母性

渡波みずき

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遠沢という女

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 夫は、母の教え子だ。中学から高校にかけて、夫は札付きのワルだった。
 夫の家族は、近所でも良くない噂の立つ彼を完全に持てあまし、家出してくれているくらいのほうが気楽なようだった。見捨てられてさらにいきりたつ彼を、母は半ば無理やり家に連れてきては平日の夕食の席につかせ、休日のバーベキューに駆り出した。
 距離が縮まるのは、当たり前だ。私の前にいるとき、夫は不良などには見えなかった。無心に野菜の皮をむいたり、皿を洗ったりしながら、冗談を言い合い、笑いころげて。
 あるときを境にして、夫は不良仲間とは縁を切った。多くの代償を払った夫の脚や腕には消えない痕が残っている。同じように、悪い評判も、消えることはない。
 夫が仲間といっしょになって虐げた相手は、いたるところで私たちの足を引っ張る。
 夫が高校卒業後、最初に勤めた会社では、上司に過去の補導歴を囁いたご親切なだれかのせいで、退職を促された。私が大学を卒業し、結婚後に結実花ゆみかが生まれてからは、家から子どもの泣き声がすると児童相談所に連絡が入ったことが数度あった。そのせいで、結実花と引き離されそうになったのはほんとうに恐ろしかったし、家計の厳しいなか、泣く泣くアパートを引っ越す羽目になったのは、いま思い出しても悔しい。
 子どもが保育園に入ってからは、保護者の目がうるさい。結実花や悠人ゆうとが乱暴なことをしないかと、周囲が目を光らせているような気がして、私はママ友なんてものを作る気にもならずにいた。
 そんなとき、たまたま、知ったのだ。結実花のクラス担任の遠沢とおさわも、どうやら夫の被害者だということを。



 翌日の結実花の個人面談は、ひと月も前に申し込んであったものだ。仕事の調整を午前中にきっちりと済ませて早退し、家で昼食を摂りながら、頭のなかを整理する。
 結実花の園でのようすを聞くだけのつもりだったが、ちょうどいい。この機会に、昨日のお絵かきの件についても、情報を得ておくのは、悪くない。埒が明かないなら、クレームを入れればいいのだし。
 個人面談は、午後三時からだ。保育園の駐車場に車を止め、門に近づいていくと、スーツ姿の初老の男性が、門を開けようと四苦八苦していた。
 おじいちゃんが急に熱を出した子のお迎えに来たのかしら。それにしては少し若いような気もするが、見た目の若い五十代、六十代は多い。門を開けられないと言うことは、ふだんは親が送迎をしているのだろう。
「こんにちは!」
 先手を打って声をかけると、男性はびくっと肩をふるわせたが、こちらを見てほっとしたように場所をあけた。男性が手こずっていた古びた門扉は私の子どものころからあるものだが、鍵にもちょっとクセがあるし、何よりさび付いていて車輪の音が耳障りだ。早く取り替えればいいのにと思う反面、少子化の折、それだけの予算がかけられない内情も、わかる気はする。
「ありがとうございます。僕では開けられないところでした。そちらはお子さんのお迎えですか?」
 彼の問いに、私は首を横に振った。
「個人面談なんです」
「ああ、そうなのですね」
 私と彼はなんとなく会釈しあって別れ、彼は保育室のほうへむかい、私は事務室に声をかける。遠沢はちょうど、ひとりで事務室にいた。
 空いている保育室へ案内される道すがら、一階の保育室に先程の男性が入っていくのがみえた。結実花と同じ年少クラスの入り口だ。親子遠足などでも見かけない顔だったが、結局だれの親族だったのだろう。
 通りがけに目をむけると、保育室のかたちが朝とは違っていた。年中と年少、二つのクラスのあいだにあった移動式の間仕切り壁が取り払われ、大教室になっている。大きな空間に、比較的大きな子どもたちがごろごろと転がっていた。一階に保育室のある年少児から年長児までがひとところに集まって、お昼寝の時間らしい。
 二階の乳児クラスでは、ひとりひとりの持参したお昼寝布団で長い時間眠る子どもたちも、年少以上となると、もう布団はいらない。園のうすっぺらく大きな布団のうえで、小休憩をとるだけだ。
 休んでいる子どもたちの姿を微笑ましく思ったのもつかの間、空き教室となっている年長クラスの保育室にたどりついた。私は、結実花のふだんのようすを聞くより先に、直近の問題を解決すべく、気持ちを切り替えた。
 勧められた椅子に腰かけるやいなや、先手を打って問いかける。
「昨日、娘に返却された遠足の絵ですけど、どうして他の子に破られたことを教えてくださらなかったんですか?」
「その件については、子ども同士で解決できたので、私たちからは特にお伝えしませんでした。これまでも、日々の小さなケンカについては、お子さんたちが怪我をしないかぎりは親御さんたちにはご報告していないんですよ」
 にべもない回答だった。でも、その答えでは、満足がいかない。
「その子がうちの結実花のものをダメにしたの、二度目なんですよ? 覚えてらっしゃいませんか? 一度目は、ワンピースに絵の具で手形をつけられました。子ども同士で解決できてない事柄だから、今回、二度目があったんでしょ!」
「…………。」
「第一、『ケンカ』って表現は適当ではありません。一方的に、作品を破られたんです。うちの結実花は被害者ですよ? 結実花まで悪いみたいに言わないでください!」
 遠沢は微笑みをうかべたまま、傾聴という姿勢を崩さない。
 やはり、この担任は信用ならない。運動会で夫と顔を合わせたときも、まるで初対面のようなそぶりをみせていた。いじめられた側にそんなことができようはずもないことを、私はすでに痛いほどわかっている。この女には、なにか裏があるのだ。
 いっそうイライラした私の耳に、女性の悲鳴が聞こえたのは、間もなくのことだった。
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