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三限目 及ばぬ鯉の滝登り

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 さてさて。今回の落ち――というか後日談。
 特別講習が終わった翌日。俺は結月と共にベッドの中で目を覚まし、結月と一緒に我が家の食卓で朝食を食べ、その後は俺の部屋でいつも通りに結月と一緒にのんびりとして過ごしていた。
(お泊りと言いながら、一体いつまで俺の家で過ごすつもりだ……)
 と思ったが、結月はいつだって学校に行っていない時間の大半を俺の部屋で過ごす。学校が夏休みになれば、結月が俺の部屋に入り浸りになるのは当然の流れだった。
 昼食を食べ終わり、夕方近くになった頃にインターフォンが鳴り、結月と一緒に部屋でだらだらしていた俺は、母さんから一階に下りて来るように呼ばれた。
 もちろん、結月も一緒にだ。
 俺と結月が一階のリビングに顔を出すと、そこには母さんと小夜子さん。俺達の担任の先生と秀泉の校長先生。更には、見たことのないおじさんとおばさんの姿があった。
 おそらく、犬神の両親だと思われる。
 俺と結月が二階から下りて来るなり、犬神の両親とおぼしき二人はソファーから立ち上がり、俺達に向かって深々と頭を下げてきた。
 やはり犬神の両親だった。
 二人の顔はすっかり憔悴しきっていて、自分の息子が起こした事件のことで、昨夜は一睡もできなかった様子である。
 別に犬神の両親に殺されかけたわけでもない俺は、自分の息子と同い年の若者にひたすら頭を下げて謝る犬神の両親の姿が、何だかとても可哀想に見えてきてしまって
「別にもういいですよ。俺と結月もこうして無事ですし。犬神が反省をしているっていうなら、もうそれでいいことにしますから」
 なんて、ここでもお人好しでしかない言葉を口にしていた。
「ええ、ええ、それはもう……。本人も酷く反省をしていますが、でも……」
「ならいいです」
 正直、犬神が本当に反省をしているのかどうかは怪しいところである。反省をしているというのであれば、どうして親や学校の先生と一緒にここへ来て、俺や結月に直接謝らないんだろう、と思う。
 が、ぶっちゃけた話、俺は犬神が反省をしていなくても構わなかったりする。
 元々、犬神は俺達と仲良しだったわけではないし、今後も仲良くする予定がない。
 一方的に結月をライバル視して、結月や俺に絡んでくる厄介者だったわけだから、俺達に悪いことをしたと思っていなくても、今後一切俺達に関わらないのであればそれでいいのだ。
「……………………」
 俺があっさり犬神の罪を許す発言をしたものだから、隣りにいる結月から呆れた顔で睨まれた。
 が、ここぞとばかりに俺を責めてくる発言はしなかった。
 そもそも、結月は身内以外の人間の前では極めて口数が少なくなる奴なのだ。今だって、俺と一階に下りて来た時から、一言も言葉を発していない。
「それで、犬神はどうしているんですか?」
 本当ならば、今この場に一番いなくてはいけない人物のように思う犬神の様子を、犬神の両親に尋ねてみた。
 結局、昨日は錯乱した犬神が正気を取り戻す姿を見ていないのだが、一晩経って少しは落ち着いただろうか。
「それが……どうやらすっかり精神をやられてしまって……。部屋に籠ったまま全く出てこなくなってしまったんです」
「そうですか……」
 マジか。重症じゃん。大丈夫か? 犬神。
 学校に親を呼び出され、親や学校の先生と話すことで、少しは気持ちも落ち着いたかと思っていたのに。
 もっとも、犬神は自分が俺を屋上から突き落とそうとしたことで精神をやられたわけではなく、実力テストで俺に負けたことと、学年二位から四位に転落したことで、精神をやられてしまったのだと思われるが。
 だって、俺を屋上から突き落とそうとする前に犬神は豹変した。その時から、犬神の精神が崩壊してしまったと見るのが普通だろう。
 しかし、そんな状態では夏休み明けに犬神が学校に出てくるのは難しいような気もする。
 夏休みの間に犬神の精神状態が回復すれば問題ないが、あの事件は目撃者も多く、新学期が始まっても話題にする生徒はいるだろう。
 当然、同級生を屋上から突き落とそうとした犬神に対する視線は冷たくなるだろうから、犬神としては学校に居辛い状況になってしまいそうだ。
 ……って、俺は犬神の心配ばかりしているが、俺と結月だって、新学期が始まれば注目の的になる可能性はあるんだよな。物凄く嫌だけど。
「犬神には学校を辞めてもらうことにした。学友を屋上から突き落とそうとしたことへの罰は必要だし、本人のためにもそのほうがいいと思ったからな。犬神も素直に承諾した」
「え……」
 何ですと? せっかく新学期からの犬神を心配してやったというのに。犬神は秀泉を辞めることになっていた。
 そうなると、今度は俺と結月が学校に居辛いというか、生徒達からの注目を一身に浴びることになっちゃうじゃん。
『そこは根性出して通い続けろよ! それが自分の犯した罪に対する償いってものだろっ!』
 と言いたくなる。
「それと、今回の件で屋上の柵を今の柵から高さ三メートルのフェンスに替えることにした。早速、明日からその工事が始まる。今回のような事件はもう二度と起こさせないよう、屋上に監視カメラを設置することにもした」
「はあ……そうですか……」
 たった一日の間に何やら大事おおごとになっているな。まあ、秀泉学院校舎の屋上の柵が低過ぎるというところは、もう少し早く手を入れておくべきところだったようにも思うけれど。
 でも、今まではそこを問題にする必要もなかったのだろう。
 名門で有名な進学校である秀泉は、優秀な生徒ばかりが通っているせいか、これまで何かしらの問題が起きた話は一度も聞いたことがない。屋上の周りに張り巡らされている柵が低いからといって、それが危険に繋がることもなかったのだろう。
 しかし、〈優秀な生徒は問題を起こさない〉という定説は今回の件で崩され、学校としては校舎全体の安全性を見直すことになったと思われる。



 その後、重苦しい空気の中、俺と結月と母さん達。犬神の両親と学校の先生との会話は一時間ほど続き、犬神の両親は事あるごとに俺と結月に謝りっぱなしだった。
 うちを出て行く時でさえも、俺達に向かって深々と頭を下げていた。
 そりゃまあ、自分の息子が殺しかけた相手と暴力を振るった相手だからな。親としては申し訳なくて仕方がないのだろう。
 でも、たかがテストの結果で精神が崩壊してしまった息子のことだって心配なはずである。
 秀泉を去ることになった犬神のこれからがどうなるのかは知らないが、秀泉でのことは綺麗さっぱりと忘れて、別の学校で楽しい高校生活を送れるようになればいい、と思う。
 しかしまあ、どうして犬神も俺なんかと勝負をしようと思ったのだか。
 当初の予定通り、秀泉に入って一度も勝ったことがない結月と勝負をしていたのならば、勝負に負けても犬神の精神が崩壊することはなかったのに。
「ま、あの眼鏡の精神状態は元々危うかったと思うから、遅かれ早かれこういう事になっていたとは思うんだよね」
 犬神の両親と先生達が帰ってしまった後は、再び俺の部屋に戻ってきた俺と結月。
 部屋に戻るなり、結月は溜息混じりにそう言った。
「どういう事だ?」
 俺の部屋に戻って来るなり、もそもそと俺のベッドの中に潜り込む結月に、俺はベッドの外側から聞き返す。
 おいこら。いきなり人のベッドで勝手に寝ようとするな。
 今朝は休日の結月にしては早起きだったので、そろそろ眠気が押し寄せてきたのかと思ったが、結月は俺のベッドに潜り込んだだけで、顔は布団の外へ突き出し、俺の顔に視線を注いでいた。
「だって、あの眼鏡は秀泉でも自分が一番になれると思っていたわけでしょ? 昔から優秀だと褒めそやされていたみたいだから、秀泉学院で一番になることが、あの眼鏡にとっては当然のステータスだったはずだよ。ところが、期待に胸を膨らませて入学した秀泉には僕がいた。入学式での新入生代表の挨拶は自分に回ってくるものだと思っていた眼鏡は、入学早々、華々しい高校デビューの出鼻を挫かれ、さぞかしはらわたの煮えくり返る思いをしたことだろう」
「ほう……なるほどな」
 言われてみればその通りだ。
 あの、如何にも「自分は優秀である」と周囲に人間に言い触らしていた犬神が、高校に入って〈自分が一番になれない〉だなんて思っていたはずがない。当然、優秀な生徒が集まる秀泉でも、自分が一番になれると思っていたに違いない。
 きっと、結月の言ったように、入学式での新入生代表の挨拶が、犬神にとっては輝かしい高校生活の始まりだったに違いないんだ。
 まあ、実際に今年の秀泉の入学式で新入生代表の挨拶をしたのは、入試を一番でパスした結月ではなく、死ぬ物狂いで勉強を頑張った末、どうにか秀泉に合格することができた俺だったんだけどな。
 もしかしたら、犬神が俺のことを気に入らない理由は、一番でも何でもない癖に、自分に回ってくるはずの役目を奪ったことに対する恨みも含まれていたのかもしれない。
 だとしたら、結月は本当に迷惑なことをしてくれたものである。
「おそらく、その時から既に眼鏡の精神崩壊は始まっていたんだよ。でも、どう考えても満点を採ることが難しい秀泉のテストで全科目満点を採ってしまう僕の存在には敵わない。というか、最早別格だと認めるざるを得なかったんだろう。そこで、眼鏡は僕を崇拝することで、何とか自分の精神を保つことに成功した。幸い僕は頭がいいだけじゃなくて見た目も可愛らしいから、僕に特別な感情を抱くことで、僕への恨みや憎しみを帳消しにすることにしたんだ」
「……………………」
 何だ、それ。すげー自慢してくるじゃん。
 そりゃ確かに結月の勉強における能力は別格だと思うが、崇拝するほどか? って感じだし、自分の見た目を自ら〈可愛らしい〉と認めるあたり、ナルシスト具合が酷いじゃねーか。
 まあ、事実ではあるんだけれど。
「ところが、そうなってくると今度は御影の存在が気に入らなくて、目障りにもなってくる。眼鏡は僕に執着する反面、常に僕を独占している御影のことが邪魔に思えて仕方がない。だから、御影に勝負を挑み、自分の障害を取り除こうとしたわけだよ」
「え? ちょっと待て。じゃあ、犬神は最初から俺と勝負するつもりだったってことか?」
「うん。そうだよ。だって、最初からそのつもりがなくちゃ、どう考えても楽勝だと思う相手に勝負なんて挑まないでしょ。あの眼鏡は僕をライバル視していると見せかけて、本当の狙いは御影の排除だったんだよ」
「そんな馬鹿な……」
 結月の推理が当たっているとは思えなかったが一考の価値はある。
 確かに、どう考えても明らかに学力に差がある俺に犬神が勝負を挑んでくることは不自然だし、普通に考えたら勝負にもならない。
「眼鏡は御影の代わりに僕を独占することで、自分の精神の安定を図ろうとしたんだよ。僕に勉強で敵わないぶん、僕と親密な関係になることで、自分の劣等感を忘れようとしたわけさ。で、手っ取り早く僕を自分のものにするためには、御影に勝負を吹っ掛けて、御影を僕から奪おうと考えた」
「はあ……そういう事?」
 何かもう……段々結月の言っていることが本当のように思えてきた。辻褄が合っているように思えてきたよ。
「それなのに、眼鏡は己を過信するあまり、格下だと思っていた御影にまで負けてしまった。ただでさえ僕に負けていることを心のどこかでは認めたくない眼鏡は、格下の御影にまで負けてしまったことで、完全に精神が崩壊したってわけ。で、あの愚行」
「愚行ってなぁ……こっちは殺されかけたんだけど?」
 事実、たかがテストの結果如きで人を屋上から突き落とそうとした行動は愚かだから、愚行と言ってしまえば愚行だ。
 しかし、危うく殺されかけた俺としては、〈愚行〉の一言では済まされないものがある。
「僕に特別な感情があるように振る舞っていたのも、そうすることで自分の精神状態を保とうと必死だったわけさ。ほら、自分の好きな相手になら、自分の得意分野で負けても許せると思えるでしょ?」
「ってことは、犬神は本気でお前に惚れていたわけじゃ……」
 そこまで言い掛けてハッとなる。
 しまった。こういう話を結月とするつもりはなかったのに。
「ん~?」
 慌てて口を噤む俺に、結月はわざわざ身体を起こし、にやにやと嬉しそうな顔で笑いながら、俺の顔を覗き込んできた。
「おやおや? 御影君。ひょっとしてヤキモチかな? あの眼鏡が僕に惚れていると思って心配していたのかな? 可愛いなぁ~」
「してねーよっ! 心配なんかっ!」
 こうなると思った。犬神が結月に惚れているんじゃないか、なんて話をしたら、結月からこういうことを言われると思ったんだ。だから、結月と惚れた腫れたの話はしたくなかったのに。
「ふふふ♡ 照れちゃうところが益々可愛いなぁ~。安心して。僕は御影だけのものだから♡」
「だから……そういう心配をしているわけじゃないんだよ……」
 一応否定はしておくが、〈そうだ〉と思い込んだ結月の中ではそういう事になってしまうから、俺が否定したところで意味はない。
「ふふふ♡」
 結月に誤解されたことに拗ねてしまう俺だったが、そんな拗ねた顔をする俺を見ても、結月の顔は嬉しそうなままだった。
 一体何がそんなに嬉しいのやら。
「でもまあ、実際にあの眼鏡は僕のことなんか好きじゃなかったんだからいいじゃない。その証拠に、精神が崩壊した後の眼鏡は、躊躇ためらうことなく僕に暴力を振るってきたじゃん」
「ああ……そうだったな……」
 あまり思い出したくない嫌な記憶だというのに、結月はあっけらかんとしたものだった。
 結月の右頬はまだ少し腫れたままだし、犬神の拳が当たった場所は痣にもなっている。でも、結月はそんなことはもうどうでもいい顔だった。
 しかし、俺のほうは結月の痣になった右頬を見ると、やはり申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまう。
「精神の均衡が崩れてしまった後じゃ、もう僕を好きな振りなんかしなくてもいいからね。むしろ、今まで我慢していた僕への恨みを爆発させて、ここぞとばかりに僕を痛めつけたくなったのかも」
「悪かったな、結月。俺のせいでお前に痛い思いをさせて」
「別に構わないよ。こう見えて僕、結構打たれ強いし。それに、僕だってどさくさに紛れてあの眼鏡を蹴ったり殴ったりしたもんね」
「ああ、そうなんだ……」
 一方的に痛い思いをさせられたのかと思いきや、しっかりやり返している結月だった。
 それもそうだな。結月がただ黙って暴力を振るわれるだけになるはずがない。
「何はともあれ、あの眼鏡には僕は高嶺の花過ぎて、到底手の届く存在ではなかったってことだよ。及ばぬ鯉の滝登りってね。自分の能力以上の相手に挑んだところで、上手く行かないってことだよ」
「でも、お前の言うところによれば、犬神が挑んできたのは俺なんだよな? だったら、及ばぬ鯉の滝登りでもなかったんじゃないのか?」
 何やら諺まで持ち出して、今回の一件を綺麗に片付けてしまおうとする結月だったが、元々犬神の敵ではなかった俺相手に、その諺は不適切のように思われた。
「何言ってるの? だから、あの眼鏡が御影より自分のほうが優れているっていう思い込み自体が、そもそもの間違いだったんだってば」
「は?」
 もう勝負は終わった後だから、今更結月が俺にお世辞を使う必要もないのだが
「僕は最初から言ってるでしょ? 御影はあの眼鏡相手に楽勝だって」
 誇らしげにそう言う結月の顔は満更でもなく、俺は自分で思っている以上に、結月から高い評価を受けていると知った。
 結月は俺に対する扱いが雑で、我儘三昧だったりもするのだが、今回の一件は結月の俺に対する信頼が確かなものであると、改めて再確認した出来事でもあった。


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