぁ。あの男性、素敵』といった類のセリフが何度となく届いていたのだ。
その気持ちがよく分かる私は、後輩たちを微笑ましく思いながら、会場を後にしたのだった。
入社式の翌日から新入社員たちは三日間の研修を受けたのち、配属先が決められる。
総務部にももちろん新入社員がやってきた。
今日は金曜日なので挨拶も兼ねた下見という感じで総務部チーフから部内の配置や簡単な仕事の流れについて説明を受けている。
広報課には配属されなかったが、庶務課に初々しい仲間が三人加わったのだ。男性二人と、女性一人である。
受け答えはとても素直で、仕事に対する姿勢もかなり熱心。良い後輩に恵まれたと、私は大喜び。
可愛い後輩が出来たし、仕事もますますやる気が出て来たし、私は毎日元気いっぱいなんだけど。
それが、留美先輩はどうも事情が違うらしい。
お昼休み、今日は公園に行かずに自分のデスクでお弁当を食べ始めた。
「いただきまぁす」
パチンと手を合わせてから、いなりずしをパクリ。うん、いい味だ。
ムグムグと味わっていると、他の部署に用事で出かけていた留美先輩が戻ってきた。
先輩は私の隣の空席に腰を下ろし、力なくため息をこぼす。
「あの、どうしたんですか?」
食事の手を止めてクルリと椅子の向きを変え、先輩に声をかけた。
心配になって下から表情を覗きこむようにすれば、苦笑いが返ってくる。
「竹若君って、入社式でやらかしたんだって?」
そう言った先輩は、ヤレヤレといった感じで前髪をかき上げた。
「え?」
私は式の最初から最後までカメラマンとしてその場にいたけれど、彼がミスをした場面は一切なかったように思う。
なんのことだろうかと首を捻る私に、先輩はまた苦笑い。
「違う、違う。失敗したとか、そういうことじゃないの。新入社員たちのハートを掻っ攫うようなことをやらかしたらしいじゃない。タンポポちゃん、心当たりあるでしょ?」
「……あ」
言われて思い出した。
私と目が合った和馬さんが微笑んだあと、その笑顔を目にした後輩女性たちが彼に釘づけになっていたことを。
「あの、ええと、和馬さんが笑った顔を見せたら、なんだか周囲がざわつき始めて」
私の説明に、先輩が「やっぱりねぇ」と言って椅子の背に軽くもたれかかる。
「ストイックな竹若君は、近寄りがたい雰囲気があるから。だからこそ、不意に見せた笑顔が初心なお嬢さん方にはたまらないんでしょうね。……大方、タンポポちゃんを見つけて笑いかけたってところでしょうが」
こちらを見てニンマリと笑う留美先輩が、ポンポンと私の頭を軽く叩く。
「竹若君が自然に笑えるようになったのは、タンポポちゃんのおかげだわ。大学時代には、そんなことはなかったもの。これまで誰も変えることが出来なかった竹若君を、タンポポちゃんが変えてくれたのね」
しみじみと告げられた内容に照れくさくなってしまい、私は膝の上に乗せた手をモジモジと閉じたり開いたりしていたのだった。
ああ、そうだ。気になっていることがあったんだっけ。
「ところで、このところ元気がない感じですが、どうしたんですか?」
改めて先輩に問い掛ければ、
「さっきの話が関係しているのよ。竹若君が入社式の会場で笑ったって話。私と竹若君が大学時代からの友人で仲がいいと聞きつけた後輩ちゃんたちが、あれこれ質問をぶつけてくるのよね。集団で囲まれると、ちょっとねぇ……」
呆れたような口調。相当大変な目に遭っているようだ。
「毎年、竹若君のことを訊かれているから、ある意味慣れてはいたんだけど。今年はあの笑顔のせいで、竹若君にコロッといっちゃった人の数が比じゃないのよ」
「そうだったんですか。でも、なんで留美先輩のところに行くんでしょうかね?直接和馬さんのところに行ったほうが、話が早いと思うんですけど?」
和馬さんはいつだって仕事に追われて忙しい身ではあるが、だからといって、話しかけてくる人を邪険に遠ざけたりするようなことはしない紳士な人のはず。
疑問に思ったとおりに言葉にすると、先輩は小さく笑う。
「ほら、言ったでしょ。普段の竹若君は近寄りがたいって。だから私からあれこれ情報を聞き出して、少しでもお近付きになれる機会を狙っているんでしょうね」
その話を聞いて、私はちょっと心配になってきた。
「和馬さんの好みの女性が言い寄ってきたら、私なんか霞んでしまうんじゃ……」
和馬さんはいつだって私のことを愛してると言ってくれているものの、私以上に心惹かれる存在が現れたら、その人に心が傾いてしまうかもしれない。
そんな心配を胸に眉をキュッと寄せると、
「馬鹿ね」
先輩がデコピンしてきた。ピシッと小気味の良い音がして、私の頭が軽く仰け反る。
「先輩、痛いです!」
おでこを押さえてむくれると、先輩は手をヒラヒラ動かして見せて少しも悪びれた様子を見せない。
「竹若君の好みの女性って、タンポポちゃんのことでしょうが。あなた以外の人がいくら迫ったところで、竹若君にはなんの意味もないの。相手に興味を持つどころか、逆に鬱陶しいって思うはずよ」
「本当にそうでしょうか?」
今までがそうだったからといって、これからもそんなことにならないという保証なんてない。
先輩から視線を外して俯くと、クスクスと笑われた。
「十年近く竹若君と友達をやってきている私が言うんだから、絶対に間違いないわよ。タンポポちゃん以外のアプローチは暖簾に腕押し、糠に釘ってところね」
「そうだといいんですけど」
力なく零した言葉に、
「あれだけ竹若君に愛されているんだから、もっと自信を持ちなさいよ」
と、すぐさま返される。
「自信と言われても」
以前に比べれば前向きな気持ちで和馬さんとお付き合いしているけれど、自信満々になるなんてまだまだ無理だ。
しょんぼりと肩を落とす私に、先輩が優しく声をかけてくる。
「本当にしょうがない子ねぇ。まぁ、そうやって思い上がらないところが、あなたの可愛いところだけど」
慰めるように、私の頭を撫でる先輩。
「ねぇ、タンポポちゃん。あなた、竹若君と付き合ってから、社内の誰かにお付き合いを邪魔されたことはある?」
「……ありませんけど」
顔を上げると、真剣な真ざし眼差しの留美先輩と目が合った。
考えてみれば、やっぱり不思議なことだ。あんなに素敵な和馬さんのことを、私から奪ってでも手に入れたいと思う人がいてもおかしくないのに。
「そのことが、自信に繋がるんでしょうか?」
ポツリと訊き返せば、先輩は短く息を吐いた。
「前にも話したと思うけど、竹若君はタンポポちゃんと付き合うことで変わったのよ。あなただから変えられたの。それを社内の人たちはちゃんと分かっているわ」
優しい手はまだ私の頭を撫で続ける。
「竹若君にとって、タンポポちゃんが特別なのよ。分かった?」
何度か私の頭を軽く叩いて言い聞かせると、先輩の手はゆっくりと離れていった。
留美先輩の励ましに応える言葉が浮かばないけれど、大好きな和馬さんと信頼する留美先輩を信じて、私は頷き返したのだった。
「さ、お昼にしましょうか」
気持ちを切り替えるようにパンッと軽く手を打った先輩が、買ってきたサンドウィッチを齧り始めた。
「あ、そうだ。先輩、先輩。大好きです」
いつでも私を優しく見守ってくれる先輩に感謝の気持ちを笑顔で伝えれば、先輩は苦虫を噛み潰したような顔に。
「……タンポポちゃんの気持ちは嬉しいけれど、その言葉は竹若君以外に言わないほうがいいわ。たぶん、面倒くさいことになるわよ。私も、あなたも」
「はぁ?」
先輩の言う『面倒くさいこと』が何なのか分からず、ポカンとなる。
そのことがなんなのか判明するのは、もう少し経ってからのことだった。
先輩にいなりずしやおかずを分けてあげたり、先輩からもサンドウィッチを貰ったりしながら、私たちはまた話し始める。
「竹若君は無駄に顔がいいから、それはそれで厄介よね。笑顔一つがとんでもない破壊力を生み出すってこと、いい加減に自覚してくれないかしら」
なんだか棘のある言い方ではあるが、和馬さんとの付き合いが長い分、これまでに起きた騒動を思い返して心配しているのだ。
「その口ぶりですと、今まで色々あったみたいですね?」
水筒から温かい麦茶を注いで先輩に渡すと、カップを受け取った先輩が遠い目をした。
「大学へ入学して早々に、竹若君の顔立ちは有名になったものよ。生徒はもちろん、学生課職員のお姉さんも、竹若君にポーッとなっていたしね。ああ、女性の助教授たちもそうだったわ」
なるほど。思っていた以上に、和馬さんはモテモテだったようだ。
「竹若君としては、特に笑顔を振りまいていたわけではないんでしょけど。顔がいいってのは、ホント面倒よねぇ。ちょっと微笑んだだけでも、人の目を引いちゃうんだから」
はぁ、とため息を吐く先輩の言葉には、やたらと実感がこもっている。
麦茶が入ったカップを両手で包むように持ち、先輩は力なく笑う。その表情には同情が感じられ、和馬さんの苦労を近くで見てきた先輩だからこそのものだろう。
「そうですか。モテるというのも、大変なんですね」
かっこいい人や綺麗な人は、それだけで人生勝ち組で、楽しく生きているように思えたけれど。場合によっては、なかなか苦労の多い人生のようだ。
「この会社に就職してからは、少しは楽になったみたいだけど。社長秘書の竹若君に、一般社員はおいれそと近づく機会はないから」
「そうですよね。私たちが社長室に出向く用事って、基本的にはないですしね。ああ、だから、先輩に和馬さんのことを訊きに来る人が後を絶たないんですね」
私の言葉に、先輩が苦笑い。
「そういうこと。『現代の光源氏様』とか言って、キャーキャー騒いで遠巻きに竹若君を見ていてくれるだけなら私は助かるんだけどなぁ。今年、入社したお嬢さんたちは、妙なところでアグレッシブだから」
すっぱり無視すると逆にしつこくまとわりつかれるそうなので、先輩は差しさわりのない情報を後輩たちに与えて、うまくあしらっているらしい。
それでも、後から後から後輩たちが押し寄せているのだとか。
「それは、それは、お疲れ様です」
私はデザートに持ってきた苺を、楊枝に刺して先輩に渡す。
「ん、ありがと。でも、こんな騒ぎはそのうち収まるだろうから、それまでの辛抱ね。竹若君に恋人がいるって分かったら、いくらなんでも引き下がるでしょ」
「こ、恋人?」
苺を食べようと口を開けた私は、そのままの恰好で固まった。
「そうよ、ちゃんと説明しているもの。竹若君には溺愛しまくっている恋人がいて、その人以外には目に入らないから期待はしない方がいいわよって」
ニコッと笑い、『この苺、甘いわね』とご満悦の先輩の様子に、私は顔が軽く引き攣るのを感じる。
「あ、あの、もしかして、私が和馬さんの恋人がだってことは……」
恐る恐る尋ねると、
「それは言ってないわ。だって、タンポポちゃんに頼まれもしていないのに、私の口からペラペラ教えるのもおかしいでしょ」
と言われた。
留美先輩がぐったりするほどの押せ押せパワーを持っている後輩たちに対峙する勇気は、今はまだないかも。
心の中でホッと安堵の息を漏らせば、先輩はニンマリと笑う。
「それに竹若君の行動を見ていれば、彼女が誰かなんてすぐに分かるでしょうしね」
これまで社内で繰り広げられてきた和馬さんの私に対する言動を知っている留美先輩は、ニマニマとした笑いを止めない。
「い、いや、あの、それは……」
確かにそういう事態になれば、留美先輩を質問攻めにする後輩たちが減って先輩に迷惑は掛からないだろう。
だけど結果として、私が後輩たちの前で公開羞恥プレイに晒されるという諸刃の剣だったりする。
「せ、せ、先輩!私が恥ずかしい思いをしないで済む方法ってないですかね!?」
留美先輩の腕をガシッと掴んで縋り付く。
ところが。
「あの竹若君が大人しくなるはずはないから、そんな方法を見つけるのはどう考えたって不可能でしょ」
返ってきた答えは、無情極まりないもので。
私の公開羞恥プレイは確定されたようだ。
公開羞恥プレイという言葉が頭から離れず、ヒヤヒヤとドキドキが入り混じった複雑な感情を抱えつつ、午後の業務にあたっていた。
「だ、大丈夫だよね?和馬さんはたまに暴走するけど、それでも、後輩たちに悪い見本を示したりするような人じゃないだろうし」
彼は品性を問われる社長秘書だ。だから、心配しているような事態にはならないだろう。……たぶん。
半ば無理やりといった感じではあるが自分によくよく言い聞かせ、私は仕事に集中することにした。
終業時刻の五分ほど前になったところで仕事に目処がつき、私は手を止めた。
「今日はここまでにしておこうかな」
デスクの上を片付け、帰り支度をしていると、バッグのポケットに忍ばせていた携帯電話がメールの着信を告げた。
今日は彼も定時で上がれるとのことで、すぐに迎えに行くとのメッセージが。
新年度が始まってから私以上に和馬さんの仕事が忙しくて、最近は一緒に帰ることがなかった。彼のお迎えはちょっと久しぶりだ。
「えっと、忘れ物はないよね」
見回してチェックをしていると、遠くの方からこちらに向かって徐々にざわめく声が大きくなってくるのが分かった。
それだけで廊下の先で何が起きているのか、散々繰り返されてきたことなので分かってしまう。
「相変わらず、和馬さんって注目の的だよねえ」
周囲が放っておかないほど素敵な人が彼氏であることに、私の胸がますますくすぐったくなった。
そこで、ざわめきが最高潮に達する。
「ユウカ」
と、優しくて爽やかな声で名前を呼ばれた。
入り口へと振り返れば、今日もスーツ姿が凛々しい和馬さんが優雅に立っている。
周りの女性たちがなにやら話しかけたそうにしてけれど、彼はそれを目礼でかわしている。
そうなると女性たちはそれ以上距離を詰めようとはせず、ただ、和馬さんをうっとり眺めているに留めていた。
総務部の人たちは私と和馬さんのお付き合いを知っているから、不必要に話しかけることはしない。今更だけど、公認というのはなかなか気恥ずかしいものだ。
そんな中で和馬さんに近づくのも照れてしまうので、私はバッグの中を確認する振りをしている。
モゾモゾと荷物を整理していると、いつの間にか和馬さんがすぐそばまで来ていた。
「ユウカ、お疲れ様」
「お、お疲れ様です」
声をかけられ、私はペコッと小さく頭を下げた。視線はそのまま伏せたままだ。
これだけ周囲から温かい目で見守られていたら、かえって居たたまれないのだ。
俯いてモジモジしていると、私と違って気恥ずかしさなど微塵も感じない彼は、さり気ない仕草で私の右手を取り、キュッと握り締めてくる。
「さぁ、帰りましょうか」
繋いだ手を引いて、扉へと歩き出した。
毎度おなじみの光景だが、総務部内の女性社員は密かに黄色い歓声を上げている(留美先輩以外ね)。
「竹若さん、いつ見てもかっこいい」
「タンポポちゃんが羨ましいわ」
「相変わらず仲良しね」
そんな声がそこかしこから聞こえる。でも、そこには攻撃的な色は少しも含まれていない。
恥ずかしさで俯きながらもチラッと横目で周囲を窺えば、この光景を初めて目にする後輩たちは、口を半開きにして唖然とした顔で立ち尽くしていた。
――まぁ、けっこう驚きだよね。社内で手を繋いているなんてさ。しかも、周りがさりげなく応援しているし。
本当はみんなの前で手を繋ぐことも遠慮したいけれど、そんなことを申し出たら、和馬さんはすかさず私を抱き上げるだろう。
だったら、大人しく手を繋いでいる方が私の心臓に対する被害は少ない。
それに、ちょっぴり胸中が複雑になりながらも、繋いでいる手の温かさに幸せを感じるから。
顔をほんのり赤く染めながらも、繋いだ手を解くことなく廊下を進む。
お互いに今日の出来事を報告し合っていると、会話がふいに途切れた。そして和馬さんがジッと私の顔を見つめてくる。
「あ、あの、なんでしょうか?」
「前髪を切りましたか?印象が違うように思います」
フワッと笑う和馬さんに、私は素直に頷いた。
「夕べ、前髪が気になって、自分で切りました。一センチも切ってないのに、よく分かりましたね」
こんな些細な変化に男性である和馬さんが気付くとは思っていなかったので少し驚いていると、彼がやわらかく目を細める。
「愛するユウカのことは、どんなことでも気が付きますよ。私はいつだって、あなたしか見ていませんから」
蕩けそうな笑顔付きでそんなことを言われたら、嬉しいけれど恥ずかしいではないか。
とてもじゃないが彼の顔を見られなくなって俯けば、
「照れるあなたは、本当に可愛いですね」
つむじにチュッとキスが降ってきた。
その瞬間、離れたところから『きゃー!』という歓声が。
ハッとなって顔を上げると、女性たちがこちらを見て頬を染めていた。見覚えのない顔は、他の部署に配属された後輩たち。
早くも公開羞恥プレイは実行されてしまったのだった。
再びつむじにキスを落とされそうになって、慌てて逃げる。繋がれている手は放してもらえないので、腕を伸ばしてギリギリまで距離を取った。
「か、和馬さんの愛情は嬉しいですけど、それは、出来れば私一人にだけ見せてくれればいいかなって!その方が幸せかなって!」
これ以上の公開羞恥プレイを避けたい私は、なんとかうまい具合に言い訳を捻りだして懸命に彼を説得。
この私からこんなセリフが出てくるとは、我ながら驚きだ。人間、必死になると底知れぬ能力が開花するらしい。
私の様子に和馬さんは少しだけ考えこみ、そしてクスッと笑った。
「そうですね。私も、あなたの可愛らしい姿を独り占めしたいです。ですから、後輩たちの前では控えましょう」
よかった、分かってくれた。
ほうっと息を吐き、私は離れていた分の距離を詰めて彼の横に並ぶ。
「ところで、今日の夕飯はなににしましょうか?」
「そうですねぇ」
といった具合に、その後は何事もなく歩き始めたのだった。ふぅ、ヤレヤレ。
地下駐車場につき、和馬さんの車の助手席に乗り込む。
シートベルトを装着し、バッグを膝の上に抱え、いざ発進、かと思いきや、和馬さんは車のキーを回さずに私を見ていた。
「あれ?なにか付いています?」
終業間際に食べたクッキーのかけらが付いているのだろうか。慌てて口元を払うが、なにもなかった。
「いえ、違います」
そう言って和馬さんは助手席へと身を乗り出し、長い指で私の前髪を優しく掬い上げる。
「前髪を切ったことによって、ユウカの愛らしい瞳がより強調されているなと思いまして。こうして間近で見ると、先程よりも分かりますね」
サラサラと指をすり抜ける感触を楽しむように、和馬さんが何度も前髪に触れる。
「自分では分かりませんけど……」
それほど気に留めていないことを、和馬さんはさりげなく気が付いてくれる。それって幸せなことだなあって。
さっきは人目があったから照れ隠しで和馬さんを嗜めたけれど、今は周りに誰もいない安心感から、私は素直に自分の気持ちを言葉にした。
「私のことをちゃんと見てくれて、ありがとうございます。和馬さん、大好きです」
耳まで真っ赤にして、それでも彼の瞳を真っ直ぐに見つめて告げる。
「ええ、私もユウカが大好きですよ」
綺麗な笑顔がゆっくりと近付き、長い指が私の前髪を左右に避ける。そして彼の唇がおでこに押し当てられた。
唇の感触がくすぐったくて、フフッと小さく笑ってしまう。僅かに揺れる肩に、和馬さんの大きな手が乗った。
乗るというか、押さえつけるという感じ?
不穏な空気を察知して恐る恐る目を開け、ゆっくり視線を上げた。
「ひぃっ!」
思わず顔が引き攣る。
そこにあったのは、和馬さんの笑顔。だけどその目は笑っておらず、彼の背後では黒い翼がバサリバサリと羽ばたいている。
なぜ和馬さんは突然、魔王様になってしまったのか。
訳が分からずブルブル震えていると、和馬さんの口角がクッと上がる。
――笑顔が怖いーーーーー!
いっそう青ざめたところで、彼が口を開いた。
「ところで、ユウカ。私以外の人に、『大好きだ』と言ってはいないでしょうね?」
普段よりも低い声でゆっくり告げられ、その恐ろしさで脳が理解できないでいる。
――え?あの?『大好き』がどうしたって?
ぼやっとしている私に、和馬さんが改めて告げてきた。更なる威圧感を纏って。
「恋人である私以外の人に、あなたの口から『大好きだ』というセリフを告げたりしていないかと訊いているのですよ」
「……へ?」
「あなたの好意は全て私の物です。私以外に向けられる好意は、たとえわずかなものでも許しません」
私の肩へ置いた手に、ほんの少しだけ力を篭める和馬さん。そして彼の瞳がスウッと細くなった。
「たとえあなたが頼りにしている中村君に対してでも、気安く『大好き』などと言ってはいけません」
――どうして、そのやり取りを知っているの!?も、もしかして、今度こそ盗聴器が!?
アワアワする私に、
「中村君にはさきほど問い詰めましたので、今度はユウカの番です。あなたが中村君に大好きだと告げた経緯を話してもらいましょうか。……私の部屋でね」
和馬さんはニッコリというより、ニヤリという表現が正しい笑顔を浮かべる。
――先輩が言っていた面倒くさいことって、これか!
と、体の震えを一層大きくしたのだった。
食事を終えてからリビングのソファに移動し、『おしゃべりタイム』という名の尋問が始まった。
私の左側に腰を下ろし、右腕を私の肩に回して、ピッタリと寄り添う和馬さん。
長い腕でこちらを拘束し、髪に頬ずりするように隙間なく距離を詰められれば、私はもうどうにもすることが出来ない。
「さぁ、ユウカ。私に話してくれますよね?私以外に『大好きだ』と告げたいきさつを」
「あの、ええと、それはですね。何と言いますか……」
私はおぼつかない口調で、留美先輩との会話を再現する。
こんな風にして私の日常を知ろうとするのは、ちょっと横暴かもしれない。
だけど和馬さんがここまで私のことを気にかけているのは、理由があるのだ。私が自分の気持ちを押し込め続けた結果、和馬さんとの別れを選ぼうとしたから。
それ以来、彼はどんな些細なことでも、私のことを知ろうとする。
――そう考えると、自業自得なのかなぁ。ちゃんと恋人同士っていう関係なのに、何も言わずに勝手に決めたら、やっぱり駄目なんだよね。
『あなたのために』と言いながら、一方的に結論を出してしまうのは、結局、相手のためになっていないこともあるのだと、私は過去の教訓で学んだ。
――ほらね、私の恋愛経験値は少しずつ上がってますよ~♪
などと、のん気な調子でいられない。和馬さんは真剣なのだから。
私が必死に説明すると、彼は苦笑い。
「中村君には、学生時代から苦労を掛けてしまっていますね」
その顔は穏やかなもので、魔王様はやっと姿を消した。……ように見えた。
「中村君の働きやユウカを見守ってくださる気持ちは非常にありがたいですが、それでも、あなたが『大好き』だといったことは見逃せませんよ?」
私の肩に置かれた手に、ググッと力が入る。そして、もう一方の手も伸びてきて、あっという間にその広い胸に抱き込んでしまった。
「か、か、和馬さん!?」
ハッとなって見上げた彼の顔は、車中で見たものと変わりない。それどころか、黒い翼に加えて、黒いしっぽまで見える。
「あなたが『大好き』と告げる人物は、この世に私限りだということをきちんと理解していただかなくては」
「え?え?」
背骨が軋むほど抱き寄せられたかと思えば、彼に綺麗な顔がすぐそばに。
「今から、その体に分からせてあげますね」
艶やかに微笑んだ和馬さんは、それからじっくり三十分ほど、私の唇を離さなかった。
ようやく解放された私は、悔しさちょっぴり、照れ隠したっぷりで、私は和馬さんのみぞおち辺りをポスン、と殴ってやる。
ムウッと唇を尖らせ、不貞腐れた振りをして、ポスン、ポスンと拳を繰り出した。
「すみません、苦しかったですか?このところ、ユウカにじっくりと触れる時間がなかったものですから、少々、箍が外れてしまったようです」
反省しているのか、和馬さんは私の攻撃を避けることなく、大人しく受けている。
こんなじゃれ合いができることが、すごく嬉しいと思う。
近寄りがたいと、一目置かれている和馬さん。そんな彼が、私の前でだけはプライベートな部分を隠さずに見せてくれるから。
愛されてるなぁと思いつつも言葉にするのは照れるので、私は最後にちょっと力を篭めて和馬さんに殴りかかったのだった。
それからは普通に会話を交わしてゆく。主に総務部に配属された後輩たちについてだ。
私と彼らのやり取りを、和馬さんは優しい眼差しで聞いてくれている。
「いい先輩として彼らと接しているユウカの姿が目に浮かびます。一生懸命なあなたを見て、慕ってくれているのでしょう」
和馬さんの言葉に、私はニコッと笑顔になった。
「そうなんですよ!年齢からいったら私の方が下なのに、それでもみんな、私のことを先輩、先輩って頼ってくれるんです。なんか、もう、めっちゃくちゃ可愛いですよ!」
その喜びを両手で拳を握りしめながら和馬さんに力説すると、寂しげな微笑みが返ってきた。
「そんなにも可愛いと思ってもらえるならば、私もあなたの後輩になりたいです」
「あはは、やだなぁ。私よりも先に入社している和馬さんが後輩になれるはずないじゃないですか。和馬さんも冗談を言うんですね。ははっ」
声をあげて笑っていると、彼が私へと向き直り、ものすごく真剣な顔つきになった。
「冗談ではありませんよ。それに、私がユウカの後輩になることは可能です」
「へ?どうやって」
またパチパチと瞬きをしていると、和馬さんはまじめな声で言った。
「まず、この会社を辞めます。そして新たにエントリーして、入社するのです。もちろん、配属希望は総務部広報課で」
――会社を辞めて、また入社?
猛烈なスピードで瞬きを繰り返す私。
「年齢はユウカよりも上ですが、総務部社員としてはあなたの方が先輩ですからね。これで、私はユウカの後輩となれるわけです」
ニッコリと笑う和馬さんは、膝の上に置いていた私の手を両手で覆うように包み込んでくる。
「ね、ありえないことではないでしょう?」
包んだ手をキュウッと握り締め、軽く首を傾ける和馬さん。
「な、何を言ってるんですか!社長第一秘書の和馬さんが、簡単に辞めさせてもらえるはずないですって!それに、辞めた会社に就職するなんて無理ですよ!」
アワアワしながら言えば、和馬さんは平然と言い返してきた。
「社長を脅せば、いえ、説得すれば簡単ですよ。社員が辞職したいとなれば、いくら社長とはいえ、引き留めることは出来ませんしね。そして社長を脅す、……ではなく、私の熱意を伝えれば、理解していただけるかと」
――たかが私の後輩になりたいためだけに、何、言ってんの!?しかも、脅すって二回も言った!
和馬さんのとんでもない計画にいっそうアワアワしていると、
「私が後輩となった暁には、存分に可愛がってくださいね。ユウカ先輩」
和馬さんは優雅に微笑みを浮かべたのだった。
しかしいくらなんでも、さすがに『後輩になろう計画』を実行に移す気はなかったようで、冗談半分だから本気にするなと、クスクス笑っている。
ならば半分は本気だったのか?と突っ込むべきかと悩んでいると、更なる爆弾発言が。
「会社を辞めなくても、異動願いを出せば済む話ですしね。そうすれば面倒な手順を踏むこともありませんし、時間もさほどかかりません」
――うわぁ。その方がより単純かつ現実的な計画だよ!
再三にわたって、私は泡を食う羽目になったのだった。
広報課の私は社内報に掲載する式典の写真を収めるべく、仕事用カメラを手に会場へと向かっていた。
「さてさて、どんな感じかなぁ」
大会議室後方の扉を静かに開けて、素早く中に入る。
ステージに向かって並べられているパイプ椅子に、新入社員たちは大人しく座っていた。隣にいる人と少しばかり会話をしているくらいで、騒がしいといった様子はない。
その時、扉が静かに開いた。
祝辞を述べるために、式に参列する社の上層部たちが入ってきたのだ。そして、社長の姿が現れた途端、場内のどよめきはいっそう大きくなった。
スラリと背が高く、しかもフランス人の血が四分の一入っているという整った顔はいつ見ても圧倒される。
社内報インタビューの時に接する社長は砕けた雰囲気を出しているが、今はこの会社のトップとしての顔をしていた。整った顔が一層オーラを放っている。
だけど、新入社員たちがソワソワしているのは、社長のことだけではなかった。
社長第一秘書の和馬さん、精悍な顔立ちをしたスポーツマンタイプの第二秘書さんと、品の良い眼鏡をかけた文学美青年タイプの第三秘書さんもいるからだ。
社長と秘書さんたちはタイプの違うそれぞれに素敵な人。
「私にとっては、和馬さんが一番かっこいいけどね」
他の人たちの邪魔にならないように会場の隅っこでカメラを構えつつ、彼の様子を盗み見た。
いつもの甘くて優しい雰囲気はなく、はキリッとした立ち姿で、表情も引き締まっている。SPも務める和馬さんには、今までに見た事のない緊張感があった。
――珍しいものを見ちゃったな。仕事中の和馬さんは、あんな顔をしているんだね。写真に撮りたいなぁ。
厳しい表情ですらすごく素敵。
ついつい和馬さんを見つめていると、社長との打合せを終えた和馬さんがふと顔を上げた。視線の先に私の姿を捉えると、一瞬驚いた顔をした後、鋭かった表情がフワリと和らぐ。
その顔がなんだかすごく嬉しそうで、私まで嬉しくなってしまう。
私は胸の前で小さく手を振った。
すると和馬さんも軽く手を振り返してくれる。切れ長の目をユルリと細め、ウットリするほど綺麗な笑顔付きで。
とたんに、会場のそこかしこで感嘆のため息が漏れ聞こえる。
社会に慣れていないうら若きお嬢さん方に、スーツをビシッと着こなした長身美丈夫な和馬さんの笑顔は、可憐なハートを撃ち抜く威力があったに違いない。
少しばかり会場内がざわついていたけれど、進行役が式の始まりを告げると、途端に静まり返った。
入社式は特に何事もなく終えることができた。
ただ、新入社員たちの間には心穏やかならぬ事態が勃発していたようだ。
すぐそばで写真撮影をしていた私の耳には、『うわぁ。あの男性、素敵』といった類のセリフが何度となく届いていたのだ。
その気持ちがよく分かる私は、後輩たちを微笑ましく思いながら、会場を後にしたのだった。
入社式の翌日から新入社員たちは三日間の研修を受けたのち、配属先が決められる。
総務部にももちろん新入社員がやってきた。
今日は金曜日なので挨拶も兼ねた下見という感じで総務部チーフから部内の配置や簡単な仕事の流れについて説明を受けている。
広報課には配属されなかったが、庶務課に初々しい仲間が三人加わったのだ。男性二人と、女性一人である。
受け答えはとても素直で、仕事に対する姿勢もかなり熱心。良い後輩に恵まれたと、私は大喜び。
可愛い後輩が出来たし、仕事もますますやる気が出て来たし、私は毎日元気いっぱいなんだけど。
それが、留美先輩はどうも事情が違うらしい。
お昼休み、今日は公園に行かずに自分のデスクでお弁当を食べ始めた。
「いただきまぁす」
パチンと手を合わせてから、いなりずしをパクリ。うん、いい味だ。
ムグムグと味わっていると、他の部署に用事で出かけていた留美先輩が戻ってきた。
先輩は私の隣の空席に腰を下ろし、力なくため息をこぼす。
「あの、どうしたんですか?」
食事の手を止めてクルリと椅子の向きを変え、先輩に声をかけた。
心配になって下から表情を覗きこむようにすれば、苦笑いが返ってくる。
「竹若君って、入社式でやらかしたんだって?」
そう言った先輩は、ヤレヤレといった感じで前髪をかき上げた。
「え?」
私は式の最初から最後までカメラマンとしてその場にいたけれど、彼がミスをした場面は一切なかったように思う。
なんのことだろうかと首を捻る私に、先輩はまた苦笑い。
「違う、違う。失敗したとか、そういうことじゃないの。新入社員たちのハートを掻っ攫うようなことをやらかしたらしいじゃない。タンポポちゃん、心当たりあるでしょ?」
「……あ」
言われて思い出した。
私と目が合った和馬さんが微笑んだあと、その笑顔を目にした後輩女性たちが彼に釘づけになっていたことを。
「あの、ええと、和馬さんが笑った顔を見せたら、なんだか周囲がざわつき始めて」
私の説明に、先輩が「やっぱりねぇ」と言って椅子の背に軽くもたれかかる。
「ストイックな竹若君は、近寄りがたい雰囲気があるから。だからこそ、不意に見せた笑顔が初心なお嬢さん方にはたまらないんでしょうね。……大方、タンポポちゃんを見つけて笑いかけたってところでしょうが」
こちらを見てニンマリと笑う留美先輩が、ポンポンと私の頭を軽く叩く。
「竹若君が自然に笑えるようになったのは、タンポポちゃんのおかげだわ。大学時代には、そんなことはなかったもの。これまで誰も変えることが出来なかった竹若君を、タンポポちゃんが変えてくれたのね」
しみじみと告げられた内容に照れくさくなってしまい、私は膝の上に乗せた手をモジモジと閉じたり開いたりしていたのだった。
ああ、そうだ。気になっていることがあったんだっけ。
「ところで、このところ元気がない感じですが、どうしたんですか?」
改めて先輩に問い掛ければ、
「さっきの話が関係しているのよ。竹若君が入社式の会場で笑ったって話。私と竹若君が大学時代からの友人で仲がいいと聞きつけた後輩ちゃんたちが、あれこれ質問をぶつけてくるのよね。集団で囲まれると、ちょっとねぇ……」
呆れたような口調。相当大変な目に遭っているようだ。
「毎年、竹若君のことを訊かれているから、ある意味慣れてはいたんだけど。今年はあの笑顔のせいで、竹若君にコロッといっちゃった人の数が比じゃないのよ」
「そうだったんですか。でも、なんで留美先輩のところに行くんでしょうかね?直接和馬さんのところに行ったほうが、話が早いと思うんですけど?」
和馬さんはいつだって仕事に追われて忙しい身ではあるが、だからといって、話しかけてくる人を邪険に遠ざけたりするようなことはしない紳士な人のはず。
疑問に思ったとおりに言葉にすると、先輩は小さく笑う。
「ほら、言ったでしょ。普段の竹若君は近寄りがたいって。だから私からあれこれ情報を聞き出して、少しでもお近付きになれる機会を狙っているんでしょうね」
その話を聞いて、私はちょっと心配になってきた。
「和馬さんの好みの女性が言い寄ってきたら、私なんか霞んでしまうんじゃ……」
和馬さんはいつだって私のことを愛してると言ってくれているものの、私以上に心惹かれる存在が現れたら、その人に心が傾いてしまうかもしれない。
そんな心配を胸に眉をキュッと寄せると、
「馬鹿ね」
先輩がデコピンしてきた。ピシッと小気味の良い音がして、私の頭が軽く仰け反る。
「先輩、痛いです!」
おでこを押さえてむくれると、先輩は手をヒラヒラ動かして見せて少しも悪びれた様子を見せない。
「竹若君の好みの女性って、タンポポちゃんのことでしょうが。あなた以外の人がいくら迫ったところで、竹若君にはなんの意味もないの。相手に興味を持つどころか、逆に鬱陶しいって思うはずよ」
「本当にそうでしょうか?」
今までがそうだったからといって、これからもそんなことにならないという保証なんてない。
先輩から視線を外して俯くと、クスクスと笑われた。
「十年近く竹若君と友達をやってきている私が言うんだから、絶対に間違いないわよ。タンポポちゃん以外のアプローチは暖簾に腕押し、糠に釘ってところね」
「そうだといいんですけど」
力なく零した言葉に、
「あれだけ竹若君に愛されているんだから、もっと自信を持ちなさいよ」
と、すぐさま返される。
「自信と言われても」
以前に比べれば前向きな気持ちで和馬さんとお付き合いしているけれど、自信満々になるなんてまだまだ無理だ。
しょんぼりと肩を落とす私に、先輩が優しく声をかけてくる。
「本当にしょうがない子ねぇ。まぁ、そうやって思い上がらないところが、あなたの可愛いところだけど」
慰めるように、私の頭を撫でる先輩。
「ねぇ、タンポポちゃん。あなた、竹若君と付き合ってから、社内の誰かにお付き合いを邪魔されたことはある?」
「……ありませんけど」
顔を上げると、真剣な真ざし眼差しの留美先輩と目が合った。
考えてみれば、やっぱり不思議なことだ。あんなに素敵な和馬さんのことを、私から奪ってでも手に入れたいと思う人がいてもおかしくないのに。
「そのことが、自信に繋がるんでしょうか?」
ポツリと訊き返せば、先輩は短く息を吐いた。
「前にも話したと思うけど、竹若君はタンポポちゃんと付き合うことで変わったのよ。あなただから変えられたの。それを社内の人たちはちゃんと分かっているわ」
優しい手はまだ私の頭を撫で続ける。
「竹若君にとって、タンポポちゃんが特別なのよ。分かった?」
何度か私の頭を軽く叩いて言い聞かせると、先輩の手はゆっくりと離れていった。
留美先輩の励ましに応える言葉が浮かばないけれど、大好きな和馬さんと信頼する留美先輩を信じて、私は頷き返したのだった。
「さ、お昼にしましょうか」
気持ちを切り替えるようにパンッと軽く手を打った先輩が、買ってきたサンドウィッチを齧り始めた。
「あ、そうだ。先輩、先輩。大好きです」
いつでも私を優しく見守ってくれる先輩に感謝の気持ちを笑顔で伝えれば、先輩は苦虫を噛み潰したような顔に。
「……タンポポちゃんの気持ちは嬉しいけれど、その言葉は竹若君以外に言わないほうがいいわ。たぶん、面倒くさいことになるわよ。私も、あなたも」
「はぁ?」
先輩の言う『面倒くさいこと』が何なのか分からず、ポカンとなる。
そのことがなんなのか判明するのは、もう少し経ってからのことだった。
先輩にいなりずしやおかずを分けてあげたり、先輩からもサンドウィッチを貰ったりしながら、私たちはまた話し始める。
「竹若君は無駄に顔がいいから、それはそれで厄介よね。笑顔一つがとんでもない破壊力を生み出すってこと、いい加減に自覚してくれないかしら」
なんだか棘のある言い方ではあるが、和馬さんとの付き合いが長い分、これまでに起きた騒動を思い返して心配しているのだ。
「その口ぶりですと、今まで色々あったみたいですね?」
水筒から温かい麦茶を注いで先輩に渡すと、カップを受け取った先輩が遠い目をした。
「大学へ入学して早々に、竹若君の顔立ちは有名になったものよ。生徒はもちろん、学生課職員のお姉さんも、竹若君にポーッとなっていたしね。ああ、女性の助教授たちもそうだったわ」
なるほど。思っていた以上に、和馬さんはモテモテだったようだ。
「竹若君としては、特に笑顔を振りまいていたわけではないんでしょけど。顔がいいってのは、ホント面倒よねぇ。ちょっと微笑んだだけでも、人の目を引いちゃうんだから」
はぁ、とため息を吐く先輩の言葉には、やたらと実感がこもっている。
麦茶が入ったカップを両手で包むように持ち、先輩は力なく笑う。その表情には同情が感じられ、和馬さんの苦労を近くで見てきた先輩だからこそのものだろう。
「そうですか。モテるというのも、大変なんですね」
かっこいい人や綺麗な人は、それだけで人生勝ち組で、楽しく生きているように思えたけれど。場合によっては、なかなか苦労の多い人生のようだ。
「この会社に就職してからは、少しは楽になったみたいだけど。社長秘書の竹若君に、一般社員はおいれそと近づく機会はないから」
「そうですよね。私たちが社長室に出向く用事って、基本的にはないですしね。ああ、だから、先輩に和馬さんのことを訊きに来る人が後を絶たないんですね」
私の言葉に、先輩が苦笑い。
「そういうこと。『現代の光源氏様』とか言って、キャーキャー騒いで遠巻きに竹若君を見ていてくれるだけなら私は助かるんだけどなぁ。今年、入社したお嬢さんたちは、妙なところでアグレッシブだから」
すっぱり無視すると逆にしつこくまとわりつかれるそうなので、先輩は差しさわりのない情報を後輩たちに与えて、うまくあしらっているらしい。
それでも、後から後から後輩たちが押し寄せているのだとか。
「それは、それは、お疲れ様です」
私はデザートに持ってきた苺を、楊枝に刺して先輩に渡す。
「ん、ありがと。でも、こんな騒ぎはそのうち収まるだろうから、それまでの辛抱ね。竹若君に恋人がいるって分かったら、いくらなんでも引き下がるでしょ」
「こ、恋人?」
苺を食べようと口を開けた私は、そのままの恰好で固まった。
「そうよ、ちゃんと説明しているもの。竹若君には溺愛しまくっている恋人がいて、その人以外には目に入らないから期待はしない方がいいわよって」
ニコッと笑い、『この苺、甘いわね』とご満悦の先輩の様子に、私は顔が軽く引き攣るのを感じる。
「あ、あの、もしかして、私が和馬さんの恋人がだってことは……」
恐る恐る尋ねると、
「それは言ってないわ。だって、タンポポちゃんに頼まれもしていないのに、私の口からペラペラ教えるのもおかしいでしょ」
と言われた。
留美先輩がぐったりするほどの押せ押せパワーを持っている後輩たちに対峙する勇気は、今はまだないかも。
心の中でホッと安堵の息を漏らせば、先輩はニンマリと笑う。
「それに竹若君の行動を見ていれば、彼女が誰かなんてすぐに分かるでしょうしね」
これまで社内で繰り広げられてきた和馬さんの私に対する言動を知っている留美先輩は、ニマニマとした笑いを止めない。
「い、いや、あの、それは……」
確かにそういう事態になれば、留美先輩を質問攻めにする後輩たちが減って先輩に迷惑は掛からないだろう。
だけど結果として、私が後輩たちの前で公開羞恥プレイに晒されるという諸刃の剣だったりする。
「せ、せ、先輩!私が恥ずかしい思いをしないで済む方法ってないですかね!?」
留美先輩の腕をガシッと掴んで縋り付く。
ところが。
「あの竹若君が大人しくなるはずはないから、そんな方法を見つけるのはどう考えたって不可能でしょ」
返ってきた答えは、無情極まりないもので。
私の公開羞恥プレイは確定されたようだ。
公開羞恥プレイという言葉が頭から離れず、ヒヤヒヤとドキドキが入り混じった複雑な感情を抱えつつ、午後の業務にあたっていた。
「だ、大丈夫だよね?和馬さんはたまに暴走するけど、それでも、後輩たちに悪い見本を示したりするような人じゃないだろうし」
彼は品性を問われる社長秘書だ。だから、心配しているような事態にはならないだろう。……たぶん。
半ば無理やりといった感じではあるが自分によくよく言い聞かせ、私は仕事に集中することにした。
終業時刻の五分ほど前になったところで仕事に目処がつき、私は手を止めた。
「今日はここまでにしておこうかな」
デスクの上を片付け、帰り支度をしていると、バッグのポケットに忍ばせていた携帯電話がメールの着信を告げた。
今日は彼も定時で上がれるとのことで、すぐに迎えに行くとのメッセージが。
新年度が始まってから私以上に和馬さんの仕事が忙しくて、最近は一緒に帰ることがなかった。彼のお迎えはちょっと久しぶりだ。
「えっと、忘れ物はないよね」
見回してチェックをしていると、遠くの方からこちらに向かって徐々にざわめく声が大きくなってくるのが分かった。
それだけで廊下の先で何が起きているのか、散々繰り返されてきたことなので分かってしまう。
「相変わらず、和馬さんって注目の的だよねえ」
周囲が放っておかないほど素敵な人が彼氏であることに、私の胸がますますくすぐったくなった。
そこで、ざわめきが最高潮に達する。
「ユウカ」
と、優しくて爽やかな声で名前を呼ばれた。
入り口へと振り返れば、今日もスーツ姿が凛々しい和馬さんが優雅に立っている。
周りの女性たちがなにやら話しかけたそうにしてけれど、彼はそれを目礼でかわしている。
そうなると女性たちはそれ以上距離を詰めようとはせず、ただ、和馬さんをうっとり眺めているに留めていた。
総務部の人たちは私と和馬さんのお付き合いを知っているから、不必要に話しかけることはしない。今更だけど、公認というのはなかなか気恥ずかしいものだ。
そんな中で和馬さんに近づくのも照れてしまうので、私はバッグの中を確認する振りをしている。
モゾモゾと荷物を整理していると、いつの間にか和馬さんがすぐそばまで来ていた。
「ユウカ、お疲れ様」
「お、お疲れ様です」
声をかけられ、私はペコッと小さく頭を下げた。視線はそのまま伏せたままだ。
これだけ周囲から温かい目で見守られていたら、かえって居たたまれないのだ。
俯いてモジモジしていると、私と違って気恥ずかしさなど微塵も感じない彼は、さり気ない仕草で私の右手を取り、キュッと握り締めてくる。
「さぁ、帰りましょうか」
繋いだ手を引いて、扉へと歩き出した。
毎度おなじみの光景だが、総務部内の女性社員は密かに黄色い歓声を上げている(留美先輩以外ね)。
「竹若さん、いつ見てもかっこいい」
「タンポポちゃんが羨ましいわ」
「相変わらず仲良しね」
そんな声がそこかしこから聞こえる。でも、そこには攻撃的な色は少しも含まれていない。
恥ずかしさで俯きながらもチラッと横目で周囲を窺えば、この光景を初めて目にする後輩たちは、口を半開きにして唖然とした顔で立ち尽くしていた。
――まぁ、けっこう驚きだよね。社内で手を繋いているなんてさ。しかも、周りがさりげなく応援しているし。
本当はみんなの前で手を繋ぐことも遠慮したいけれど、そんなことを申し出たら、和馬さんはすかさず私を抱き上げるだろう。
だったら、大人しく手を繋いでいる方が私の心臓に対する被害は少ない。
それに、ちょっぴり胸中が複雑になりながらも、繋いでいる手の温かさに幸せを感じるから。
顔をほんのり赤く染めながらも、繋いだ手を解くことなく廊下を進む。
お互いに今日の出来事を報告し合っていると、会話がふいに途切れた。そして和馬さんがジッと私の顔を見つめてくる。
「あ、あの、なんでしょうか?」
「前髪を切りましたか?印象が違うように思います」
フワッと笑う和馬さんに、私は素直に頷いた。
「夕べ、前髪が気になって、自分で切りました。一センチも切ってないのに、よく分かりましたね」
こんな些細な変化に男性である和馬さんが気付くとは思っていなかったので少し驚いていると、彼がやわらかく目を細める。
「愛するユウカのことは、どんなことでも気が付きますよ。私はいつだって、あなたしか見ていませんから」
蕩けそうな笑顔付きでそんなことを言われたら、嬉しいけれど恥ずかしいではないか。
とてもじゃないが彼の顔を見られなくなって俯けば、
「照れるあなたは、本当に可愛いですね」
つむじにチュッとキスが降ってきた。
その瞬間、離れたところから『きゃー!』という歓声が。
ハッとなって顔を上げると、女性たちがこちらを見て頬を染めていた。見覚えのない顔は、他の部署に配属された後輩たち。
早くも公開羞恥プレイは実行されてしまったのだった。
再びつむじにキスを落とされそうになって、慌てて逃げる。繋がれている手は放してもらえないので、腕を伸ばしてギリギリまで距離を取った。
「か、和馬さんの愛情は嬉しいですけど、それは、出来れば私一人にだけ見せてくれればいいかなって!その方が幸せかなって!」
これ以上の公開羞恥プレイを避けたい私は、なんとかうまい具合に言い訳を捻りだして懸命に彼を説得。
この私からこんなセリフが出てくるとは、我ながら驚きだ。人間、必死になると底知れぬ能力が開花するらしい。
私の様子に和馬さんは少しだけ考えこみ、そしてクスッと笑った。
「そうですね。私も、あなたの可愛らしい姿を独り占めしたいです。ですから、後輩たちの前では控えましょう」
よかった、分かってくれた。
ほうっと息を吐き、私は離れていた分の距離を詰めて彼の横に並ぶ。
「ところで、今日の夕飯はなににしましょうか?」
「そうですねぇ」
といった具合に、その後は何事もなく歩き始めたのだった。ふぅ、ヤレヤレ。
地下駐車場につき、和馬さんの車の助手席に乗り込む。
シートベルトを装着し、バッグを膝の上に抱え、いざ発進、かと思いきや、和馬さんは車のキーを回さずに私を見ていた。
「あれ?なにか付いています?」
終業間際に食べたクッキーのかけらが付いているのだろうか。慌てて口元を払うが、なにもなかった。
「いえ、違います」
そう言って和馬さんは助手席へと身を乗り出し、長い指で私の前髪を優しく掬い上げる。
「前髪を切ったことによって、ユウカの愛らしい瞳がより強調されているなと思いまして。こうして間近で見ると、先程よりも分かりますね」
サラサラと指をすり抜ける感触を楽しむように、和馬さんが何度も前髪に触れる。
「自分では分かりませんけど……」
それほど気に留めていないことを、和馬さんはさりげなく気が付いてくれる。それって幸せなことだなあって。
さっきは人目があったから照れ隠しで和馬さんを嗜めたけれど、今は周りに誰もいない安心感から、私は素直に自分の気持ちを言葉にした。
「私のことをちゃんと見てくれて、ありがとうございます。和馬さん、大好きです」
耳まで真っ赤にして、それでも彼の瞳を真っ直ぐに見つめて告げる。
「ええ、私もユウカが大好きですよ」
綺麗な笑顔がゆっくりと近付き、長い指が私の前髪を左右に避ける。そして彼の唇がおでこに押し当てられた。
唇の感触がくすぐったくて、フフッと小さく笑ってしまう。僅かに揺れる肩に、和馬さんの大きな手が乗った。
乗るというか、押さえつけるという感じ?
不穏な空気を察知して恐る恐る目を開け、ゆっくり視線を上げた。
「ひぃっ!」
思わず顔が引き攣る。
そこにあったのは、和馬さんの笑顔。だけどその目は笑っておらず、彼の背後では黒い翼がバサリバサリと羽ばたいている。
なぜ和馬さんは突然、魔王様になってしまったのか。
訳が分からずブルブル震えていると、和馬さんの口角がクッと上がる。
――笑顔が怖いーーーーー!
いっそう青ざめたところで、彼が口を開いた。
「ところで、ユウカ。私以外の人に、『大好きだ』と言ってはいないでしょうね?」
普段よりも低い声でゆっくり告げられ、その恐ろしさで脳が理解できないでいる。
――え?あの?『大好き』がどうしたって?
ぼやっとしている私に、和馬さんが改めて告げてきた。更なる威圧感を纏って。
「恋人である私以外の人に、あなたの口から『大好きだ』というセリフを告げたりしていないかと訊いているのですよ」
「……へ?」
「あなたの好意は全て私の物です。私以外に向けられる好意は、たとえわずかなものでも許しません」
私の肩へ置いた手に、ほんの少しだけ力を篭める和馬さん。そして彼の瞳がスウッと細くなった。
「たとえあなたが頼りにしている中村君に対してでも、気安く『大好き』などと言ってはいけません」
――どうして、そのやり取りを知っているの!?も、もしかして、今度こそ盗聴器が!?
アワアワする私に、
「中村君にはさきほど問い詰めましたので、今度はユウカの番です。あなたが中村君に大好きだと告げた経緯を話してもらいましょうか。……私の部屋でね」
和馬さんはニッコリというより、ニヤリという表現が正しい笑顔を浮かべる。
――先輩が言っていた面倒くさいことって、これか!
と、体の震えを一層大きくしたのだった。
食事を終えてからリビングのソファに移動し、『おしゃべりタイム』という名の尋問が始まった。
私の左側に腰を下ろし、右腕を私の肩に回して、ピッタリと寄り添う和馬さん。
長い腕でこちらを拘束し、髪に頬ずりするように隙間なく距離を詰められれば、私はもうどうにもすることが出来ない。
「さぁ、ユウカ。私に話してくれますよね?私以外に『大好きだ』と告げたいきさつを」
「あの、ええと、それはですね。何と言いますか……」
私はおぼつかない口調で、留美先輩との会話を再現する。
こんな風にして私の日常を知ろうとするのは、ちょっと横暴かもしれない。
だけど和馬さんがここまで私のことを気にかけているのは、理由があるのだ。私が自分の気持ちを押し込め続けた結果、和馬さんとの別れを選ぼうとしたから。
それ以来、彼はどんな些細なことでも、私のことを知ろうとする。
――そう考えると、自業自得なのかなぁ。ちゃんと恋人同士っていう関係なのに、何も言わずに勝手に決めたら、やっぱり駄目なんだよね。
『あなたのために』と言いながら、一方的に結論を出してしまうのは、結局、相手のためになっていないこともあるのだと、私は過去の教訓で学んだ。
――ほらね、私の恋愛経験値は少しずつ上がってますよ~♪
などと、のん気な調子でいられない。和馬さんは真剣なのだから。
私が必死に説明すると、彼は苦笑い。
「中村君には、学生時代から苦労を掛けてしまっていますね」
その顔は穏やかなもので、魔王様はやっと姿を消した。……ように見えた。
「中村君の働きやユウカを見守ってくださる気持ちは非常にありがたいですが、それでも、あなたが『大好き』だといったことは見逃せませんよ?」
私の肩に置かれた手に、ググッと力が入る。そして、もう一方の手も伸びてきて、あっという間にその広い胸に抱き込んでしまった。
「か、か、和馬さん!?」
ハッとなって見上げた彼の顔は、車中で見たものと変わりない。それどころか、黒い翼に加えて、黒いしっぽまで見える。
「あなたが『大好き』と告げる人物は、この世に私限りだということをきちんと理解していただかなくては」
「え?え?」
背骨が軋むほど抱き寄せられたかと思えば、彼に綺麗な顔がすぐそばに。
「今から、その体に分からせてあげますね」
艶やかに微笑んだ和馬さんは、それからじっくり三十分ほど、私の唇を離さなかった。
ようやく解放された私は、悔しさちょっぴり、照れ隠したっぷりで、私は和馬さんのみぞおち辺りをポスン、と殴ってやる。
ムウッと唇を尖らせ、不貞腐れた振りをして、ポスン、ポスンと拳を繰り出した。
「すみません、苦しかったですか?このところ、ユウカにじっくりと触れる時間がなかったものですから、少々、箍が外れてしまったようです」
反省しているのか、和馬さんは私の攻撃を避けることなく、大人しく受けている。
こんなじゃれ合いができることが、すごく嬉しいと思う。
近寄りがたいと、一目置かれている和馬さん。そんな彼が、私の前でだけはプライベートな部分を隠さずに見せてくれるから。
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「いい先輩として彼らと接しているユウカの姿が目に浮かびます。一生懸命なあなたを見て、慕ってくれているのでしょう」
和馬さんの言葉に、私はニコッと笑顔になった。
「そうなんですよ!年齢からいったら私の方が下なのに、それでもみんな、私のことを先輩、先輩って頼ってくれるんです。なんか、もう、めっちゃくちゃ可愛いですよ!」
その喜びを両手で拳を握りしめながら和馬さんに力説すると、寂しげな微笑みが返ってきた。
「そんなにも可愛いと思ってもらえるならば、私もあなたの後輩になりたいです」
「あはは、やだなぁ。私よりも先に入社している和馬さんが後輩になれるはずないじゃないですか。和馬さんも冗談を言うんですね。ははっ」
声をあげて笑っていると、彼が私へと向き直り、ものすごく真剣な顔つきになった。
「冗談ではありませんよ。それに、私がユウカの後輩になることは可能です」
「へ?どうやって」
またパチパチと瞬きをしていると、和馬さんはまじめな声で言った。
「まず、この会社を辞めます。そして新たにエントリーして、入社するのです。もちろん、配属希望は総務部広報課で」
――会社を辞めて、また入社?
猛烈なスピードで瞬きを繰り返す私。
「年齢はユウカよりも上ですが、総務部社員としてはあなたの方が先輩ですからね。これで、私はユウカの後輩となれるわけです」
ニッコリと笑う和馬さんは、膝の上に置いていた私の手を両手で覆うように包み込んでくる。
「ね、ありえないことではないでしょう?」
包んだ手をキュウッと握り締め、軽く首を傾ける和馬さん。
「な、何を言ってるんですか!社長第一秘書の和馬さんが、簡単に辞めさせてもらえるはずないですって!それに、辞めた会社に就職するなんて無理ですよ!」
アワアワしながら言えば、和馬さんは平然と言い返してきた。
「社長を脅せば、いえ、説得すれば簡単ですよ。社員が辞職したいとなれば、いくら社長とはいえ、引き留めることは出来ませんしね。そして社長を脅す、……ではなく、私の熱意を伝えれば、理解していただけるかと」
――たかが私の後輩になりたいためだけに、何、言ってんの!?しかも、脅すって二回も言った!
和馬さんのとんでもない計画にいっそうアワアワしていると、
「私が後輩となった暁には、存分に可愛がってくださいね。ユウカ先輩」
和馬さんは優雅に微笑みを浮かべたのだった。
しかしいくらなんでも、さすがに『後輩になろう計画』を実行に移す気はなかったようで、冗談半分だから本気にするなと、クスクス笑っている。
ならば半分は本気だったのか?と突っ込むべきかと悩んでいると、更なる爆弾発言が。
「会社を辞めなくても、異動願いを出せば済む話ですしね。そうすれば面倒な手順を踏むこともありませんし、時間もさほどかかりません」
――うわぁ。その方がより単純かつ現実的な計画だよ!
再三にわたって、私は泡を食う羽目になったのだった。
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