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紗世(さよ)編
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人間を人たらしめるものとは、一体何だろう。
理性か、知性か、それとも愛情か恋情か欲望か。
もしかするとどれも違って、もっと遠く離れた場所にあるのかもしれない。
愛してる、と、死んでほしくない、が結びつく感覚が昔から理解できなかった。
愛してるから殺す、は良く分かる。
だからおれは彼女をずっと殺したい。
おれは天才を見たことがある。
小学生の時から同じピアノ教室に通っていた彼女は、おれが知る限りでも三回は苗字が変わっていて、先生達からも下の名前で呼ばれていた。
彼女……紗世(さよ)さんは、まるで全てが嘘に見えてしまうくらい美しいピアノの音を奏でる。
おれの演奏の評価順位はいくら頑張ったところで紗世さんの下だ。
実力差は歴然で、教科書のお手本をなぞるように無難に弾きこなすおれは努力する凡才でしかなく、調律された音に特別な美しさを載せられる紗世さんは音楽の神様に愛された本物の天才なのだ。
ある時、紗世さんはおれにこう言った。
「ピアノを演奏するのに特別なものは必要ないと思うな」
彼女からすれば、小細工なんてしなくても音楽そのものが美しいのだろう。
そう感じられることが、おれからすれば既に才能だった。
その演奏に、絶望しないことはない。
身体が破裂しそうなほどに膨れた感情も、おれのちっぽけな才では彼女の演奏に届かない。
おれがなりたいものに、紗世さんはいとも容易くなれてしまう。
それでも、せめてもの悪あがきで紗世さんの横に並ぶために高校在学中は銀賞を取り続けた。
そしてついにおれは高校生活最後のコンクールで金賞を受賞したのだ。
理由は簡単である。
紗世さんは高校三年生になると同時にピアノを辞めてしまったのだ。
彼女が消えたことで繰り上がった一位に意味なんてない。
おれは金賞を喜ぶ両親に向かってピアノはもうやらないと宣言した。
怒り狂う父親と悲しそうな顔の母親に良心が傷まないと言われたら嘘になるが、おれの決意は固い。
おれは猛反対を押し切って全ての練習を放棄し、ピアノ教室もエスケープし続けた。
鍵盤に触れなくなってからの時間の経過は早かったが、何をしていても誰といても心が満たされることは無い。
毎日のように紗世さんに対する恨み言めいた思考が脳裏を過ぎる。
その度に自分の愚かさを嘆きそうになって、吐き気がした。
記憶の中の彼女の音楽に縋って、自分の平凡さに渇くばかりだ。
紗世さんの居場所すら分からず、一度も会っていない。
だから大学三年生の春休みに、紗世さんと出会った時は本当に驚いた。
桜の花弁は昨日の雨で随分と散ってしまったようだ。
水に流されて綺麗なまま散った細かい薄紅色が、排水溝を覆っている。
「あら、お久しぶりですね」
朗らかな調子で声をかけてきた紗世さんは、最寄りから二駅先にあるクレープ屋の前にいた。
腰まで伸びた紺色の長髪はピンクのインナーカラーが印象的で、真っ直ぐに切りそろえられた前髪から濃紫の虹彩がこちらを見上げる。
彼女の唇は僅かな驚きを称えて薄く開かれていた。
おれは驚きのあまり咄嗟に声が出なくて、数秒黙ったままお互いを見つめてしまう。
「ここのクレープって美味しいのかな?おすすめがあれば教えて欲しいな」
紗世さんは口元で穏やかな笑みを浮かべる。
おれの積年の恨みや怒りなんて知る由もなく、楽しそうに小首を傾げた。
ハンドバッグを握る彼女の白く細長い指先を見ていると、妖精の囁きのようだと評された彼女のピアノの音色を思い起こさせる。
「……いちごレアチーズのクレープは、美味い」
やっと発した声は無様に震えていた。
紗世さんはおれに数歩近づいて距離を詰めると、おれの持っているクレープを桜貝にも劣らない爪の色合いの人差し指でさす。
「それは何味なの?一口貰ってもいい?」
「……い、いいけど。え、まだ口つけてないとはいえ、男のおれが買ったものですよ。キモくないですか?」
「どうして?……じゃ、一口貰うね」
紗世さんは無邪気におれが右手に持ついちごカスタード味のクレープを一口だけ齧った。
グロスで光る唇の色彩がやけに鮮やかで、いやらしく見えて、ごくりと喉を鳴らしてしまう。
「うーん、確かに美味しいね。でも、私にはちょっと甘過ぎるかも」
「え、ああ、はい」
「まだピアノやってるの?……って立ち話もなんだし、どこか座る?」
「あ、お気になさらす……ピアノはもうやってないです」
「そうなの?勿体無い」
「……紗世さんだって、もう弾いてないじゃないですか」
「うふふ、そうねぇ」
「なんで辞めたんですか」
おれの問いかけには堪えきれない苛立ちが滲んでいる。
聞いてから後悔した。
紗世さんは一瞬だけ眇めるような据わった目つきでおれを見捉える。
にこりと翳りのない笑顔を貼り付けると、羽よりも軽い声色で彼女は答えた。
「ぜんぶ、飽きちゃったの」
同じピアノ教室に八年も通っていたが、おれは紗世さんと音楽への感情を比べたり、ぶつけあったりしたことはない。
かつてのおれにとって、音楽は全てだった。
小学生中学生高校生の頃は休日は勿論、学校から帰ってきたらピアノの鍵盤を叩いて練習に明け暮れたのだ。
最初は、至極単純にピアノの音が好きだった。
雪の結晶のように美しく、瑞々しく澄んだ音色は、きっと神様が賜った音楽だと、今でも本気で考える。
おれはずっと紗世さんを殺したかった。
おれは凡才だから、天才の演奏に魅了されるし、呆気なく世界を塗り替えられる。
紗世さんは音楽を愛しているから、おれの才では音楽からの愛も彼女からの愛も勝ち取ることは叶わないなら、せめて彼女を殺したい。
彼女にとってこの世に音の連なりよりも重いものは無いはずだと信じていたのだ。
でも漸く気づいた。
彼女は音楽がこれっぽっちも好きではない。
紗世さんではなく、音楽が先に彼女を愛した、音楽の方が恋をしたのだ。
それからおれと紗世さんは歩きながらしばらくお喋りをした。
なんとなく空を見上げてみると、雲行きは先程よりもずっと悪くなっている。
まだ夕方だというのに太陽の光は一筋として差さず、それどころか既に夜闇のように暗い。
もはや不気味と比喩してしまっても構わないような漆黒の雲が天空を支配している。
「今日はお話してくれてありがとう。楽しかった。えぇと、……。ごめんなさいね。あなたのお名前は?」
その時、おれは自分がきちんと名乗れたのか覚えていない。
気がついたら人が行き交う交差点の真ん中で一人立ち尽くしていた。
あの日から、彼女とは会っていない。
▼ E N D
理性か、知性か、それとも愛情か恋情か欲望か。
もしかするとどれも違って、もっと遠く離れた場所にあるのかもしれない。
愛してる、と、死んでほしくない、が結びつく感覚が昔から理解できなかった。
愛してるから殺す、は良く分かる。
だからおれは彼女をずっと殺したい。
おれは天才を見たことがある。
小学生の時から同じピアノ教室に通っていた彼女は、おれが知る限りでも三回は苗字が変わっていて、先生達からも下の名前で呼ばれていた。
彼女……紗世(さよ)さんは、まるで全てが嘘に見えてしまうくらい美しいピアノの音を奏でる。
おれの演奏の評価順位はいくら頑張ったところで紗世さんの下だ。
実力差は歴然で、教科書のお手本をなぞるように無難に弾きこなすおれは努力する凡才でしかなく、調律された音に特別な美しさを載せられる紗世さんは音楽の神様に愛された本物の天才なのだ。
ある時、紗世さんはおれにこう言った。
「ピアノを演奏するのに特別なものは必要ないと思うな」
彼女からすれば、小細工なんてしなくても音楽そのものが美しいのだろう。
そう感じられることが、おれからすれば既に才能だった。
その演奏に、絶望しないことはない。
身体が破裂しそうなほどに膨れた感情も、おれのちっぽけな才では彼女の演奏に届かない。
おれがなりたいものに、紗世さんはいとも容易くなれてしまう。
それでも、せめてもの悪あがきで紗世さんの横に並ぶために高校在学中は銀賞を取り続けた。
そしてついにおれは高校生活最後のコンクールで金賞を受賞したのだ。
理由は簡単である。
紗世さんは高校三年生になると同時にピアノを辞めてしまったのだ。
彼女が消えたことで繰り上がった一位に意味なんてない。
おれは金賞を喜ぶ両親に向かってピアノはもうやらないと宣言した。
怒り狂う父親と悲しそうな顔の母親に良心が傷まないと言われたら嘘になるが、おれの決意は固い。
おれは猛反対を押し切って全ての練習を放棄し、ピアノ教室もエスケープし続けた。
鍵盤に触れなくなってからの時間の経過は早かったが、何をしていても誰といても心が満たされることは無い。
毎日のように紗世さんに対する恨み言めいた思考が脳裏を過ぎる。
その度に自分の愚かさを嘆きそうになって、吐き気がした。
記憶の中の彼女の音楽に縋って、自分の平凡さに渇くばかりだ。
紗世さんの居場所すら分からず、一度も会っていない。
だから大学三年生の春休みに、紗世さんと出会った時は本当に驚いた。
桜の花弁は昨日の雨で随分と散ってしまったようだ。
水に流されて綺麗なまま散った細かい薄紅色が、排水溝を覆っている。
「あら、お久しぶりですね」
朗らかな調子で声をかけてきた紗世さんは、最寄りから二駅先にあるクレープ屋の前にいた。
腰まで伸びた紺色の長髪はピンクのインナーカラーが印象的で、真っ直ぐに切りそろえられた前髪から濃紫の虹彩がこちらを見上げる。
彼女の唇は僅かな驚きを称えて薄く開かれていた。
おれは驚きのあまり咄嗟に声が出なくて、数秒黙ったままお互いを見つめてしまう。
「ここのクレープって美味しいのかな?おすすめがあれば教えて欲しいな」
紗世さんは口元で穏やかな笑みを浮かべる。
おれの積年の恨みや怒りなんて知る由もなく、楽しそうに小首を傾げた。
ハンドバッグを握る彼女の白く細長い指先を見ていると、妖精の囁きのようだと評された彼女のピアノの音色を思い起こさせる。
「……いちごレアチーズのクレープは、美味い」
やっと発した声は無様に震えていた。
紗世さんはおれに数歩近づいて距離を詰めると、おれの持っているクレープを桜貝にも劣らない爪の色合いの人差し指でさす。
「それは何味なの?一口貰ってもいい?」
「……い、いいけど。え、まだ口つけてないとはいえ、男のおれが買ったものですよ。キモくないですか?」
「どうして?……じゃ、一口貰うね」
紗世さんは無邪気におれが右手に持ついちごカスタード味のクレープを一口だけ齧った。
グロスで光る唇の色彩がやけに鮮やかで、いやらしく見えて、ごくりと喉を鳴らしてしまう。
「うーん、確かに美味しいね。でも、私にはちょっと甘過ぎるかも」
「え、ああ、はい」
「まだピアノやってるの?……って立ち話もなんだし、どこか座る?」
「あ、お気になさらす……ピアノはもうやってないです」
「そうなの?勿体無い」
「……紗世さんだって、もう弾いてないじゃないですか」
「うふふ、そうねぇ」
「なんで辞めたんですか」
おれの問いかけには堪えきれない苛立ちが滲んでいる。
聞いてから後悔した。
紗世さんは一瞬だけ眇めるような据わった目つきでおれを見捉える。
にこりと翳りのない笑顔を貼り付けると、羽よりも軽い声色で彼女は答えた。
「ぜんぶ、飽きちゃったの」
同じピアノ教室に八年も通っていたが、おれは紗世さんと音楽への感情を比べたり、ぶつけあったりしたことはない。
かつてのおれにとって、音楽は全てだった。
小学生中学生高校生の頃は休日は勿論、学校から帰ってきたらピアノの鍵盤を叩いて練習に明け暮れたのだ。
最初は、至極単純にピアノの音が好きだった。
雪の結晶のように美しく、瑞々しく澄んだ音色は、きっと神様が賜った音楽だと、今でも本気で考える。
おれはずっと紗世さんを殺したかった。
おれは凡才だから、天才の演奏に魅了されるし、呆気なく世界を塗り替えられる。
紗世さんは音楽を愛しているから、おれの才では音楽からの愛も彼女からの愛も勝ち取ることは叶わないなら、せめて彼女を殺したい。
彼女にとってこの世に音の連なりよりも重いものは無いはずだと信じていたのだ。
でも漸く気づいた。
彼女は音楽がこれっぽっちも好きではない。
紗世さんではなく、音楽が先に彼女を愛した、音楽の方が恋をしたのだ。
それからおれと紗世さんは歩きながらしばらくお喋りをした。
なんとなく空を見上げてみると、雲行きは先程よりもずっと悪くなっている。
まだ夕方だというのに太陽の光は一筋として差さず、それどころか既に夜闇のように暗い。
もはや不気味と比喩してしまっても構わないような漆黒の雲が天空を支配している。
「今日はお話してくれてありがとう。楽しかった。えぇと、……。ごめんなさいね。あなたのお名前は?」
その時、おれは自分がきちんと名乗れたのか覚えていない。
気がついたら人が行き交う交差点の真ん中で一人立ち尽くしていた。
あの日から、彼女とは会っていない。
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