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〈ヴァリアント編〉
16. 闇を照らす光
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私はヴァナディスさんの肩を抱いて、とっさに机の裏へと隠れた。
「……」
「……」
声を押し殺していると、足音は私達のいる部屋の前を横切って行った。
どうやら気づかれなかったみたいで、一安心。
「……ぶはぁっ! 早く逃げましょうよ。もう証拠の品は手に入れたでしょ!?」
気づけば、私はうっかり通魔石を手に取ったままだった。
「でも、伯爵が居ることも確認しないと。それに、アトレイユ様や弟さんが捕まってるかもしれないし」
「アトレイユ様が? あんな強い殿方が、肥え太った性悪貴族なんかに捕まえられるわけないでしょっ」
……切羽詰まってるからか、ヴァナディスさんの言い方が容赦ない。
帰りたい気持ちはわかるけど、ここまで来たからにはアトレイユ様達の救出も果たしたいわ。
「今の人をつけましょう。きっとご兄弟の居所を知ってるはず」
「冗談じゃないわ! あなた、怖くないの!?」
「……怖いですよ。でも、お友達が傷つけられるのはもっと怖いんです」
「……っ」
ヴァナディスさんは動揺して、目を泳がせていた。
もうこの人に怖い思いはさせたくないな……。
「ここに居てください。少ししたら、騎士団に通報お願いします」
私はそう言い残し、独り机の陰から出た。
廊下に顔を出すと、大きな影が角を曲がって行くのが見える。
私達と違って、あの影は歩くたびにギシギシと床板を軋ませている。
かなりの体重――きっと伯爵の傍にいた筋肉執事だわ。
「待ちなさい。私も行くわ」
ヴァナディスさんが、青い顔をしたまま机の陰から出てきた。
その目は私を恨めしそうに見つめているけど、今の私にとってはとても心強い。
私達は、廊下の奥から聞こえる足音を静かに追いかけた。
◇
廊下の奥の階段を下り、私達がたどり着いたのはワイン貯蔵庫だった。
と言っても、棚はすべて空で何もない。
「どうした? この程度でもう音を上げたか」
貯蔵庫の奥から、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
棚の陰に隠れて声のした方を覗き込むと、いくつか人影が目に入る。
「俺のことは好きにしていい。だから弟は解放してくれ……」
「ダメだね。そんなことすれば、おまえは何するかわからねぇ!」
ビシャリ、と何かを叩く音が響いた。
その音は何度も貯蔵庫に響き、うめき声まで一緒に聞こえてくる。
「へっ。三剣の貴公子も、こうなっちゃ形無しだな? えぇおい、アトレイユ様よ!?」
……なんてこと!
上半身を裸にされたアトレイユ様が、後ろ手に縛られて両膝をついているわ。
肌には、直視するのもはばかられる裂傷がいくつも……。
「なんとか言ったらどうだ!?」
「ぐあっ!」
酷い。鞭打ちだわ!
アトレイユ様を鞭で打ちつけているのは――
「てめぇには二度と剣を持てなくされたんだ。こんな程度じゃ、とても腹の虫が収まらねぇ!」
――ダミアンだった。
禁固刑になったって聞いたのに、どうしてここに!?
「……当然の報いだ。今まで何人の罪なき人を、誉れある宮廷剣術で傷つけた」
「馬鹿か、てめぇは。俺が斬り捨ててきたのは、救いようのない無知の不知のクズどもだ!! 自分の立場を弁えない連中は、知恵ある者に踏みつけにされても文句は言えねぇ!!」
「なら、おまえも踏みつけにされるべきだな」
「何ぃっ!?」
「監獄から脱走するなんて、自分が罪人だと理解できていない無知な輩じゃないか」
「てめぇ……!」
「覚えておけダミアン。無知の知こそが人間を成長させる。恵まれた環境に胡坐をかいて、自分の見たいものしか見ないおまえに知恵をどうの言う資格はないっ!!」
「……っ! このクソカスがぁっ!!」
ダミアンの鞭が、再びアトレイユ様を打ちつける。
……許せない!
「そのくらいにしておけ。殺してしまえば、交渉に使えんぞ」
部屋の隅から、また聞き覚えのある声が……。
私が視線を横にずらすと、筋肉執事の隣に、おひげ伯爵の姿があった。
しかも、彼の前には猿轡をされた男の子が、後ろ手に縛られた状態で両膝をつかされている。
あの子が、アトレイユ様の弟のバスチアンくん……!?
「そのガキがいれば十分じゃないのか!?」
「そう言うわけにもいかん。バトラックスに亡命する際、向こうの変態どもに差し出す材料は多いほどいい」
「ちっ。そういうことだ。命拾いしたなアトレイユさんよぉ」
ダミアンはわざとアトレイユ様の傷口を狙って、彼を蹴り倒した。
もう見ていられない……!
私が飛び出そうとした時、ヴァナディスさんに腕を掴まれた。
振り向いた時に見たその顔は、今まで怯えていた彼女のものとはどこか違う感じがした。
「……私が囮になる。その隙に、これでアトレイユ様の縄を切って。彼ならきっと、あなたを守ってくれる」
ヴァナディスさんが、小さな声で私に耳打ちしてきた。
同時に、私の手に何かを握らせる。
……それは、手のひらに収まる程度の小さなナイフだった。
「ヴァ――」
私が彼女の名前を呼ぼうとすると、人差し指で口を塞がれた。
そして、ニコリと笑ったと思うと――
「誰かーっ! 助けてーーっ!!」
――叫びながら、一階に続く階段を上って行った。
「誰だ!?」
「ジェニングス、追えっ! 絶対に逃がすな!!」
伯爵が命じるや、筋肉執事が床を蹴って入り口へと走りだす。
後を追ってダミアンも駆けだしたけど、階段の手前で追うのをやめてしまった。
彼が立ち止まったのは、私のすぐ目の前。
振り返れば、確実に私に気づいてしまう位置関係だ。
もう、やるしかない。
ヴァナディスさんが危険と引き換えにもたらしてくれた、千載一遇のチャンスを無駄にはできない!
「ん?」
ダミアンが私に気づくのと同時に、私はアトレイユ様のもとへと駆けだした。
「ダミアン! もう一人おるぞっ」
「ちぃっ!」
ダミアンが私を追いかけてくる。
私はアトレイユ様に寄り添って、手首を縛る縄にナイフを押しつけた――
「……っ!!」
――けど、私の握力じゃ一息に切断できない!
「クソがぁっ!!」
背中にすごい衝撃を受けた。
私は壁にぶつかり、肩に激痛を感じて床に倒れ伏してしまった。
「あの時の女じゃねぇか」
蹴られた時にナイフは私の手を離れ、床を滑って行ってしまった。
アトレイユ様の縄には、わずかに切り込みを入れられただけ。
もう、ダメだ……。
「その女、聖女じゃ! ザターナがなぜここに!?」
「この女が聖女?」
「捕まえろ! その女さえいれば、すぐにでもバトラックスに亡命できる!!」
「そりゃいい!」
逃げようにも、ダミアンに髪の毛を掴まれてしまって身動きが取れない。
長い髪ってこういう時に不便……!
「この建物は騎士団に包囲されていますっ! 二人とも投降しなさい!!」
「そんなわけねぇだろうが。だったらなんで、おまえら非力な女どもが中に入ってんだよ!」
……ごもっともだわ。
「聖女さえいれば、アトレイユもこのガキも必要ないわ! 報復できるぞ!!」
「もちろんそのつもりだぜ、親父!」
悔しい……っ。
できることなら、ダミアンの邪まなニヤケ面を殴りつけてやりたい――
「……!!」
――と思ったところで、私は目を丸くした。
伯爵も。捕まっている男の子も。
それに気づいていないのは、私を見下ろすダミアンだけ。
「ありがとう、ザターナ嬢。きみは俺の光だ」
ふらりと立ち上がったアトレイユ様。
彼の手首からは、ねじ切られた縄が滑り落ちていく。
……私がわずかに入れた切れ目が、彼の助けになったんだわ!
「ダミアン。おまえには、命を賭してまで助けてくれる友がいるか?」
「うっ……ううっ」
アトレイユ様の怒りに満ちた眼差しを受けて、ダミアンは硬直した。
髪を掴む力が緩んだので、私はとっさに彼を突き飛ばして部屋の隅へと逃れる。
「な、舐めんじゃねぇぞぉ……!」
ダミアンは腰の剣を抜くや、慌ててアトレイユ様へと突きつける。
でも、剣を持つその手はおぼつかない。
「剣が使えないなら、拳で戦うくらいの気概を見せてみろっ!!」
「野郎……っ。ぶっ殺してやる!!」
ダミアンが剣を振りかぶった瞬間――
「あ”」
――アトレイユ様の右拳が、彼の顔面へと突き刺さった。
その直後、弧を描くようにして反り返り、後頭部から床に激突。
……無様に白目を剥いてしまった。
「う、動くんじゃないっ! 弟を殺されたいかっ!?」
私達が伯爵に向き直った時には、彼が弟くんの首にナイフを当てていた。
さっき床を滑って行ったナイフだわ!
「くっ……。どこまで卑怯なんだ、あなたは!」
この期に及んで、弟くんを人質に取るなんて。
貴族の風上にも置けない最低な男だわ!
「こんなところで終わってたまるかっ!!」
まずい。まずいまずいまずい!
なんとかしないと!!
切実にそう考えていた時――
「あっ」
――私は、手元に通魔石を握っていたことを思い出した。
そして、あの奥義のことも。
「……伯爵」
「な、なんじゃ!?」
私は通魔石を片手に、体を大きくひねるようにして振りかぶった。
そして、手のひらに乗せた石へと全神経を集中!
私はそれを力いっぱい――
「天・罰・覿・面っ!!」
――伯爵へと投げ飛ばした!
「ごはっ!!」
やった、命中っ!!
「ああぁっ!」
「な、なんじゃとぉぉぉっ!?」
アトレイユ様の悲鳴。
伯爵の驚愕する声。
……あれ?
「あが……が……っ」
私が投げた石は、あろうことか伯爵の手前にいた弟くんの額に命中してしまっていた。
ぴゅーと赤い血が吹き出たかと思うと、弟くんはガクリとその場に崩れ落ちる。
「なっ!? このガキ、ちゃんと立たんかっ!」
まさかの僥倖!
弟くんが気絶したことで、伯爵のナイフが彼の首から離れた。
その瞬間――
「バスチアンッ!!」
――アトレイユ様の渾身の右が、伯爵の顔面に炸裂した!
「あばば……ば」
伯爵は息子同様に白目を剥いて倒れ、さらにズボンまで濡らした。
……終わった、のね。
「アトレイユ様」
私が声をかけると、彼は屈託のない笑顔を私に向けてくれた。
それを見た私も釣られて笑みがこぼれる。
「あなたはまるで女神だ。絶望しかけた俺に希望の光を与えてくれた」
「おおげさです。私は、ただの聖女ですよ」
アトレイユ様は気絶している弟くんを抱き起こすと、額の傷口を覗き込む。
「あ、あの……大丈夫です?」
「気絶してるだけです。心配しないでください、バスチアンは石頭ですから」
「あはは……」
白目を剥いている弟くんを前に、私は苦笑するしかなかった。
「ザターナ嬢。俺は理解しました」
「はい?」
「闇に紛れて行われる正義など犬も食わない。真の正義とは、太陽の下――正しき者の意志に則って行われるからこそ、意義があるのだと」
「正しき者、ですか」
「あなたのことです。聖女ザターナ」
アトレイユ様は弟くんを床に寝かせると、私の前にかしずいた。
そして。
「このアトレイユ・ブックス・コリアンダ。あなたの騎士として、この身を尽くすことをお許しください。あなたのお傍で、俺の力をセントレイピアのために使いたいのです」
「私、無茶しますよ?」
「知っています。だからこそ、お傍についてお守りします」
アトレイユ様が、赤い瞳で燃えるような熱い眼差しを向けてくる。
……そんな目で見つめられたら、とても断れないわね。
「わかりました。ただ、ふたつだけ条件があります」
「なんでしょう」
「ヴァリアントの活動は今日限りとすること。今後は、お友達も一緒に日の当たる場所で不正を正してください」
「……温情、感謝します。もうひとつは?」
「ぜひあなたも、親衛隊に立候補してくださいね」
「我が聖女の仰せのままに」
◇
この後、ソーン伯爵と息子ダミアンは騎士団に拘束。
通魔石の略取および不正利用、コリアンダ家の放火と兄弟拉致が明らかとなり、伯爵は息子ともども60年の禁固刑に処せられることとなった。
彼の年齢からして、生きて外に出てくることはないでしょう。
ヴァナディスさんは、なんと筋肉執事をやっつけていた。
執事は体重が災いし、床に足を取られたところを、近くにあった空のボトルで彼女に後頭部を殴打されてノックアウト。
薄々思っていたけど、彼女の強運てすごくない?
ヴァリアントは聖都から姿を消し、正体は謎のままとなった。
アトレイユ様と、そのご友人達がトバルカイン家を訪ねてくる機会が増え、旦那様は困惑しながらも来客禁止令を解いた。
弟くんは額に傷が残ってしまった。
後日、お詫びの品をお持ちしたところ、なんとデートに誘われることに。
その時のアトレイユ様の顔ときたら、しばらく忘れられそうにない。
「……」
「……」
声を押し殺していると、足音は私達のいる部屋の前を横切って行った。
どうやら気づかれなかったみたいで、一安心。
「……ぶはぁっ! 早く逃げましょうよ。もう証拠の品は手に入れたでしょ!?」
気づけば、私はうっかり通魔石を手に取ったままだった。
「でも、伯爵が居ることも確認しないと。それに、アトレイユ様や弟さんが捕まってるかもしれないし」
「アトレイユ様が? あんな強い殿方が、肥え太った性悪貴族なんかに捕まえられるわけないでしょっ」
……切羽詰まってるからか、ヴァナディスさんの言い方が容赦ない。
帰りたい気持ちはわかるけど、ここまで来たからにはアトレイユ様達の救出も果たしたいわ。
「今の人をつけましょう。きっとご兄弟の居所を知ってるはず」
「冗談じゃないわ! あなた、怖くないの!?」
「……怖いですよ。でも、お友達が傷つけられるのはもっと怖いんです」
「……っ」
ヴァナディスさんは動揺して、目を泳がせていた。
もうこの人に怖い思いはさせたくないな……。
「ここに居てください。少ししたら、騎士団に通報お願いします」
私はそう言い残し、独り机の陰から出た。
廊下に顔を出すと、大きな影が角を曲がって行くのが見える。
私達と違って、あの影は歩くたびにギシギシと床板を軋ませている。
かなりの体重――きっと伯爵の傍にいた筋肉執事だわ。
「待ちなさい。私も行くわ」
ヴァナディスさんが、青い顔をしたまま机の陰から出てきた。
その目は私を恨めしそうに見つめているけど、今の私にとってはとても心強い。
私達は、廊下の奥から聞こえる足音を静かに追いかけた。
◇
廊下の奥の階段を下り、私達がたどり着いたのはワイン貯蔵庫だった。
と言っても、棚はすべて空で何もない。
「どうした? この程度でもう音を上げたか」
貯蔵庫の奥から、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
棚の陰に隠れて声のした方を覗き込むと、いくつか人影が目に入る。
「俺のことは好きにしていい。だから弟は解放してくれ……」
「ダメだね。そんなことすれば、おまえは何するかわからねぇ!」
ビシャリ、と何かを叩く音が響いた。
その音は何度も貯蔵庫に響き、うめき声まで一緒に聞こえてくる。
「へっ。三剣の貴公子も、こうなっちゃ形無しだな? えぇおい、アトレイユ様よ!?」
……なんてこと!
上半身を裸にされたアトレイユ様が、後ろ手に縛られて両膝をついているわ。
肌には、直視するのもはばかられる裂傷がいくつも……。
「なんとか言ったらどうだ!?」
「ぐあっ!」
酷い。鞭打ちだわ!
アトレイユ様を鞭で打ちつけているのは――
「てめぇには二度と剣を持てなくされたんだ。こんな程度じゃ、とても腹の虫が収まらねぇ!」
――ダミアンだった。
禁固刑になったって聞いたのに、どうしてここに!?
「……当然の報いだ。今まで何人の罪なき人を、誉れある宮廷剣術で傷つけた」
「馬鹿か、てめぇは。俺が斬り捨ててきたのは、救いようのない無知の不知のクズどもだ!! 自分の立場を弁えない連中は、知恵ある者に踏みつけにされても文句は言えねぇ!!」
「なら、おまえも踏みつけにされるべきだな」
「何ぃっ!?」
「監獄から脱走するなんて、自分が罪人だと理解できていない無知な輩じゃないか」
「てめぇ……!」
「覚えておけダミアン。無知の知こそが人間を成長させる。恵まれた環境に胡坐をかいて、自分の見たいものしか見ないおまえに知恵をどうの言う資格はないっ!!」
「……っ! このクソカスがぁっ!!」
ダミアンの鞭が、再びアトレイユ様を打ちつける。
……許せない!
「そのくらいにしておけ。殺してしまえば、交渉に使えんぞ」
部屋の隅から、また聞き覚えのある声が……。
私が視線を横にずらすと、筋肉執事の隣に、おひげ伯爵の姿があった。
しかも、彼の前には猿轡をされた男の子が、後ろ手に縛られた状態で両膝をつかされている。
あの子が、アトレイユ様の弟のバスチアンくん……!?
「そのガキがいれば十分じゃないのか!?」
「そう言うわけにもいかん。バトラックスに亡命する際、向こうの変態どもに差し出す材料は多いほどいい」
「ちっ。そういうことだ。命拾いしたなアトレイユさんよぉ」
ダミアンはわざとアトレイユ様の傷口を狙って、彼を蹴り倒した。
もう見ていられない……!
私が飛び出そうとした時、ヴァナディスさんに腕を掴まれた。
振り向いた時に見たその顔は、今まで怯えていた彼女のものとはどこか違う感じがした。
「……私が囮になる。その隙に、これでアトレイユ様の縄を切って。彼ならきっと、あなたを守ってくれる」
ヴァナディスさんが、小さな声で私に耳打ちしてきた。
同時に、私の手に何かを握らせる。
……それは、手のひらに収まる程度の小さなナイフだった。
「ヴァ――」
私が彼女の名前を呼ぼうとすると、人差し指で口を塞がれた。
そして、ニコリと笑ったと思うと――
「誰かーっ! 助けてーーっ!!」
――叫びながら、一階に続く階段を上って行った。
「誰だ!?」
「ジェニングス、追えっ! 絶対に逃がすな!!」
伯爵が命じるや、筋肉執事が床を蹴って入り口へと走りだす。
後を追ってダミアンも駆けだしたけど、階段の手前で追うのをやめてしまった。
彼が立ち止まったのは、私のすぐ目の前。
振り返れば、確実に私に気づいてしまう位置関係だ。
もう、やるしかない。
ヴァナディスさんが危険と引き換えにもたらしてくれた、千載一遇のチャンスを無駄にはできない!
「ん?」
ダミアンが私に気づくのと同時に、私はアトレイユ様のもとへと駆けだした。
「ダミアン! もう一人おるぞっ」
「ちぃっ!」
ダミアンが私を追いかけてくる。
私はアトレイユ様に寄り添って、手首を縛る縄にナイフを押しつけた――
「……っ!!」
――けど、私の握力じゃ一息に切断できない!
「クソがぁっ!!」
背中にすごい衝撃を受けた。
私は壁にぶつかり、肩に激痛を感じて床に倒れ伏してしまった。
「あの時の女じゃねぇか」
蹴られた時にナイフは私の手を離れ、床を滑って行ってしまった。
アトレイユ様の縄には、わずかに切り込みを入れられただけ。
もう、ダメだ……。
「その女、聖女じゃ! ザターナがなぜここに!?」
「この女が聖女?」
「捕まえろ! その女さえいれば、すぐにでもバトラックスに亡命できる!!」
「そりゃいい!」
逃げようにも、ダミアンに髪の毛を掴まれてしまって身動きが取れない。
長い髪ってこういう時に不便……!
「この建物は騎士団に包囲されていますっ! 二人とも投降しなさい!!」
「そんなわけねぇだろうが。だったらなんで、おまえら非力な女どもが中に入ってんだよ!」
……ごもっともだわ。
「聖女さえいれば、アトレイユもこのガキも必要ないわ! 報復できるぞ!!」
「もちろんそのつもりだぜ、親父!」
悔しい……っ。
できることなら、ダミアンの邪まなニヤケ面を殴りつけてやりたい――
「……!!」
――と思ったところで、私は目を丸くした。
伯爵も。捕まっている男の子も。
それに気づいていないのは、私を見下ろすダミアンだけ。
「ありがとう、ザターナ嬢。きみは俺の光だ」
ふらりと立ち上がったアトレイユ様。
彼の手首からは、ねじ切られた縄が滑り落ちていく。
……私がわずかに入れた切れ目が、彼の助けになったんだわ!
「ダミアン。おまえには、命を賭してまで助けてくれる友がいるか?」
「うっ……ううっ」
アトレイユ様の怒りに満ちた眼差しを受けて、ダミアンは硬直した。
髪を掴む力が緩んだので、私はとっさに彼を突き飛ばして部屋の隅へと逃れる。
「な、舐めんじゃねぇぞぉ……!」
ダミアンは腰の剣を抜くや、慌ててアトレイユ様へと突きつける。
でも、剣を持つその手はおぼつかない。
「剣が使えないなら、拳で戦うくらいの気概を見せてみろっ!!」
「野郎……っ。ぶっ殺してやる!!」
ダミアンが剣を振りかぶった瞬間――
「あ”」
――アトレイユ様の右拳が、彼の顔面へと突き刺さった。
その直後、弧を描くようにして反り返り、後頭部から床に激突。
……無様に白目を剥いてしまった。
「う、動くんじゃないっ! 弟を殺されたいかっ!?」
私達が伯爵に向き直った時には、彼が弟くんの首にナイフを当てていた。
さっき床を滑って行ったナイフだわ!
「くっ……。どこまで卑怯なんだ、あなたは!」
この期に及んで、弟くんを人質に取るなんて。
貴族の風上にも置けない最低な男だわ!
「こんなところで終わってたまるかっ!!」
まずい。まずいまずいまずい!
なんとかしないと!!
切実にそう考えていた時――
「あっ」
――私は、手元に通魔石を握っていたことを思い出した。
そして、あの奥義のことも。
「……伯爵」
「な、なんじゃ!?」
私は通魔石を片手に、体を大きくひねるようにして振りかぶった。
そして、手のひらに乗せた石へと全神経を集中!
私はそれを力いっぱい――
「天・罰・覿・面っ!!」
――伯爵へと投げ飛ばした!
「ごはっ!!」
やった、命中っ!!
「ああぁっ!」
「な、なんじゃとぉぉぉっ!?」
アトレイユ様の悲鳴。
伯爵の驚愕する声。
……あれ?
「あが……が……っ」
私が投げた石は、あろうことか伯爵の手前にいた弟くんの額に命中してしまっていた。
ぴゅーと赤い血が吹き出たかと思うと、弟くんはガクリとその場に崩れ落ちる。
「なっ!? このガキ、ちゃんと立たんかっ!」
まさかの僥倖!
弟くんが気絶したことで、伯爵のナイフが彼の首から離れた。
その瞬間――
「バスチアンッ!!」
――アトレイユ様の渾身の右が、伯爵の顔面に炸裂した!
「あばば……ば」
伯爵は息子同様に白目を剥いて倒れ、さらにズボンまで濡らした。
……終わった、のね。
「アトレイユ様」
私が声をかけると、彼は屈託のない笑顔を私に向けてくれた。
それを見た私も釣られて笑みがこぼれる。
「あなたはまるで女神だ。絶望しかけた俺に希望の光を与えてくれた」
「おおげさです。私は、ただの聖女ですよ」
アトレイユ様は気絶している弟くんを抱き起こすと、額の傷口を覗き込む。
「あ、あの……大丈夫です?」
「気絶してるだけです。心配しないでください、バスチアンは石頭ですから」
「あはは……」
白目を剥いている弟くんを前に、私は苦笑するしかなかった。
「ザターナ嬢。俺は理解しました」
「はい?」
「闇に紛れて行われる正義など犬も食わない。真の正義とは、太陽の下――正しき者の意志に則って行われるからこそ、意義があるのだと」
「正しき者、ですか」
「あなたのことです。聖女ザターナ」
アトレイユ様は弟くんを床に寝かせると、私の前にかしずいた。
そして。
「このアトレイユ・ブックス・コリアンダ。あなたの騎士として、この身を尽くすことをお許しください。あなたのお傍で、俺の力をセントレイピアのために使いたいのです」
「私、無茶しますよ?」
「知っています。だからこそ、お傍についてお守りします」
アトレイユ様が、赤い瞳で燃えるような熱い眼差しを向けてくる。
……そんな目で見つめられたら、とても断れないわね。
「わかりました。ただ、ふたつだけ条件があります」
「なんでしょう」
「ヴァリアントの活動は今日限りとすること。今後は、お友達も一緒に日の当たる場所で不正を正してください」
「……温情、感謝します。もうひとつは?」
「ぜひあなたも、親衛隊に立候補してくださいね」
「我が聖女の仰せのままに」
◇
この後、ソーン伯爵と息子ダミアンは騎士団に拘束。
通魔石の略取および不正利用、コリアンダ家の放火と兄弟拉致が明らかとなり、伯爵は息子ともども60年の禁固刑に処せられることとなった。
彼の年齢からして、生きて外に出てくることはないでしょう。
ヴァナディスさんは、なんと筋肉執事をやっつけていた。
執事は体重が災いし、床に足を取られたところを、近くにあった空のボトルで彼女に後頭部を殴打されてノックアウト。
薄々思っていたけど、彼女の強運てすごくない?
ヴァリアントは聖都から姿を消し、正体は謎のままとなった。
アトレイユ様と、そのご友人達がトバルカイン家を訪ねてくる機会が増え、旦那様は困惑しながらも来客禁止令を解いた。
弟くんは額に傷が残ってしまった。
後日、お詫びの品をお持ちしたところ、なんとデートに誘われることに。
その時のアトレイユ様の顔ときたら、しばらく忘れられそうにない。
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