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次はなかよしになれるよね
しおりを挟む「今回も僕の勝ちだね」
今日の最期は森の真ん中だった。星を覆い隠す背の高い木々が、救いも突き放しもせず、ただ僕らを黙って見下ろしている。
今日もまた、君は僕に勝とうとした。今日もまた、君は僕に勝てなかった。
「だめだよ、おおかみくん。最後に勝つのは絶対に正義なんだ。物語って、そういうものだよ」
しゃがみこんで、木にもたれた冷たい体に触れる。もうどれほど長い間、君の暖かい肌に触れていないだろう。
「僕だって本当は、君となかよくしたいと思ってる。本当だよ。でも君だって、あの子には幸せになってほしいでしょ?」
あの子はもうこの世にいない。それでも僕らは、未だあの真っ黒な目に囚われている。
今日も僕は、僕たちを描いたあの子のために君の最期を見ている。
◇
静かな森の中に、二人分の駆ける音が響く。鮮やかな赤と黄の紅葉を踏み締め、乾いた風が木々の間を抜けていく。
「君には本当に頭が上がらないよ。僕は大人しい草花を食べるだけでも生きていけるけど、君はこうやって逃げる僕を捕まえなきゃ生きていくこともできない。僕は君の命を握っているようなものだよね」
狼と距離を取って立ち止まり、必死に後を追うその姿にからかいの言葉をかける。僕の期待通り、彼は面白いほど僕に対する怒りを強めた。
「なんだと!? 覚えてろよ、今に馬鹿なこと言ったって後悔させてや……あぁぁぁぁぁ!」
素っ頓狂な絶叫とともに、狼の体が散らされた枯れ葉の中へと吸い込まれていった。
◇
あるところに、ゲイルというひとりの小さな子どもが住んでいました。
ゲイルはいつも、学校でつらいいじめを受けていました。ゲイルにとっての友だちは、公園で出会った小さな野良猫だけです。
家には怖いお父さんがいて、その子には居場所がありません。
それでもゲイルは、信じていました。
ひどいことをする人たちも、本当は優しい心があるのだと。
きっといつかは、みんな友だちになれるのだと。
ゲイルは、この世界のみんながなかよく暮らすことを望んでいたのです。
そしてゲイルは、優しい世界の絵を描きました。
少年と、少しいじわるなおおかみが住む森の中のお話です。
少年はいじわるなおおかみにおしおきする、優しいいたずらっ子。
おおかみは少年にいじわるを邪魔されるたび、怒って少年を食べようとします。
でも、少年はとっても頭のいい子でした。だからおおかみは、そんな少年にいつもうまいこと負かされてしまうのです。
少年がおおかみのいじわるを止めて、おしおきする。ふたりはそんなことを、なんどもなんども繰り返していました。
でも、ゲイルは知っていました。
おおかみは「悪役」だけど、「悪者」じゃない。おおかみも実は、とってもやさしい子。そして少年とおおかみは、本当はとってもなかよしなのです。
みんながみんな友だちで、みんなが幸せな世界。
この世界を描くときのゲイルは、それはそれは楽しそうな笑みを浮かべているのでした。
◇
「なんだと!? 覚えてろよ、今に馬鹿なこと言ったって後悔させてや……あぁぁぁぁぁ!」
「あ、そこに落とし穴あるから気をつけてね」
数秒遅かった半笑い気味の忠告も虚しく、狼の悲鳴が地の底に落ちていった。こみあげる笑いを堪えることもなくくすくすと漏らしながら、平然とその穴に近づく。
「あはは、今日も僕の勝ちだ! だめだよ。どうやったって君は、僕には勝てないんだから」
「クッ、ソ……」
中を覗き込めば、決まりが悪そうに眉をひそめる狼がいた。
「ほら、早く上がっておいでよ。あの子が待ってるよ」
こちらを不服そうに睨むその顔に笑顔を返し、再び枯れ葉を踏んで駆け出した。
◇
「おい、またあいつにやられたのかよ」
包帯を巻いた子どもらしい小さな腕に触れ、ぶっきらぼうにおおかみが言った。
ゲイルのもう片方の腕の中で、すやすやと子猫が寝息を立てている。
「あいつ、ほんと最悪だね。僕たちが本当の人間とおおかみだったら、あいつのことぼこぼこにしてやるのにさ」
不満を示すように腕を組み、狼のあとに僕はそう続けた。
「ふたりは、ほんとに優しいね。でも心配しないで。きっとパパも、ほんとは悪い人じゃないんだよ。今日はたまたま、機嫌がよくなかっただけ」
ゲイルは切り傷のできた頬を持ち上げ、にこりと微笑む。僕と狼は顔を見合わせて、ゲイルが言うなら、と口を紡ぐ。
僕らは、僕らを描いてくれたゲイルのことが大好きだった。この子のためならなんだってしてあげたいと思う。
ゲイルは本当に優しい子だ。僕らじゃとても敵わない。
「ふたりとこの仔がいるから、大丈夫。なんにも怖くないよ」
ゲイルは儚い笑顔をたたえたまま、猫の背をゆっくりと撫でた。
◇
色彩豊かなクレヨンの群れが、暗い部屋の中にいくつも転がる。ひび割れて砕かれたそれらは、どれも別々の方角を指し示したまま虚ろに倒れ込んでいる。
扉が呻くような音を立てて開き、壁に光の筋が漏れる。
生き物を抱えたまま角でうずくまる脆い体に、父親の大きな影が近づく。
鮮やかな画用紙のそばで、子どもの悲鳴が響いた。
◇
「ゲイル! 今日は何して遊んでるの?」
見慣れた姿を見つけ、笑顔とともに一言を投げる。しかしその背中は、問いかけに言葉を返さない。周りなど見えていないかのように、ただ何かの作業へのめり込んでいる。いつもそばにいる小さな猫も、今日はいない。
違和感に首を傾げ、その背中に近付く。ゲイルの小さな腕にふと目を向けた瞬間、血の気が引くのを感じた。
ゲイルの体には、いつもと比べ物にならないほどの傷がついていた。青黒く濁った歪な模様と、太さの曖昧な赤い線の群れ。それらを小さな体に纏い、ゲイルはただ俯いている。
「……! ねぇその傷、……」
血相を変えて駆け寄ると、ゲイルの周りに無数の画用紙が落ちていることに気づいた。その絵はどれも、この子らしくない乱雑な色彩で濁りきっている。
散らばった絵の中心で何かを描き続ける、ゲイルの姿に目を戻す。
その手はペンを初めて持った子どものように、砕けるほど強くクレヨンを握りしめていた。潰れきったその先端で、感情のままに画用紙を削っている。
紙上の絵に視線を落とした途端、殴られるような目眩と息が詰まるような動悸に襲われた。
そこには鋭い凶器を手にたたずむ僕と、歪な赤に塗れて倒れ込む狼の姿が描かれていた。
「……、あ、……」
肌が粟立つのを感じる。目が無意識に泳いで止まらない。でもどこに視線を泳がせようと、無数の濁った画用紙が視界を覆い隠してやまなかった。
圧死、溺死、転落死、焼死。悪への憎しみを叩きつけるように友の死を描く絵画が、辺り一体を埋め尽くしていた。
焦点を定める先もなく彷徨っていた目に、ゲイルの顔が映る。その瞳はじっと、僕の顔を見ていた。
「……ゲイル、なんで。僕たちはみんな、なかよくなれるはずじゃ……」
「なれない。悪者は悪者。全部、全部間違ってた」
「……でも、おおかみくんは……」
「狼もあいつも同じ。悪者は、みんな一緒」
子どもとは思えない冷酷さと憎しみをたたえた目が、僕の顔に近付く。慄く少年の顔を黒い瞳に映したまま、その口がはっきりとこう告げた。
「ねぇ。悪い狼を殺して」
◇
「今日もやっぱり、僕の勝ちだ」
何度繰り返したフレーズかもわからない。「いただきます」や「おやすみ」のように、癖になった言葉が自然と口からこぼれ出た。
何度見たかわからない、狼の閉ざされたまぶたを今日も見下ろす。深い落とし穴の中、底に埋め込まれた杭で串刺しになった狼の体は、もう指1本さえ動かない。カラスのような色の目で、僕はただそれを見ている。
やっぱり今回も、君は死んでしまう。
やっぱりどうやったって君は、僕には勝てない。
「……僕はね、この世界が平和になればいいと思うんだ。そしたらあの子も泣かなくて済む。……そうすれば、僕たちもこんなことしなくていいのにね」
彼はもう、肯定も否定もしない。辺りの大木が風に吹かれて、他人事みたいに葉の揺れる音を立てた。
「さぁ、次に行こう。あの子が待ってるよ」
ついてくることなどないその死体に一言を投げ、振り返る。
あの子はもういない。でも、あの子の意思はこの画用紙の中で生きている。
動かない彼に背を向けて、次の彼を探しに踏み出した。
◇
ねぇ、あと何回やればいい?
その身を何度も刺し、木に吊るし、水に沈める。首を絞め、突き落とし、焼き尽くす。あれから僕は、何度も何度も狼の最期を見てきた。あの子が描いた画用紙と同じ数だけ、あの子が抱いた憎しみの分だけ、君の命を奪ってきた。
あと何回、あと何枚やればいい? あと何枚やったら、あの子の苦しみを晴らせる?
あと何枚やれば、僕たちはなかよしに戻れるの?
◇
「……ほらおおかみくん、早くおいでよ。僕はこっちだよ」
「調子乗りやがって......! 今度こそ食ってやるからな!」
何十回目か、何百回目の追いかけっこが始まる。絶えず肩を叩く雨など気にも止まらないまま、見慣れたその顔を焚き付けた。
増水した川に引き寄せ、彼を沈める。それが今日、僕に与えられた役目だ。
挑発に乗った狼を見届け、振り返って最初の一歩を前に出す。
その地を蹴って、勢いよく踏み出した。はずだった。
ほんの少し、たった一瞬。雨に濡れて艶めいた草花が、僕の足を滑らせた。
遅れを取った僕の手を、咄嗟に狼が掴む。それを見て、心臓が強く跳ね上がるのを感じた。
あり得ない、そう思った。
狼が一勝でもすれば、それはこの物語の、この関係の終わりを意味してしまう。だから僕らの戦いは、僕の連戦連勝が当然として成り立っていた。
それは、僕らが生を受けたその瞬間から決定していた常識だった。事実僕らが続けてきた戦いの中で、狼が僕の手を掴めたことなど一度もなかった。
でもその捕獲に最も驚いたのは、きっと僕ではなく狼の方だった。
狼は鋭い目を丸くし、絵に描いたようにたじろいだ様子を見せる。それから仰々しくその手を離し、下手な芝居を打った。
「は!? えっ、あ、…………。……う、運が良かったな! 今日は腹が空いてないから見逃してやる!」
その姿を目に写した途端、跳ね上がっていたはずの心臓がすっと冷えていくのを感じた。
彼は存外、この世界における暗黙の了解を十分に認知している。そしてそれ以上に、狼はただただ僕を殺めたくはないと思っている。
だから彼は、たとえ僕を捕まえても胃に流し込むことなど一生できない。
狼が抱える思いのすべてを、僕は残酷なほど手に取るように理解できていた。理解できてしまうことが、ただひたすらに苦しかった。
「あはは。おおかみくんは優しいね! ……、ごめんね」
乾いた笑みを浮かべる。無理に上げた口端が痺れて痛い。
夢から覚めるように、細めた目を見開く。太陽に照らされた狼の姿が、僕自身の顔が、一瞬のうちに陰る。
狼の後ろから、折れた大木が降ってくるのをじっと見ていた。
◇
「また今日も、君は僕に負けちゃうの?」
ぽつぽつと冷たい水が草木を、僕の首筋を、狼の動かなくなった体を打つ。降り注いだ雨も、雑草に染み込んだ狼の血液を拭い去ってはくれない。
期待に高鳴っていた心臓も、今はただ凍えている。わずかに早い鼓動が、残り香みたいにまだ叩いていた。
手首に残った赤い痕が、肌の色にゆっくりと馴染んでいく。付けた本人は冷たくなったのに、この腕にはまだ彼の温度が残っている。その感覚さえも追っていくうちにみるみると消え、やがて僕の体温に溶かされていった。
あのまま君が手を引いて、その牙で砕いてくれたらどれほどよかっただろう。そうすれば、胃の中で僕と君は同じ温度になれたのに。
魂を抜かれたみたいに全身の力が抜けて、疎ましいほど鮮やかな草花の上に膝をつく。湿った雑草が押し付けられて、冷えた雨水が染み込んだ。
雫を垂らす暗い前髪と彼の顔が、歪んだ視界の中でその輪郭を歪ませる。
仮に僕が、君の前で死んだらどうするだろう。君が僕を食べて、僕らの物語は終わるのだろうか。
頭に浮かんだもしも話は、僕自身の思考に打ち消される。
きっと君は、死んだ僕のことすら食べられやしないのだろう。君は臆病だから。君は悪者じゃなくて、悪役だから。
そして時間が巻き戻って、やっぱり同じ結末になる。やっぱり最後は、君が負ける。
「本当に君は、弱いいきものだね」
僕より大きな体に手を伸ばし、頬を撫でる。
もう開くことのないまぶたに近づき、そっと口を付けた。
何かがせり上がるみたいに喉が詰まる。外から締め付けられているような重たさが支配する。この苦しみが、君に首を絞められている痛みだったらよかったのに。
「ねぇ。僕たち次こそは、なかよしに戻れるよね」
投げかけた一言は、酷くたどたどしい。空気の中に混ざった途端、脆く消え入ってしまう。
その声は彼の耳へ届くより先に、雨音の中へと奪い去られていった。
今日の最期は森の真ん中だった。星を覆い隠す背の高い木々が、救いも突き放しもせず、ただ僕らを黙って見下ろしている。
今日もまた、君は僕に勝とうとした。今日もまた、君は僕に勝てなかった。
「だめだよ、おおかみくん。最後に勝つのは絶対に正義なんだ。物語って、そういうものだよ」
しゃがみこんで、木にもたれた冷たい体に触れる。もうどれほど長い間、君の暖かい肌に触れていないだろう。
「僕だって本当は、君となかよくしたいと思ってる。本当だよ。でも君だって、あの子には幸せになってほしいでしょ?」
あの子はもうこの世にいない。それでも僕らは、未だあの真っ黒な目に囚われている。
今日も僕は、僕たちを描いたあの子のために君の最期を見ている。
◇
静かな森の中に、二人分の駆ける音が響く。鮮やかな赤と黄の紅葉を踏み締め、乾いた風が木々の間を抜けていく。
「君には本当に頭が上がらないよ。僕は大人しい草花を食べるだけでも生きていけるけど、君はこうやって逃げる僕を捕まえなきゃ生きていくこともできない。僕は君の命を握っているようなものだよね」
狼と距離を取って立ち止まり、必死に後を追うその姿にからかいの言葉をかける。僕の期待通り、彼は面白いほど僕に対する怒りを強めた。
「なんだと!? 覚えてろよ、今に馬鹿なこと言ったって後悔させてや……あぁぁぁぁぁ!」
素っ頓狂な絶叫とともに、狼の体が散らされた枯れ葉の中へと吸い込まれていった。
◇
あるところに、ゲイルというひとりの小さな子どもが住んでいました。
ゲイルはいつも、学校でつらいいじめを受けていました。ゲイルにとっての友だちは、公園で出会った小さな野良猫だけです。
家には怖いお父さんがいて、その子には居場所がありません。
それでもゲイルは、信じていました。
ひどいことをする人たちも、本当は優しい心があるのだと。
きっといつかは、みんな友だちになれるのだと。
ゲイルは、この世界のみんながなかよく暮らすことを望んでいたのです。
そしてゲイルは、優しい世界の絵を描きました。
少年と、少しいじわるなおおかみが住む森の中のお話です。
少年はいじわるなおおかみにおしおきする、優しいいたずらっ子。
おおかみは少年にいじわるを邪魔されるたび、怒って少年を食べようとします。
でも、少年はとっても頭のいい子でした。だからおおかみは、そんな少年にいつもうまいこと負かされてしまうのです。
少年がおおかみのいじわるを止めて、おしおきする。ふたりはそんなことを、なんどもなんども繰り返していました。
でも、ゲイルは知っていました。
おおかみは「悪役」だけど、「悪者」じゃない。おおかみも実は、とってもやさしい子。そして少年とおおかみは、本当はとってもなかよしなのです。
みんながみんな友だちで、みんなが幸せな世界。
この世界を描くときのゲイルは、それはそれは楽しそうな笑みを浮かべているのでした。
◇
「なんだと!? 覚えてろよ、今に馬鹿なこと言ったって後悔させてや……あぁぁぁぁぁ!」
「あ、そこに落とし穴あるから気をつけてね」
数秒遅かった半笑い気味の忠告も虚しく、狼の悲鳴が地の底に落ちていった。こみあげる笑いを堪えることもなくくすくすと漏らしながら、平然とその穴に近づく。
「あはは、今日も僕の勝ちだ! だめだよ。どうやったって君は、僕には勝てないんだから」
「クッ、ソ……」
中を覗き込めば、決まりが悪そうに眉をひそめる狼がいた。
「ほら、早く上がっておいでよ。あの子が待ってるよ」
こちらを不服そうに睨むその顔に笑顔を返し、再び枯れ葉を踏んで駆け出した。
◇
「おい、またあいつにやられたのかよ」
包帯を巻いた子どもらしい小さな腕に触れ、ぶっきらぼうにおおかみが言った。
ゲイルのもう片方の腕の中で、すやすやと子猫が寝息を立てている。
「あいつ、ほんと最悪だね。僕たちが本当の人間とおおかみだったら、あいつのことぼこぼこにしてやるのにさ」
不満を示すように腕を組み、狼のあとに僕はそう続けた。
「ふたりは、ほんとに優しいね。でも心配しないで。きっとパパも、ほんとは悪い人じゃないんだよ。今日はたまたま、機嫌がよくなかっただけ」
ゲイルは切り傷のできた頬を持ち上げ、にこりと微笑む。僕と狼は顔を見合わせて、ゲイルが言うなら、と口を紡ぐ。
僕らは、僕らを描いてくれたゲイルのことが大好きだった。この子のためならなんだってしてあげたいと思う。
ゲイルは本当に優しい子だ。僕らじゃとても敵わない。
「ふたりとこの仔がいるから、大丈夫。なんにも怖くないよ」
ゲイルは儚い笑顔をたたえたまま、猫の背をゆっくりと撫でた。
◇
色彩豊かなクレヨンの群れが、暗い部屋の中にいくつも転がる。ひび割れて砕かれたそれらは、どれも別々の方角を指し示したまま虚ろに倒れ込んでいる。
扉が呻くような音を立てて開き、壁に光の筋が漏れる。
生き物を抱えたまま角でうずくまる脆い体に、父親の大きな影が近づく。
鮮やかな画用紙のそばで、子どもの悲鳴が響いた。
◇
「ゲイル! 今日は何して遊んでるの?」
見慣れた姿を見つけ、笑顔とともに一言を投げる。しかしその背中は、問いかけに言葉を返さない。周りなど見えていないかのように、ただ何かの作業へのめり込んでいる。いつもそばにいる小さな猫も、今日はいない。
違和感に首を傾げ、その背中に近付く。ゲイルの小さな腕にふと目を向けた瞬間、血の気が引くのを感じた。
ゲイルの体には、いつもと比べ物にならないほどの傷がついていた。青黒く濁った歪な模様と、太さの曖昧な赤い線の群れ。それらを小さな体に纏い、ゲイルはただ俯いている。
「……! ねぇその傷、……」
血相を変えて駆け寄ると、ゲイルの周りに無数の画用紙が落ちていることに気づいた。その絵はどれも、この子らしくない乱雑な色彩で濁りきっている。
散らばった絵の中心で何かを描き続ける、ゲイルの姿に目を戻す。
その手はペンを初めて持った子どものように、砕けるほど強くクレヨンを握りしめていた。潰れきったその先端で、感情のままに画用紙を削っている。
紙上の絵に視線を落とした途端、殴られるような目眩と息が詰まるような動悸に襲われた。
そこには鋭い凶器を手にたたずむ僕と、歪な赤に塗れて倒れ込む狼の姿が描かれていた。
「……、あ、……」
肌が粟立つのを感じる。目が無意識に泳いで止まらない。でもどこに視線を泳がせようと、無数の濁った画用紙が視界を覆い隠してやまなかった。
圧死、溺死、転落死、焼死。悪への憎しみを叩きつけるように友の死を描く絵画が、辺り一体を埋め尽くしていた。
焦点を定める先もなく彷徨っていた目に、ゲイルの顔が映る。その瞳はじっと、僕の顔を見ていた。
「……ゲイル、なんで。僕たちはみんな、なかよくなれるはずじゃ……」
「なれない。悪者は悪者。全部、全部間違ってた」
「……でも、おおかみくんは……」
「狼もあいつも同じ。悪者は、みんな一緒」
子どもとは思えない冷酷さと憎しみをたたえた目が、僕の顔に近付く。慄く少年の顔を黒い瞳に映したまま、その口がはっきりとこう告げた。
「ねぇ。悪い狼を殺して」
◇
「今日もやっぱり、僕の勝ちだ」
何度繰り返したフレーズかもわからない。「いただきます」や「おやすみ」のように、癖になった言葉が自然と口からこぼれ出た。
何度見たかわからない、狼の閉ざされたまぶたを今日も見下ろす。深い落とし穴の中、底に埋め込まれた杭で串刺しになった狼の体は、もう指1本さえ動かない。カラスのような色の目で、僕はただそれを見ている。
やっぱり今回も、君は死んでしまう。
やっぱりどうやったって君は、僕には勝てない。
「……僕はね、この世界が平和になればいいと思うんだ。そしたらあの子も泣かなくて済む。……そうすれば、僕たちもこんなことしなくていいのにね」
彼はもう、肯定も否定もしない。辺りの大木が風に吹かれて、他人事みたいに葉の揺れる音を立てた。
「さぁ、次に行こう。あの子が待ってるよ」
ついてくることなどないその死体に一言を投げ、振り返る。
あの子はもういない。でも、あの子の意思はこの画用紙の中で生きている。
動かない彼に背を向けて、次の彼を探しに踏み出した。
◇
ねぇ、あと何回やればいい?
その身を何度も刺し、木に吊るし、水に沈める。首を絞め、突き落とし、焼き尽くす。あれから僕は、何度も何度も狼の最期を見てきた。あの子が描いた画用紙と同じ数だけ、あの子が抱いた憎しみの分だけ、君の命を奪ってきた。
あと何回、あと何枚やればいい? あと何枚やったら、あの子の苦しみを晴らせる?
あと何枚やれば、僕たちはなかよしに戻れるの?
◇
「……ほらおおかみくん、早くおいでよ。僕はこっちだよ」
「調子乗りやがって......! 今度こそ食ってやるからな!」
何十回目か、何百回目の追いかけっこが始まる。絶えず肩を叩く雨など気にも止まらないまま、見慣れたその顔を焚き付けた。
増水した川に引き寄せ、彼を沈める。それが今日、僕に与えられた役目だ。
挑発に乗った狼を見届け、振り返って最初の一歩を前に出す。
その地を蹴って、勢いよく踏み出した。はずだった。
ほんの少し、たった一瞬。雨に濡れて艶めいた草花が、僕の足を滑らせた。
遅れを取った僕の手を、咄嗟に狼が掴む。それを見て、心臓が強く跳ね上がるのを感じた。
あり得ない、そう思った。
狼が一勝でもすれば、それはこの物語の、この関係の終わりを意味してしまう。だから僕らの戦いは、僕の連戦連勝が当然として成り立っていた。
それは、僕らが生を受けたその瞬間から決定していた常識だった。事実僕らが続けてきた戦いの中で、狼が僕の手を掴めたことなど一度もなかった。
でもその捕獲に最も驚いたのは、きっと僕ではなく狼の方だった。
狼は鋭い目を丸くし、絵に描いたようにたじろいだ様子を見せる。それから仰々しくその手を離し、下手な芝居を打った。
「は!? えっ、あ、…………。……う、運が良かったな! 今日は腹が空いてないから見逃してやる!」
その姿を目に写した途端、跳ね上がっていたはずの心臓がすっと冷えていくのを感じた。
彼は存外、この世界における暗黙の了解を十分に認知している。そしてそれ以上に、狼はただただ僕を殺めたくはないと思っている。
だから彼は、たとえ僕を捕まえても胃に流し込むことなど一生できない。
狼が抱える思いのすべてを、僕は残酷なほど手に取るように理解できていた。理解できてしまうことが、ただひたすらに苦しかった。
「あはは。おおかみくんは優しいね! ……、ごめんね」
乾いた笑みを浮かべる。無理に上げた口端が痺れて痛い。
夢から覚めるように、細めた目を見開く。太陽に照らされた狼の姿が、僕自身の顔が、一瞬のうちに陰る。
狼の後ろから、折れた大木が降ってくるのをじっと見ていた。
◇
「また今日も、君は僕に負けちゃうの?」
ぽつぽつと冷たい水が草木を、僕の首筋を、狼の動かなくなった体を打つ。降り注いだ雨も、雑草に染み込んだ狼の血液を拭い去ってはくれない。
期待に高鳴っていた心臓も、今はただ凍えている。わずかに早い鼓動が、残り香みたいにまだ叩いていた。
手首に残った赤い痕が、肌の色にゆっくりと馴染んでいく。付けた本人は冷たくなったのに、この腕にはまだ彼の温度が残っている。その感覚さえも追っていくうちにみるみると消え、やがて僕の体温に溶かされていった。
あのまま君が手を引いて、その牙で砕いてくれたらどれほどよかっただろう。そうすれば、胃の中で僕と君は同じ温度になれたのに。
魂を抜かれたみたいに全身の力が抜けて、疎ましいほど鮮やかな草花の上に膝をつく。湿った雑草が押し付けられて、冷えた雨水が染み込んだ。
雫を垂らす暗い前髪と彼の顔が、歪んだ視界の中でその輪郭を歪ませる。
仮に僕が、君の前で死んだらどうするだろう。君が僕を食べて、僕らの物語は終わるのだろうか。
頭に浮かんだもしも話は、僕自身の思考に打ち消される。
きっと君は、死んだ僕のことすら食べられやしないのだろう。君は臆病だから。君は悪者じゃなくて、悪役だから。
そして時間が巻き戻って、やっぱり同じ結末になる。やっぱり最後は、君が負ける。
「本当に君は、弱いいきものだね」
僕より大きな体に手を伸ばし、頬を撫でる。
もう開くことのないまぶたに近づき、そっと口を付けた。
何かがせり上がるみたいに喉が詰まる。外から締め付けられているような重たさが支配する。この苦しみが、君に首を絞められている痛みだったらよかったのに。
「ねぇ。僕たち次こそは、なかよしに戻れるよね」
投げかけた一言は、酷くたどたどしい。空気の中に混ざった途端、脆く消え入ってしまう。
その声は彼の耳へ届くより先に、雨音の中へと奪い去られていった。
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