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第四話 報復の女神(SIDE:B)【要注意】男女の強姦があります!

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 なぜ、そんなことをする気になったのか。
 あえて言うなら、その小さな駅の軒下は、彼が雨宿りするにはひどく不似合いな場所のように思えた。
 栗色の長い髪をゆるく一つに束ね、大きめのグレーのパーカーを羽織り、色のさめた細身のジーンズを穿いた彼は、それだけならとりたてて珍しくはなかった。だが、何とも言えない独特の雰囲気があって、彼女は改札を出てからも、彼から目を離せなかった。
 傘を広げながら、いったいどんな顔をしているんだろうと思い、人込みの中からその横顔を覗き見る。同時にはっと息を呑んだ。
 端整だった。もしそこに男性が持つ鋭角的な線がなかったら、凛々しい女性だとばかり思っただろう。
 午後になって急に降り出した雨を、彼は妙に醒めた顔つきで眺めていた。天気予報ではそうなると言っていたのに、テレビを見なかったのか、それともあえて傘を持たなかったのか。
 そうでなくとも、このところ、秋の長雨が続いている。現に彼女の周りでは、電車から降りた人々が次々と傘を広げて駅を出ていく。
 駅前にはタクシー乗り場もバス乗り場もあるが、それらに乗る気は彼にはないらしい。かといって、雨の中をそのまま走っていく気もないらしく、ただ悠然と腕を組み、まだまだやむ気配のない雨を眺めている。
 そんな彼に、彼女はずいぶんためらったあげく、思いきって声をかけた。

「あの……!」

 声は決して小さくはなかったが、彼は最初、自分に言っているのだと思わなかったようだ。少し経ってから、やや怪訝そうな顔で彼女を見やった。

「あの……もしよかったら、この傘、使ってください!」

 予備としてバッグの中に入れていた、ピンクの花柄の携帯傘を差し出して彼女は言った。いま広げている赤い傘はお気に入りなので、あげてしまうには惜しまれる。

「え……別に俺……」

 中性的な外見のわりに低い声だった。自分よりは確実に年下だろうが、正面から見ても涼しげな整った顔立ちをしており、右目にはいかにも手触りのよさそうな髪が悩ましげにかかっていた。ようするに、彼は男臭さというものをまるで感じさせない容貌の持ち主であったのである。

「あ、これ、返さなくてもいいですから! あげます! じゃ!」

 口早にそう言って、その傘を彼に押しつけると、彼女は小走りに駅を出た。
 余計なお節介だったんじゃないかとか、もしかしたら変な下心があると思われたんじゃないかとか考えると、恥ずかしくてたまらなかった。
 一方、彼のほうはというと、強引に押しつけられた明らかに女物の傘を手に、しばし深刻そうな面持ちでその場にたたずんでいたのだった。

 ***

「お帰り」

 玄関ドアを解錠して入ってきたきょうに、彼がそう声をかけたとき、彼はコタツにあたりながら、白いマグカップに自分で淹れた緑茶をすすっていた。

「人んちに勝手に入って、くつろいでんじゃねえ」

 低く毒づいてから、恭司は水滴のついた傘をドアの横に立てかけ、スニーカーを脱ぎはじめた。

「今日は傘を持たずに出たから、そろそろ呼ばれるかと思って待っていたのだが」

 コタツから離れた彼は、事前に用意してあったタオルをすかさず恭司に手渡す。
 一九〇センチメートルをゆうに超す長身の彼に、狭い日本のアパートは、サイズ的にもイメージ的にも合っているとは言いがたい。その上、外見が黒髪長髪・黒背広である。生活臭あふれる周囲の風景からの違和感たるや、尋常なものではなかった。

「俺もおまえを迎えに来させようと思ってたんだけどさ」

 しかし、そんなことなど恭司は気にも留めない。タオルと濡れた靴下を乱暴に洗濯機の中へと放りこむ。

「駅で親切なオネーサンがその傘くれて、せっかくだから、それ差して帰ってきた」
「……これか?」

 黒い瞳がピンクの花柄の傘を見下ろす。

「そー。よっぽど俺が哀れに見えたんだろー」

 灰色のパーカーをハンガーに掛けてから、恭司は今まで彼が座っていた場所に座ると、肩までコタツ布団を引き上げた。
 向こうでは薄着でいた恭司も、現世ではかなりの寒がりである。初めて会った梅雨の頃にも、まだコタツにあたっていたくらいだ。だが、いくら寒がりでも、恭司に人肌で温まろうという気はさらさらないのだった。

「そうか?」

 いつもの席に腰を下ろして、冷ややかに彼は言った。

「その女、おまえに下心があったのではないか?」
「そりゃないな」

 あっさり恭司は否定する。

「もしそんなもんがあったら、俺に傘やったりしないで、どこまで行くんですかー、一緒に行きませんかー、くらいのことは言うだろ。俺の名前も何も訊かなかったんだぜ? ほら、よく捨て犬とか捨て猫の入った箱に、傘だけ置いていくっていうのあるじゃん? 感覚的には、あれと同じじゃないの?」
「まあ、そう言われてみればそうだが……」

 まだ釈然としなかったが、とりあえず、恭司はその女に大した興味は持っていないらしい。それさえはっきりしていれば、あとはこの際どうでもいいのだ。

「ところで――恭司」

 彼は口調を改め、言おう言おうと思っていたことをついに言った。

「おまえ、いつまでここにいるつもりだ?」
「いつまでって……特に決めてないけど?」

 彼の飲みかけの茶を飲みながら、呑気に恭司は答える。

「ならば」

 と意気ごんで彼は言った。

「いいかげん、向こうに戻ってくれてもいいのではないか? おまえがおらぬと、あの城は陰気なばかりだ。夜魔とて、おまえがいっこうに帰ってこないものだから、寂しがっておるぞ。何ももう二度とこちらへ帰さないと言っているわけではないのだ。おまえがどうしてもと言うならいつでも帰してやる。だから一度、ほんの少しでいいから、城に帰ってきてくれないか?」

 まるで里帰りした女房に帰ってきてくれと泣きつく亭主のようである。恭司のほうもそれにふさわしく、涼しい顔で茶を飲み、コタツの上に置いてあった煎餅をかじっていたが、ふいにあの小悪魔のような笑みを浮かべて彼を見やった。

「おまえ、相変わらず嘘が下手だね」
「えッ?」

 まったく不意――あるいは図星――を突かれて、彼は硬直した。確かに、今度は滅多なことでは帰してやらないぞと考えてはいたが、そんなことはまったく口にしていない。と彼だけは思っている。

「そんなんで、よく〈這い寄る混沌〉やってられるよな。俺に帰ってきてもらいたいんなら、もっと他に言いようってもんがあるんじゃないの? ――なら言うけど、俺はまだ当分あっちに戻る気はないよ。俺は今、摂取する喜びと排泄する苦しみを味わってるんだ」
「恭司ぃぃぃッ!」

 もう恥も外聞もなく、彼はすがるような声を上げた。

「何でだよ。おまえはどこでも自由に行けるんだから、別に俺がどこにいようがかまわないだろ」

 あの城にいてもらいたい彼の理由を知っていながら、そんなことを恭司は言う。

「それはそうだが、いつでもどこでも自由におまえに会えるとは限らんではないか。大学には来るなと言うし、外は目立つから一緒に歩かないと言うし、そうなると実際問題、おまえに会えるのは、ここしかないではないか」

 本人はいたって真剣に言っているのだが、その内容は愛人の愚痴と何ら変わるところはない。これにはさすがに恭司も呆れたような苦笑を漏らしたが、本来は自分のものであるマグカップを彼の前に差し出した。

「まあまあ、茶でも飲んで、ゆっくりして」
「恭司……おまえはな……」

 それでも、無理やり連れ帰ることはできないのが彼の弱いところである。またそこに実にうまく恭司はつけこむ。何事も自分からは言い出さず、彼が口にするまで待ち、いったん彼がそれを口にすると、それに乗じて、結局自分の都合のいいように物事を進めるのだ。
 恭司があの城に住みはじめた頃は、どうしてこれほど自分の言うことをきいてくれるのだろうと思っていたが、それは単に自分の立場を有利にするためだったのではないかと、いいかげん彼も気づきはじめている。
 しかし、そうして恭司のやり口を思い知らされていても、あの鳶色の瞳で見つめられ、悪戯っぽい笑みなど見せられると、やはり恭司の言うことなら何でもきいてやろうという気になってしまう。馬鹿である。だが、相手が恭司だから仕方ないのである。
 これ以上何を言っても無駄と見て、彼はこれ見よがしに大きな溜め息をつき、恭司が差し出した茶を飲んだ。もちろん、恭司が口をつけた部分から。

「あ、そうだ。ナイア」

 ふと玄関に目をやって、思い出したように恭司が言った。

「あとであの傘のオネーサン、捜し出してくれないか?」
「傘ー?」

 怪訝に問い返した彼は、恭司の視線を追い、その先にあるピンクの花柄の傘を見て、ようやくその存在を思い出した。

「捜し出してどうする?」
「傘を返す」
「おまえにくれたのだろう?」
「そうだけど、やっぱ悪いだろ」
「よし、それなら今すぐ返しにいってやる」

 そう言って立ち上がりかけた彼を、あわてて恭司は押しとどめた。

「ああ、あとでいい、あとで。一緒に何かあげるつもりだから」
「恭司」

 彼は冷然とした眼差しを恭司に向けた。

「なぜ、そんなことをするのだ?」
「だって、傘くれたから」
「おまえがくれと言ったわけではないのだろう。余計なお世話ではないか」
「でも、もらったのは事実だろ。俺は躾がいいから、世話になったらちゃんと礼はするんだよ」
「それから? それからどうする気だ?」
「それから? 別に? それだけだよ」
「…………」
「だから、勝手に返しにいったりするなよ。向こうが忘れた頃に、突然返しにいくんだ。そうだな……また雨の日がいいな。じゃ、そういうことで」

 なまじ相手のやり口を知りつくしているだけに、こういうときは熾烈である。彼は半分憎しみのこもった目で恭司を睨みつづけたが、もちろん、それくらいで自分の意向を引っこめるような恭司ではない。
 それどころか、彼のその視線を真正面から受け止め、その威力を自覚しているあの魅惑的な笑みを浮かべて、わざと彼にこんなことを言うのだ。

「何か、文句でも?」

 もはや反抗の余地はなく、彼は黙って少し冷めてきた茶をすすった。
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