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3章 藤枝宮子(ふじえだみやこ)

第24話 運命のバゲット

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俺は焼きたてのフランスパンを口にくわえて、杏子に言った。

「ふぉえふぉふふぁえふぁふぁふぁふぁいふぉうふぃ」

「全然聞き取れないんだけど」

聞き取れないなら仕方ない。俺はパンから口を離した。
パンには小さく可憐かれんな歯形がついている。

「これをくわえながら、会長にタックルするんだよ。
 いわゆる『遅刻遅刻~メソッド』だ! これで運命の出会いを果たす!」

「出会いも何も、毎日会ってるでしょ! ていうか、そんな奇行がどこの世界でいわゆってんのよ! フッツーに嫌われるわよそんなの!」

「キライはスキの起爆剤なんだぜ?」

俺がウインクをしながらキメ顔で言うと、手元の鞄からネクロノミコンの声がする。

「見る限り機雷きらいで自爆って感じだが」

「うるせえ、黙って見てやがれ!」

俺は再びパンをくわえ、家庭科室を飛び出した。

「ちょっと待ちなさい!」

杏子が追いかけてくるが、100メートル9秒のミミコちゃんダッシュに勝てる者などこのクリスチナ女学園には存在しない。
渡り廊下まで走って中庭を覗くと、すでに会長の姿はなかった。

掃除の時間が終わってから、次の授業が始まるまでの結構長い休みの間、会長は教室へは戻らない。城ヶ崎の情報によると、洋館の生徒会室でお茶をたのしんでいるのだろうということだ。

今までは、いこいのひとときを邪魔するまいと、この時間のアプローチは避けていたけれど、キスの残り期限はあと4日だ。躊躇ちゅうちょしているいとまはない。

俺は低い青楓あおかえでの並木を走り、水色の洋館の扉を抜け、パンをくわえたまま階段を駆け上った。

こくこくぅ~☆」

リースのかかった扉をばんと開くと、案の定会長は円テーブルで紅茶を飲んでいるところだった。いつものように、隣には里奈りなさま。

会長は氷のような切れ長の目で俺を見上げている。女子高生離れした冷たい眼力に、こちらの鼻先からつららが垂れそうだ。

俺はパンをくわえたまま会長にソフトなタックルをかまそうと身構えた。
しかし、何かが間違っているという違和感に体が動かない。

タックル――どうやってタックルすればいいんだ?

里奈さまを巻き込むわけにはいかないから、円テーブルを左から回り込むようにして、椅子に座っている会長に肩からドーン。

待ってくれ、内なる俺よ。
座っている人にタックルはおかしくない?
いや、おかしくはない。だって遅刻しそう(だという設定)なのだから。
遅刻しそうなら仕方がない。現代社会では時間を守るためにはあらゆる行為が正当化されるのだ。

――つまり、遅刻遅刻タックルは社会の常識。

いかに唯我独尊の生徒会長と言えど、社会通念にあらがうことはできない。常識という名の怪物に恐れおののくが良いわ!

俺は圧倒的社会常識によって会長を手込めにすべく身構えたが、いっそう鋭くなった会長の視線に、危うくくわえたパンを落としそうになった。

会長はカップをソーサーに置くと、赤唇せきしんの薄いくちびるを開いた。

「階段をばたばた駆け上がる、ノックも挨拶もなしにドアを開ける、食べ物を口にくわえたまま喋る。クリスチナ女学園では、幼稚科ようちかの子でもやらないことよ。常識だと思っていたけれど、それもわからないなら幼稚舎ようちしゃを見学していらしたらどうかしら。今すぐにでも」

常識が、常識をくつがえしたというのか。
俺はくちびるを奪いことに焦る余り、より高次の常識を視野に入れていなかった。淑女は、たとえ遅刻しそうでも走ってはいけなかったのだ。

俺は悔しさにフランスパンを握りしめた。

「くっ、やられたぜ」

「……何が?」

いつもは優しい里奈さまが、ちょっと素に帰った様子であらせられる。ちょっと泣きそうになってきた。

会長はそんな俺を見てため息をつく。

「そもそも、ひこくひこくって、あなたは何のことを言っているの?」

「ひ、被告人前へ!」

「今この場で一番罪深いのはあなたでしょう」

苦し紛れに返したボレーが、鋭いスマッシュになって返ってくる。

「いえ、そうではなくて、遅刻しそうだなって」

「遅刻って、生徒会棟の2階がどこへ繋がっているというのかしら」

「それは……そう、異世界の扉です。異世界に飛ばされてチートなハーレムを」

「あなたは何を言っているの?」

絶対絶命、このまま踵を返して逃げ帰ろうかと思ったところで、たんたんたんと階段を昇る音が聞こえてきた。

「ごきげんよう、失礼いたします!」

ポニーテールを揺らして現れたのは杏子だった。家庭科室で勢いに乗っていたときは、邪魔されそうな気がして逃げてきたのだけれど、精神的マウントポジションでボコボコにされている今となっては、ありがたい助け船だ。

「すみません、うちのバカがご迷惑をおかけして!」

杏子は俺の後ろ頭を掴むと、ムチウチになりそうな勢いで何度も頭を下げさせた。ミミコちゃんの頑丈ボディーじゃなかったら、首の骨が外れてしまいそうだ。けっこうな勢いにクラクラするが、そのまま「ごきげんよう」とスムーズに戦略的撤退ができそうだった。いやいや、何を逃げようとしてるんだ俺は。

――そこまで考えたところで、俺の頭を掴む杏子の手が止まった。

俺は頭を下げさせられたまま、杏子の顔を仰ぎ見た。杏子は会長と目を合わせたまま、固まっている。見開かれた丸い目は戸惑いに震えていて、顔は茹でダコのように真っ赤になっていた。

「……杏子さん?」

そのままの姿勢で呼びかけてみるが、杏子は固まったままでうんともすんとも言わない。そうしてふたりで硬直していると、見かねたらしい会長が言った。

「いいから、ふたりともおかけなさい。何か用があって来たのでしょう? あまり時間がないから、お茶を淹れてあげる余裕はないけれど、話ぐらい聞いて差し上げてよ」

会長の言葉で、杏子がようやく口を開いた。

「……ひ」

「ひ?」

俺が見上げると、杏子は目をグルグルさせながら、

「ひつれいいたしゃますっ!」

ちょっとびっくりするくらいの頓狂とんきょうな声を上げて、ぎくしゃくと歩き出した。手と足が同時に前に出ている。懐かしのおもちゃ展とかで実演展示されているブリキのロボットみたいな奇っ怪な動きで椅子の傍らに歩み寄ると、スウェードが張ってある座面に片足を乗せた。

「……何してんの杏子?」

「すわりますっ!」

反対側の足で、思いっきり床を蹴った。椅子を抱えた杏子はすさまじい勢いで里奈さまを横切って部屋を転がり、暖炉の金属蓋に衝突した。


ドンガラガラガラガッシャーン


円テーブルの上で、カップの紅茶が波打つ。俺たちが唖然として見守る中、杏子はゆらりと立ち上がった。

「すいませんでした、座りそこねましたっ!」

あれ、座ろうとしてたの?
どう見ても椅子を相手にプロレスやってるようにしか見えなかったけど――。

杏子は倒れた椅子を担ぎ上げると、フラフラしながら円テーブルまで戻ってきた。テーブルの前に椅子を置くと、ふにゃふにゃと崩れるように腰を下ろした。結構な勢いで金属蓋にぶつかっていたようだが、丈夫な椅子だったらしく軋みもしない。

「ひつれいしました、小西杏子17歳です」

杏子の顔は相変わらず真っ赤で、大きな目の焦点はどこにも合っていない。明らかにおかしい、こんな杏子見たことない。会長の方を見ると、あれだけの出来事があったにも関わらず、澄まして紅茶を飲んでいる。

「そう、よろしく」

里奈さまも、特に驚いた様子を見せなかった。ひょっとして、ふたりともこういう事態に慣れていらっしゃるのか。

「で、何のご用かしら」

「ご用は、ご用は、あたしの好きな食べ物は鯛焼きでありまして、こしあんよりもつぶあんをより深く、深く愛しています。しかしながら、しっぽまであんが入っているものは苦手としておりまして、というのもしっぽはプレーンを楽しむところだから……」

杏子は俯いて人差し指をつんつん突き合わせながら、恥ずかしそうにわけのわからないことを呟いている。

「別段、用はないと思っていいのかしら。用もなく遊びに来たのね?」

会長は杏子より、むしろ俺を見据えてそう言った。それを聞いた杏子は、突然ぼろぼろと涙を流し始めた。

「しゅびばしぇ~ん! べちゅだんご用はありましぇ~ん! びえええええええ!」

「杏子、ほんとどうしたの? 大丈夫?」

こんなに泣いている杏子を見るのは、小学生の頃に学校で飼っていたウサギが寿命で死んだとき以来だ。俺がしばらく背中をさすってやると、ひっくひっくとしゃくりあげながらも、杏子の泣き声は徐々に収まっていった。

さすがにこの状況から、会長のくちびるを奪うまでの流れは作りようがなさそうだ。

「あの、私たちそろそろ……」

俺が立ち上がろうとするのを、会長はこっちの胸をすくい上げるような不思議な視線で制した。

「わたくしはあなたに用があるわ」

会長は、思いがけない言葉を口にした。俺は戸惑いながらも座り直す。

もうわたくしに付き纏わないでちょうだい、とかそういう類の話だろうか。確かに焦りはあるにせよ、あまりに激しくアプローチしすぎたかもしれない。これで会長のくちびるがさらに遠のいたら、あと4日でどうしようというのか。

「用と言っても、明日の話だけれど」

会長は紅茶をひとくち飲んで言った。


「わたくしとデートしましょう」


「へ?」

思わず間抜けな声が出た。部屋の空気が硬直している。
杏子は相変わらずひっくひっく言っているが、里奈さまは初めてみるような唖然あぜんとした顔で、持ち上げる寸前のカップをカチャリと鳴らした。口元に運んでいたら、取り落としていたかもしれない。俺ならカップを落とした上に口から紅茶を吹いて、会長にぶっかけていただろう。

「……あの、私とですか?」

俺がおそるおそる尋ねると、会長は当たり前でしょう、という顔で俺を見た。

「あなたに用があるとわたくしは言ったのよ。だから相手もあなたよ。もちろん無理にとは言わないけれど」

そう言うと、会長はつんと高い鼻先を窓の方に向けた。

「どうなの?」

どうなの? と訊かれても――たとえるなら、棚から落ちてきたぼた餅に脳天をぶっ叩かれたという感じで、俺はすぐに答えられずにいた。

「行くの? 行かないの? 返事をなさい」

会長は少し苛立った様子で、鋭い視線をこっちに向ける。

なんということだ。もうダメかと思っていたそのときに、千載一遇せんざいいちぐうのチャンスが訪れたのだ。あれほど俺を毛嫌いしていた会長が、何故そんなことを言い出したのかはわからない。しかし、わからなくともチャンスはチャンスだ。逃す手はない。俺は覚悟を決めて答えた。

「もちろん、お受けいたします」

俺が目をまっすぐ見て答えると、会長は長い睫毛まつげを伏せた。

「そう。では明日、駅前のバス停にいらっしゃい。
 時間は……そうね、お昼の3時がいいわ」

「わかりました、楽しみにしています」

俺は杏子の肩を叩いて立ち上がった。それに遅れて杏子も、よろよろと立ち上がる。

「それでは、ごきげんよう」

「ごきげんよう」

俺はフランスパンを握ったまま、足下の覚束おぼつかない杏子を伴って生徒会室を出た。いつもなら里奈さまからドア越しにひとこと声がかかるのだが、今日は何もないようだ。

俺はまだひっくひっくと泣きやまない杏子をローファーに履き替えさせると、そのまま保健室に向かった。クラスに目を真っ赤に泣き腫らした杏子を連れて帰ったら、どんな騒動になるか知れたものではない。

保健室に着くと、また保険医は不在だった。俺は杏子をベッドに寝かせる。掛け布団をかけて、肩のあたりをぽんぽん叩いていると、次第に落ち着いてきたらしく、杏子の嗚咽おえつも収まってきた。

――授業開始のチャイムが鳴った。

杏子さんが突然体調を崩されて保健室に、とでも言えば遅刻は不問にしてもらえるだろうか。転校1日目に使ってしまった技なのだが、実際杏子はまともな状態とは言い難いのだ。嘘じゃない。

そんなことを考えていると、杏子が突然ベッドからがばっと起きあがった。泣き腫らした目が、ベッドを隔てるパーティションを睨んでいる。

「……杏子、もう大丈夫?」

俺が声をかけると、杏子はこっちを振り向いて怒鳴った。



「なんであたしが泣かなくちゃいけないのよ!」



「いや、知らねえよ!」

俺がつっこむと、杏子は不思議そうにぐずっと鼻を鳴らした。

「そういや……ホントになんで泣いてるんだろ……」

「杏子、何が起こったのか覚えてる?」

「椅子でこけちゃったとか、頓珍漢とんちんかんな自己紹介しちゃったとかは、ぼんやりと覚えてるんだけど。なんか、会長の顔を見ると、頭がぼうっとしちゃって……」

あれがカリスマの魅力というやつなのだろうか。それにしても度が過ぎているような気がするが。なんであれ、俺はその彼女を逆にメロメロにして籠絡ろうらくしなければならない。

「とにかくは、明日のデートだ。もう時間がない」

「ハルカ、デートの約束してきたの!?」

杏子は赤くなった目を丸くした。その辺りの記憶は曖昧らしい。杏子は俺の両手をフランスパンごとぎゅっと掴んで言った。

「絶対がんばってよ! あたしのカタキとって!」

「意味わかんねえけど、ニュアンスは伝わるぜ! 任せとけ!」

あと4日で会長のくちびるを奪わなければ、俺が男に戻れないばかりか、
杏子も一生男として過ごさなければならなくなる。

杏子はそれを口に出さなかったが、彼女の命運を握るのは俺のくちびるであり、会長のくちびるなのだ。

俺は杏子に向かって頷いた。

「俺は明日のデートで会長のくちびるをモノにする!」

杏子は泣きほうけているのか、
俺の手に握りつぶされたフランスパンを複雑な表情で見つめていた。
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