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スナック紫苑とワスレナグサ

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 ──家に帰ったら、結婚のこと、母さんにくわしく聞かなきゃなあ。

 苗字が変わるかもしれない。現在の家は、三人で住むには手狭だ。引っ越すとなれば、スナックは続けるのか。高校は変わるのか。
 気になることは、山程ある。でも、そうした話題に花を咲かせる自分と母の姿を、麻衣は想像できなかった。

 高校からの帰りにスナック紫苑の前を通り過ぎて、向かった先は、フローリスト井上だった。
 この店に足がむいたのは、たぶん、ことりなら何かよい助言をしてくれそうだと考えたからだった。年下の、それも小学生に頼るのもどうかとは思うが、彼女なら麻衣の立場もきっとわかるし、何より、歯に衣着せぬ物言いで率直に意見を述べてくれるだろう。

 藁にもすがる思いでたどり着いた店は、しかしながら、無人だった。シャッターはあがりきり、電灯も点いている。だが、ひとの気配と、商品たる花の姿がない。
 この店も、スナック紫苑と同様、二階は住居になっている。二階にいるのかと何度か呼びかけたが、こたえるひとはない。
 近所へでも出ているのか。諦めて帰ろうとしたところだった。

 びゅう、と、店先に一陣の風が吹く。強い風とともに、紅の組紐が鼻先をかすめた。すがめていた目を見開いて、麻衣は紐の描いた軌跡を追った。
「おや、先だっての小娘ではないか」
 しゃがれ声で言って、にやりと歯を見せて笑ったのは、佳介だった。いったい、いつどのように帰ってきたものか。
 彼は手先を両袖に隠し、蝶のように腕を広げて袂をさばいた。間髪入れずに、麻衣の喉元に手を伸ばす。袖口から覗く指は、驚くほどに爪が長かった。

「なんとまあ、旨そうな色をしておるのか」
 爪が一閃する。痛みが走る。佳介の手は、麻衣の喉元から、一瞬にして何かをつかみとっていった。軽く握った手をうれしそうにもう片方の手でなぜて、佳介は低く笑った。
 喉を割かれたかと思うほどの鋭い痛みだったが、即座にふれた皮膚には、傷ひとつない。
「なっ、何を」
 戸惑った麻衣をよそに、佳介は握った手をそっと仰向けて開く。何もない? 麻衣はおのが目を疑った。佳介はてのひらに口を寄せ、くぼんだあたりへ、ふうっと息をふきかける。

 ぽぽぽぽぽぽぽっ!
 まるで、たんぽぽの綿毛をとばしたような風情だった。地面に落ちていきながら、何かが次々に芽吹く。大きな双葉から茎が伸びる。ひとの背丈ほども高く伸びていく。なんでもないコンクリートの地面に根を張り、つぼみをつけ、青紫の花が開く。一畳ほどが見る間に花畑のようになった。

 もはや、手品の域はとっくに越えている。大がかりなイリュージョンに麻衣がほうけていると、高い声が耳をつんざいた。
「佳介!」

 悲鳴のようだった。
 ランドセルを背負ったことりが、見たこともないほど慌てたようすで走ってくる。佳介の足元の花を根こそぎ抱きかかえると、そのまま店の奥へ駆け込んで、上がりがまちに膝をついた。
「何をするか」
 怒りも露わに佳介がことりを追いかける。彼女は険しい顔で叫んだ。

「麻衣ちゃん、シャッター下ろしてッ」
「え、は、はいっ!」
 思わず、言うなりに店のシャッターを閉め、ふりかえる。ことりは脱力して上がりがまちに腰をおろしており、そのまえで、佳介がしゃがみこんでいた。
 いや、違う。ことりは腰が抜けているらしかった。怯えた表情が異常事態を告げている。

「佳介、さん……?」
 麻衣は、佳介を見下ろして、無意識に目をそむけていた現実に、はっきりとむきあった。
 佳介は床にしゃがみこみ、ばらまかれた花をむさぼり食っていた。舌を出して、根っこのほうからひと呑みにする。その口は耳元まで裂けて端がめくれあがり、耳は猫のようにとがっている。そして、瞳はらんらんと紅に輝いていた。
「悪くないのぅ! おぬしの花はなかなかに乙な味わいがあるぞ。褒めてつかわす」
 びたーていすと、というヤツじゃの!

 嬉々として言う佳介のようすに、一度はふくらんだ恐怖心が次第に萎えていく。
 まるで、カニの足でも食うようなしぐさで、ひょいぱくひょいぱく、次々に口に運んで、一気に平らげ、ひと心地ついたらしい。顔をあげたときには、平静の顔に戻っていた。
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