はるになったら、

エミリ

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第二十一話

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 新学期。
 センター試験に大学入試と、一大イベントを控えた三年生の教室は、二学期ほどの活気はなかった。
 春は朝イチで進路調査の紙と、専門学校の出願書類を職員室に持っていった。
 すでに登校していた担任は驚いた顔をしていたが、春が本気だとわかると、大きな手で背中を押してくれた。物理的に。
「……いってぇな、思いっきり叩きやがって」
 背中をさすりながら教室に戻ると、何人かに声をかけられる。
 ただの挨拶にしては妙な反応があったので気になったが、春はすぐに自分の席に着いた。
「ハル、久しぶり」
「おー、久しぶり暁人」
 暁人とは休み中も頻繁に連絡を取っていたので、久しぶりな感じはあまりしなかった。
「ん? どした?」
 一限の準備をする春を暁人がじっと見つめているので、春は時間割を凝視する。
「いや、間違ってないだろ? 今度こそちゃんと現文──」
「ハル、嬉しそうだなと思って」
 そういう暁人も嬉しそうにニヤニヤしている。
「にしし、嬉しいに決まってんだろ! ……まあ、緊張はするけど」
「ハルなら大丈夫だよ。バイト、明日からだっけ?」
「うん」春の笑顔が少しだけ翳った。「大丈夫かな……おれ、ホントに何もわかってないし……」
「大丈夫だよ。俺が保証する」
 どこにそんな根拠があるのかはわからないが、春は暁人の力強い声に励まされた。
「ありがと、暁人」
 そうしている間に、一限の予鈴が鳴る。
「ところでハル」
 暁人が席を立つ。呆然とする春を尻目に、クラスメイトの大半が暁人と同じ行動に出ていた。
「行かないの? 始業式」
 春は現代文の教科書とノートを机に仕舞った。


 昼休み、春は暁人と地学準備室にいた。
「か、賭け……?」
 朝からクラスメイトたちの妙な視線が気になっていた春は、そのことを暁人に尋ねていた。
「そう。暁人がまた髪の毛変な色に染めてくるんじゃないかって、みんなで賭けをしてたんだよ。ま、勝ったのは俺だけだったみたいだけど」
 その時、地学準備室のドアが勢いよく開いた。
「あら、私も勝ったんだけど」
 毬子は、二人の近くに椅子を引き寄せて座った。
「で」春は毬子と暁人の顔を交互に見ながら聞く。「勝ったら何がもらえるんだ?」
 二人は顔を見合わせて、同じようにニヤリと口角を上げた。
「「春に髪を染めてもらう権利」」
「え」
 春は、他のクラスメイトたちがなぜ賭けに負けたのかわかった気がした。

 毬子と暁人を除くクラスメイトたちは、春がカリスマ美容師の弟子になったことを知らない。みんなはまだ、他人のことを気にする余裕がないようだった。
「私、留学するんだ」
 それは突然だった。弁当を食べ終わった後、三人で窓際に寄りかかっている時に、突然毬子がそう告げた。
「え……」
 毬子が自分の進路について語るのは初めてだったので、春も暁人も驚いた。
「日本は私には狭かったわ」
 開き直ったように背伸びをする毬子。
「毬子らしいね」
 暁人は笑っていたが、そう言う暁人もどこか寂しそうだった。
 昔から、毬子はなんでも自分で決めてなんでもやってしまう。こうと決めたことを曲げたことはなかった。その行動力や決断力が、時に羨ましく、時に眩しく見えた。
「あれ……」
 春は、毬子と喧嘩をした時のことを唐突に思い出した。あれは確か小学生の頃。口喧嘩では到底敵わず、あの頃は体格でも劣っていたので一発KOされてしまった。泣きながら家の近所の公園に行くと、そこには先客がいて──
「ハル?」
「ハルが考え事なんてめずらしい。雪でも降るんじゃないの?」
「……お前らな」
 春の考え事は、その直後本当に空から雪が落ちて来て、見事に中断されてしまった。
「やば、次体育じゃん。受験勉強で凝り固まった脳みそをほぐす大事な大事な体育じゃん! 寒さだって吹っ飛ばしちゃうんだから!」
 真っ先に、毬子が準備室を出て行った。
「さて、おれらも着替えに行きますかね。……ん?」
 毬子の後を追いかけようとした春は、暁人が窓際を動かないことに気づいて振り返った。
「どした、暁人?」
 暁人は窓の外を見下ろしたままだ。
「ハル、俺は──」
 その時、予鈴が鳴った。鳴り終わった後にもう一度暁人に尋ねたが、暁人はなんでもないと言うだけだった。



 ***



 春が千羽の店でバイトを始めて約一ヶ月。
 最初は春のことを胡散臭そうに見ていたスタッフたちだが、意外と仕事の覚えや要領が良い春に対して、少しずつ心を開いていった。
「ハル君、ここ片付けたらトリートメント補充しといてくれる? 昨日納品されたのがまだ箱に入ってるから」
「あ、はーい」
 千羽が意外だったのは、清水と春の関係だ。以前から因縁があったので、関係が修復されるまでは時間がかかると思っていたのだが……。
「店長、何突っ立ってるんですか? 暇なんですか?」
「おーいてんちょー、この後出かけるんだろ? 手だけは動かせよー」
「……」
 この店で千羽に口出しができるのは、副店長であり、新年度から店長になる清水だけだった。それが、今や口を出してくるやつが単に二倍になったわけではない。
「あ、そうだハル君。来週の飲み会、絶対店長も連れて来てね。店長ったら、お金出すだけで今まで一度も来たことないんだから」
「えー! まじかよ。てんちょー、日頃からお世話になってるスタッフさんたちにはちゃんと感謝の気持ちをだな」
「……はいはい、口に出して言えってんだろ」
「わかればよろしい!」
 春と清水は互いに顔を見合わせて笑った。
 気がつけば、店にいた他のスタッフや客まで笑い合っている。
 季節はまだ冬なのに、店内は暖かさに満ちていた。いつも忙しさにかまけて殺伐としていた店内に、春が新しい風を吹き込んでくれたようだ。
 若干やりにくさを感じながらも、千羽も内心微笑んでいたのだった。


 午後。この日、千羽は初めて春を外の現場に連れ出した。
「そう緊張するなよ。今日は別に、何かをするわけでもない」
「うん……そうなんだけど」
 春は、千羽のキャリーケースを引っ張る手が震えるのを感じた。
 名目上は千羽のアシスタントだが、まだ仕事はできない。今日も、ただ現場の空気に慣れるための見学だった。
 千羽がスタッフ証を春に渡す。春はそれをすぐには付けずに、しばらく見つめていた。
「……何か、することある?」
「何もしなくていい。あ、でもそうだな……今日は撮影する人数が多いから、待ち時間暇してるモデルの話し相手にでもなってやってくれ」
「う、うん……」
 春は、とんでもなく高飛車で、スタッフたちを奴隷のようにこき使っている化粧の濃い女性を思い浮かべた。
 高いピンヒールでカツカツと早足に歩くそのモデルは、春のことを見下ろしてこう言う。
「邪魔」
「えっ……?」
 春は、千羽に二の腕を引っ張られて壁際に張り付いた。春が持っていたキャリーケースは、いつの間にか千羽が持っている。
「ぼーっとするな。行くぞ」
 春はそのまま千羽に引っ張られて廊下を進んだ。
 これではまるで、春も千羽の荷物の一部のようだ。そうは思いながらも、何かから逃げるようにものすごいスピードで廊下を突っ切る千羽には、何も言えなかった。
 そんな春たちの後ろから、同じように猛スピードで近づいてくる音があった。
「ごめーん! ちょっと通してー!」
 千羽は立ち止まって再び壁際に寄る。その様子を見るに、この音から逃げていたわけではなかったようだ。
 猛スピードで近づいて来ていたのは、衣装がたくさんかかったラックだった。
 ラックを引っ張っていた小柄な女性は、千羽と春の前で急停止した。
「あれ、千羽くんじゃん! ……と、あれ?」
「あ、暁人のおねえさん!」
 暁人の姉奈津子は、忙しい両親の代わりに授業参観などの学校行事にも来ていたので、春ともよく会っていた。暁人の自宅に遊びに行った時、一緒にゲームなどをして遊んだこともある。奈津子は、一人っ子の春にとっても姉のような存在だった。
「お姉さん、なんでここに? 洋服関係のお仕事してるんじゃ……」
「うん。洋服関係の仕事、だよ」
 奈津子は得意げに、ラックを指してウインクした。
「なーんだ。どうりで暁人が千羽さんのこと知ってるわけだよ。仕事で一緒だったんじゃん」
「あ、ああ……」
 千羽はというと、春と目を合わせようとしない。
 その理由は、すぐにわかった。

「姉さんだけじゃないよ」
 洋服ラックの後ろから顔を出したのは──
「あ、暁人!?」
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