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3章 藤枝宮子(ふじえだみやこ)

第17話 昼下がり、女王の憂鬱

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俺は部室の裏の水道で、まるで初めての仕事を終えた殺し屋のルーキーのように、手の皮がむけるほど手を洗った。
冷水にふやけた震える手のひらを見つめ、愕然がくぜんと呟く。

ンチンの臭いが……ンチンの臭いが取れないんだ………」

さっきからずっと口をすすいでいた城ヶ崎じょうがさきが顔を上げた。

「やめろ! 僕のはそんなに臭くない!」
「ちょっと学校で何を叫んでるの! ………あれ、れんさん?」

杏子と合流すると、道中で事情を説明しながらふたりを家へ連れ帰った。
ふたりをリビングのソファに座らせ、俺はキッチンから持ってきたミキサーをテーブルに置いた。
姉の日課はスムージー作りで、毎朝寝ぼけ眼でこの大きなミキサーに、オレンジやらセロリやらを放り込んで回している。
どれくらい大きいかというと、縦にすれば魔導書が入るくらいと言えばわかりやすいと思う。

「言い訳があるなら聞こうじゃねえか」

俺はスイッチの上で指を震わせながら言った。

「返答次第では、てめえを粉々にして紙すきでハガキにしてやる」

ネクロノミコンはミキサーの容器の中で、じたばたと触手をうねらせている。

「まあまあ落ち着きたまえ。城ヶ崎漣が男だったというのは驚きだが、彼の外見はどう見ても人間のメスじゃないか。何をそんなに興奮している」

その城ヶ崎は、杏子の隣で目を丸くしていた。

「ほんとに本が喋っている……」

杏子はそんな城ヶ崎の顔を眺めながら、

「やっぱり、どう見ても女の子にしか見えない………」
「そのスカートめくって同じ事言ってみろよ」

俺がスイッチに乗せた指に力を込めようとすると、ネクロノミコンは触手でガラスの筒の内側をぺたぺたと叩いた。

「せいぜい蛇口じゃぐちの形がちょっと違うくらいのことだろう。口づけを交わすのに何の問題がある」

「俺はにぎっちゃったんだよその蛇口を! 象さんと握手あくしゅしちゃったの! 俺はキリンさんが好きなの!」

俺は血の涙を流しながらネクロに怒りをぶつけるが、その怒りが思わぬところに飛び火した。

「………ん? 今なんて言ったの?」

杏子の丸い目がすうっと細められる。
しまった、喋りすぎた!

「なんでもないよ、蛇口に触っちゃったって話。屋外の水道は雑菌ざっきんがすごいからネ」

「漣さん、ハルカに何されたの?」

杏子は俺の弁解を聞きもせず、さながら被害者を保護した婦警ふけいさんといったような風情ふぜいで、城ヶ崎に尋ねた。
城ヶ崎はそっと目を伏せ、曲げた人差し指を赤いくちびるに当てて言った。

「キスされて……スカートに手を入れられた………」

下くちびるを噛みながら、ふるふると身を震えている。

「こいつ、自分が男を受け入れたという事実を無かったことにするために、自分を騙して被害者に収まろうとしてる! 汚ねえ! 欺瞞ぎまんです裁判長!」

俺が指をさして言うと、杏子は城ヶ崎の肩を抱きながら俺を睨みつけた。

「汚いのはあんたよ、この強姦魔!」
「誤解だ! 薄倖の美少女ヅラに騙されてる! お互い同意の上で、美しい百合空間が広がってたんだって! 男同士だったけど!」

俺は両手を広げて弁解するが、城ヶ崎は杏子に抱かれたまま涙目でこちらを見上げた。

「君はけだものだ」
「そっちも手ぇ握り返してきたくせに! おっぱいも揉んだだろ!」

俺が自分の胸を揉みながらそう言うと、城ヶ崎は下を向いて赤くなった。
その仕草しぐさの可愛いのが、なんだか非常に腹立たしい。
あんな顔してきっとトイレじゃ立ちションしてるくせに!
テーブルを見ると、ネクロノミコンはミキサーから触手を伸ばしてのそのそと這い出してきていた。

「諸君、憎しみは何も生まないぞ。愛情が何も生まないように」
「もとはと言えばてめえの責任だろうがーッ!!」

「私の眠りから覚めたばかりの探知能力では、看破かんぱできないほどに女学生になりきった変態がいたという事実が、私の意思と何か関係があるとでも言いたいのかね。原因があり、結果がある。その中の諸要素を人為じんいと自然とに振り分けることに、果たして意味はあるのだろうか? それでも私に罪を問うと言うならば、その前に私に眠りをもたらした夜を弾劾だんがいしたまえ。そうして夜を袋につめて牢屋にぶち込めばいい。さぞおもてが明るくなることだろう」

「お前、絶対に謝らないよな」

「必要があれば謝罪するとも。しかし私は生まれてから1300年一度もそんな機会に巡り会ったことがない。どうにも完璧すぎるらしい。君たちを見習いたいものだ」

「……もういい」

急にドッと疲れが出て、俺は杏子たちの向かいのソファに身を投げ出す。
城ヶ崎が顔を上げた。

「君はなぜ女になってこんなことをしてるんだ?」

「学校からの帰り道で、川に流されてたネコを助けたんだよ。そこで溺れて、気が付いたら女になってた。元に戻るには、その、そいつが言うには」

俺は、触手で自分のページをぺらぺらめくるネクロノミコンを指さして言った。

「100人の女の子とキスしなきゃいけない」
「そのために、僕にあんなことをしたのか。キスでいいなら、あそこまでする必要は………」

城ヶ崎が口ごもり、杏子がこっちを睨んでくる。
俺はいたたまれなくなって、そっぽを向いて後ろ頭をかきながら言った。

「ほらさ……流れって、あるだろ」
「最っ低」

吐き捨てるように杏子が言った。
あーんもう、言葉選びって難しい!

「わかってる、なんかガチクズ男みたいなこと言ってるの自分でもわかってる! でもなんか、夕焼けで部室がぱーってなってて、お互い見つめ合って、そしたら、そういうことになるじゃん?」

「知らないわよ」

杏子の目が、完全に社会のゴミを見る目になっている。
幼なじみのことを、そんな目で見ちゃダメなんだよ?
その隣で城ヶ崎は、自分も夕焼けマジックに陶酔とうすいしていたのを思い出したのか、ぽつりと呟いた。

「もう、この話はやめよう」
「……………」

辛い……気まずい………。
暗い雰囲気に心を持って行かれないよう、俺は無理矢理口角を上げて、床の一点をじっと見つめていた。
視界の外に、杏子の軽蔑の視線をヒリヒリと感じながら。

「反省会は終わったかね? それでは次のターゲットを発表しようじゃないか!」

空気を読めない、というかたぶん空気を読むことに意義を感じていないであろうネクロノミコンは、触手で電気をパチリと消した。
そして鳴り始める軽快な音楽と、壁と天井を踊るカラフルな光の玉。

えあるひとり目はまさかの展開! でも大丈夫、いろいろあるのが人生だから! そしてそれに続くターゲットは彼女だ!」

ぶっとばすぞこの野郎。
鳴り響く小太鼓、そしてシンバル。
光の玉が消えて、空中にくちびるを奪うべく次の生徒が浮かび上がった。

「クリスチナ女学園高等部3年椿つばき組所属! すらりとしたモデルのような長身にロングヘアーの黒髪はあでやか、その強い意思を秘めた瞳にはローマ法王も頭を垂れるであろう、学業優秀才色兼備さいしょくけんびのパーフェクト・レディだ! エントリーナンバー2番、『昼下がり、女王の憂鬱』藤枝宮子ふじえだみやこ!」

チャーン!

「もちろん期限は2週間だ!」
「だからなんなんだよそのキャッチフレーズは」

俺は空中に浮かぶ立体画像を見上げた。
こちらの背筋も伸びるような、意思の強そうな切れ長の目。
大人びた顔つきは少し冷たい印象を与えないでもないけれど、優雅ゆうがを描くくちびるが、シャープな雰囲気を豊かな品格の中に包摂ほうせつしているように見えた。
1コ上とは思えない、びっくりするほど美人のお姉さんだ。

俺は彼女の姿に見惚れながら、無意識そのくちびるの感触を思い浮かべた。
その想像のベースは、悲しいことに城ヶ崎だったりするわけなんだけれど。

「………今度は男だったりしないよな」
「もちろん。なんなら下からのアングルも見せてやろう」
「やめなさい!」

杏子が立ち上がって、ネクロノミコンの表紙をバタンと閉じると、宙に浮かんだ藤枝宮子の像は、ゆらりと揺れて消えてしまった。
俺が部屋の電気をつけると、杏子と城ヶ崎の表情が奇妙に沈んでいるのが見えた。

「どうしたんだ、そんな暗い顔して」
「宮子さま、生徒会長よ………」
「そうなんだ。そうは見えなかったけどな。高校の生徒会長なんか、お調子者がなるもんだろ?」

俺がいた男子校では、生徒会選挙は文化祭の前座のお祭り騒ぎだった。

候補者はそれぞれ、図書室にエロ本を入れる、共学にして制服を水着にする、グラビアアイドルを臨時教師として招致する等々、可能な限り頭の悪い公約を掲げて立候補する。
生徒はそれをノリと勢いだけで判断して投票。
当選の暁には、当然の事ながら公約は教師陣によって叩き潰されるという、衆愚ここに極まれり、民主主義の構造的欠陥と闇がそこにはあった。

クリスチナ女学園は違うらしい。

「全生徒の手本となるのに相応しい方が選ばれるんだ。
 つまりはこの学園の高嶺の花の最高峰」

「誰もが、お近づきになりたいって思ってる方よ」
「なるほど、いきなりラスボスってわけか。面白いじゃねえか」

生徒会長だろうがなんだろうが、ひとりの人間であることに変わりはない。
人間相手なら、俺の魅力でどうとでもなる!

「城ヶ崎、お前にはもちろん協力してもらうぞ。お前は周りから慕われてるふうだからな、会長とのご縁を作る足がかりになってもらう」

「へ?」

城ヶ崎はきょとんとした顔で俺を見上げた。

「な、なんで僕がそんな破廉恥な手伝いを!」

こいつの優等生キャラは演技じゃなかったらしい。

俺はソファの腕置きに前足を乗せて言った。

「いいのか、俺はお前の秘密を知ってるんだぜ? 
 協力できないって言うなら全部周りにバラす!」

「誰が信じるもんか」

「信じさせる手段はいくらでもある。おっぱい押しつけて、スカートにテント張ったお前を後ろから抱え上げて、学園を練り歩いてもいいんだぞ。俺はやると言ったらやる男だ」

「自分だって男のくせに! そうだ、僕だって君の秘密を知ってるのは一緒だ!」

「どうやって周りに証明するんだ?
 お前と違ってウチの動物園に象さんはいませーん!」

スカートをめくってその中身を見せつけると、城ヶ崎は真っ赤になって顔を背けた。
俺はその城ヶ崎に顔を近づける。

「だから諦めて協力しろ。お前にとっても悪い話じゃあないと思うぜ。女装して1年以上も学園にいたら、結構危ない場面が何度かあったんじゃないのか?」

「それは………」

思い当たることがいくつもあったのだろう、城ヶ崎は逡巡するように床のあちこちに目をやって、助けを乞うように杏子の目を見上げた。
杏子は俺の手をはたいて、めくれた俺のスカートを直す。

「ハルカの脅しに乗っかるわけじゃないけれど、漣さんも事情があるみたいだし。あたしも女装がバレないように協力するわ」

「だからお前も、俺が男に戻るために協力しろ」
「………分かった」

城ヶ崎はしぶしぶといった感じで頷いた。

「協力しろと言うなら、協力しよう。犬に噛まれたと思って諦めるよ。ただ、ひとつ言っておく。そのままの君じゃ、会長のくちびるを奪うなんて夢のまた夢だ」

そのままの俺――。
俺は姿見に映る自分を見た。

胸が引き寄せられるような、印象的な黒目がちの瞳。長い睫毛。
鼻筋は涼しく、くちびるは艶やか。
官能的なラインを描くブラウスと、スカートから覗くむっちりとしたふともも。
白雪姫の女王も悔しさのあまり毒リンゴで自害するほどの美少女だ。

「この俺に何の問題がある」

城ヶ崎はコップのジュースを飲んで言った。

「いいか、君は確かに美人だし、その、お、おおお、おおお、おっぱ………」

むにゃむにゃ言いながら、俯いてしまった。
かわいいなこの野郎。
杏子がその肩に手を置く。

「漣さん、無理しないでいいのよ」
「……大丈夫、ありがとう」

城ヶ崎はこほんと咳払いして、再び顔を上げた。

「まあ君はその、スタイルもすごくいい。だからこの僕を誘惑するのに成功した」

ソファから立ち上がる。

「紳士として恥ずべき事だが、僕がそんな君に身を預けてしまったのは何故だと思う。簡単だ。僕が男だからだ。これから君が挑む99人と違って」

確かに俺も、こいつチョロ過ぎ、とは感じていた。
城ヶ崎は続ける。

「男が女を見る目と、女が女を見る目はまったく違う。厳しいとか甘いとかだけの話じゃない。相手に求めるものが根本的に違うんだ。たとえるなら、君は美しい形をしたサツマイモだ。男は大好物さ。しかしいくら地が整っていようと、所詮は鼻先には泥を付けたイモだ。女の子にも、友達としてなら可愛がられるかもしれない。けれどもそれより深い関係になろうと思ったとき、女の子はその汚れを許さない」

「何が言いたいんだ」

「レディとしての所作、洗練された立ち振る舞いが君にはできていないということだ。それを身につけない限り、会長を落とすのは不可能だ」

確かに、俺はほんの1週間前までは男だった。

姉による訓練を受けたとはいえ、銀のスプーンをくわえて生まれてきたお嬢様たちと、同じように振る舞えているかと問われれば難しいところだ。

けれども、あのミミコちゃんが老若男女ろうにゃくなんにょを虜にしているように、男女を問わない普遍的ふへんてきな魅力というものもあるはずだ。

「よし、じゃあ明日早速会長に会いに行くぜ」

俺は立ち上がって宣言した。

「俺の魅力が通じるか通じないか、明日証明してやる!」
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