すくいや

Green hand

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不思議な影~影の正体

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ある集落の名も無い崖。
その崖は、1部の間で自殺の名所と騒がれている。集落で暮らす住民達の気も知らず。

「おい裕貴ぃ。もうちょい何とかならんのか?見ちゃおれんよ。」

「だったら目ぇ瞑っててよ。」

「あぁ~・・・これじゃ日が暮れちまうわ。」

「雪道慣れてないんだから、大目に見てよ。」

「雪道運転何か月だい。」

「・・2カ月・・半かな。」

老婆は大きな溜め息をついた。
古い紺の4駆が、林道を速度10キロ前後で坂を上がっていく。
崖から5キロのこの林道沿いに、老婆の家がある。古い家屋だが、十分手入れがされているし、冬は雪が積もれば役場から数人やってきて雪下ろしをし、林道の除雪は除雪車が行っている。夏は、老婆の家の庭や、林道にうっそうと茂る雑草の除草も、役場が行う。
裕貴がいなくても、老婆が1人で住むのに特に不自由はしていない。
こんな好待遇を受けているのは、この集落で老婆の家だけだ。
当然と思う者もいれば、中には面白く思わぬ者も。

「はぁ・・・やぁっと着いた。」

「そんなに嫌なら、お婆ちゃんがやる?」

「その方がマシと何度も思ったよ。早まっちまったなぁ~、免許の返上。」

「大丈夫だよ。僕口固いし。」

「馬ぁ鹿ぬかすな!これ以上お巡りに迷惑かけられるかい。」

「これ以上って・・そうか。昔酔っ払って喧嘩して捕まったんだったね。」

「ふん・・・血の気が多いもんでね、お前と違って。」

老婆の表情が若干曇るのを、裕貴は感じ取る。

「そんなの、可愛いもんだよ。世間じゃ身勝手な理由で、簡単に見ず知らずの人間を殺す奴がいるんだ。」

老婆の目が、鋭く裕貴を射抜く。今まで見せたこと無い表情に、裕貴は身を固める。

「知った風な口を・・・。」

「・・実際そうじゃないか。」

「まぁな。確かに、罪人の中にはそんな奴もいる。だが、お前はそいつらに会ったことがあるか?そいつらがどんな生を送って来たか・・・知ってんのか。」

「・・・・・・・・。」

「情報を鵜呑みにすんのは、本物の馬鹿がする事だ。人の本性など、会って確かめるまで決めつけるもんじゃない。」

そう言って、老婆はトランクから自分の荷物を取り、家へ入った。
裕貴はしばらく佇んで、引ったくるように自分の荷物を手に取ると、トランクを力強く閉める。

「・・・面倒くせぇ。」

そう呟いて、家へ入った。





『不思議な影』

夕方6時。外は相変わらず雪景色だ。老婆と裕貴は店を開ける。

「巡査、見張り番ご苦労さん。」

「ああ、銀子さん!助かったぁ~!もう凍え死ぬ所でしたよぉ!」

「裕貴もあんたも、どうしてこう冷え性なんだろねぇ~。男のクセに。」

「いやこればっかりはどうしようもないっスよ~!ねぇ、裕貴くん?」

「ハハハ、お疲れ様です。」

裕貴は、作り笑いでスルーして、石油が入ったポリタンクをストーブ前に降ろす。

「予想外でしたよ。石油切れなら言っといてくれれば、交代前に買ってきたのに・・・。」

「それより、変わりはなかったかい。」

「あ、はい!1人不審者が現れましたが、声をかけたら去ってしまいました。バイク乗りで、ナンバーは一応控えておきました。」

そう言って、若い巡査はメモ書きを老婆に手渡す。

「男だね。」

「え、当たりっス・・・。何故毎回言い当てるんスか?」

「あんたの顔に書いてあるんだよ。ホラ、缶コーヒーやるから戻りな。」

「あざーっす!あ、おでんとおにぎりゴチんなりましたぁ!」

「あいよ。明日は誰だい。」

「権三先輩っス!」

「ん、分かった。じゃあな、お疲れ~。」

「はい!お疲れ様です!」

若い巡査は、笑顔でキレイな敬礼をしてみせて、ミニパトに乗って去って行った。

「石油補充完了。」

「おう。点火したら、厨房へ来な。仕込みを教える。」

「・・・・・・。」

「なんだい、露骨に嫌な顔しやがって。刃物は得意だろ~?刃物は。」

「・・・了解。」

溜め息交じりに返事をして、裕貴はポリタンクを店の隅へ置いた。
その時、視界の右端に入った廊下奥の小さな和室に、何かがいる気配がした。裕貴は反射的にそちらへ顔を向けると、和室の襖の隙間から黒い影が見えた。

「・・・・・・・!!」

裕貴は一瞬戸惑ったが、すぐに平静を保って、急ぎ足で廊下を渡り、勢いよく襖を開けた。

「・・・・・・・・。」

誰も、何もいなかった。

「どうした。」

襖を開ける音を聞いて、老婆も駆けつける。

「いや、何か見えた気がしたんだけど、気のせいだったみたい。」

「・・・本当かい?」

「うん。なんで?」

「いや。お前が見間違うことなんてあるのかと思ってさ。さ、仕込み始めるよ。」

「うん。」

裕貴は、もう一度室内を見回して、静かに襖を閉じた。



厨房では、老婆の指示通り、裕貴はおでんの具材を淡々とカットしていく。
その手を見つめ、老婆は問いかける。

「家で料理は?」

「まぁ、米とぎと味噌汁くらいは。」

「ふーん。実家を離れて、立派にやってたってワケだ。」

「立派にやれてれば、お婆ちゃんの世話になってないよ。」

「いいや、やってたさ。苦労が顔に出てる。」

「え、マジで?老けてる?」

「馬ぁ鹿。しっかり年相応だよ。そうじゃない。ちゃんと人と向き合ってきた顔をしてるって言ってんだよ。」

「・・・そうかな。」

「ああ、ただ・・少し間違っただけだ。」

一瞬、包丁を持つ手が止まったが、すぐにまた動き出す。

「・・・かもね。」

「まだ30だ。これからもっと間違う。いくら避けようと試行錯誤しようが、何度も間違う。」

「・・・・・・。」

「それを、[経験]とも言い換えられると思わねぇか?ビビって避けてばかりいたら、経験は身にならねぇ。」

「・・切ったよ、全部。」

「最初は嫌々やってた仕込みだが、刃物に慣れたお前さんには何てことなかったろ?お前はまた1つ経験を身につけた。それに、あたしよりキレイに切れてるじゃないか。筋が良い。」

「褒めたって何も出ないよ。次は?」

「あとは鍋にぶっ込んで煮るだけだ。味つけは、今日はあたしがやるから見てな。」

「了解。」

老婆は、裕貴がカットした具材が入った大きなボールから、コンロの上の大鍋へ具材を移す。

「いいか?誰だって生きてりゃ間違うんだ。このあたしだってな。」

「結構しつこいんだね。」

「耳が痛いってか?それなら安心だ。」

「お婆ちゃんさ、僕のこと一体何だと思ってんの。」

「まぁ言ってみりゃあ・・・脱け殻だな。半年前、久しぶりに会って、どっかに大事なモン置き忘れてきたみてぇなヤツだと思ったよ。腑抜けた面してよ。」

「長旅で疲れてただけだよ。それより、いつから知ってたの?僕が、[見える]の。」

「それは裕貴がうちへ遊びに来ていた時から知ってた。」

「じゃあ・・・幼稚園?」

「お前の母ちゃんが心配して、あたしに相談してきたこともあった。」

「母さんに打ち明けたら気味悪がられて、それからずっと黙ってることにしたんだ。」

「そうか。仕方ないさ。理解できる者もいりゃ、出来ない者もいる。」

「お婆ちゃんは、よく理解してくれているね。僕よりもずっと知ってるみたいだ。」

「当然さ。あたしにも見えていたからね。」

「え?」

「昔のこった。裕貴にはまだ話してなかったか。あたしも見えてたんだ。あたしの親父もね。でも、いつからか見えなくなっちまった。」

「そうなんだ。じゃあ、僕もいつか見えなくなるのかな。」

「さぁ・・・どうかね。親父は、死ぬまで見えていたからね。あたしが子供の頃内緒で可愛がってた野良猫や、兄貴が飼ってた鶏が見えていて、あたしらに教えてくれた。人間も動物も同じだ。大事にするんだぞって口癖のように、死ぬ間際まで聞かされたよ。」

「気の優しいお父さんだったんだね。」

「長所で短所ってやつさ。誰にでも優しいから、余計なモンまで背負い込む事もしょっ中あった。だが、人を正すのが上手い人だったから、恩を仇で返すような人間は殆どいなかったよ。戦時中、生死の境に立って生き抜いた人だ。あたしらと経験が違うのもあったのかもしれないね。」

「あれ?お婆ちゃんは戦後に生まれたの?」

「あ?お前、あたしをいくつだと思ってんだい?」

「100いってる割りには若いなと思ってた。」

「失敬な男だねぇ。まだまだピチピチの73だよ。」

「・・・・・・・・!!」

裕貴はわざとらしく驚いてみせる。

「あんたこそ、あたしのこと何だと思ってたんだい。」

「・・・あ、エンジン音。」

「おい、誤魔化して逃げようたってそうは・・・」

「続きはあとで。上着とってくる。」

裕貴が厨房を出ると同時に、出入り口のガラス戸に黒い影が過る。老婆はおでんを煮る音で、エンジン音が聞こえなかった。その事実に、老婆は溜め息をつく。

「お婆ちゃん、ちょっと来れる?」

「ん、どうした。」

老婆は厨房を出ると、廊下を指さす裕貴がいた。

「奥の襖見て。」

老婆は促されるまま、奥の和室の襖を見る。

「襖がどうした?」

「さっきちゃんと閉めておいたのに、開いてるんだ。」

「・・・裕貴、さっき何か見えた気がしたって言ったな。」

「うん。」

「お前が聞いたエンジン音は、バイクか?」

「そう。」

「ナンバーを確認しな。きっと、さっき来たバイク乗りだ。」

「了解。」

裕貴は急いでストーブの傍の壁に掛けておいた上着をとり、羽織りながらカウンター席に建てかけてある釣り竿を持って出入り口のガラス戸へ目をやると、

「お婆ちゃん。」

ガラス戸も、少し開いていた。ここは真冬の極寒地帯。最後に戸に触れたのは若い巡査だ。地元民で戸を開けて冷気を楽しむような物好きも、ストーブが石油切れだった腹いせに意図的に戸を開けていくような陰険者もここには居ない。
老婆と裕貴は顔を見合わせ、神妙な顔で老婆は告げる。

「仕事だよ、裕貴。」

「うん、行ってくる。」




『影の正体』


外へ出ると、崖近くに黒いバイクが見える。その隣りには、一見景色を眺めて休憩中の様にも見える人影があった。
裕貴は釣り竿を肩にあて、ゆっくり崖へ向かって足を運んでいく。人影に近づくに連れて、影の全貌が明らかになっていく。
黒いヘルメットに、体に密着した黒いライダースーツ。足元は黒いブーツと全身黒一色で、体格からして男性。そして、隣りに停めてあるバイクのナンバーは、巡査が控えたナンバーと同じだ。

「こんにちは。」

突然背後から声を掛けられ、男は肩を揺らした。そして、ゆっくり振り返る。

「ああ、どうも。」

「ここ、波の音凄いんですよ。誰か近づいてきても分からないですよね。」

「ええ、本当に。」

ヘルメットで声がくぐもっていて聞こえづらいが、聞こえづらいのはそれだけが原因じゃない。声にあまり張りが
無い。
裕貴は気にせず、崖っぷちへ歩いていき、腰を下ろして足を投げ出した。
その動作に、男は密かに驚いていた。

「・・・・・・・!?」

裕貴は作り笑顔で振り返り、男に問いかける。

「いいですね。バイクでツーリングですか?」

「まぁ・・・そんなトコです。君は?」

「ああ、僕は釣りです。」

「・・ここで?」

「はい。釣れた試しは無いですけど。」

「そりゃそうでしょう。」

男は小さく笑う。
裕貴は釣り竿を振り、リールのロックを解除して釣り糸を崖下へゆっくり垂らしていく。
少し、裕貴は焦っていた。気配はするのに、なかなか姿を現してくれないからだ。

「君は、不思議な人だね。こんな格好したヤツが崖にいたら、普通は声かけないだろ。」

「ですね。でもあなたも、釣り竿1本で現れた得体の知れない人間と会話してますよ?」

「まぁ・・ハハッ。確かにそうだね。お互い変わり者というワケだ。」

男はそう言って、ヘルメットを外してバイクのシートに乗せた。

「はぁ・・・君のような勇気はないから、私は相棒の隣りに座るとしよう。」

男は胸に手を当てながら、積もる雪の上に腰を下ろすと、両膝を立てて、その上に両膝を乗せる。
話しぶりから、裕貴は自分より年上であることは分かっていたが、外見は思っていたよりも年上のようだ。おそらく、50代半ば辺り。髪は薄く白髪混じりで、疲れきった表情。[身捨て]に共通した、絶望の2文字では語り尽くせない空気を醸し出している。

「別に、慣れてるだけですよ。それにしても、こんな雪道をよく走れますね。僕にはそっちの方が勇気あると思います。」

「こういう危ない事は今まで避けてきたんだが・・・、今日は思いきってやってみたんだ。そしたら、案外走れたのでね。」

「・・そうですか。」

裕貴は作り笑顔で会話しながら、男の周辺に目を走らせる。どこにも見当たらないし、何も訴えて来ない。
そうこうしている内に、釣り糸がいっぱいまで垂れ下がった。
裕貴は崖に向き直り、海風に揺れる釣り糸を見つめる。その時だった。

「・・・・・・。」

自分のすぐ背後に、[いる]のを感じとった。裕貴は、脅かさないように、そっと背後に目をやる。
ジャーマンシェパードに似た、大きな犬がいた。こちらを品定めするような目で見ている。
目と目が合うと、裕貴の頭に映像が浮かぶ。ほんの数秒の間に、沢山の情報を裕貴の頭に流し込んできた。大きな犬が何を伝えたいのかはよく分かった。

「あの。」

「はい。」

「少し、僕の話を聞いてもらえますか?」

「・・どうかな。もう日が暮れてしまったし。こういう場所に、あまり長居は良くないしね。」

「でも、知ってて来たんでしょ。自殺の名所だって。」

「・・・・・・・?」

男は狼狽えて、無意識で胸に手を当てる。

「ここは、初めてですか?」

「そうだが・・・。」

「あ、忘れちゃいましたか?」

「・・・そうか。さっきここへ立ち寄ったのを見ていたのか。休憩したかったんだが、お巡りに不審者扱いされたので1度離れたんだよ。」

「そうみたいですね。けど、それよりもっと昔の話です。」

「え・・・いや、記憶にないな。」

「・・無理もないかもしれません。まだあなたが、おそらく5歳~7歳頃のことですから。」

「・・・・・・・。」

男は話が見えずリアクションに困る。裕貴はそれを知りながら、作り笑顔を絶やさず続ける。

「大丈夫ですよ。僕の話が終わる頃には、きっと分かりますから。」

「・・つまり、話を聞くのは決定ということかい。」

「そういう事になりますね。」

「・・・分かったよ。」

諦めたように、男はあぐらをかいて、その膝を軽く叩いて、手で擦る。
裕貴は釣り糸を見つめながら話し始める。

「今から話すことは、この集落の山中に住んでいた、ある犬の話です。ある日、いつものように食料を探しに山を駆け回っていると、小さな人間の男の子を見つけました。道に迷ってしまったらしく、戻りたくても戻れなくて、泣きながら道なき道を歩いていました。傍へ行くと、まだ小さいあなたは、大きな体の犬を見て怖くなり、しゃがみ込んでもっと泣きました。犬は怖がらせないようゆっくり静かにあなたへ近寄り、匂いを嗅いだ。そして、なだめるように泣きじゃくるあなたの顔をなめ回しました。その犬は、子犬を1匹失ったばかりの母犬でした。」

「・・・・・・・。」

「あなたが泣き止むと、母犬はあなたに付いてくるよう促して、住処へ連れて行きました。そこには、3匹の子犬が母犬を待っていました。子犬達は先を争って母犬のお乳に吸いついていました。あなたは歩き回って疲れたのか、母犬の傍で横になって眠ってしまいました。お乳をあげ終えると、母犬は子犬達とあなたをおいて、何処かへ行ってしまいました。帰ってくると、目覚めたあなたの前に、捕まえた小鳥を置いた。食べないので、次は兎を。まだ食べないので、次は木の実を。やっと食べたので、母犬は安心して子犬達の傍へ寝そべりました。そうして、あなたを自分の子供同然に扱い、山中で9回夜を越えました。」

「んん・・・・・・。」

男は眉間に皺を寄せ、裕貴のことを怪訝に思い始めた。

「そして、10日目の夕方。母犬は、遠くの方で人の声を耳にしました。あなたを促して、声のする方向へ歩いて行きました。最初に出会った頃と比べて、あなたの体は痩せて、足取りもかなり弱っていました。木の実と川の水だけでは、充分な栄養は摂れないからです。母犬は自分には育てられない事を悟り、人のもとへ帰すことにしたのです。しばらく歩いていると、沢山の人の声と、沢山の明かりが見えてきました。その声に反応して、あなたも声をあげて道なき道を自分の意志で歩き出しました。その姿を見て、母犬はその場に留まって、あなたを見送りました。これでもう大丈夫と思ったそうです。でも、沢山の人達のもとへ辿り着く前に、あなたの姿が突然消えました。母犬が走って様子を見にいくと、あなたは斜面を滑り落ち、車道に転がっていました。その数十メートル先ではトラックが車道を下ってきていました。キィーという音を響かせて、トラックは何とか速度を落とそうとしました。瞬時にあなたの危険を察知して、母犬は一気に斜面を駆け下りて、車道に転がるあなたを頭で突き飛ばしました。しかし次の瞬間、あなたの代わりに母犬がトラックにぶつかり、数メートル前方へ・・・飛んでいきました・・・・。」

「・・・・・・・・。」

男の脳裏が、微かに疼く。
斜面を転がって目が回る感覚と、土の匂い。木の枝や幹にぶつかって痛む手足の感覚が、ジワジワと蘇る。
そして、固い地面でようやく体が止まり、車のエンジン音と、金切り声のようなブレーキ音と、長くてうるさいクラクションの音。
起き上がろうにも、体は痛いし力が入らず起き上がれない。そんな懐にぶつかってきた、大きな黒い影。

「・・・・・・・・!?」

無意識に胸を抑えながら、男の目が大きく見開かれる。
あの黒い影は・・・犬だった。
山の中で、腹を空かせた自分に食料をくれた、子犬達と一緒に寄り添って眠り体を温めてくれた、母親のように面倒を見て、守ってくれようとしていた。
そして、最後は身を挺して、自分の命を救ってくれた。
ほんの短い間だったが、あの犬は自分の母親で、自分はあの犬の子供だった。

「あ・・・何で・・・何でこんな・・・大事なことを・・・・。」

男の目に、涙が溢れてこぼれ落ちる。

「あなたはまだ幼かった。それに、木の実を食べていたとはいえ、人間のもとへ生還した時にはかなり衰弱していたらしいので、記憶に無くても無理はないんです。」

男は四つん這いで裕貴のもとへ行き、裕貴に問う。

「そ、その後は!?母犬はどうなったんですか!?あの子犬達は!?」

「残念ながら、母犬はほぼ即死でした。薄れる意識の中で、道路に倒れたあなたが泣いている声と、トラックから人が出てきて大きな声で助けを呼んで、沢山の人が駆けつけたのを見て安心し、それからすぐに眠りについたそうです。」

「う・・・うう・・・・。」

男は悔いるように顔を歪め、膝の上で拳を握りしめながら、息を切らして母犬のために更に泣いた。
大きな犬は、その姿を優しく見守る。

「・・おかげで・・・長年空いていた隙間が埋まったよ・・・。だから・・・君を疑う気はもう無いが、君が生まれるずっと前の話を・・・どうやって知ったんだい?」

「教えてくれたからです。」

「一体誰が・・・?」

「名前がないのでこんな言い方になってしまいますが、今日あなたがここへ訪れた事で、死んだ母犬と僕がコンタクトを取ることができました。それで事情を知り、あなたへ伝えるよう頼まれたんです。」

「・・まさか・・・そんな・・・」

「僕は必要だと思って話しましたが、母犬が伝えたいことは、自分を思い出してほしいという事ではありません。何もない山の中で、10日間あなたは生き延びた。あなたは強い子。だから何があっても、生きなくては駄目。生きることをやめては駄目。それを伝えたかったそうです。」

男は右手で目を覆い、頷きながら泣き声を押し殺す。両肩が、小刻みに震える。
その肩に、大きな犬は頭を擦りつけ、男が泣き止むまで寄り添っていた。




それから数分後。

「ただいま。」

「おう、おかえり。おや、いらっしゃい。」

「あ、どうも・・・。」

裕貴は、男を連れて店へ戻った。老婆はカウンターに用意しておいたバスタオルを2人に手渡す。

「準備がいいね。」

「当たり前だろ~。誰だと思ってんだい。2人とも、おでん食うか?」

「うん。」

「私も・・いいんですか・・・?では、お願いします。」

「あいよ。」

老婆が厨房へ向かうと、男は裕貴に小声で問う。

「あの方ですか?」

「はい。気になるようでしたら、直接聞いてみて下さい。濡れたんで、ちょっと着替えてきます。」

裕貴は作り笑顔で伝え、男をカウンター席へ促すと、奥の和室へ向かう。その時には、職務完了と言わんばかりに元の無表情に戻っていた。
厨房からカウンターへ手を伸ばし、老婆は急須と湯呑みを置く。

「お茶置いとくから、適当にやっとくれ。」

「ああ、すいません。いただきます。」

「今日のはな、孫と2人で作ったスペシャルおでんだよ。」

「あの子も料理を?」

「まあね。あたしの足元にも及ばんが。」

「ハハハ、そりゃあごもっとも。」

そう言って、男はセルフサービスで急須から湯呑みへ茶を注いで、有り難そうに啜る。
目は泣き腫らしているが、ついさっきまで身捨てだったとは思えない程、晴れ晴れとした表情だと老婆は思った。
それこそ、孫の裕貴よりもずっと満ち足りた表情をしている。

「あの・・・。」

「ん。」

「つかぬ事をお聞きしますが、いや・・・もう大分昔の事なので覚えていらっしゃらないかもしれません。」

「なんだい。前置きはいいから言ってごらん。」

「はい。では、今から50年程前、この村の山で少年が遭難したのを覚えていますか?」

「・・・・・・・。」

「当時少年は、何も覚えていませんでした。10日間、山の中で犬に面倒を見てもらい、生還できたのはその犬のおかげだったというのに。」

「・・・あんた・・・もしや。」

「はい。私は、あの時遭難した子供です。」

「へぇ~・・そうかい。なるほどね。」

そう言って、老婆は記憶を辿る。

「あなたのお孫さんが話して聞かせてくれたおかげで、私は今当時のことを思い出すことが出来ました。」

「確か・・・お盆休みを使って帰省中
に、親がかまってくれないモンだから、ふて腐れて1人でブラブラ外へ出て行っちまったガキがいたって聞いたね?」

「恥ずかしながら・・・そんなどうしようも無い理由でとんだご迷惑を。あの犬にも・・・。」

「5歳か6歳だろ?子供なんて、何するか分からんもんさ。あの犬だって、よく分かってたよ。」

「・・やっぱり!知ってるんですか!?あの大きな黒い犬を!!」

「あんたがいなくなって10日目。あたしも捜索隊の1人として、村のモンといっしょにあんたを探してたからね。救急車で運ばれるあんたと、少し離れた場所に横たわって動かない犬を見たよ。」

「あ・・ああ・・・やっぱり。お孫さんが言ったとおり・・・あなたも当事者だったんですね?」

その時、奥の和室から裕貴が着替えを済ませて戻ってきた。

「裕貴。」

「聞いたんだよ、母犬から。当時のことなら、あの時いたお前のお婆ちゃんがよく知ってるって。」

「全く・・・相変わらず面倒事はあたしに押しつける気かい。」

「野犬だから、人との接し方が分からないんだって。だから、当時のことを丸ごと僕に映像で伝えてきた。返って分かりやすかったよ。」

「なんだ、今もそうなのかい。当時も自分の子供の居場所を、あたしにそうやって伝えてきたよ。」

「そうなんだ。」

「え・・あの、子供というのは・・・?」

「あの犬の子供だよ。」

「・・・・・・・!!」

「まぁ、おでん突きながら聞きな。」

そう言って、老婆はおでんの入った皿を男の前へ置く。裕貴の分は、その右隣りへ。裕貴はその皿を手に取り、テーブル席に座る。
老婆はその様子を見ながら、厨房を出て、カウンターへ戻り、いつもの席へ腰を下ろして、飲みかけの茶が入った湯呑みを両手で包む。
席を一つ空けた次の席で、男はこんにゃくを囓る。

「どうだい?」

「う、美味いです・・・。長年台所を守ってきた人の味がします。奥が深い。」

「だろ~?」

「体が冷えてるからじゃないですか。」

「おお~い、何だと裕貴ぃ。今日から金取るぞ。あ?」

「お婆ちゃん、柄ワルすぎだよ。」

「あ、あの・・・それで、子供達の話をお聞かせ願えますか?」

「ああ、そうだったね。確か・・・あたしが現場に着いた頃には、あんたは救急車に乗せられて、両親と一緒に町へ運ばれるところだった。捜索隊とお巡りは、無事に子供が見つかって喜びながら、互いの労を労い合っていた。そこから数十メートル離れた先の道路で、トラックの運転手は自分が跳ねた犬を抱きかかえて、辺りを見回していた。何処かへ埋めて弔ってやろうとしてたんだろう。声をかけようと、あたしが運転手のもとへ向かっている時、すぐ近くの木々から鳴き声がした。目をやると、木の裏から顔を半分だけ覗かせた犬が、あたしを見ていた。すぐに、運転手が抱きかかえている犬だと察知した。」

「あ、あなたも・・・見えるんですか?お孫さんのように。」

「当時はな。その犬と目が合ったら、急に山道が見えた。知っている山道だった。そこを流れるように進んで行くと、やがて道なき道になって、目の前に木の洞が見えた。暗い洞の中で何かが蠢いていて、意識を集中させたら見えたんだ。3匹の黒と茶が混じった子犬が。」

「・・・・・・・。」

「それからすぐに、木の洞は目の前から消えて、あたしはあの犬の目をじっと見ていた。そして、[子供達を助けてくれ]とあたしに訴えてきて、姿を消した。一応、親しい友人を連れて確認に行ってみた。そしたら、本当に木の洞があって、中に子犬がいた。子犬はその後、この集落の友人や知人たちの家に引き取られたよ。時々尋ねていったら、みんな可愛がられて元気にやっていたよ。それに、あの犬が時々遠くから見守っているのが見えた。3匹ともバラバラになって引き取られたから、わざわざ3軒巡回して見守っていたんだろうよ。あの分じゃ、あんたの事もな。」

「え・・・私も・・・?」

「あの犬は母性が強い。それに、こんなオッサンに成り果てたあんたの身を案じて、あたし達の前に現れた。ずっと見守ってきたはずだよ。なぁ、裕貴。」

「さぁ、隠れて出て来ないから確かめようがないな。人間嫌いで、僕が質問しても答えてはくれないしね。でもそんな人間嫌いが、人間の子供を自分の子供として短い間だけど面倒見ていたんだ。きっと見守っていたはずだよ。」

「・・・そうですね。きっとそうだ。私はなんて恵まれているんでしょうね。母親が2人もいるなんて・・・。気づけて良かった。気づかせてくれて、ありがとうございました。」

穏やかな笑顔で、目を潤ませながら男は2人に頭を下げた。
裕貴は無表情で、おでんを突きながら、

「・・・仕事ですから。」

と答えた。老婆はそれを目にして、内心驚いていた。




その後、おでんを食べ終えると、男は夜の雪道をバイクで帰っていった。
それを見送り、2人は店へ戻る。
先に店に入った老婆が、カウンターに手をついて真剣な顔で裕貴に告げる。

「あの男、どうやら病を患っているようだね。」

「え、そうなの?」

「しきりに胸抑えてたろ。心臓なのか、肺なのか知らんが・・・」

裕貴は、雪の上に座って手で胸を抑える男を思い出す。

「もう、あまり長くないだろう。」

「・・・・・・!」

「大方、余命宣告を受けて病に苦しむ恐怖に負けて、ここへ来たんだ。」

「・・ただの推測でしょ。」

「ああそうさ。だが、知ってんだろ?」

「・・・・・・・。」

「死んだ動物達が見えなくなった代わりの授かり物だと、あたしは思ってる。だから・・・ハズレた試しが無い。」

「・・・・・・・。」

裕貴の脳裏に、母犬の訴えが蘇る。
[あなたは強い子]
[だから何があっても、生きなくては駄目]
[生きることをやめては駄目]

「・・・何言ってんだ・・・どうせ死ぬのに・・・。」

吐き捨てるように呟いて、裕貴は外へ出て行こうとした。

「裕貴。」

それを老婆は止めた。

「ここ半年、この仕事をしてきて、今日あんたは、今までで1番良い仕事をした。」

「は?どこが?今日死のうとしていた人間を止めただけだよ。近い内死ぬっていうのに。そんなの意味ないだろ。」

裕貴は、無表情で言い放つ。老婆はその奥に潜む感情を見抜いた。

「分かんねぇか。あの顔を見ておいて。」

「分からないよ。全くね。」

「今日あんたは、今日死のうとしていた身捨てを止めた。それは、いつもと同じだ。あたしとあんたが村の役人から求められている仕事さ。だが、あの身捨ては病魔に恐怖を抱いていた。それを、あの犬の訴えを伝える事で、あの身捨てに恐怖と向き合う力を与えたんだよ。その証拠に、見たろ?あのスッキリとした顔。」

「・・・・・・・・」

「あんたは、身捨てを崖っぷちから掬いとるだけじゃなく、力を与えたんだ。裕貴。」

「・・・ちょっと出てくる。」

裕貴はガラス戸を開け、外へ出て行った。老婆はもどかしい気持ちで、その背を見送った。



数日後、老婆は裕貴に使いを頼んだ。
カボチャの煮物を、隣り近所の一人暮らしの老人へ届ける。老婆との会話中によき出てくる、[独り身の隣りの爺さん]の家だ。
それだけのことだが、隣りの家は老婆の家から3キロ林道を上がった所にある。まぁまぁのいい運動だ。裕貴は、動くのは嫌いじゃないし、まだまだ若いので難なく歩いた。
玄関に着くと、老婆の指示通り呼び鈴を鳴らして、声をかける。

「すいませーん!隣りの森戸です!」

そうしないと、面倒がって居留守を使うそうだ。
しばらくすると、ガラス戸が開く。

「ん・・・なんだ。」

「こんにちは。はじめまして、隣りの森戸の孫の裕貴です。祖母にこれを届けるように頼まれまして。」

「ぁ・・ああ、銀ちゃんのカボチャか。ありがとう。俺の大好物だ。」

そう言って、年配の男性は笑う。

「わざわざありがとな。まぁ上がってけよ。」

年配の男性がガラス戸を全開にして、裕貴を招く。

「いえ、これから仕事が・・・」

そう言って断ろうとした時、土間の隅の古い犬小屋が目に入る。そして、その前に黒と茶が混じった毛色の犬が、座ってこちらを見つめているのを目にした。

「寒いだろ?お茶だけでも飲んでけって。」

「あの・・・犬飼ってたんですか?」

「ん、ああ。昔な。」

「名前は、文太くん。」

「・・・・・・・!」

「俳優の名前から付けたんですね。」

「あ、ああ・・・銀ちゃんから聞いたのかい?」

「いえ、文太くんが教えてくれました。」

「・・・・・・・??」

「あなたが大事にしていたパイプは、文太くんが犬小屋の裏に隠したそうです。」

「え?」

「隠してごめんなさいと、謝ってます。」

それを聞き、年配の男性は埃まみれの犬小屋を見つめ、半信半疑で近寄っていく。犬小屋の屋根に手を掛け、手前に引っ張り、奥に出来た隙間を覗くと、驚いた顔をして、年配の男性は裕貴を振り返る。

「・・さすが、銀ちゃんの孫だな。」

その足元で、黒と茶が混じった、ジャーマンシェパードに似た犬が、嬉しそうに舌を出して、尻尾を振っている。
その姿を見て、裕貴は密かに笑みを浮かべ、土間へ上がってガラス戸を閉める。

「やっぱり、ちょっとだけお邪魔します。」

「ああ、そうしろよ。良いお茶があるんだ。」

年配の男性は、嬉しそうに隙間からパイプを拾い、裕貴を中へ招いた。
土間では、黒と茶が混じった犬が、年配の男性を見つめて、いつまでも尻尾を振っていた。

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