玄洋アヴァンチュリエ

天津石

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Ⅸ  灰と残光

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「さようなら」

 最後に聞いた、彼女の声だった。静寂に切り取られた世界に、音が戻った。

『以上をもちまして、花火大会は終了いたしました。皆様、お忘れ物、落とし物の無いよう、お気をつけてお帰りください』

「あ、あ……」

 居ない。タキリヒメの姿が、どこにも。

 ハイビスカスの浴衣と帯が、抜け殻のように落ちていた。思わずそれを拾い上げ、残された体温を感じ取ると、濡れてぼやけた視界が揺れて、やがて何も見えなくなった。

 それから、声にならない声を上げて、走った。

 帰る人の波に逆らいながら、彼女を探した。

 名前を呼びながら。

 居ない。どこに行ったのだろう。

 さようなら、って何だよ。どうしてそんなことを言って消えてしまったのか。

 いろんな感覚がぐちゃぐちゃになって、息を切らしながら目的もなく走った。空はますます暗くなり、やがて足取りも重くなって、乾いた呼吸とともに、涙がぼろぼろとこぼれた。

 乾いた地面は、空より落ちる無数の水滴で色濃く染まり始め、ついにはしとしとと連続的な雨の音が人々の雑踏を加速させた。

「うわー、降ってきてしもうたな」

「強うなる前に急いで帰ろう!」

「ばってん良かったー!降る前に全部見られて!」

 立ち尽くす僕を避けて追い越してゆく人々の無垢な感想が、僕の心を突き刺した。

 消えてしまった、暁の姿をしたタキリヒメ。そうだ、暁は?タキリヒメの憑依がなくなって、けろっとしながら「凪!遅い!」とか言いながら待っているかも知れない。

 ははは、と乾いた笑いを絞り出しながら家に戻って戸を開ける。

 花火大会の運営で留守にしている佐一郎に代わって玄関で出迎えたのは景子さんだった。

「おかえり、雨すごいでしょう、お風呂沸いとるけん、身体冷やす前に入りんしゃい」

「景子さん、暁は……?」

「あら、一緒じゃないの?」

 当然のように聞き返してきた景子さんを、もう一度見ることが出来なかった。

玄関の石畳がぽろぽろと濡れていく光景が、ぼやけた視界に映る。

「いなくなったんです、突然。暁が」

「いなくなったって……どういう……」

「居ないんです、どこにも。急にいなくなって、それで、探したんですけど……」

 両手に握った浴衣と帯。彼女が身につけていたものだ。景子さんにそれを差し出そうと手を開くと、あろうことか、それは水のように手の隙間を滑り落ちて、霧となって消えてゆく。

 反射的にそれらを拾い上げようと虚空を掴んだ手が、手中の虚無を認識して力なく震えた。

 不思議そうに、景子さんは首を傾げた。タキリヒメの言動を不自然に思うものは、誰ひとり居ない。それは彼女が身にまとっていた浴衣が眼前で霧に溶けて消えたとしてもだ。

 最後に彼女を知覚する現象があまりにも空虚で、頬を伝う一筋の感触を気にする余裕など無かった。

 胸が張り裂けそうになって、不規則な呼吸が連続する。流出を厭わない涙腺がそれを止めたのは、僕を包み込む柔らかな感触だった。

「……はぐれちゃったのよね、私たちで探すわ」

「すみません、すみません……」

「大丈夫、大丈夫やけん。ほら、ウジウジせんと、一番風呂浴びてスッキリしんしゃい!」

 景子さんに一度ぎゅっと抱きしめられると、ぐちゃぐちゃの感情がほんの少し、落ち着いた。

 そうだ。今は気持ちを落ち着かせないと。冷えた身体に、突然の出来事。

 大きな湯船は冷えた身体を温めたが、胸の奥にぽっかりと空いた穴は、依然冷たい風が通り抜けるばかりだった。

 その夜降った夕立は、霧とともにひやりとした冷気をもたらし、浅い眠りの瞼の向こうが明るくなったのを知覚する頃には、それが単なる偶然で片付けるには惜しい現象が起きていた。

 目が覚めたのは、パトカーのサイレンのせいだ。まだ暗さも残るような、仄暗い空。

 その冷気が部屋にまで侵食して身体を震え上がらせたので、思わずタオルケットを纏いながら階下へと降りた。

「起きたか、凪」

「佐一郎さん」

 佐一郎も景子さんも、真冬のように着込んだ格好でテレビを見ていた。

「暁は、見つかりましたか……?」

 佐一郎は、無言で首を横に振った。

「そう、ですか」

「凪は気にせんでよか。街ん中、しかもすぐそこで勝手におらんくなって、お前もどうも出来んかったんやろう」

「……はい」

「季節外れの大寒波なんて、初めてよ。暁、無事やと良いんやけど」

「きっと無事や、もう少し辛抱しよう」

 俯く景子さんの肩に、佐一郎が手を置きながら声をかけた。

 寒波。昨夜降った雨が地面を凍らせ、各地で事故が多発しているらしい。

 窓から空を見上げる。氷のように冷たい、濃霧に包まれた空は、どこか寂しげで、しっとりと泣いているような、悲しい色だった。

 感情を殺してニュースを繰り返すテレビ中継の音を上書きするように、激しく踏み込まれたブレーキ音が屋外より響いた。

「なんや!」

 佐一郎は玄関先に置いてある消防団の刺股を手に、戸を開けて叫んだ。

 飾り気のない真っ白なバン。運転席から姿を表したのは、ボロボロの白装束に身を包んだ神職の男だった。

「宇慶さん!」

「どうしたんですか、その格好」

 驚く佐一郎に重ねるように、景子さんが訪ねた。

「失敬、色々ありましたものでご無礼、お許しを。凪くんを、お借りしてもよろしいか?」

 宇慶は僕を見てからもう一度、佐一郎へ視線をやった。

「凪が良けりゃあ構わん。凪、約束があったんか」

「いえ、でも」

 心配そうに声をかけてくれた佐一郎に、改めて応える。

「少し、出かけてきます」

 二人の反応を見る前に声が出た。宇慶へ一礼し、車の方へ向かう。

「ああ、行って来い!」

「ちょっと、あなた何か聞いとーと?」

「いや、だがあれは、男の目だ。黙って行かせてやりたか」

「まったく……凪くん、気をつけるのよ」

「はい!」

 大きな声で返事をして助手席に乗り込んだ。

 白いバンは少し荒っぽく発進し、門司の家を後にした。





「すまないの、急に連れ出すような格好になってしまって」

「いえ、良いんです、それよりも、その格好……」

「ああ、これか。なに、神がお怒りになってな」

 宇慶は車を走らせながら、しわがれた声で呟いた。

「もしかして、昨晩、ですか?」

「いや、それより前だ。ちょうどお前さんと娘を連れ戻してから少しづつ、な」

 宇慶が言うには、彼は沖ノ島でずっと、神の怒りを鎮めるため舞を捧げていたという。

 今、沖ノ島は嵐のような雨雲に包まれており、嵐の最中に命懸けで島を脱出し、そのまま僕の元まで来たというのだ。

「凪くん」

「……はい」

 俯いたまま、宇慶の呼び声に応える。

「神に、逢ったかい」

「――っ!」

 思わず、宇慶の方へ振り向いた。

「そして目の前から消えた。……器ごとな」

「タキリヒメの、暁の居場所が分かるんですか!」

 叫ぶように問いかける。

「おそらくはな。暁、と言ったか。――かの少女は未だ、沖ノ島に居る」

 心臓が、どくんと跳ねた。

「それって、生きてる、んですよね」

「それは……分からん」

 希望を持った問いかけに、間を置いた宇慶は首を振って答えた。

「儂は彼女のもとに辿り着けんかった。君が倒れていた場所も草が茂るのみで、姿さえ無い」

「じゃあ、どうして……」

「お主も見ただろう、黄泉を。彼女はおそらくあそこだ」

 黄泉。暁とともに沖ノ島に上陸したあの日のことだ。

 動物の頭骨が積み上げられた柱、不気味に点在する巨石、しめ縄に吊るされた骨がぶつかる奇妙な音。そして、暁の声。暁の体温、小さな手。

 忘れられるはずがない。宇慶の言う「黄泉返り」が叶ったのが僕だけだとすれば、昨日まで接していた暁の身体はタキリヒメが見せた蜃気楼のようなものだったのだろうか。

「おそらく、今の沖ノ島は、黄泉と現し世の間にあるような、不安定な状態だ。本来は望ましくないが、黄泉を終着地とするのであれば、都合が良い」

「どういう、ことですか」

「それをこれから話す。聞くよりも見たほうが良いだろう」

 高速道路を降りても、宇慶はスピード違反上等でアクセルを踏み込んだ。バンは決して大きく無さそうなエンジンを必死に唸らせ、窓の外の視界は突き抜けるように流れ去ってゆく。

 たどり着く海岸、雨足は一向に弱まらず、時化た海が灰色の波を桟橋に打ち付けては白く泡立っていた。

 見えてきたフェリーターミナルに、クラクションを鳴らしながら突っ込んでゆく。

 ちょうど港を離れようとしていたフェリーの車両区画へ、宇慶は誘導員の制止を振り切って車を差し込んだ。

「お客さん!困りますって!」

「乱暴ですまない、緊急の用事だ。宗像様のな」

 ぼろぼろの装束の宇慶がものすごい剣幕で言うものだから、フェリーの乗組員も黙るより他になかった。

「――今から、沖ノ島に行くんですか?」

 揺れるフェリーの甲板で、宇慶に尋ねる。

「いや、それは無理だ」

 宇慶は悔しそうに、首を横に振った。

「沖津宮を中心として奇妙な嵐が吹き荒れておってな、近付くものを拒むかのように」

「それって……」

「ただの自然現象とは考えにくい。わしら神職以外は寄り付かん場所だ。世の関心も薄いだろう」

 宇慶は考え込むように呟く。そして僕の方を見て、

「作戦がある。詳しくは社務所で伝えるから、少し休んでおくといい」

 宇慶とともに、船内の座席に腰掛ける。真夏にも関わらず凍えるような寒さの中、風が遮断された船内は暖かかった。

 船が大島へと入港する。島に降り立ち、中津宮の長い階段を昇りながら、宇慶に呼びかけた。

「作戦って、いったい何ですか?」

「ああ」

 宇慶は、ぼろぼろの装束を気にすることもなく社務所の照明をつける。

 整頓された社務所内に、特別なにか感じさせるようなものは見当たらない。それを見越すように宇慶は、部屋内のさらに施錠された扉へ鍵を通した。

「これは……」

 少し埃っぽさを感じる小さな部屋に置かれていたのは、

「なんですか、これ」

 思わず呟いた。保存状態が決して良いとは言えない色あせた小さな絵画には、海上に長く連なった小舟の上を少年と歩く女性の姿が描かれていた。

「はしけ祭り」

 宇慶が口を開く。

「古来、この地で不定期に行われてきた祭祀だ。現代はその面影も無いがな」

 宇慶は、絵画についた埃を払いながら、虚空を見つめて語りだす。

「災害、飢饉、不況、事故の頻発。天変地異を鎮める祈りを、宗像の女神様へ捧げるのだ」

「その、どうして今はやらなくなったのでしょう」

 単純に、疑問に思った。現代のお祭りのほとんども、元はと言えばそういった災害などを恐れて神へ祈ったのが始まりだろう。

「簡単なことだ。贄が要る」

「にえ、ですか……?」

「ああ、それも人の子の、生贄がな」

 凍りつくように、宇慶は言い放った。

「生贄……」

 思わず言葉を失う。

 聞く所によると祭りの内容は、漁船などの船を橋に見立てて沖ノ島まで一列に並べ、先頭の船に載せた踊り子の男子を沖ノ島に上陸させ、供物とするのだそうだ。

 男子の生贄は女神・タキリヒメノミコトへの求愛と隷属を意味し、生贄という言葉通り、残された数少ない記録でも生還の事例は無いという。

「凪くん、お主は、少女を助けたいか?」

 問いかける神職の老人の眼が恐ろしく、思わず言葉を失った。

 どういうことだ……?暁を助けられる、生贄、僕への問いかけ。

 もう一度、宇慶の眼を見る。僕に向けられた眼差しが、「覚悟を示せ」と言っているようだった。

「助けたいです」

 僕は答えた。それを聞いた宇慶はゆっくりと頷き、視線を外して口を開く。

「祭りでは、タキリヒメ様に身を捧げなければならん。そして踊り子が向かうのも、お主が見た黄泉――死後の世界だ」

 宇慶の顔が、閃光に染められる。激しく降る雨音の中で、雷鳴が轟いた。

 死後の世界。

 忘れるはずもない。

 あの小さな島で、気の遠くなるほど登った坂道、草は茂っているのに生き物の気配は無く、しめ縄に吊るされた骨がぶつかり合ってカタカタと奇妙な音を鳴らすあの異質な空間を。

 暁の言葉を最後に聞いた、あの空間を。

「本来、黄泉へ送られればこの現し世に戻ることは敵わない。だが、黄泉の淵を覗きながらも黄泉返りが叶った者が、ここにおる」

 宇慶は、その深い眼差しでもう一度、僕を見た。

「神に見初められ、黄泉返りが叶ったお主なら、或いは――」

 心臓が低く拍動する。息を吸い、拳を強く握り込んだ。

「わかりました」

 静かに、そして確かに声に出す。

 真っ直ぐな視線を向けられた老人は、ともに悪事を働くが如く、にやりと笑っていた。





「あらぁ、凪くん!よう来たね!」

「ご無沙汰してます……」

 世話になった漁師夫婦の家を尋ねる。柔らかい笑顔で出迎えてくれたおばちゃんに、今一度頭を下げた。

「こん間はすまんやった!君たちば危険に晒してしもうたんはおっちゃんの責任や!」

「いえ、そんなことは……」

 威勢よく謝る漁師の男に、逆に申し訳ない気持ちすら感じる。

「今日は、改めてのお願いに上がったんです」

 僕の言葉に、漁師の男は眼を丸くした。

「はしけ祭り……?なんね、そりゃ」

 この島にずっと住んでいるという漁師の男も、「はしけ祭り」のことは知らなかった。

「船を、連ねる……みあれ祭ではなくてか?」

「違うみたいなんです」

 漁師の男に、宇慶から言われた通り説明をした。みあれ祭は、宗像三女神を祀る大きな祭りの一つだ。三女神それぞれの御神体を乗せた特別な船と数百隻の漁船で海上を巡るのだという。

 はしけ祭りの特徴は、船団を作って各地を巡るのではなく、橋を架けるように数百の船で列をなし、神の通り道を作ることで渡ってきてもらう、というものだ。

 荒天や飢饉を乗り越えるために天候がすぐれずとも行われており危険も伴うため、生贄があったという背景や技術の発達により現代でこの祭りを行う機会は無くなっていたという。

「生贄、って……」

「ああ、それは大丈夫みたいです」

 眉間にしわを寄せた漁師に、わざとらしく笑う。「そりゃあそうだよな」と笑う漁師の男の前で、上手く笑えたかは分からなかった。

 神職である宇慶の呼びかけもあり、宗像への信仰が厚い大島の漁師たちは、船を出すことを快く了承してくれた。決行は今週末、新月の日だ。漁師たちは祭りで使うというロープの準備に、一斉に取り掛かっていた。

「あの、本当にありがとうございます」

 宇慶に、深く頭を下げる。しかし彼の険しい表情は、万全とは言い難いことを表していた。

「……足りない」

「え?」

 思わず聞き返す。

「船が、足りないんだ」

 宇慶は、静かに呟いた。「みあれ祭」に使用する漁船のみでは橋に見立てるだけの船が足りず、このままでは橋が架からないという。

「過去には行われていた祭りなんですよね?」

 ふと思い立って聞いてみる。

「ああ、その昔は今よりも祭りや信仰は皆厚かった。参列する者も多ければ、船を出す者、船主も多かった。だが今や信仰は薄れるばかり、船を持つ漁師や荷役も減る一方だ」

 宇慶は意気消沈し、しわがれた声で力なく呟く。

「祭りで僕が生贄になれば、暁は助かるんですよね」

「ああ、だが、約束は出来ん。むしろ奇跡を信じるよりほかない、危険な博打さ」

 僕の質問に対して返って来たその言葉は、「暁の死を受け入れ、祭りの開催を諦めよう」という、消極的な提案を示唆していた。

 暁を助ける方法があるというからここに来た。そして、タキリヒメの存在という、十分に不可思議な現象を観測し、宇慶もそれを認識している。

 愚かな僕に、合理的な選択は必要無かった。

「船、集めれば良いんですよね。どれぐらい集めれば良いんですか」

 宇慶に改めて問いかける。

「正気か?船を集めるなど、とても正気の沙汰じゃ――」

「あと何隻!集めるか教えてくださいよ!」

 思わず声を荒らげた。

 力強く言い放ったはずの声は震え、視界もぼやけていた。

「女の子が居たんだ。誰からも無理だと言われ続けて、それでも自分を信じて、一人の心を動かして、協力させられるほどにして、自分の願いを叶えた」

 ぽつぽつと涙が溢れる。

 言葉はぐちゃぐちゃでも、真っ直ぐな感情を吐き出したかった。

「暁は助からないかも知れません。それだけじゃない、僕だって死ぬかも知れない。いろんな人に迷惑がかかるかもしれません。でも、それでも!」

「お主……」

「僕は、暁を助けたいです!」

叫ぶ僕の声に、老人の眼がわずかに見開いた。
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