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旅立ちの日 一
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「皐月。──俺たち、もう終わりにしよう」
医学部に受かったら、こう言うのだと、受験する前から決めていた。だから、衝撃的なはずのことばは、案外すんなりと口にできた。
俺と皐月とは子どものころからの幼なじみで、高校の三年間は恋人同士だった。
さっき、高校の卒業式が終わって解散したばかりで、皐月のブレザーの胸ポケットには、ピンクのカーネーションのコサージュがついたままだった。
色白の頬が、真っ赤に染まっていた。ネコのようなつり気味の目が俺を凝視している。突然の俺のことばが、まるで理解できないと言いたげな表情だった。
「なんで? あたし、壱平《いっぺい》の傍にいたくて看護師目指したんだよ?」
皐月が地元の宮崎県の看護学校に入るのは知っている。寮に入り、二年通って資格を取る。二十歳になれば、皐月は晴れて社会人だ。一方、俺はどうだろう。大学が六年間、前期研修医が法定で二年、後期研修医が短くて三年。十一年も経ったら、皐月も俺も二十九歳だ。だから、悪者になろうと思った。
俺は皐月の発言を鼻で笑った。
「俺の診療所ができたら、いちばんにおまえを雇ってやるよ」
できるかぎりの演技力で、冷たくあしらう。
明日からは袖も通さないその制服のように、俺のことも忘れてしまえばいい。
明後日、俺はこの尾鈴村を旅立ち、大学近くの学生寮に入る。次に、尾鈴に住まいを構える日が来るとしたら、それはたぶん、十年以上先のことなのだ。
皐月が泣きだすのが見ていられなかった。傍によりそって、「悪かった、嘘だ、遠距離でもいいから、このままでいよう」と、すぐにも口走りそうだった。
俺は別れの挨拶もせず、泣きじゃくる皐月に背をむけて、早足に高校の敷地を後にする。
十年以上も、待たせるわけにはいかないじゃないか。そんなに長いあいだ、皐月から自由を奪うワケにはいかない。俺は大学もこれからで、当然ながら医師免許の国家試験にも合格していない。いまの自分がどの面下げて、待っていてくれなんて言えるだろう?
尾鈴村に診療所を開設するのは、俺の子どものころからの夢だった。
俺たちの生まれ育った尾鈴村には、医者がいない。病院も診療所も、なにひとつ無い。いわゆる無医村だ。人口三千人、高校は隣町に通うし、最寄りのスーパーも他所の市だ。病院がなくても、隣町に行けばいい。そんな現状を、どうしても変えたかった。
この夢を打ち明けたのは、あとにも先にも皐月だけだ。だが、実家の経済状況は、医学部への進学など、許してくれそうになかった。
悩む俺に、皐月は言った。
「悩むより、まず行動! だいじょうぶだよ、壱平なら、ぜったいに医者になれる」
皐月のことばに背中を押されて、俺はその日のうちに、両親に頭をさげ、浪人しないこと、奨学金を申請することを条件に、医学部を目指すことを許してもらった。
いまもまだ、皐月はあの場所で泣いているだろうか。考えれば考えるほど、思考はどつぼにはまっていく。
家にたどりつくころには、俺の気力はすっかりつきはてていた。
医学部に受かったら、こう言うのだと、受験する前から決めていた。だから、衝撃的なはずのことばは、案外すんなりと口にできた。
俺と皐月とは子どものころからの幼なじみで、高校の三年間は恋人同士だった。
さっき、高校の卒業式が終わって解散したばかりで、皐月のブレザーの胸ポケットには、ピンクのカーネーションのコサージュがついたままだった。
色白の頬が、真っ赤に染まっていた。ネコのようなつり気味の目が俺を凝視している。突然の俺のことばが、まるで理解できないと言いたげな表情だった。
「なんで? あたし、壱平《いっぺい》の傍にいたくて看護師目指したんだよ?」
皐月が地元の宮崎県の看護学校に入るのは知っている。寮に入り、二年通って資格を取る。二十歳になれば、皐月は晴れて社会人だ。一方、俺はどうだろう。大学が六年間、前期研修医が法定で二年、後期研修医が短くて三年。十一年も経ったら、皐月も俺も二十九歳だ。だから、悪者になろうと思った。
俺は皐月の発言を鼻で笑った。
「俺の診療所ができたら、いちばんにおまえを雇ってやるよ」
できるかぎりの演技力で、冷たくあしらう。
明日からは袖も通さないその制服のように、俺のことも忘れてしまえばいい。
明後日、俺はこの尾鈴村を旅立ち、大学近くの学生寮に入る。次に、尾鈴に住まいを構える日が来るとしたら、それはたぶん、十年以上先のことなのだ。
皐月が泣きだすのが見ていられなかった。傍によりそって、「悪かった、嘘だ、遠距離でもいいから、このままでいよう」と、すぐにも口走りそうだった。
俺は別れの挨拶もせず、泣きじゃくる皐月に背をむけて、早足に高校の敷地を後にする。
十年以上も、待たせるわけにはいかないじゃないか。そんなに長いあいだ、皐月から自由を奪うワケにはいかない。俺は大学もこれからで、当然ながら医師免許の国家試験にも合格していない。いまの自分がどの面下げて、待っていてくれなんて言えるだろう?
尾鈴村に診療所を開設するのは、俺の子どものころからの夢だった。
俺たちの生まれ育った尾鈴村には、医者がいない。病院も診療所も、なにひとつ無い。いわゆる無医村だ。人口三千人、高校は隣町に通うし、最寄りのスーパーも他所の市だ。病院がなくても、隣町に行けばいい。そんな現状を、どうしても変えたかった。
この夢を打ち明けたのは、あとにも先にも皐月だけだ。だが、実家の経済状況は、医学部への進学など、許してくれそうになかった。
悩む俺に、皐月は言った。
「悩むより、まず行動! だいじょうぶだよ、壱平なら、ぜったいに医者になれる」
皐月のことばに背中を押されて、俺はその日のうちに、両親に頭をさげ、浪人しないこと、奨学金を申請することを条件に、医学部を目指すことを許してもらった。
いまもまだ、皐月はあの場所で泣いているだろうか。考えれば考えるほど、思考はどつぼにはまっていく。
家にたどりつくころには、俺の気力はすっかりつきはてていた。
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