その香り。その瞳。

京 みやこ

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(122)SIDE:奏太

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 背筋を伸ばした清水先輩は、僕を見て静かな笑みを浮かべる。
 それは斗輝に対するものより、かなり柔らかな印象を受けた。

――なんだか、一葉先生や二葉先生みたい。

 先輩は斗輝と同じ歳だから、僕より二つ上なだけだ。なのに、保護者のような落ち着きと頼もしさがある。
 僕がそんなことを考えていると、先輩がチラリと斗輝を見た。
「篠岡のお二人から聞いていた以上に、奏太様は斗輝様に相応しいですね。とても控えめで、まっすぐで、安心いたしました」
 すると、斗輝は繋いでいた手を放し、その手で僕の肩を抱き寄せる。
「そうだろ。俺の番は、奏太しかいない」
 嬉しそうな声で返事をする彼の様子に、僕は照れくさくて仕方がない。
「で、でも、僕は、そんなたいそうな人間じゃなくて……」
 オズオズと言い返す僕に構うことなく、二人は話を続ける。
「奏太様は、澤泉の名前に群がる蟻どもと、すべてが違いますね」

――蟻って、なんだ?

 先輩がなにを言っているのかピンと来なくて、僕はソッと首を傾げた。
 そんな僕の様子に、斗輝がさらに僕を強く抱き寄せる。
「当然だ。奏太の澄んだ瞳を見たら、アイツらとは違うとすぐに分かる。アイツらが喉から手が出るほど欲しがる澤泉の権力と財力と、奏太は怖いと言ったんだ」
「そうでしたか」
 穏やかに微笑みながら清水先輩が何度も頷いているのを見て、斗輝はさらに話を続けた。
「それと、もし、俺が路頭に迷うことになったら、奏太が地元に戻って養ってくれるそうだ。どうやら、畑仕事が得意らしい。こんな嬉しいこと、アイツらなら絶対に言わないな」
 優秀な斗輝が路頭に迷うなんて、絶対にありえない。
 仮に澤泉家がトラブルに巻き込まれ、色々なものを手放すことになっても、彼自身の力で生活していけるはず。
 僕が斗輝を養うという話は、もしもの事態が百個くらい重なった場合の想像上でしかなかった。
 そんな下らない話を清水先輩に知られ、照れくささが倍増した。
「いえ、あの、それは……、だから……」
 しどろもどろになっている僕の口からは、まともな言葉が出てこない。
 床に落とした視線をウロウロと彷徨わせ、僕は羞恥心から体をギュッと小さくしていた。
 すると、斗輝が両腕を僕の体に回し、逞しい胸に僕を抱き込んだ。
「奏太は守られるだけではなく、俺のことも守ろうとしてくれる。こんなにも健気で可愛い番は、他にいないな」
 そう言って、彼は僕の額にキスをした。
 言われた内容と清水先輩が見ている前でキスされたことに、僕の中の恥ずかしさが爆発する。
「そ、そんなこと、ないですよ! 他の番さんなら、僕以上にあれこれできるはずです! 僕はほんのちょっと、畑仕事ができるだけですから! それと、斗輝は僕なんかに頼らなくても、しっかり生活していけますって!」
 きっと、清水先輩は呆れているだろう。
 澤泉の御曹司である斗輝に田舎暮らしをさせ、本当に稼げるかどうかも分からない農業で彼を養うという馬鹿な話を、清水先輩がすんなり納得する訳がないのだ。
 もし、斗輝にそんな事態が降りかかったら、清水先輩がきちんと対処するだろう。
 僕のことを底抜けに愛情を注ぐ斗輝が相手だから、こっちは現実味がない馬鹿な話を聞かせることができたのだ。
 恥ずかしくてジタバタと暴れる僕を、彼は余裕で抱き締めている。
「もちろん、不測の事態が起きても、奏太の身の安全と生活は俺がなんとかする。だが、そういうことではない」
「なにがですか!?」
 いっそう暴れる僕に、斗輝が耳元で囁きかける。
「俺を支えようという奏太の気持ちが嬉しいんだ」
 その声がすごく優しくて、思わず僕は動きを止めた。
 ゆっくりと顔を上げると、黒曜石に似た瞳がジッと僕を見つめていることに気付く。
「斗輝……」
 彼の名前を呼んだら、切れ長の目がユルリと弧を描いた。
「そんな奏太のことを、清水も認めている。奏太があまりにも健気だから、感動しているぞ」
「……え?」
 僕は肩越しに振り返り、背後を窺った。
 清水先輩はさっき以上に穏やかな笑みを浮かべている。
「こんなにも愛らしい気持ちを差し出されては、斗輝様が奏太様を手放せないのも無理はありませんね」
 先輩の表情にも言葉にも嘘が感じられない。
 それでもすんなり信じられなくて、清水先輩を見つめ返していた。
 その時、斗輝の左手が僕の右頬を覆い、グリッと前向きにさせられる。
「奏太。清水ではなく、俺を見ろ」
 少し前までは、黒曜石みたいな瞳には優しい光が浮かんでいた。
 なのに、今は不貞腐れたような色が漂っている。
「ご、ごめんなさい……」
 すかさず謝ると、背後からクスクスと小さな笑い声が聞こえてきた。
「斗輝様は、こちらが思っていたよりも奏太様に惚れ込んでいらっしゃいますね。喜ばしい限りです」
 先輩の声には、やっぱり嘘が感じられない。
 鈍感な僕が騙されている可能性もあるけれど、先輩がその場だけの誤魔化しを言っているなら、斗輝が察するだろう。
 その斗輝が「当然だ。奏太は俺の命よりも大切な存在だからな」と返しているので、やっぱり、先輩の言葉は本心だったらしい。
 ひとしきり抱き締めて落ち着いたのか、斗輝がようやく僕を解放してくれた。
 それでも、ふたたび手を繋ぎ、彼は自分のすぐ横に僕を立たせている。
 僕は伏せていた視線を僅かに上げ、正面にいる清水先輩をチラリと見た。
 そんな僕に、先輩がにっこりと微笑みかけてくれる。
 その表情には親しみが浮かんでいた。斗輝の右腕としてではなく、親しい大学の先輩といった雰囲気だ。
 それに安心して、僕は肩の力を抜いた。
 フニャリと頬を緩める僕に改めて清水先輩が微笑みかけてから、視線を斗輝へと向ける。
「奏太様は、ご自身の評価が低いようですね。これでは、斗輝様も心配が絶えないかと」
「まぁな。はじめのうち、自分は俺に相応しくないと言い続けていたものだ。最近では、俺と人生を共にする覚悟を決めてくれたが、まだ油断はできない。奏太が金や権力に靡いてくれる人間なら、話は簡単なんだが」
「奏太様のような方は、ある意味、手強いですよね」
 妙に実感がこもった口調に僕が首を傾げると、斗輝が説明してくれる。
「清水の番も、かなり遠慮深い性格なんだ。いつ、追い出されてもいいようにと、せっせと働いて貯蓄をしているらしい」
 確か、先輩の番さんは、清水家のお屋敷でメイドとして働いているとか。
 それを聞いて、僕はパッと清水先輩を見た。
 すると、先輩がヒョイと肩を竦める。
「彼女を手放すなんて、私が斗輝様を裏切るよりもありえないことです。私の愛情を心底信じてもらえないのは寂しいですが、そんな彼女が可愛くて仕方がありません。私に甘えてくれないなら、こちらがとことん甘やかすまでですね」
 穏やかだった先輩の表情と声に、蕩けるような甘さが加わった。
 そんな先輩の言葉に、斗輝が深く頷く。
「まったく、清水の言う通りだ。俺も、徹底的奏太を甘やかすことにする」
「もう、十分すぎるほど甘やかされていますから!」
 すかさず言葉を挟んだ僕に、二人が顔を見合わせてクスッと笑う。
「本当に、奏太様は可愛らしい方ですね。……私の番のほうが、奏太様よりも、ほんの少し可愛いですが」
「なにを言う。奏太よりも可愛い番が、この世に存在するはずがない」
「斗輝様、こればかりは譲れません。一番可愛いのは、私の番です」
「いや、奏太だ」
「いいえ、私の番です」
 けっこう真剣な表情で言い返す斗輝と余裕の表情で微笑んでいる清水先輩の間に挟まれ、僕は二人の顔を交互に見ることしかできなかった。
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