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第一話 闇の城 

第一幕

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 彼を運ぶ夜魔は、いつのまにか翼を折りたたみ、逆巻く風に身を任せていた。
 彼は一瞬目を閉じ、再び開いた。そして、すでに自分があの縞瑪瑙の城の中にいることを知った。
 彼は茫然として辺りを見回した。彼を運んできた夜魔二匹はどこにも見あたらない。彼の眼前には、長く大きな階段があり、その先のどうやら玉座があるらしい空間には、緋色の巨大な垂幕が掛かっていた。
 ここは大広間であるらしい。あまりに広すぎて、もはや部屋の端は見えない。ただ縞瑪瑙の床が黒々と続いている。

「いらっしゃい」

 唐突にそんな声がした。涼やかな若い男の声だ。彼ははっとして、もう一度階段のほうを見た。
 いつのまに現れたのか、階段の中ほどに、まだ十代に見える東洋人の少年が腕を組んで立っていた。
 肩にかかるほど伸ばした髪を無造作に一本に縛り、何の変哲もない白いシャツを着崩して、少し色のさめたジーンズを穿いていた。靴は履いていない。
 端整な、一種女性的な顔立ちをしていた。実をいうと、一瞬、少女かと思ったのだが、大きくはだけたシャツから覗く平坦な胸で、少年だとわかった。
 ここが自分のいた世界だったなら、彼は少年を珍しいと思いこそすれ、何の不審も抱いたりはしなかっただろう。
 しかし、ここは夢の世界――さらに、この城は〈大いなるものども〉と呼ばれる地球の神々が住むという……

「ナイアーラトテップ……!」

 少年を見つめたまま、我知らず、彼の口からその恐るべき名がこぼれ出ていた。

「とんでもない!」

 少年は大袈裟に声を上げた。

「俺はただの人間だよ。あんな化け物の旦那と一緒にしないでくれ」
「……人間? だって、こんなところに人間が……」
「いるわけないって?」

 少年は少し笑った。だが、彼にはさして表情は変わっていないように見えた。東洋人のほとんどがそうであるように、少年もまた表情が少なかったのだ。

「君は中国人か?」

 ゆっくり階段を下りてきた少年に、金髪碧眼の彼はそう訊ねた。

「いいや。日本人」
「なぜこんなところに?」
「ここの旦那に見初みそめられてね」
「……何だって?」
「いや、なーんにも」

 少年は軽く肩をすくめてみせる。
 間近で見ると、さほど背は低くないものの、本当にほっそりとしていた。湯から上がったばかりなのか、髪はまだ生乾きで、肌には少し赤みがさしている。何だか妙に胸騒ぎがして、彼はあわてて少年から目をそらした。

「名前は?」

 そんな彼をからかうかのように、少年が彼を覗きこんでくる。

「え? な、名前?」

 しどろもどろになりながらも、彼は答えようとした。
 しかし、いつまでたっても彼の口からは、何の言葉も出てこなかった。

「あんたの名前は、ランドルフ・カーター――ランディだよ」

 見かねたように少年が言った。

「ランドルフ・カーター?」
「そう。ここに来る人間は、ランドルフ・カーター」

 今の今まで、確かに彼は自分の名前を思い出せなかった。だが、少年にそう言われると、どうしてさっきはすぐにそうと答えられなかったのだろうと、我ながら腹立たしくなるほど、その名前は彼のものだった。

「君は?」

 自分の名前がわかってほっとした――少年がなぜ自分の名前を知っていたのかは、まったく疑問に思わなかった――彼は、礼がわりに少年の名を訊ねた。

ぬまきょう
「ヌマ……?」
「名前は恭司。……久しぶりに自分の名前なんて言ったな」

 そう言って、少年――恭司は苦笑した。

「最初に見たとき、君がナイアーラトテップだとばかり思ったよ」
「もしそうだったら、あんたは今頃、生きてはいなかっただろうね」

 何気なく、恐ろしいことを恭司は口にした。

「あの旦那は、今んとこ人間に興味はなさそうだから」
「ナイアーラトテップを知っているのか!?」
「知ってるも何も……俺をここに閉じこめてるのは、あの旦那だぜ?」

 皮肉げに、そう恭司は言った。

「いったいどうして……」
「さあね。でもまあ、とりあえずはこの城の中を案内するよ。あんたは俺がここに来て初めて会った人間だからな。サービスだ」

 言い様、恭司は彼に背を向けて歩き出した。

「お、おい、サービスって……」
「あんた一人で、この城の中を歩けるわけがないだろ」

 振り返って恭司は言った。

「あんたに一つだけ忠告しておく。生きて元の世界に戻りたかったら、余計なことは知ろうとしないことだ。そうすれば、俺が元の世界に戻る手筈をつけてやろう。でも、もしあんたが余計なことを知ったら――」

 ここで恭司は妖しく笑った。

「今度こそ、あんたはあの旦那に殺されるだろうよ」




 それから、恭司は広大な縞瑪瑙の城の中を、気ままに彼に案内して歩いた。
 階段を上った覚えもないのに、長い廊下に立ち並ぶ、高いアーチの間から見える風景は、しだいに眼下に遠くなった。
 城の中は、まるで彼と恭司の二人だけしかいないかのように静まり返っていたが、時折、古代のエジプト装束をした黒人の召使たちに行きあうことがあった。
 彼らは恭司を見かけると、すぐに例外なく立ち止まり、うやうやしく頭を下げた。それに対して、恭司はあまり反応らしい反応はしなかったが、たまにかまわなくていいからとでも言いたげに、軽く右手を上げた。そういうところを見ると、恭司は年相応の普通の少年のように思えた。
 城内は明るく清潔だった。外は闇であったはずなのに、いま城の中から外を見てみると、眩しい光の降りそそぐ緑の上には、青く抜けるような空が広がっていた。

「本当に、ここがカダスの城なのか? 極寒の地といわれる、あの?」

 まるで天国を思わせるような光景を前に、彼は独り言のように呟いた。

「たぶんね」

 投げやりに恭司は言った。

「もっとも、俺が最初に来たときは、外なんてあってないようなもんだったよ。一度だけ黄昏の都が見れたけど、あとはいっつも真っ暗。あんまり見飽きたんで、別なものを見せてくれって頼んだんだ。で、結果がこう」
「頼んだって……まさかナイ……」
「そう。他に頼めるような奴なんて、ここにはいないよ」

 何でもないことのように恭司は言ったが、彼は改めてまじまじと、この線の細い日本人の少年を見た。
 〈大いなる使者〉、〈無貌の神〉、〈這い寄る混沌〉などとも呼ばれ、ある意味ではクトゥルーをはじめとする〈旧支配者〉の中で、最も人類にとって恐るべき存在であるはずのナイアーラトテップが、確かに美しいが他にとりたてて秀でたところがあるようには見えない恭司の言うことをなぜきくのか、彼には理解しがたかったのである。

「キョージ……いったい君は――」

 何者なのかと彼が訊こうとしたとき、恭司ははぐらかすように笑って彼を見た。

「ちょっと、外に出てみない?」
「外?」

 予想外の言葉に彼は驚いた。

「だって、あんたはこれを取り戻しにここに来たんだろ?」

 にやにやしながら恭司は言い、縞瑪瑙製のアーチの一つから身を出した。

「危ない! ここは……!」

 地上も見えないほどの高さなのだと彼が恭司を止めようとしたときには、恭司はもうアーチをくぐり抜けていた。あわててアーチを覗く。と、耳許で変わらぬ呑気な声がした。

「ここは――何?」

 はっとして見てみると、意地の悪い笑みを浮かべた恭司が、アーチの柱を背にして、腕を組んで立っていた。

「ここは夢の世界だよ。現実の法則を当てはめちゃいけない」

 たしなめるように恭司は言った。

「だから、地上遥かな高い城のすぐ横に地上があってもいいし、真っ昼間から急に夕方になってもいいんだよ」

 恭司の言うとおりだった。
 彼の前には、青々としたゆるやかな下り斜面があり、辺りはいつのまにか黄昏時の淡い茜色に包まれていた。

「見えるか?」

 恭司はまっすぐ前方を指さした。
 その細い指先の彼方では、壮麗な大理石の建築物の数々が、一つの都を形成していた。

「あれは?」

 そう問う彼を、恭司は怪訝そうに見た。

「ランドルフ・カーター……いや、H・P・ラヴクラフトの〝夢〟だよ」
「夢?」
「そう、〝夢〟。あんたはあれには見覚えはないのか?」
「見覚えも何も、見るのはこれが初めてだ。あれがいったいどう僕に関係あるんだ?」

 彼の答えに、恭司はただ苦く笑った。少し前に歩いて腰を下ろし、まるで廃墟のようにも見える建築群を眺める。彼もアーチから離れ、恭司の横に座ってそれを見た。

「あんたには関係ないらしい」

 残念げに恭司は呟いた。

「あれは、ラヴクラフトの夢だ。ラヴクラフトが造った都に、今は地球の神々が住みついている。――あんたも見ただろ? あの、イースター島のモアイ像みたいな顔をした奴らを。目には見えないが、あいつらがあそこで終日ひねもす遊びたわむれているそうだ。……文字どおり、〝神々の黄昏〟だな」

 それは夢幻的な眺めではあった。郷愁と寂寥を感じさせる赤い光の中に、数知れぬ時を重ねた都がひっそりとたたずんでいる。
 しかし、彼にとってはそれだけだった。元はといえば、その地球の神々――〈大いなるものども〉に会うためにここを目指していたのだが、今は自分の隣に座っている恭司に対する興味のほうがずっと強い。
 彼は都を眺めている恭司を盗み見た。ゆるく結んだだけの長い黒髪を夕刻の風に乱されながら、恭司は何か物思いにふけっているようだった。
 東洋人には、どこか得体の知れぬ、神秘的な陰がある。
 哀れむような表情で、地球の神々が遊ぶという都を見つめている恭司こそ、ここでの真の神ではないのかという思いが、ふと彼の心をよぎった。

「戻ろうか」

 唐突に、恭司はそう言って立ち上がった。

「あとは城の中ならどこへ行ってもいいよ。ただ、最初にいたあの部屋の、あの垂幕の奥だけは絶対見ないでくれ。――死にたくないならね」
「どうして?」

 反射的に訊ねながら、彼も立ち上がった。

「さっき言わなかった? 余計なことは知ろうとするなって」

 恭司は悪戯っぽく笑って、まったくとりあおうとしなかった。

「どこへ行ってもいいというが……そうだ、君の部屋は? あるんだろう?」

 恭司は困ったような笑いたいような、何とも言えない顔をしていたが、やがて人差指を上に向けた。

「でも、来ないほうがいいと思うよ」

 やはりはっきりしない態度で恭司は言った。

「何でだい? まだ君にいろいろ訊きたいことがあるのに」
「まー、それはいいんだけど、俺の部屋にはよくあの旦那が出没するからね――それとも、会いたい?」

 彼は無我夢中で首を横に振りつづけた。
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