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プロローグ

00 猩猩緋の赤

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キリルは色彩に見惚れていた。
貴族専用の刺繍糸の店は、壁一面が色だ。
しかもグラデーションになっている。

その色の階調は美しくて。
もうDNAに、"グラデラヴ♡"って入ってる気がする。
大好きな縹色だって、水縹から深縹と、十種類並んでる♡

本当は青系や緑系をチョイスしたいのに、今日は赤。
ちょっとテンション下がってます。


店員は上得意のキリルが熟考するタイプなのを知っているから、声が掛かるまで控えてくれてる。
背後にはディナスとガルゼが立っている。

ガルゼは幼い頃からの侍従。
ディナスは護衛候補で、今は学友という身分で従ってくれている。


今日、学園で刺繍を教えるマダム・フレールに、赤い薔薇を刺す様に課題を出された。
その死んだ魚の様なギョロ目が、こっちの反応を伺っていた。

『キリル様はあまり赤系をお使いではございませんでしょう?』

我がファンドール家と派閥の違うマダム・フレールは、初めて会った時からこっちの弱味を見つけようとギンギンぐいぐいきた。
キリルは"天使"と囁かれる笑顔を、至近距離でかましてやった。

「はい。どうしても瞳に合わせて紫を使ってしまいます。いつか想う方が出来た時に、自分の色を刺した手巾をお渡しできる様にって…」

側からみてると健気で可愛い子息に見えるが、その菫色の目は無だ。
むしろ虚無と威圧を込めてやったが、さすが海千山千で学園で長く蔓延ってきたマダム・フレールは、ぴくりともせずにほほほと笑った。

そんな訳で学園の帰りにこの店に寄って、いきなりの課題を考えている。

赤。

人前なのにちっと舌を鳴らしそうだ。

色の好みくらいほっとけよな。
しかも痛いところを突いてくる。


なんでアニマにはマナーやダンスや刺繍の授業がメインなんだ。
アニムスの様に、剣や経済学の方がなんぼか楽しい。
アニマだって剣の一つも握って戦ったり、護身術くらい覚えないとダメだろう!
他人を当てにしてどうする‼︎

キリルの思考はあっちこっちに彷徨っていく。

もう、マダム・フレールが目玉を飛び出させるくらいに凄いのを刺してやる!
いっそ今度は糸を染めるところからやってみようか。
花や草で染めたら、はんなりした色合いになる。
ガルゼはそういうの得意だから、教えて貰いながら楽しくできそうだ。



外に出たら茜色だった。
夕暮れに賑やかに行き来する人が、赤と青灰色の影になって揺れる。
空は既に夜を招いて、雲の端は沈む陽に金色に縁取られて光っている。
雲は紫とオレンジに染まって赤い。

溺れる様なその赤に、キリルは自分の左手を見た。
白い手。
綺麗な爪。
公爵家の長子として、荒れも節くれ立ちもしていない。

赤い夕陽で染められた濃桃色の手には何も無い。
そう、何も無い…

「キリル様。」

荷物を持ったガルゼの声に、ふと興に乗って止めていた力を開いた。



赤い。

猩猩紅が道を覆っている。

溢れる赤。

押し寄せる赤。

見せつける赤。

細い糸なのに、数千数万と寄り集まって、街は赤く溢れている。

赤ん坊を背負った彼も。
いや、その赤ん坊からも。
パン屋の配達で走る坊やも。
呼び込みをしている兄さんも。
喧嘩しているおっさんだって。

赤い糸がその指から伸び、ぐるぐると地面に波打ち湧き立つ。


ちくしょう。
あんな赤ん坊さえ、糸を引き摺ってやがる。

ちくしょう。
横幅がワイン樽より大きい爺さんだって、赤糸でぐるぐる巻きだ。

すべての人が相手を求めて、相手と一緒に赤い沼に浸かっている。


…‥よせばよかった。

キリルは力を解放したのをすぐに後悔した。
全ての人はその手から蝶の口吻のように赤い糸を伸ばしている。
そう、白いのはキリルだけ。


やるせなさがぎゆぅんと迫ってくる。

見なきゃよかった。
自分だけが、影の無い怪物になってる気がする。

人の繋がりを見せつけられる事に心が冷えて行く。
見なきゃ良かった。
自分の様な怪物はこの世にたった一匹しかいない。



振り向くとディナスは様子のおかしいキリルを案じて眉を下げていた。
その優しい顔にちょっときゅんとして。
安堵と甘いものがゆるゆるひたひた沁みてくる。

でもすぐに冷水を浴びた様にぎゅっとなった。


ディナスの指には赤い糸がある。
買い物だと遠くへ連れ回すたびに、それはズルズルと伸びて決して切れたりはしない。

その糸がどこへ伸びているのかわかってるのに…



ああ、赤い。

夕陽に照らされて人も店も街も、ただ赤い。
それは毒々しいばかりに猩猩紅に染まっている。


キリルはぼんやりとそれを見ていた。


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