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Ⅰ 凪の日
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好きか嫌いかで言えば、学校は嫌いだった。
嫌なくらい強く差し込む七月の太陽は、「忍耐力を鍛えるため」とかいう理由でつけられることのないエアコンをあざ笑うかのように今日も教室を加熱していた。
数少ない良心のごとく時折窓の外から吹き込む風に乗って聞こえてくる掛け声とホイッスルの快音。隣のクラスの体育でやっているハンドボールの試合だ。
得点で負けているチームを消極的に応援しながら、終業のチャイムが鳴るのを待っていた。
僕が通う「東洋学院」はいわゆる「自称進学校」だ。鬼のような宿題量と進行スピードで二年の夏までに三年分の授業範囲をつめこまれ、そこからはひたすらに難関校の受験対策。
その厳しい勉強量は生徒たちの部活動にも影響を与え、三年に一回くらいサッカー部と剣道部が都大会に進出できるくらいの実力だ。
入学したての頃は文武両道が推奨されていたのもあって陸上部に入ったけど、走るのには向いていなさそうだから一年で辞めた。
解き終えた小テストの隅に描くラクガキは、絵心のある友達が描く少年漫画の主人公ではなく、罫線の上に棒人間を走らせる横スクロールゲームのような代物に過ぎない。
せっかく作ったステージも、ゴールを描き終える前に終了の号令が鳴り響いた。
今日は僕が一番嫌いな日だ。すぐ帰れないし、夏休みの宿題を山ほど出されたし、なにより今期二回目の三者面談だ。
こんな無気力で、関心意欲態度が不足している生徒が親の前でありのままを話され、挟み撃ちにされ、ひたすら更正を促される。
ああ、憂鬱だ。しかも僕みたいに帰宅部の生徒は終業後これといって時間を潰す手段などはなく、あてもなく机に突っ伏した。
「おーいナギ、帰らんの?」
「わり、三者面談」
「うわー最悪じゃん、頑張れよ!」
「何を頑張るんだよ!じゃあな」
惰眠を遮るようにクラスメイトに声をかけられる。うっとおしくも心地良いダル絡みを適当にあしらいながら教室の隅で時間をつぶす。普段なら一緒に溜まって駄弁るクラスメイトも、三者面談の日に限って目をつけられるようなことはしないだろう。
「凪くん、次だって」
クラスメイトの女子から声をかけられる。「凪」というのは僕の名前だ。名字は長い上にややこしい読み方をするせいで、皆僕のことをナギと名前で呼んだ。
適当に返事をして、面談会場になっている隣の教室に入る。向かい合わせで並べられた四つの机で対面するように、教師と父が話していた。
最悪だ。普段の三者面談で来るのは母だった。結局はもっと勉強しろと怒られるだけなので嫌なことには変わりないのだが、父が来るときはだいたい「悪い話」をされる時だ。
「凪くん」
「はい……」
担任教師が淡々と口火を切った。要はもっと勉強しろと言う話だ。何が悪いのだろう。別に僕は成績が悪いわけでもないし、いわゆる「問題児」たちはもっと他にいるだろう。
「お父さん、凪くんは非常に優秀な生徒です。だからこそ、もっと真剣に勉強に向き合って
頂きたい」
父は何も答えない。父は寡黙ではないが、多くは語らない方だ。総合商社に勤めている父は出張などで何日も家を空けることが多く、家で会話をすることもそう多くはない。
だからといって仲が悪いわけではないのだが、正直、少し怖かった。
「学習に対する態度は、正直良いとは言えません。しかし、今からしっかりと勉強すれば難関校で特待合格すら狙えます」
担任の数学教師は僕の模試成績が印刷されたつるつるの紙を机上に広げた。上半分が科目ごとの点数、左下が偏差値、そして右下に合格可能性。アルファベットの判定が書いてあるけど、これらの模試結果に興味などなかった。
ただひたすら俯いて、担任の話が終わるのを待つ。学校の勉強についていけないわけではないし、むしろもう少し難しくても良いとは思う。それでも、だからといってこれ以上勉強をしたいわけではなかった。
「わかりました」
次に口を開いたのは、父だった。
「つまり凪の状態をこのままにしておくことは望ましくなない、ということですね」
「――そう、そうです!逆に考えれば、環境さえ変えてあげれば凪くんの成績も――」
「私は成績のことは言っていません」
父が、担任の話を半ば遮るような形で切り出した。
「先生は先程から凪の成績と態度のことばかりおっしゃっているが、この成績のどこに不満があるのでしょう」
そう言って父は全国模試の成績表を指差した。
「現状での難関校合格可能性は十分にあり、校内順位も一桁だ。そこで先生が成績成績とおっしゃる理由が分かりかねる状況ですが」
「ええ。確かに数字だけで見れば現状は良く見えます。ですがこれは夏休み前の数字です」
あくまでも冷静に、教師が切り返す。子供ながら、その表情は「想定内」なのが分かった。
「夏は受験の天王山とも言います。受験生たちは皆、夏休みの時間を使って一気にギアを上げます。これを使えなければ、他の受験生との差が大きく開いてしまうのです」
「ふむ……」
父は担任からの話に僅かにうなずき、考え込む素振りを見せた。
「実は私が明日から海外に赴任することとなりましてね、先生から電話でお伺いしたときは凪の状況が悪いように聞こえたものですから。しばらく息子の面倒を見れませんが、彼なら心配ないでしょう」
特に驚くことはなかったが、父が明日から海外に行くというのは初耳だった。
「海外ですか。なるほど……確かに、ご不安に思われる部分もあるかもしれません」
わざとらしく同調した担任は、つり上がった口角を隠せずに話を続けた。
「そこでご提案させていただきたいのが、夏期講習です。多くの進学校も同様に夏期講習を実施しますが、弊校の夏期講習プログラムは特別です」
担任は暗唱するかのように続ける。
「生徒の学力ごとにカリキュラムを設定し、理想的な学習プログラムをご案内できます。
お子様の夜間の勉強を手助けする寮が、学校の近くにございます。寮では栄養バランスに優れた食事が提供され、夜間も寮には指導講師二名が常に滞在、不安な分野を――」
「もう結構です」
父が、担任のセールストークをばっさりと切り捨てた。
「凪にその夏期講習は必要ありません」
「で、ですが」
「必要ないと申し上げました。おそらくですが、凪の成績を伸ばすのに必要なのはこれ以上の拘束と勉強ではない」
父が、珍しく怒っていた。いや、正確には怒っているように見えたのかもしれない。
「私が留守にするこの夏休みの間、凪は九州の親族の家に預けます」
「九州、ですか……?」
悔しいが、担任とまったくの同意見だった。正直、夏休みの間父が海外に行くことすら今日初めて知った。普段寡黙な父のことだ。だが多忙な父が突然家を空けることは珍しくない。
それよりも、「九州に行く」ということの方が衝撃だった。
「凪も今まで息苦しい部分があったのでしょう。勉強ならどこでも出来るでしょうし、心身ともにリフレッシュしてもらおうと思います」
「そんな、夏期講習はまったく受講しないのでしょうか……」
「そのつもりです。凪が希望するならその限りではないですが」
「凪くん、夏期講習は当然受けますよね?」
担任が困惑した表情で聞いてきた。
「いや、僕は……」
うつむいたまま、父のほうをちらりと見上げた。
正直、どちらでも良かった。夏期講習を受けろと言われれば受けるし、九州へ行けというのであれればそれでもよかった。子供ながら、面倒くさい性格だと思う。
「いま、どちらか選びなさい。もう大人に委ねず、決めることは自分で決めなさい」
父が語りかける。苦しかった。勉強のために椅子に縛り付けられるのも、何かを言われて従うことも苦ではないと思う。でも、自分のした選択で損をしたり、失敗したりするのが怖かった。
たぶん、楽なのは学校の寮に入って夏期講習を受けることだ。満たされないかもしれないが、先生が言う「成績を上げる」という目標に対しては確実に近づけると思うし、それ自体を父も悪くは思わないだろう。
じゃあ九州に行くのは?遊ぶってこと?一ヶ月もの間、知らない場所で何をするのだろう。
足を踏み入れるのが怖い。でも、少し、ほんの少しだけ、現状を変えられる気がしたから。
「行ってみようと思います、父さんが言ってた、九州に」
肩をすぼめながら、かすかな声で呟いた。
もしこれが二人に聞こえなかったら、言ってないことにしよう。そんな予防線も張ったが、杞憂に終わることになる。
「決まりだ。良く決断したな」
「凪くん!お父さん!正気ですか!」
担任は思わず立ち上がった。
「他でもない、凪が選んだことです。先生が心配するのもわかりますが、少しだけ、凪を信じてはくれませんか」
「しかし……」
「それでは、私は飛行機の時間がありますのでこれで失礼します。凪の面倒を見てくれて、
先生にはいつも感謝していますよ」
言葉に詰まる担任を気にもとめず、父は席を立った。父に促されるように、僕も席を立つ。
「そんなところで遊んでいたら、他の生徒に抜かされてしまいますよ!せっかく、難関校への特待合格も夢じゃないのに!」
教室を出る間際、嘆きにも似た叫びが聞こえてくる。
「凪なら心配いりません。それに、机に向かうことだけが学びではない」
食い下がる担任教師に対し、父は冷静に、もう一度釘を刺すと、
「ああ、後――」
最後にもう一度振り向き、
「私の故郷は良い所だ」
余裕の表情で睨みを効かせるのだった。
がらがらと教室の扉が閉まると、肺の中で固まっていた空気の塊が外に押し出されていくような開放感を感じた。
校門を抜け、イチョウ並木の木漏れ日の下をゆっくりと歩いた。
父と通学路を歩くのは、新鮮な気分だ。生まれてからずっと東京で育った僕は、他の地方に行ったことがない。
他の学校では修学旅行や林間学校なんかで遠くに行くこともあるらしいが、少し前に流行した感染症の対策を言い訳に、僕の学校では廃止された。
特に何か話すこともなく、父と肩を並べて歩く。
「凪」
すぐ横を歩く父が、おもむろに口を開いた。
「嫌じゃないか?」
やはり父は口数が少ない。「嫌」というのは何に対してのことか、考えることもなかった。
「うん」
「そうか」
「父さん、その……」
「何だ」
「あ……ありがとう」
うつむきながら呟いた。恥ずかしかった。何に対しての感謝か、それはあまり考えていなかった。しかし、少なくとも僕を守ろうとしてくれたこと、そして決断を委ねてくれた、いや、自分の意思で決断するように言ってくれたことには、感謝しなければならないと感じていた。
「凪が良ければ良いんだ。俺も口はあまり上手くないからな」
父も少しだけ、気恥ずかしそうに笑っていた。
結局、似た者同士なのだろうなと思う。僕も両親に学校生活のことを多く言わないし、父もまた多くを語らない。母さんは結構おしゃべりだけど。
僕の家庭が「お金持ち」かどうかは分からないけど、たぶん恵まれている方ではあると思う。両親の仲は良いし、家庭も厳しくはない。
親に対する不満が無いかと言えば違うけど、友達から聞くような「うざい」と感じることはほとんどないと思う。
僕の家は、駅からも学校からもほどほどに歩くマンションだ。真新しいという訳ではないが、結構きれいだし、不満は無かった。
鍵を開けた父に続くように部屋に入り、自室に戻る。鞄を置いて汗ばんだシャツを脱ぎ、
肌着とまとめて洗面所の洗濯かごに入れる。
いつも通りシャワーを浴びてからくつろごう、なんて考えていると、
「何してるんだ、出かけるぞ」
キャリーケースに手をかけた父が、不思議そうに訪ねてきた。
「出かけるって、今から?」
思わず呟く。確かに「飛行機の時間がある」と父は言っていたが、まさか今日とは……。
「そう言えば母さんは?」
「母さんならもう成田にいるぞ」
「というか、僕はどうやって九州に行けば――」
「ああ、そうだったそうだった」
父は履いていた革靴を一度脱ぎ、書斎に入っていったかと思えば一通の封筒を手渡してきた。
「これは?」
「十万。そこに入っている。交通費含めて、好きに使いなさい」
「十万!?」
思わず声が裏返った。そんな大金は手に持ったことがない。
「あとこれを。門司の地図だ。この印のところを尋ねれば大丈夫」
「もじ?」
「門司港。九州の一番北だよ。新幹線なら小倉から。飛行機なら博多からだな」
「全然わからない」
「ははは、まあ分からなければ調べたり聞いたりしてみなさい」
父はここぞとばかり、豪快に笑った。
「早く着替えなさい。戸締まりするから」
促されるまま、あわてて制服のシャツを着直して玄関先の父に続く。
がちゃりという音とともに、怠惰な僕の拠点は手の届かぬ存在と化した。
エレベーターの中で、父と再び無言の間が訪れた。その静寂を破ることもなくエレベーターはエントランスフロアへ到着し、僕らをその狭い空間から押し出した。
「じゃあそういうわけだから」
「は?」
父を乗せ、さっそうと走り去るタクシー。てっきり空港や駅まで一緒に来てくれるものだと思っていた僕は、完全に面食らって立ち尽くした。
夏の街路樹で鳴く蝉の声が、いつまでも響いていた。
嫌なくらい強く差し込む七月の太陽は、「忍耐力を鍛えるため」とかいう理由でつけられることのないエアコンをあざ笑うかのように今日も教室を加熱していた。
数少ない良心のごとく時折窓の外から吹き込む風に乗って聞こえてくる掛け声とホイッスルの快音。隣のクラスの体育でやっているハンドボールの試合だ。
得点で負けているチームを消極的に応援しながら、終業のチャイムが鳴るのを待っていた。
僕が通う「東洋学院」はいわゆる「自称進学校」だ。鬼のような宿題量と進行スピードで二年の夏までに三年分の授業範囲をつめこまれ、そこからはひたすらに難関校の受験対策。
その厳しい勉強量は生徒たちの部活動にも影響を与え、三年に一回くらいサッカー部と剣道部が都大会に進出できるくらいの実力だ。
入学したての頃は文武両道が推奨されていたのもあって陸上部に入ったけど、走るのには向いていなさそうだから一年で辞めた。
解き終えた小テストの隅に描くラクガキは、絵心のある友達が描く少年漫画の主人公ではなく、罫線の上に棒人間を走らせる横スクロールゲームのような代物に過ぎない。
せっかく作ったステージも、ゴールを描き終える前に終了の号令が鳴り響いた。
今日は僕が一番嫌いな日だ。すぐ帰れないし、夏休みの宿題を山ほど出されたし、なにより今期二回目の三者面談だ。
こんな無気力で、関心意欲態度が不足している生徒が親の前でありのままを話され、挟み撃ちにされ、ひたすら更正を促される。
ああ、憂鬱だ。しかも僕みたいに帰宅部の生徒は終業後これといって時間を潰す手段などはなく、あてもなく机に突っ伏した。
「おーいナギ、帰らんの?」
「わり、三者面談」
「うわー最悪じゃん、頑張れよ!」
「何を頑張るんだよ!じゃあな」
惰眠を遮るようにクラスメイトに声をかけられる。うっとおしくも心地良いダル絡みを適当にあしらいながら教室の隅で時間をつぶす。普段なら一緒に溜まって駄弁るクラスメイトも、三者面談の日に限って目をつけられるようなことはしないだろう。
「凪くん、次だって」
クラスメイトの女子から声をかけられる。「凪」というのは僕の名前だ。名字は長い上にややこしい読み方をするせいで、皆僕のことをナギと名前で呼んだ。
適当に返事をして、面談会場になっている隣の教室に入る。向かい合わせで並べられた四つの机で対面するように、教師と父が話していた。
最悪だ。普段の三者面談で来るのは母だった。結局はもっと勉強しろと怒られるだけなので嫌なことには変わりないのだが、父が来るときはだいたい「悪い話」をされる時だ。
「凪くん」
「はい……」
担任教師が淡々と口火を切った。要はもっと勉強しろと言う話だ。何が悪いのだろう。別に僕は成績が悪いわけでもないし、いわゆる「問題児」たちはもっと他にいるだろう。
「お父さん、凪くんは非常に優秀な生徒です。だからこそ、もっと真剣に勉強に向き合って
頂きたい」
父は何も答えない。父は寡黙ではないが、多くは語らない方だ。総合商社に勤めている父は出張などで何日も家を空けることが多く、家で会話をすることもそう多くはない。
だからといって仲が悪いわけではないのだが、正直、少し怖かった。
「学習に対する態度は、正直良いとは言えません。しかし、今からしっかりと勉強すれば難関校で特待合格すら狙えます」
担任の数学教師は僕の模試成績が印刷されたつるつるの紙を机上に広げた。上半分が科目ごとの点数、左下が偏差値、そして右下に合格可能性。アルファベットの判定が書いてあるけど、これらの模試結果に興味などなかった。
ただひたすら俯いて、担任の話が終わるのを待つ。学校の勉強についていけないわけではないし、むしろもう少し難しくても良いとは思う。それでも、だからといってこれ以上勉強をしたいわけではなかった。
「わかりました」
次に口を開いたのは、父だった。
「つまり凪の状態をこのままにしておくことは望ましくなない、ということですね」
「――そう、そうです!逆に考えれば、環境さえ変えてあげれば凪くんの成績も――」
「私は成績のことは言っていません」
父が、担任の話を半ば遮るような形で切り出した。
「先生は先程から凪の成績と態度のことばかりおっしゃっているが、この成績のどこに不満があるのでしょう」
そう言って父は全国模試の成績表を指差した。
「現状での難関校合格可能性は十分にあり、校内順位も一桁だ。そこで先生が成績成績とおっしゃる理由が分かりかねる状況ですが」
「ええ。確かに数字だけで見れば現状は良く見えます。ですがこれは夏休み前の数字です」
あくまでも冷静に、教師が切り返す。子供ながら、その表情は「想定内」なのが分かった。
「夏は受験の天王山とも言います。受験生たちは皆、夏休みの時間を使って一気にギアを上げます。これを使えなければ、他の受験生との差が大きく開いてしまうのです」
「ふむ……」
父は担任からの話に僅かにうなずき、考え込む素振りを見せた。
「実は私が明日から海外に赴任することとなりましてね、先生から電話でお伺いしたときは凪の状況が悪いように聞こえたものですから。しばらく息子の面倒を見れませんが、彼なら心配ないでしょう」
特に驚くことはなかったが、父が明日から海外に行くというのは初耳だった。
「海外ですか。なるほど……確かに、ご不安に思われる部分もあるかもしれません」
わざとらしく同調した担任は、つり上がった口角を隠せずに話を続けた。
「そこでご提案させていただきたいのが、夏期講習です。多くの進学校も同様に夏期講習を実施しますが、弊校の夏期講習プログラムは特別です」
担任は暗唱するかのように続ける。
「生徒の学力ごとにカリキュラムを設定し、理想的な学習プログラムをご案内できます。
お子様の夜間の勉強を手助けする寮が、学校の近くにございます。寮では栄養バランスに優れた食事が提供され、夜間も寮には指導講師二名が常に滞在、不安な分野を――」
「もう結構です」
父が、担任のセールストークをばっさりと切り捨てた。
「凪にその夏期講習は必要ありません」
「で、ですが」
「必要ないと申し上げました。おそらくですが、凪の成績を伸ばすのに必要なのはこれ以上の拘束と勉強ではない」
父が、珍しく怒っていた。いや、正確には怒っているように見えたのかもしれない。
「私が留守にするこの夏休みの間、凪は九州の親族の家に預けます」
「九州、ですか……?」
悔しいが、担任とまったくの同意見だった。正直、夏休みの間父が海外に行くことすら今日初めて知った。普段寡黙な父のことだ。だが多忙な父が突然家を空けることは珍しくない。
それよりも、「九州に行く」ということの方が衝撃だった。
「凪も今まで息苦しい部分があったのでしょう。勉強ならどこでも出来るでしょうし、心身ともにリフレッシュしてもらおうと思います」
「そんな、夏期講習はまったく受講しないのでしょうか……」
「そのつもりです。凪が希望するならその限りではないですが」
「凪くん、夏期講習は当然受けますよね?」
担任が困惑した表情で聞いてきた。
「いや、僕は……」
うつむいたまま、父のほうをちらりと見上げた。
正直、どちらでも良かった。夏期講習を受けろと言われれば受けるし、九州へ行けというのであれればそれでもよかった。子供ながら、面倒くさい性格だと思う。
「いま、どちらか選びなさい。もう大人に委ねず、決めることは自分で決めなさい」
父が語りかける。苦しかった。勉強のために椅子に縛り付けられるのも、何かを言われて従うことも苦ではないと思う。でも、自分のした選択で損をしたり、失敗したりするのが怖かった。
たぶん、楽なのは学校の寮に入って夏期講習を受けることだ。満たされないかもしれないが、先生が言う「成績を上げる」という目標に対しては確実に近づけると思うし、それ自体を父も悪くは思わないだろう。
じゃあ九州に行くのは?遊ぶってこと?一ヶ月もの間、知らない場所で何をするのだろう。
足を踏み入れるのが怖い。でも、少し、ほんの少しだけ、現状を変えられる気がしたから。
「行ってみようと思います、父さんが言ってた、九州に」
肩をすぼめながら、かすかな声で呟いた。
もしこれが二人に聞こえなかったら、言ってないことにしよう。そんな予防線も張ったが、杞憂に終わることになる。
「決まりだ。良く決断したな」
「凪くん!お父さん!正気ですか!」
担任は思わず立ち上がった。
「他でもない、凪が選んだことです。先生が心配するのもわかりますが、少しだけ、凪を信じてはくれませんか」
「しかし……」
「それでは、私は飛行機の時間がありますのでこれで失礼します。凪の面倒を見てくれて、
先生にはいつも感謝していますよ」
言葉に詰まる担任を気にもとめず、父は席を立った。父に促されるように、僕も席を立つ。
「そんなところで遊んでいたら、他の生徒に抜かされてしまいますよ!せっかく、難関校への特待合格も夢じゃないのに!」
教室を出る間際、嘆きにも似た叫びが聞こえてくる。
「凪なら心配いりません。それに、机に向かうことだけが学びではない」
食い下がる担任教師に対し、父は冷静に、もう一度釘を刺すと、
「ああ、後――」
最後にもう一度振り向き、
「私の故郷は良い所だ」
余裕の表情で睨みを効かせるのだった。
がらがらと教室の扉が閉まると、肺の中で固まっていた空気の塊が外に押し出されていくような開放感を感じた。
校門を抜け、イチョウ並木の木漏れ日の下をゆっくりと歩いた。
父と通学路を歩くのは、新鮮な気分だ。生まれてからずっと東京で育った僕は、他の地方に行ったことがない。
他の学校では修学旅行や林間学校なんかで遠くに行くこともあるらしいが、少し前に流行した感染症の対策を言い訳に、僕の学校では廃止された。
特に何か話すこともなく、父と肩を並べて歩く。
「凪」
すぐ横を歩く父が、おもむろに口を開いた。
「嫌じゃないか?」
やはり父は口数が少ない。「嫌」というのは何に対してのことか、考えることもなかった。
「うん」
「そうか」
「父さん、その……」
「何だ」
「あ……ありがとう」
うつむきながら呟いた。恥ずかしかった。何に対しての感謝か、それはあまり考えていなかった。しかし、少なくとも僕を守ろうとしてくれたこと、そして決断を委ねてくれた、いや、自分の意思で決断するように言ってくれたことには、感謝しなければならないと感じていた。
「凪が良ければ良いんだ。俺も口はあまり上手くないからな」
父も少しだけ、気恥ずかしそうに笑っていた。
結局、似た者同士なのだろうなと思う。僕も両親に学校生活のことを多く言わないし、父もまた多くを語らない。母さんは結構おしゃべりだけど。
僕の家庭が「お金持ち」かどうかは分からないけど、たぶん恵まれている方ではあると思う。両親の仲は良いし、家庭も厳しくはない。
親に対する不満が無いかと言えば違うけど、友達から聞くような「うざい」と感じることはほとんどないと思う。
僕の家は、駅からも学校からもほどほどに歩くマンションだ。真新しいという訳ではないが、結構きれいだし、不満は無かった。
鍵を開けた父に続くように部屋に入り、自室に戻る。鞄を置いて汗ばんだシャツを脱ぎ、
肌着とまとめて洗面所の洗濯かごに入れる。
いつも通りシャワーを浴びてからくつろごう、なんて考えていると、
「何してるんだ、出かけるぞ」
キャリーケースに手をかけた父が、不思議そうに訪ねてきた。
「出かけるって、今から?」
思わず呟く。確かに「飛行機の時間がある」と父は言っていたが、まさか今日とは……。
「そう言えば母さんは?」
「母さんならもう成田にいるぞ」
「というか、僕はどうやって九州に行けば――」
「ああ、そうだったそうだった」
父は履いていた革靴を一度脱ぎ、書斎に入っていったかと思えば一通の封筒を手渡してきた。
「これは?」
「十万。そこに入っている。交通費含めて、好きに使いなさい」
「十万!?」
思わず声が裏返った。そんな大金は手に持ったことがない。
「あとこれを。門司の地図だ。この印のところを尋ねれば大丈夫」
「もじ?」
「門司港。九州の一番北だよ。新幹線なら小倉から。飛行機なら博多からだな」
「全然わからない」
「ははは、まあ分からなければ調べたり聞いたりしてみなさい」
父はここぞとばかり、豪快に笑った。
「早く着替えなさい。戸締まりするから」
促されるまま、あわてて制服のシャツを着直して玄関先の父に続く。
がちゃりという音とともに、怠惰な僕の拠点は手の届かぬ存在と化した。
エレベーターの中で、父と再び無言の間が訪れた。その静寂を破ることもなくエレベーターはエントランスフロアへ到着し、僕らをその狭い空間から押し出した。
「じゃあそういうわけだから」
「は?」
父を乗せ、さっそうと走り去るタクシー。てっきり空港や駅まで一緒に来てくれるものだと思っていた僕は、完全に面食らって立ち尽くした。
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